2010/11/08

む〜らの鎮守の神様の〜♪──中川、山田

2010.10.31
【神奈川県】

 台風一過とはいかず、重々しい雲に覆われ気分の晴れない一日でしたが、なかなか楽しい出会いもありました。
 前回の鉄塔山付近で鶴見川に合流する早淵川の、上流域にあたる港北ニュータウン周辺を歩きました。


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くさぶえのみち(Map)

 港北ニュータウンではこれまで、センター南・北駅付近の中心部しか歩いてなかったので、周縁部に足を延ばしました。
 今回の目的である早淵川を中心にこの辺りを見回してみると、谷や小川が早淵川に向かって集まっており、それをひっくるめると「早淵川谷戸(やと:丘陵地が浸食されてできた谷地形)」ともいえる地域であることに気付かされます。
 早淵川を挟んでセンター南と北があるように、港北ニュータウンは早淵川を中心として両岸に広がる丘陵地を対象とした開発事業であるとも言えます。
 開発計画では中核地でしたが、その範囲はジワジワと拡大を続けているようなので、横浜市のもくろみ通りに進んでいることになります。

 高台に位置する横浜市営地下鉄中川駅付近から、遊歩道とせせらぎが整備された「くさぶえのみち」が始まります。
 人工的ではありますが、手を加えすぎない配慮に好感が持て、山中に迷い込んだか? と錯覚する場所もあります。
 南側の散策路(センター南〜仲町台)にも、同様の印象があるので、町づくりのコンセプトとされているのかも知れません。


 公園には視界の開ける池が好まれますが(渡り鳥が増え始めています)、上写真のような谷戸の湿地が公園とされていることには、ちと驚きました(一般には蚊や虫の温床として嫌われる)。
 写真では見えませんが、この水草の裏側でサギがエサをついばむほど、多彩な生き物が生息する場所ですから、子どもたちには垂涎(すいぜん)のスポットとなります。
 わたしが育った地域は台地だったので、身近で水辺の生き物を目にした記憶はほとんどありません(ザリガニのいた沼地はちょっと遠い)。水辺といえば使われなくなった用水路ですから、いまからすれば危ない場所で遊んでたものだと思います(当時はフタもしてありません)。
 こんな場所が近所にあったら、毎日泥だらけで帰るので、母に禁止されていたかも知れません。


山田富士(やまたふじ)(Map)

 ここは2008年開業の横浜市営地下鉄グリーンライン(日吉〜中山)北山田(やまた)駅近くの公園になります。
 グリーンラインには、北・東2つの山田駅、高田(たかた)駅のように、「田」を「た」と読む駅が複数あります。
 由来が古そうと調べると(山田は不明)、高田の名は平安時代に作られた「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」という辞書に記載されているそうです(類聚:同じ種類の事柄を抜粋し編さんすること)。
 この辞書は、名詞を漢語で抜粋〜分類して項目を立て、万葉仮名で日本語読みをつけて説明する、国語辞典+漢和辞典+百科事典の性格を併せ持つ辞書だそうです。
 その当時から時代や、地域の勢力争いなどに巻き込まれずに生き延びた地名というか、意識されないほど小さな地名を掘り起こしたと言えるかも知れません。
 ズッと気になっており、やっと調べることができてスッキリしました。


 これは「山田富士」という江戸時代の記録が残る(1828年)富士塚(ふじづか)で、富士山信仰しながらも現地に足を運べない人に利用された、人工のミニ富士山です。
 頂上に浅間神社を祭り、富士山の山開きの日に富士講がこの山に登り、はるかな富士山を拝みました。
 富士講とは、富士山信仰の信者により組織された講社(こうしゃ:社寺に詣でる宗教団体)で、修験道の行者であった角行(かくぎょう:1541〜1646年)が、富士山麓にある「人穴:ひとあな」(何て身もふたもない表現)での修行の後、江戸にまん延した疫病から多くの人びとを救ったことにより広まったそうです。
 江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほど江戸庶民の間で流行し、角行は富士信仰の開祖とされ、人穴は聖地となったそうです。
 しかしその勢力が拡大することに幕府側は警戒を強め、何度となく禁止令を発したそうです。


 広くはありませんが、山頂で「お鉢巡りができる富士塚」として有名なんだそうです(上写真富士山頂)。
 土を盛った山とはいえ200年間健在であるというのは、地域住民の文化に対する敬意の表れと思います。
 港北とされる一帯には富士塚が多くあり、「港北七富士巡り」なども行なわれたそうです。
 現在では3座しか残ってない(山田:やまた、池辺:いこのべ、川和)とはいえ、ちょっと胸を張ってもいいんじゃないかと思います(田舎度自慢?)。

 開発に伴い付近一帯は公園とされ、管理が横浜市に移管される際、公園には信仰対象となる石像類は置けないと撤去を求められたそうです。
 確かに富士講は行われなくなっても、地域にとってみれば文化財ですから、はいそうですかと引き下がれません。
 結局、その地でお祭り等は一切行わない、という誓約書を書いて落着したそうです。
 高度成長期の乱開発への反省から、地域文化を保護する方針かと思いきや、地域に根付いた民俗文化から信仰を取り除こうとする姿勢には、「文化」というものへの理解が欠如しているように思えてしまいます。
 神道関連なら許しが出たのだろうか?


 山田富士付近から続く「ふじやとのみち」とされる散策路には、住宅地の路地を通る個所があり、その街路樹にビニール袋でも引っかかっているのかと目を止めると、果実をつける木がありました(黄色く熟した実もあります)。
 そんな木に限って樹種のプレートは見当たりませんが、どうもカリンの仲間のように見えます。以前こんな季節に、小石川植物園で目にしたものと似ているような気がします。
 5〜6本並ぶ周辺は戸建ての住宅街なので、その区画を販売した会社が植えたのかも知れません。
 「だから何?」という程度の発見ですが、そんなことも散策の楽しみのひとつになります。


山田神社(Map)

 今回のルートからだと、いきなり社殿脇に出くわしてしまう「山田神社」です。
 飾りっ気のない素朴な印象の境内には、社殿(本殿は市の有形文化財)、舞台、広場、トイレと鐘楼(? この辺りでは珍しくないそうです)がこぢんまりと点在しています(神社で除夜の鐘がつけます)。
 神社に釣鐘があるのを見て、寺と神社が区別できない時分の記憶がよみがえったのか、その瞬間「む〜らのちんじゅの神様の〜♪」という唱歌『村祭り』のフレーズが頭に流れてきました。
 付近一帯に田畑が広がっていたころ、村の鎮守様というのは彼らにとっては「ハレの場」でしたから、「神社に鐘があってもいいじゃないか」と言い出すのを、教義を盾に持ち出して断ろうとしても、神社はにぎやかな方がいいなどと、教えに縛られるのはお門違い、とされるような訳の分からない状況だったのではあるまいか?
 それほどみんな愛着を感じていたんだろうと思います。
 7月の虫送り(田畑の害虫を払い豊作を願う行事)はこの境内から出発します。このリンク先は活気が伝わってくる素敵なページなので是非!

 1910年(明治43年)近隣の14社と合祀された際、地名にちなみ山田神社と改称されます。
 この地については、平安時代に「源義朝の臣鎌田正清の居城せし地」の記録があるそうです。
 源義朝は、鎌倉幕府を開いた頼朝、歴史のスーパースター義経の父親で、鎌田正清の母が義朝、正清の乳母となり一緒に育てられた仲から、生涯を共にする主従となります。
 城を構えるにふさわしい高台なので、当時の眺めは格別だったと思われます。

 脇から境内に入ったので参道を歩いたのは帰り道でしたが、この参道こそ「村の鎮守様」の自慢なんだろうと、その存在感に目を見張ります。
 広くはない参道の両側から木々が包み込んで俗世の雑音を遮断し、実直に延びる参道は250mほどあります。
 一本道であってもその長い道のりには、途中にさまざまな恐怖や誘惑があるかも知れないが、それを振り切って歩んで来なさい。という意味にも感じられます。
 視界が開ける場所は、眼下に中原街道を見下ろす見晴らしのいい斜面で、その階段を下りる時のすがすがしさは、むかしの人がお参り後に感じた晴れ晴れしさにも似ているのではないか、という気がしました。

 その長い階段を下りながら、やはり「どんどんひゃらら〜 どんひゃらら〜 ♪」と、現在でも感じさせてくれる社(やしろ)を守ってきた地域の人たちの文化意識に敬意を表すると同時に、「オレたち、何もやってないじゃん」と思い知るべきと感じた次第です……


P.S. 今年の日本シリーズは、接戦なんだか、ドングリの背比べなんだか…… ともかく消耗戦お疲れ様でした。
 テレビ中継を試合終了まで続けるってのはどうなんでしょうね?
 やっていれば面白いので見てしまいますが、途中でやめられなくなるのは困りものです。
 でも最終戦は、9回裏に同点となったところでテレビ消しました……

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