2011/11/28

平地を占領された町の生きる道──横浜

大阪で維新は可能なのだろうか?
 知事・市長選挙で、改革派が圧勝しました。
 橋下さんの言う「体質の硬直化」は、大阪人気質(良くも悪くも)「古き日本人的な考え方」に根ざしていると思われます。
 新しいモノ好きではあっても、改革を進める中で遭遇する「そんなんかなわんわ〜」の壁をどう乗り越えるのか、お手並み拝見というところでしょうか。


2011.11.13
【神奈川県】


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 横浜という地名からはどうしても港や海を想起してしまい、海好きは海辺に足が向いてしまいますが、今回はその誘惑を振り切って丘陵地を目指します。


三ツ沢公園(Map)

 バス停は「三ツ沢総合グランド入口」とされ、メインの施設には「ニッパツ三ツ沢球技場」(サッカースタジアム)と「三ツ沢公園陸上競技場」がある市立の運動公園になります。
 横浜駅から2kmほどの距離ですが海抜40mの丘陵地にあるので、0mに近い駅(埋め立て地)からバスは坂道を一気に登っていきます。
 その坂道付近で「北軽井沢」の地名を目にしますが、「軽井沢」の地名は全国のいたるところにあるようです(40以上)。
 ルーツにはアイヌ語説、古代出雲語説等があるようですが、どこもきれいな清水の湧く山里に名が残るので、以前この地のわき水も有名だったことでしょう。

 公園の前身は、戦前1939年創建の神奈川県護国神社外苑が、戦中の1942年に防空緑地整備事業として整備されたものになります。
 空襲で護国神社(国のために殉難した人の霊(英霊)を祭る)が焼失後は慰霊塔とされ、市に譲渡された土地と周辺の用地を確保して、公園整備が進められます。
 以前「防空緑地整備事業」は「日本軍の基地を守るための砲台施設」と書きましたが、そのルーツは関東大震災にあると知り、ここで訂正させていただきます。
 この計画は関東大震災復興の一環として、東京を火災延焼防止用のグリーンベルトで囲おうとする壮大なものでしたが、結局とん挫します。
 しかし、日中戦争開戦(1937年)に伴う防空法の制定により緑地計画は「防空緑地計画」へと変容します。
 それは東京の外環状に、空襲に備える広大な避難地を作る計画で、ちょうど戦意高揚のためにでっち上げられた「紀元2600年(1940年:昭和15年 神武天皇即位紀元2600年を祝う行事)記念事業」として推進されます。
 砧(きぬた)公園小金井公園等、そんな勢いで作られた施設がいくつもあったとの記憶があります。

 避難所として機能した場所もあったでしょうが、あれだけの爆弾を落とされては、たどり着くまでが生死の分かれ目であったように思えてなりません。
 とは言え父親の実家(世田谷区)付近では、広くはないが道路のおかげで、空襲による火災の延焼を免れたと聞きます。
 津波や火災など、さまざまな危険性から身を守るための町づくりが必要なことを、切実に感じる近ごろです。

 当初の「緑地整備予定地」は戦後GHQの方針で「農地解放」として民間に払い下げられますが、現在はそんな土地を売価よりはるかに高い金額で買い戻して、緑地にしようとしています。
 その場しのぎ的な政策が生んだ問題を、横浜市は地域で修復しようと農地の区画整理を進めているのか、に思い至ります。

 当時の農地解放(改革)には、共産主義を排除したいGHQの思惑があったようです。
 国が農耕地を始めすべてを統制管理していた戦時中までの施策から、共産主義に傾くことを警戒したため、共産党支持層であった小作人を自作農=土地資本保有者(事業主)とすることで、多くが保守系に流れたとされます。
 税金で養ってきたともいえる共産国的な農家保護政策ですが、TPP参加に際して大きな判断が求められています。


 三ツ沢球技場(現在ニッパツの冠)といえば、以前はJリーグ「横浜マリノス」(現在もホームだが、ほとんど日産スタジアム(横浜国際総合競技場)を使用)、「横浜フリューゲルス」(1999年マリノスと合併→「横浜F・マリノス」)2チームがホームスタジアムとしていましたが、フリューゲルス解散後、サポーターたちの後押しにより設立された「横浜FC」がホームとします。
 この日は湘南ベルマーレとの試合があり、神奈川県勢の闘いとあって観客が続々と集まってきます。

 特段のサポーターでないわれわれの、「早く帰れそうだから、サッカー見られるかな」の関心は日本代表戦に限られますが(TV中継の有無もある)、その底辺(では失礼か?)を支えるJ2チームの応援に集まる人々の姿に、「あなた方のおかげで、FIFAランキング20位内に定着できた」と、球技場へと駆ける子どもたちの将来を応援したい気持ちになります……

 ここは、東京オリンピック(1964年)のサッカー会場として使用された施設になります(最初の写真)。


 運動公園に隣接して、横浜市立平沼記念体育館があります。
 この日は女子ハンドボールの試合が行われていましたが、ここはバレーやバスケットに加え、フットサルにも貸し出されるそうです。
 「平沼」の名称は「平沼橋」(相鉄線駅名にもある)に関係がありそう、と調べてみました。
 体育館の名称は、市民スポーツの父とされる平沼亮三(実業家、政治家、アマチュアスポーツ選手、元貴族院議員、元横浜市長)に由来し、2度のオリンピック(1932年ロサンゼルス、1936年ベルリン)で選手団長を務めたそうですから、立派なスポーツ界の名士です。
 また76歳で、神奈川国体(1955年)開会式の聖火最終ランナーを務め、その姿を見た昭和天皇が「松の火をかざして走る老人(おひびと)のををしき姿見まもりにけり」と詠んだ句が残されることからも、その心意気がうかがい知れます。

 現在の横浜駅周辺には江戸時代中ごろまで、袖ヶ浦とされる入江が保土ケ谷付近まで広がっていましたが、18世紀ごろから埋め立て〜新田開発が始まり、19世紀には程ヶ谷宿(旧表記)の豪商平沼家と岡野家が大規模な埋め立てを行います。
 その後明治時代に前回登場した高島嘉右衛門が、湾口である現在の横浜駅、高島町一帯を横浜港(桜木町方面)への鉄道建設のために埋め立てます。
 埋め立て地に囲まれた水域は「平沼」と呼ばれますが、そこも平沼家によって埋め立てられ、東海道本線が通されました(現在の平沼橋付近)。
 説明が長くなりましたが、上述の平沼亮三はその平沼家出身ゆえに貴族院議員(位の高さ以外にも勅選議員、多額納税者議員の資格がある)となれたとしても、生涯地元発展やスポーツ振興に取り組んだ姿勢が、地元から感謝されたようです。

 人名が地名として残されるためには、その方の人徳が必要条件ではありますが、「田舎の町」という要素も必要だったのではあるまいか?
 横浜はそんな田舎町だったようです……


 今回初めて馬術練習場があることを知りました。
 ホームページでは「横浜市で唯一馬術の練習場がある」と自慢げではあっても、わたしも仕事でのかかわりが無ければ「あっ、お馬さん!」などとは、関心の向かない施設だったことでしょう……


横浜国立大学(Map)

 一度歩きたいと思っていて、地図では三ツ沢公園から近そうと向かってみると、「三ツ沢=3つの沢がある」の由来となるような急峻な地形を体感させられます。
 横浜駅に近いからって、こんな急斜面に無理して住まなくてもと、感心を通り越すような住宅がひしめいています。
 みなさん「健康のため」なんですよね?

 本大学は4つの旧制官立教育機関を統合し、1949年に新制国立大学として設立されます。
 国立大学で名称に「国立」が入るのはここだけ! と自慢する声も聞かれますが、設立当初に「横浜大学」の名称で申請するも、他校と競合するほど人気が高いため、お互いにその名は使用しないことにしたそうです。

 見せてもらったくせに失礼ですが、歴史を感じさせるような建造物が無くちょっとガッカリですし、「○○学部棟」の看板が各建物にあるも「ここだけで事足りるの?」と思うような小所帯の建物が並びます。
 学部を増設する規模拡大路線ではなく、少数精鋭化の大学院教育研究を目指しているようです。
 上写真は建設学科棟で、日の当たるベランダには、この夏「節電効果」を発揮したと思われる植物の痕跡が見られます。


 キャンパスは、旧ゴルフ場(程ヶ谷カントリー倶楽部)跡地に作られたため、起伏に富むものの緑は豊かで、森の中で研究しているようなイメージがあります。
 上写真は野外音楽堂ですが、舞台奧の壁が裏側の緑に覆われてしまいそうでも、手入れをしないところに校風を感じたりします(さぼってるだけかも知れませんが……)。

 建物デザインはみな機能重視のようで、右写真でテラスのように見えるパイプの並びは数少ない装飾に思えますし、カメラ反対側の建物には実験設備用のパイプ配管が並びますから、ライトアップすれば、近ごろ人気の工場やコンビナートの夜景のようになるのでは? とも思える光景です。

 近ごろは少子化対策として「オシャレなキャンパス」をアピールする大学も多く目にしますが、「硬派」な印象と「手を加えない自然環境」の中で「研究」を目指す施設の印象に、応援したい気持ちにさせられました。

 上述2つの施設は戦後に作られますが、平坦な市街地のほとんどを米軍に占領された当時、自治体が自由に利用できる土地はこのような丘陵地しかなかった、という状況を頭に入れて、これからの横浜を見ていくべきという気がします。


 追記
 元プロ野球監督の西本幸雄さんが亡くなられました。
 91歳とは…… つい先日までテレビでお見かけした気がしますから、性格的には「出たがり屋」だったのでしょう。
 阪急ブレーブス、近鉄バファローズ監督時代の姿が印象に残ります。
 パリーグで8回の優勝経験があるも、日本シリーズで一度も優勝できず「悲運の闘将」とされた方です。
 特に残るのは、1979年日本シリーズ広島との対戦で、伝説となった「江夏の21球」と語られる試合に負けた際の印象です。
 「江夏にやられた」の言葉は今も残りますが、振り返ってみれば当時「江夏を打てる打者はいなかった」ように思います。
 しかし西本さんは、「そんな打者を育てられなかった」ことを悔やみます。
 そんなカッコイイ「男 西本」さんが好きになり近鉄ファンとなりますが、球団は2004年で消滅してしまいました。
 一度、日本シリーズでの西本さんの胴上げ姿を、涙しながら見たいとの願いは叶いませんでした……
 ありがとうございました。


《お知らせ》
 今回で東横沿線シリーズ(渋谷〜横浜)は、みなとみらい線を歩かず終了としますが、それには12月3日に引越予定の慌ただしさがあります。
 そんな理由から、来週のアップはお休みします(インターネット接続できない期間が生じるため。無くてもいいことを証明したい気もするが)。
 「荷物少ないから何とかなるだろ」と、今回はどうもたるんでる気がしますが、何とかやっつけるつもりです……

2011/11/21

新しい道、古い道──反町(たんまち)

2011.11.5
【神奈川県】


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反町(Map)

 東横線の反町〜横浜駅間は、2004年みなとみらい線との直通運転のため地下化されます。
 それまではひとつ手前の東白楽駅(下写真)から、横浜駅でJR各線と京急線をまたぐ高架軌道が桜木町まで続いていました(桜木町駅付近の高架下は落書き天国でしたが、駅はみなとみらい線乗り入れの際に廃止され、落書きも禁止となります──別に認められてはいなかった)。
 今回は、地上の廃線跡に整備された「東横フラワー緑道」(東白楽〜横浜間)を歩きます。


 その前に寄り道したのが、今年開業60年となる神奈川スケートリンクで、JR横須賀・東海道線の車窓から見え、反町公園に隣接します。
 建物裏側の壁面(下写真)には「開国博Y150(2009年)」の際、子どもたちが描いた絵が残されています。
 Y150は成功したとは思えませんが、子どもたちにはイベントに参加する経験から、行動のきっかけがつかめたらと思います。


 この一帯は江戸時代に東海道「神奈川宿」として栄えますが、昭和期には青木町遊郭となります。
 横浜にはその手の施設が多いと感じるも、昔から貿易の主力は船舶輸送であり、現在立ち並ぶ巨大クレーンの積み降ろし作業を人力でまかなっていたのですから、繁華街は荷役に携わる男たちでむんむんしたことでしょう。

 空襲で焼失した遊郭一帯は戦後米軍に接収されますが(現在も近くの瑞穂埠頭には米軍施設が残る)、返還後に開かれた日本貿易博覧会に使用の後は、建物は横浜市役所庁舎に転用され、それから10年近く市の中心地とされます。ちなみに、現在のスケートリンクは「演芸館」(劇場?)だったそう。
 1959年市庁舎が関内へ移転後には、ジェットコースターのある遊園地的施設とされる時期もありましたが、そんな夢の跡は現在、休日にフリーマーケットが開かれる庶民的な反町公園となっています。
 神奈川で育った者には「歴史的スケートリンク」と感じる本施設にそんな経緯があったかと驚きますが、浅田真央ちゃんにつぐ世代が頭角を現していますから、そこに続く世代は是非ここから! とも。


 上写真は反町駅が高架の時代に使用していた鉄橋で、そのまま残されて現在遊歩道とされます。
 東横フラワー緑道は、東白楽と反町駅間で電車軌道が地下に入る地点から始まります。
 近ごろでは車窓から目にできない懐かしい光景を期待するも、まだ10年もたってないのにピンと来る景色に出会えません。
 高架上から眺めた目線とは高さが違うため、「見たかも知れない」程度で確信が持てません(2枚上の写真は現在の緑道の光景で、お姉ちゃんが夢中にスナック食べたり、その奧でガキ共が素振りしています)。
 でも反町駅に近づくにつれ記憶の断片が増え始め、この橋に立った瞬間「この高さなら変わりないことが実感できる!」の懐かしさから、つり革をつかみ車窓を眺めていた当時の車内の様子までよみがえってくる気がしました。

 その先にある反町〜横浜駅間のトンネルも、緑道の一部として整備されると聞き楽しみにしていました(2011年4月全通)。
 右写真の遠景に、以前車窓から眺めた様子を思い出しながら足を踏み入れると、その大きさが実感でき驚かされます。
 ここは「線路が2本通っていたトンネルを歩いたことあったっけ?」と思うような広さを感じさせてくれる、あまり経験できない環境かも知れません。
 他の目的で利用されていたトンネルが人道とされるのは、廃線になった鉄道施設や、トンネルが新設された旧道だったりするので単線や一車線ですし、架線(パンタグラフ使用)の高さもあるので(ローカル線は未電化でその分天井が低い)、歩いてみると「デッカイ地下空間」とのインパクトがあります。
 車道に併設された側道の場合でも、トンネルの真ん中を歩くことはできません(交通量の少ない場所に作られた「過剰設備:税金無駄遣い施設」では可能だが)。


 ここを歩いていると、これまでなかった道ですから「ここなら歩いてみよう」とウォーキングする方、「このコースを走ろう」とジョギングルートにした方、そして「トンネルを抜けて買い物へ行こう!」という姿に見える付近の方々には、ライフスタイルを変える革命的なインパクトを与えたのでは? の印象を受けます(丘陵地を越えるには急傾斜の坂道の上り下りがあります)。
 今後も「横浜への新道」の利用者は増えそうですが、そのサービス過剰の影響で、東横線反町〜横浜駅間の乗車率が落ち込んだりするかも知れません。でもそれは、沿線住民の方々の健康意識に大きく貢献するのではないでしょうか(それも沿線へのサービスです)。


 「トンネルを抜けると、そこは横浜だった……」それだけの絵ですが、気に入っています。
 トンネルの大きさを表現するためには、例えば高速道路の車道の真ん中に立ちたいと思うも、交通規制して撮影をできないわたしには、「初めて撮った」ほどの新鮮さがありました。
 願望としてはトンネルの先に自然の風景が広がって欲しいと思いますが、そんな場所なかなか見つからないのでしょうね……

 公園施設とされるため、現在通行は6時〜21時30分に限られています。ホームレスでなくとも、いかにもたまり場になりそうな場所ではあります。
 とても気に入った場所なので、「大きな穴があったら入りたい」という願望をお持ちの方には是非オススメです!


高島山付近(Map)

 そのトンネルは「高島山トンネル」の名があるように、高島山を貫いています(由緒は、開港期に功績があった高島嘉右衛門からで、高島町も同様)。
 その丘陵地には本覺寺(ほんがくじ:曹洞宗)があり、門前からはJR各線・京急を見下ろす見晴らしのいい場所柄です(下写真)。


 江戸時代の東海道神奈川宿は、この付近にあった神奈川湊を中心に発展し、横浜開港(開国)まではこの地域の中心地でした。
 開港の地である横浜村は、対岸の砂州(さす:砂が堆積した地形で、元町方面から伸びていた。当時まで、ここと桜木町付近を湾口とする大きな入江があった)のため、アメリカは横浜港が一望できるこの地を領事館とすることを要求してきます。
 領事館当時の山門はペンキで白く塗装されたそうですが(船からの目印は白が目立つ:攻撃するなの意味でしょう)、上写真左側の門扉はそんな仕打ちに抗議する意志表示のように「Paint It Black !」な姿です。

 本堂の階段脇には見逃しそうな大きさの、十二支の石像が並んでいます。
 年賀状を意識し始める時季に干支の姿を眺めると、今年は特に暗い年となった原因をウサギ(卯年)の責任にはせずとも、来年の「竜(辰年)」に願いを込めたい気持ちにさせられます。
 ひとりひとりの祈りは小さくとも、それを大きな力へと高めてくれるより所は、昔も今も変わりなく求められていることを実感します。

 横浜駅からほど近い場所に、旧東海道の痕跡を感じさせてくれる建物や、土地の形状が残されています。
 下写真は創業148年の料亭「田中家」の側壁で、明治時代ここで坂本竜馬の妻おりょうが仲居として働いたとされます(竜馬死後)。
 前身は江戸時代初めの腰掛茶屋とされるので、広重の東海道五十三次に描かれたり、白井権八(歌舞伎題目で幡随院長兵衛(ばんずいちょうべえ)の相手役)が大飯を食らったことから「権八茶屋」とされる等、さまざまなエピソードが伝わります。
 江戸時代に名を残した方々は、みなここを通ったわけですから、定点観測していればTVドラマ『浮浪雲』(1978年 渡哲也、桃井かおり。古い話題でスミマセン)のラストテロップのように(例)「12月10日坂本竜馬通過」などと記録できれば、とても興味深い通行記録が残されたことでしょう。


 写真のように建物の裏手は斜面で、おそらくそこが当時の海岸線だったと思われます。TV『ブラタモリ』のCG映像のように想像してみて下さい、「ほ〜ら、見えてきました!」の戸田恵子さんの声が聞こえてきませんか?

 江戸時代神奈川といえばこの地になるので、葛飾北斎「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」の絵はダイナミックですが、そこに描かれる状況は約200年前としても、あり得ない想像の産物と思われます。
 方角的にもこの地から富士山を望むと、手前に大きく陸地が広がります。

 旧東海道沿いの保土ヶ谷側の近い場所に「関門跡」の碑が残ります。
 開国直後はまだ攘夷(じょうい:外敵排除)論が渦巻く情勢ですから、開港場である横浜周辺では外国人殺傷事件が多発します。
 幕府はその対策として横浜各所に関門を設け、ここには神奈川宿西側の関門があったとされます。
 なかでも有名な、生麦事件(なまむぎじけん:1862年生麦村で、薩摩藩 島津久光の行列に乱入した馬上のイギリス人を殺傷した事件)の負傷者は、上述の本覺寺に逃げ込み治療を受けたそうです。
 激動の時代でも異国人に対してお寺は誠意を尽くしたのかと思いきや、事件当時寺はすでにアメリカ領事館とされており、野蛮な日本人よりライバルながらも先進国を頼ります。
 ちなみに、当時治療に当たったのはアメリカ人のヘボン博士で、ヘボン式ローマ字を作った方です。

 右写真はトンネル付近にある「大綱金刀比羅神社 (おおつなことひらじんじゃ)」で、金比羅様と言えば「海(航海・漁の安全)の神様」ですから、神奈川湊のころからの守り神なのでしょう。
 再び戸田恵子さんの「海の香りがしてきませんか〜」が聞こえる気がするも、「まったくしない!」マンションの谷間に埋もれてしまった現在の姿があります……


追記
 本来ならば、福岡ダイエーホークス日本一の祝福と、これだけやってもこの試合を最後に解任される落合監督について、そして、そんな機会に思い出す、ビッグコミックオリジナルの『あぶさん』はどうしているか? なのですが……(次号を買おうと思っています)
 この日、ニュースの見出し「なでしこ得点王は、川澄それとも大野?」を見て、それだけで通じる存在になったという認知度の高まりに、拍手を送りたいと思いました。
 現在の消息は分かりませんが、以前澤選手と一緒にやっていた「ボンバーヘッド(アフロヘア)」の荒川選手などは、選手活動の傍ら生活のためのアルバイトで、スーパーのレジ打ちをしていたと聞きました。
 「ワールドカップ優勝」で認知された今年こそ、女子サッカーアピール絶好の機会ですから、オフシーズンの澤選手には紅白歌合戦の審査員をはじめ、バンバンアピールして欲しいと思うところです!

2011/11/14

歴史はしかばねの上に……──東白楽、岸根公園

2011.10.29
【神奈川県】

 このところ急に日中も冷え込み始め、薄手のコート類は出番なく冬に突入しそうな勢いです(と思えばまた暖かかったり)。
 11月となればわれわれの感覚では「冬支度」の季節感を持っていますが、温暖化時代に育つ子どもたちは、11月に「衣替え」の季節感をイメージするようになるかも知れません……


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 東横線は渋谷から南西方向の横浜に向かいますが、その駅の並びに「白楽」の次が「東白楽」では方向が逆じゃない? の疑問を感じる区間があります。
 この場所の地図を見れば、南西に向かっていた路線はこの区間だけ南東に向かっていることが分かります。
 住所表記にも白楽の地名はないようなので、駅名決定時にその位置関係を明確に示したかったのかも知れません。


孝道山本仏殿(Map)


 東白楽駅付近の車窓から丘の上に見える寺院は「孝道山本仏殿」とされる、法華経の教えから派生した新興宗教教団の寺院です(昭和27年建立)。
 法華経は聖徳太子の時代に日本に伝えられた仏教の重要な経典で、日本では明治維新まで「護国の経典」とされます。
 聖徳太子以来、皇室で尊ばれたため、後の日本に開かれた宗派は最澄の天台宗を始め、みな法華経から派生したものと言えます(空海の真言宗は別の道を歩むも、最期の著で受け入れたそう)。


 丘陵地上の寺院へ向かう坂には、聖徳太子時代からの法華経の歴史を解説する看板が並びます。
 その案内設置には、現代の日本に広まっている仏教の教えと「ルーツは同じですよ」と、知ってもらいたいとの願望が感じられます。

 この日の境内は毎年10月31日・11月1日の2日間開催される、「大黒まつり」の準備でテントやパイプ椅子が並べられ、お寺らしからぬ慌ただしさがありました。社会福祉への貢献姿勢をアピールする新興教団の広報活動なのでしょう。
 そこでは難民支援協会(トルコ地震で亡くなられた方は難民を助ける会なので、いくつもの団体があるようです)が「タコス」の売店を構え、インドムービーダンス(インド映画で見られるダンスパフォーマンスで、マツケン・マハラジャ:松平健のPV制作に協力したBiNDU)の出し物や、もちろん震災被災地からのブースもあります(場所指定の張り紙を見ただけですが)。
 それは、仏教の「教え」を接点としたカーニバルのようで、イベンター側にとっては羽目を外さない限り無限の広がり(可能性)があるように思えます。
 機会があれば、一度のぞいてみたい催しです。


 以前から気になっていたのが、孝道山の手前で存在感を示す中央分離帯が並木(花壇)とされた、幅は広いが長さは短い坂道です。
 歴史ある並木道なら花壇にできませんから、計画倒れの高級住宅街の道のような中途半端な印象があります。
 これは想像ですが、お寺の案内図に組み込まれているので、以前はその先の急斜面に階段の参道があったのかも知れません。
 車社会への対応や、幼稚園などの事業展開による自動車道設置の要求から、別の場所に新しい急坂の車道を「無理やり」作ったのでは?(法華経の看板を読んで、休みながら登る急坂)
 そんな理由から、存在感はあるものの主を失ったような、宙ぶらりんな道が残されているのかも……


岸根公園(Map)

 最寄りに横浜市営地下鉄ブルーライン「岸根公園駅」があるので、横浜駅や港北ニュータウンからのアクセスはいいのですが、東横沿線からはどうも行きにくいので、東白楽を通るバスでアプローチしました。

 右写真の篠原池や広場がいくつも連なるので、家族や仲間で思いっきり走り回れますし、一画には県立武道館や野球場(2つ)もある広大な施設です。
 袋に入った弓を持つ方を多く見かけたので、大会があったのかも知れません。

 このサギは結構大きいので、すみ着いているのかとカメラを向けると、同じ水面にカワセミがいました(下写真は200mm望遠レンズ撮影のほぼ等倍)。
 体が小さいので肉眼ではハッキリ分かりませんが、カメラでのぞけば確かにカワセミです。
 詳しく観察できずも、カワセミと判別される「ヒスイ(翡翠)」色を身にまとうのは、目立ちすぎじゃない?
 と思うも、彼らの体は本来青くなく、光の加減で青く見える「構造色」とされるCD等の盤面やシャボン玉と同じで、自身に色は持たずも微細な構造で光が干渉するため、色づいて見えるそうです。
 確かに、角度によって色が変化するように見えるので「ガッテン!」ですが、そうなると「無色の姿」を見たくなります。
 でも、CD盤のように灰色だったらちょっと悲しい気がします。

 動きが俊敏で色の見え方が多彩ならば、さまざまな姿を撮りたい被写体として人気が高いはずも、ここにはカメラを構える人は一人もいません……


 確かに魅力的な被写体ですが、これまで歩いた多摩川を中心にした水辺では、カワセミ出没のうわさを多く耳にしましたし、プラプラ歩くわたしでも2度目の遭遇になります。
 これは多摩川周辺で目にする頻度が高まったことの現れで、環境改善(だったらいいですね)や生態変化(以前のすみかの環境悪化・天敵の増加)等が考えられますが、めずらしさは失われつつあるのかも知れません(もしくは、ここは休息地で獲物を捕らず動かないのか?)。
 いずれにしても、小さいながらもカラフルさを楽しめますから、見飽きたカラスやハトだけじゃないという状況は、とても喜ばしいことです(水辺にサギの姿も当たり前の印象となりつつあります)。


 この広大な公園には1972年まで、米軍の「岸根キャンプ」がありました。
 敗戦後の接収にはどこも理由があるもので、ここは1940年(第二次世界大戦の開戦は1941年)に始まった「防災緑地を兼ねた公園整備」とされる工事は「日本軍の高射砲基地建設」(厚木・立川飛行場を守るため?)とすれば、接収後は好き勝手に使用されてしまいます。
 当時近くに暮らした方によると、ベトナム戦争当時(1960年〜75年)に大型ヘリコプターが日々発着するのは、戦地での負傷兵が運び込まれる病院施設だからとうわさされ、「篠原池からホルマリンのにおいがした」→「死体処理施設」(報道等の「遺体」の表現ではない市民の表現)ではないか? とされていたそうです。

 わたしが育った相模大野駅前には、地元で「米軍病院」と呼ばれた「米軍医療センター(1981年返還→現在の伊勢丹周辺)」が鎮座し続け、上述同様にうわさの絶えない一画でした。
 戦前も相武台陸軍病院ですから疑いようもありませんし、隣接の中学に通った時分はヘリコプターが下りる度に「また死体が運ばれてきた」と、授業中に話していました。
 現在その地には、広々とした公園・集合住宅・高校などが作られ平和利用されていますから、過去の出来事を学びながらいい汗を流すことで、その地に新たな歴史を築いて欲しいと思う次第です……(歴史は屍の上に作られる)


 上写真2枚は、コロシアムのように中央がくぼ地となった底に立つ木で、こんな地形は子どもの目にダイナミックな印象に映るのでしょう(大人も同様ですね)、斜面を思いっきり走り回る姿を目にできますから、親としてもまた連れてきたいと思うことでしょう。

 しかし、眼前の光景とはかけ離れた現実を、福島の人々は突きつけられています。
 福島の子どもたちの成長(体重増加)が鈍ったのは、原発事故により屋外で遊べないことが考えられる、という研究結果が発表されました。
 そんなことは「人の親なら誰でも分かる」のだから、憲法にのっとり「健康で文化的な最低限度の生活」を早急に実現すべきと思えてなりません。
 除染に年単位の時間を要するならば、子どもたちの「集団疎開」も必要ではないか? と思ったりします(戦時中の子ども時代に疎開を経験した親の年代の人々は、たくましくわれらの世代を育ててくれました)。

「ガキ時分に故郷の福島で原発事故が発生したせいで……」ではなく
「原発事故で○○に疎開して大変だったけど……」と、プラス思考にとらえられるように導いてあげたい、と願ってやみません。


 以前バスを乗り間違えた(詳細は長くなるので省きます)と書きましたが、この日の帰りにはイメージしていた路線のバスに乗ることができました。
 その路線に乗ると、丘陵をひとつ越えて10分程度で妙蓮寺駅に着きます。
 ただとても本数の少ない路線で、日曜のせいか16時台に乗った便が最終となります。
 それは乗り間違えただけでなく、そのルート選定自体が間違っていたようです……

2011/11/07

戦後の面影が残るということ──白楽、六角橋

2011.10.23
【神奈川県】



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白幡池、篠原園地(Map)

 白楽駅は一度降り立った事がありますが、六角橋商店街とは反対側に出て隣の東白楽駅まで歩いた記憶があります(何もなかった)。
 2駅間の線路は、商店筋から離れる方向にカーブし、車窓から見る商店街側の光景は、線路際まで家屋が立て込んで見通しが利かないこともあり、町の様子をイメージしづらい印象があります。
 歩く前に地図を見て「こんな所に池が!」と驚き、歩いみれば「釣りキチが集まる池?」の様子にまたビックリです。

 ここは横浜市立公園の「白幡池」で、隣接の県立「篠原園地」へと緑地が続きます。トータルしても広くありませんが、いい具合の自然環境が保たれています。

 以前歩いた鶴見川は多摩地区から海を目指すも、新横浜・菊名〜大倉山に続く丘陵地帯に行く手を阻まれ、南東に向かっていた流れは北へ大きく蛇行します。
 その流れを阻む丘陵地を水源とする入江川が代わりに南東へと流れ、その源流のひとつであるこの地は、かんがい用ため池とされ付近の農耕に利用されました。
 現在園地の環境整備は県や市が分担しますが、池の管理は地域住民が主体となっているそうです。
 それはある意味、理想的な役割分担といえますが、下写真を見ればその理由が理解できます(釣り天国を侵すべからず!)。


 陣取った全員が、細く短くしなりの強い「玄人っぽい」釣り竿を持って並ぶだけで迫力がありますが、「この気合い何?」と思うほどの真剣さで竿に向かっています。
 写真のように目つきはマジですし、見ていると、とても微妙なアタリに手首で対応し、瞬時に「クンッ!」と手首を返して見事に釣り上げています。

 その様子を見届けている間にも、周囲で次々と釣り上げる状況に驚いてしまいます(ビデオで撮ったら驚きますって。こんなにバンバン上げる様子を見たのは初めて)。
 釣り上げたさかなは20cm程度で厚みはありません。「おぉ〜、これがヘラブナ釣りか!?」と、初めて見た気がしてちょっと感動です。
 小学生のころチラッとかじった釣りの本で読んだ「ヘラブナは受け口なので釣り上げるのは難しい」イメージを思い出しました。

 この池は水深が深くヘラブナの生息に向いているので、釣りを楽しむために放流されたブルーギルやブラックバスと同様(ヤツらは迷惑だが)、むかしの人にもヘラブナ釣りのメッカにしたい気持ちがあったような気もします。
 ルアー、リール、返し針は使用禁止で、キャッチアンドリリース原則のようです。だからみなさん細く短い竿を使用した「真剣勝負」が挑めるのでしょう(上の彼はザリガニ釣りか?)。


 隣接の篠原園地には斜面を利用した雑木林や、子ども用プールがあります。
 プールのフェンスには、ここで見られる四季の自然や動植物の観察レポートが張り出され、なかなか楽しめる展示になっています。
 それに感化されたのか、保護のため立ち入り禁止とされる場所に踏み入り、観察する中学生くらいの男子がいました。
 保護区域に「入らなければ理解できないこと、入ったせいで自然を破壊したこと」を、総合的に理解できるようになってもらいたいと応援します。
 上写真は「カントリーヘッジ:小動物や虫たちのエサ場や産卵場」として、意図的に設置された枯れ木等の山です。


六角橋(Map)

 「白楽」の地名からは「白楽天っていたよね?」「七福神だっけ?」と思ったりしますが、七福神は大黒天 · 恵比寿神 · 毘沙門天 · 弁財天 · 福禄寿 · 寿老人 · 布袋と宝 船ですから、そのいい加減さを思い知らされます。
 そのイメージの元を探すと、横浜中華街の店名だったりするかも知れません……
 ちなみに白楽天とされる方は存在し、平安時代の中国(唐)の詩人、白居易(はくきょい)で、字(あざな)は楽天とあります。
 仮にそこから企業名をもらったとしても結びつきません(便利でも好感度は低い)。

 以前は東海道神奈川宿で働く伯楽(ばくろう、馬喰、博労:馬に関する仕事をする人)が多く暮らすことから、伯楽(ばくろう)→白楽(はくらく)とされますが(当時の庶民は漢字に弱かったようにも見てとれます)、その元は周(中国)の馬を見分ける名人「伯楽」によるようです(そう「名伯楽」です)。
 ばくろうに因む地名は、馬喰町のように日本各地に存在します。当然ながら白楽天は無関係です……

 右上写真は旧綱島街道とされる白楽駅前のメインストリートで、カメラ後方側から神奈川大学の学生が流れてくると、すっかり歩行者天国と化します。
 近くにはその道と並行する、現在では裏通りとなった、戦後からの雰囲気を保つアーケード街の「仲見世通り」が残ります。
 六角橋商店街では今年(2011年)8月に火事があり、片付けられたさら地を目にするとかなり延焼した様子がうかがえます。
 よく「すれ違うのがやっとの通路幅」と表現されますが、それがむかしの規格だったのでしょう(1間≒1.8m等)。京都の錦小路などは、その狭さで生じる混雑を商売の武器にする面もありますが、人が流れなければ武器にもならないこの通りはシャッター街になりつつあるようです……

 横浜市営地下鉄ブルーラインは当初、六角橋を通り横浜と新横浜をほぼまっすぐに結ぶ計画だったものが、地元の反対運動でルート変更されたそうです。
 表向きは騒音問題による反対でも意見を左右したのは、横浜駅方面への客の流出を恐れた六角橋商店街の反対運動のようです。
 その選択は正しかったと思えませんし結果を見ずとも、魅力的な個性を打ち出す行動力無くして、都市近郊の商店街に未来は無い、という現実に行き着いてしまいます。

 町が開発される様子を見る度に思うのは、「町(住民)にその意志があったのか?」ということです。
 時代的な勢い(波)で開発さた都市(東京)には同情する面もありますが、未練で無為に残されても町のためとは思えません。
 そんな開発の触手を払いのけてきた「都市近郊の田舎町」でも、都市計画無き虫食い開発に侵攻される前に、将来設計を明確にした積極的な新しい町作りを目指した方が、地域の発展につながるのではないか、と思う近ごろです(そんな意味で横浜は地方都市の代表格)。

 このアーケードには確認した限り3つのトイレが設置されていて、中には狭い建物のすき間の先にあったりします(右下写真)。
 実際、このすき間を通ろうとした時、出てくる人と鉢合わせ道を譲りました。「ここにあって助かった!」という「救いの神」の前では、人は謙虚に振る舞いますから、やはり「トイレの神様」はいるのかも知れません……

 六角橋には新横浜ラーメン博物館への出店で注目を集めたラーメン店があり、機会があればと思っていました。
 現在では「横浜家系(いえけい)」とされるとんこつ醤油味で油コッテリ系の店は珍しくありませんが、さすがに「うまい」と感じさせてくれます。
 しかし、嗜好や胃袋は年齢と共に経年変化するので、食後まで「しょっぺぇ」が残り、やめればいいのに一口スープを飲んだら最後、胃がもたれ家に帰り胃薬を飲みました……

 この「六角橋」の地名には思い出があります。
 中学三年の担任だった先生への年賀状の宛先にこの地名があり、何度も書かないにしても印象に残っていました。
 当時から最大の関心事だった「六角橋とはどんな橋か?」のオチは以下の通りです。
 日本武尊(ヤマトタケル)が東征(東方の蛮族の討伐)の際、この地の豪族の館に泊まり五位木(ごいぎ)という六角の木の箸で食事をし、その箸を豪族に贈ったことから、村名は「六角箸村」→「六角橋村」とされたそうです。
 そんな脱力的な伝説の後に「この地の橋は六角形の材木で組まれたという説もある」とされても、水を差された薪にもう火は付かない状況です……

 ですが、風水では「六角」は幸福を招くの記述に、希望を託したいと思います。


 追記──「黙れ!」

 東日本大震災の災害廃棄物(がれき)を東京都が受け入れた際、都民から抗議の声が寄せられ石原知事は「(放射線計測により)なんでもないものを持ってくるんだから『黙れ』と言えばいい」と切り捨てます。
 東電でも、原子安全保安院(国)でもなく、東京都が実施した検査も信用できないならば、東京で暮らさなければいいとの口調です。
 確かに、「安全だった」と評価されるのは何年も後のことでしょうが、それを今判断しなければ国や自治体の行政が滞ってしまうのも事実です。
 「力のある(財政規模・施設・処理能力)自治体が率先しなくてどうする」と、反対意見を切って捨てられる政治家(主導力)こそ、非常時に求められる存在なのかも知れません。
 この件に関しては、胸がすいた思いがしました……

2011/10/31

駅は寺の境内にあり──妙蓮寺

2011.10.16
【神奈川県】

 このところ連載ものが続きましたが、しばらくぶりに以前のテーマ「東横沿線を歩く」に戻ります。
 横浜線と接続する菊名駅の次は妙蓮寺駅(みょうれんじ)になります。
 東横線で横浜方面へ向かう際、各停や日比谷線直通列車(菊名止まり)に乗ったとしても菊名駅で特急・急行に乗り換えるので、菊名〜横浜間にある妙蓮寺、白楽、東白楽、反町駅はどうしても軽視しがちになります。
 確かに立ち寄る用事もないので、機会を作らないと降り立てない「駅たち」(ちょっと同情)といえます。


より大きな地図で 東横沿線 を表示

妙蓮寺(Map)

 お寺の名称が付けられた駅名は祐天寺とここだけですが、同じ東急の田園都市線の駅名と比較すると、全通した時代の違い(東横線:渋谷〜桜木町 1932年、田園都市線:溝の口〜長津田 1966年)が、駅名にも反映されていることがうかがえます。
 高度経済成長期に誕生する田園都市線の新駅に、お寺の名前はあるまいという気分はとても理解できますし、「たまプラーザ駅:1966年開業」「あざみ野の町名:1977年新設」などには、横浜市と組んだ都市開発の明るい未来への願いが込められたことでしょう。


 1350年(南北朝時代)創建当時このお寺(池上本門寺の末寺:日蓮宗)は、神奈川区神明町(現東神奈川)にありましたが、1908年横浜鉄道臨港線(現JR横浜線)建設にあたり、移転を迫られ現在の地に移転します。
 ところが1926年東京横浜電鉄(現東急)開設時に、またも境内に軌道敷設計画が持ち上がり「もう移転はイヤ」と、境内を無償で提供することとします。
 そんな経緯からすれば駅名の由来ばかりか、この町はお寺のおかげで開かれたことに感謝すべきようです。


 取り立てて慌ただしい場所柄ではありませんし、門前に踏み切りがあることを風情と受け止め、踏切待ちの時間に「門外から失礼します」と祈れば義理も果たせるのではないでしょうか(映画『男はつらいよ』で、さくらがやってた印象があります)。
 以前改札口は線路を渡った上りホームだけでしたが、少し前に寺側の下りホームにも開設されました。
 寺側の丘陵地が開発されたこともあるようで、いくら門前でも一刻を争い殺気立つ朝の通勤時の空気を静めるため、「門前側にも改札を」のご意向が実現したのかも知れません。


菊名プール(Map)

 お寺とは線路の反対側にある駅前商店街の路地(こまごまと店が並ぶ)をクネクネ歩くうちに、正面に緑が見えてきます。
 そのまま進むと「アレ、民間の駐車場!?」に進入します。でも、皆さん歩いているので、公認の近道なのでしょう。
 その駐車場の出口正面に菊名池弁財天があります。
 以前はここにも後述の菊名池が広がりましたが現在はプールとされています。
 周回する流れるプール(今どきは流水プールだそう)をまたぐ橋がまっ赤(逆光で不明だが写真奧の橋)なのは、弁天様が池に浮かぶ島に祭られた様子を伝えているようにも見えます。

 一般のプール施設はオフシーズンにはシャットアウトされますが、ここは水に入れないにしても近くを散策できる水辺の施設として提供されます(後述の池の改修時には、池のさかなをここに移したそう)。
 プールに水が張ってあるだけですが、水辺の開放感をシーズンオフも感じさせてくれる空間で、冬場に氷の張る様子も一興かと思われます。
 以前は池だったくぼ地ですから、風が無ければこれからの季節にはひなたぼっこに絶好の場所になりそうです。

 入場料おとな800円(1時間につき300円)/こども300円(1時間につき100円)はちと高い気がしますが、皆さん利用法を工夫しているんでしょうね。


菊名池(Map)

 江戸時代から利用されたかんがい用の池で、大倉山方面の大豆戸(まめど)村が水利権を持っていました(勢力範囲が結構広いので、その村が一帯の中心だったのか?)。
 以前は上述のプールまで広がっていましたが、現在は半分ほどの面積になっています。
 
 現在も各地の湖沼で問題視される、ブルーギルやブラックバス(釣りを楽しもうと放された外来種が生態系を乱し、在来種が激減した)は駆除され平穏を取り戻したものの、今度はハスの大繁殖が問題となります。
 横浜市は秋口に、住み着いた水鳥たちを驚かさないよう、手作業で繁殖しすぎたハスの間引きをしています。
 上写真はその後のさっぱりとした光景で、そのおかげでバンという鳥も定着しているそうです(この鳥を見られるのがこの池の自慢らしい)。
 カルガモが子育てする姿や、カワセミも見られるそうで(写真の枝にとまるのかも)、近隣住民には「身近な自然環境」を楽しめる水辺のようです。


 そんなくぼ地の斜面には、もうススキの姿が見られます。
 近ごろの季節感では、ススキを目にする時季=乾燥肌で全身カサカサになるころなのですが、急に暑くジメジメした陽気が戻ったりするので今年はまだ軽傷で済んでいます。と書いた翌日に一気に来ました。
 昨シーズンの使いかけのクリームが残り少ないことに気付き、あわてて買いに行ったりと。
 以前は血がにじんでもなめて治したものですが、Macの白いマウスを染めるので、今晩からクリームを塗り手袋して寝ます……


 上写真左側は菊名池、右側は富士塚(地名)に向かう坂道になります。
 この坂の光景は映像等で目にした気がする、「おだやかな坂」という印象を受ける好きな場所です。

 富士塚(富士信仰から、富士山に模して造られた人工の山や塚)の名称も久しぶりなので、痕跡があれば歩こうと調べましたが「バス停に残される程度」とあるので、この坂を上るのやめました。
 ですが丘陵地ですし、富士山方面の見晴らしはよさそうなので、大豆戸村の有力者(大豆戸の勢力は強かったらしい)がこの地に塚を築いたかも知れませんし、反発する地元民に崩されたのかも知れません。

 この後、バスで岸根公園へ行く予定でしたが路線を乗り間違えてしまいました。着いた先は西菅田団地で、横浜の原風景が残される菅田地区付近。
 「これも散歩の楽しみ」と切り替えバスに揺られたものの、さっき来た道を戻るのでは興味も半減しただお尻が痛い印象だけでした……


■おまけ

 連載ものを続ける間、三河湾の残像から「海行きてぇ!」の思いが尾を引いたので、掲載するつもりなく海辺をブラブラした際のものです。

2011.10.1
【神奈川県】

江の島(Map)

 10月初旬にとても気持ちいい気候(日差しを浴びても汗をかかない)が続き、陽気に誘われ海を目指しました。
 ところが江の島に着くころには雲が出てしまい、ちょっと不完全燃焼です。


 片瀬海岸東浜(江の島へ向かう橋の鎌倉側)は海水浴シーズンを除くと、海辺をウインドサーフィンの連中が占領しています。
 そこに割って入り、浜辺で体操をする年配集団を目にしました。
 まさか、これから海に入らないでしょうが、多くの方が「年代的なポリシー」と思われる「(木綿らしき)白い体操着」を着ていますが、そんな統一感に「宗教集団?」の印象を受けてしまいます(ある意味、侵しがたい信念を持つ集団なのでしょう)。


2011.10.8
【神奈川県】

観音崎(Map)

 今回の三浦半島観音崎では、晴天に恵まれ実に心地よい散策ができました。
 岩場の海を歩きたい時、手軽な印象からよく来る散歩道なので目新しいものはありませんが、とても落ち着けた展望テラスが、前回は老朽化で立ち入り禁止(無視して入りました)とされたものが、撤去されました。
 戦時中に造営された砲台の遺構上に設置された、たかだか2m程度のテラスなので、見晴らしを劇的に変える施設ではありませんが、そこから浦賀水道を行き来する船舶の眺めは、戦争の過ちの上に築かれた現在の平穏のありがたみを感じさせてくれました。

 前回も触れましたが、ここだけに限らず各地にある主要な灯台を訪れる度、映画『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年 木下惠介監督、佐田啓二、高峰秀子)を想起してしまいます。
 灯台守は重要な任務とはいえ、戦時中は砲台の横でいつ爆弾が落とされるか知れない不安な日々を過ごしたことになります。


 追記──やはり難航する「横浜ベイスターズ」買収問題

 前回は勝手な願望を書きましたが、結局はDeNA((株)ディー・エヌ・エー:インターネット関連企業)が交渉中とのことですが、球団名の「横浜モバゲーベイスターズ」変更(これも勝手な報道かも知れません)には驚きました(プロ球団も宣伝材料であるのは確かですが)。
 まるで、コンピューターゲームの中で「プロ野球チームを作ろう」と構想を練っているように思えてしまいます。
 生身の選手を、ゲームのキャラクター的に扱い「キミはトレード」「ダルちゃんを高額で買いましょう」なんてやりそうなイメージがあります。
 実際の交渉現場は分かりませんが、野次馬にも「バーチャル」な商売をする会社より「リアル」な仕事をする会社の方が「安心感がある」と思ってしまうのは、古い考え方なのだろうか?
 そこにはlivedoorというお粗末な教訓があるのも確かです……


 追記2

 10月最後の週末、少し遅い時間だったこともあり、地下鉄日比谷線六本木駅では高校の学園祭にでも向かうような、奇妙ではあってもチープな扮装をした連中が群れてきます。
 ハロウィンパーティに向かう扮装なのでしょうが、仮装大賞にエントリーしても予選で帰されるレベルで楽しめるのか? と思うのですが……
 そもそも、趣味の悪い扮装が許されること自体、理解しかねます(全然愛きょうがない)。

2011/10/24

住民の勝利!──黄金町バザール2011

2011.9.25
【神奈川県】


より大きな地図で 東横沿線 を表示

 京浜急行日ノ出町駅から黄金町(こがねちょう)駅にかけてのガード下周辺には、数年前まで国の公認を受けたかのように、白昼堂々と営業する怖そうな売春施設がはびこっていました(通り抜けられるか不安になるほど)。
 そんな無法地帯も、2009年「開国博Y150」開催に向けたバイバイ作戦(2005年)により、半年余りで全店閉店に追い込まれました(だったら早くやればいいのに)。
 その後、町の再生に「アートによるまちづくり」を掲げ、まずは健全な人たち(?)に注目してもらおうと、2008年から年間行事として展覧会「黄金町バザール」を開催し、4回目の今年はヨコハマトリエンナーレ2011と連携開催されています。

 期間中有効のトリエンナーレとの連携入場券を買ったので、慌てることはないのですが、この日は日本丸の総帆展帆(そうはんてんぱん:29枚すべての帆をひろげる)が見られることから、連休でしたし連チャンで足を運びました。


日本丸(Map)


 帆をひらいた雄姿は初めて目にしましたが、やはり帆船には帆を張ってこそのカッコ良さがあります。
 しかし難を言わせてもらうと、その背後にランドマークタワー等のデッカイ建物がそびえているため、大きさの比較相手がビル群とされるのは、いかがなモノかと……
 この総帆展帆という姿には、大海原が似合うに決まってると思うも、どうやって見学するのか?
 それにはやはり「一度でいいから乗船してみたい」という夢を抱き続けるしかないのでしょうね(かなり揺れそうですが……)。


日ノ出町〜黄金町(Map)

 右写真の建物は、日ノ出町駅にほど近い路地裏にあり、以前訪れた際、映画『上海異人娼館/チャイナ・ドール』(1981年寺山修司監督)を想起した建物です。
 長い間使われてなかったようですが1年程前から「竜宮美術旅館」となり、1階は喫茶店とされ、全体が美術展の会場になっています。
 待ってました! と乗り込みます。だって中をのぞきたくなるでしょ?
 名称通り旅館的な作りですが、寿町方面(ドヤ街)にある簡易宿泊所的ではなく、観光旅館的な雰囲気があります。
 以前あった青線地帯のなごりを感じさせる建物ですから、まっとうな利用法は考えられません。
 立地からもお察しの通り、戦後の米軍占領時に建てられた米兵専用の連れ込み宿だったそうです(再開発計画地域に含まれるので、取り壊し予定)。
 歴史遺産には正も負も含まれるので、評価の高い建造物なら遊郭でも残されますが、チンピラみたいな建物ですから仕方ないのでしょう。
 のぞきたい方はお早めに……


 浴槽の中にライトを沈めた展示物のようですが、係の方が水面のあく取りをしていたので、人が入った時のように浮き上がってくるモノがあるようです。
 この作品が何を訴えたいのかちょっと分かりませんが、この「米兵専用の連れ込み宿にあるタイル張りの浴室」を利用しただけで、人目を引き、印象に残る成功が約束されていた(内容はなんでもよかった、では言い過ぎか?)、と思えてなりません。
 結局この会場では、この建造物に関する興味は大いに満足させられたものの、「何があったっけ?」とされてしまう展示物たちは、この建造物の存在感を超えられなかったことになります。
 そりゃ仕方ないさ、歴史と境遇の重みが違うもの……

 その一室で、畳に座り映像を観賞する女性の後ろ姿を撮りたいと思ったのですが、それをためらった自分には、この建物の歴史にその女性をはめ込んでいいのか? という気持ちがはたらいたかも知れません……


 この白塗りされた建物は、以前売春施設として使用されていました(現在展示施設)。
 一間程度の間口しかない入口から奧に細長い間取りが並ぶ、そんな用途のために設計された建物で、この地域の「標準モデル」といえます。
 そこが今や、若い女性が何の警戒感もなく足を踏み入れる環境となったことに驚き、思わず係の人に「やりましたねー!」と声を掛けてしまいます。
 「ここ3年くらいでようやくキレイになってきました」とのことですが、これはスゴイ事です!

 このような取り組みを進めるために、地域、行政、企業、大学、警察の協力の元「NPO法人黄金町エリアマネジメントセンター」が設立され、その組織が中心となり地域と連携し、クリエイターの活動拠点を管理運営しています。
 ここに至るまでも大変な労力と思いますが、これからも拠点の拡大や地域のマスタープランづくりをアートを通してさらに推進する、という意気込みだそうです。


 京浜急行の高架橋梁の耐震工事と並行してガード下に新しい施設が作られ、子どもたちの絵が描かれた工事用の塀があった場所にも新たな施設がオープンしています。
 上写真はスタジオとされるアトリエ施設で、新しい施設ながらもそんな連中(アーティスト?)が出入りした途端、雑然とした空間と化した様子がうかがえ、生きた施設の印象を受けます。
 そんな連中(さっきから失礼ですが親しみを込めたつもり)は結構フランクですから、気軽にのぞいたり立ち寄れる雰囲気があって、とっても明るく風通しのいい場になっています。
 また、高架下は雨の日でも遊べるわけですから、これから児童館のような施設が増えていけば、明るい希望が見えてくるように思えます。


 上写真は道路をはさんで大岡川(カメラの背後)に面した建物で、以前は外国籍の女性たちが川っぷちまでウロウロしていた場所です。
 そんな面影を消し去ろうと、間取りは変えずも外壁を全面作りかえ、以前の雰囲気すら想像できないオシャレな外観が目を引きます。
 ここまで明るくなれば、一間間口で仕切られた間取りを逆に活用し、小規模店舗として家賃を低めに設定してギャラリーや雑貨店などを誘致できれば、まるっきり生まれ変わった町の姿が、まだおぼろげな夢ですが見え始めるような気がしてきます……


 以下は、ひとつの報道に踊りその日に書いたもので現実とは異なりますが、ひとつの願望として流して下さい。
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 京急線がチラッと映っているので、ここでちょっと脱線。
 毎年秋風が吹くころに流れてきては散っていく、プロ野球「横浜ベイスターズ」の身売り話ですが、今年もダメだろうと思っていたら、ここへきて大本命「京浜急行電鉄」が手を挙げました。
 1社じゃ無理なので、地元企業が連合チームで買収に動き出すというのですから、チームもファンも地元も万々歳で、ファンじゃなくても応援したくなります。
 この話が進めば、地元カラーも強まりますから、選手たちも奮起せざるを得ないでしょうし、ファンも(電車通ってないけれど)「赤い電車に乗って〜♪」見に来てくれるのでは?(ユニフォームが赤くなってもええじゃないか!)と期待するところです。
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 と、はしゃいだものの一瞬のはかない幻でした。
 とっても素敵な筋書きなので応援したい気持ちはありますが、地元企業が集まっても球団を支えられない「横浜経済圏」の規模の小ささを思い知らされた気がします……

 「お嬢さん、ここは若い娘が一人で歩くような場所じゃないぜ」
 右写真の光景は以前の様子と変わらないように見えますが、彼女がのぞく場所にはポツンと小さな展示会場があります。
 狭い裏路地ですが、こういう所からも切り崩していくとは作戦が細やかなこと、と思うもそこには事情があるようです。
 終後、ガード下にバラック小屋が建てられたのが始まりで、飲食店〜女性が客を取る店〜青線地帯〜特殊飲食店(売春施設)の変遷があるため、地権者等の権利関係が複雑で調査に時間がかかり、話し合いや買い取りが進まないとのこと。
 それはヤクザな言い訳ですから、方向性を見失わず、慌てず地道に「新しい町」が作られていくことを、楽しみにしております。

 すっかり明るくなった界隈を一回りし、希望を感じて日ノ出町駅に戻ると、そこにはとても現実的な「よどんだ雰囲気を漂わせる」人の流れがあります。
 レースが終わったらしく、WINS(場外馬券売場)からはけてきたオヤジたちが駅に向かい流れてきます。
 これまでも労働者の「癒しの町」としてにぎわってきた場所柄ですから(ストリップ劇場も健在ですし)、無法地帯を一掃しても、法律と相談しながらの「憂さ晴らしの町」という性格は、今後も変わらないのかも知れません……

 右は以前の写真を物色したものですが(モノクロ、日ノ出町の表記あり)、核心部分のものは見当たりません。
 おそらくそんな場所でカメラを構えたら、カメラばかりか身ぐるみはがれるような怖さがあったんだと思います……