2008/10/28

禅文化開花前夜──覚園寺、瑞泉寺

2008.10.21
【神奈川県】

 鶴岡八幡宮

 鶴岡八幡宮の正面から由比ヶ浜へ続く参道を若宮大路といいますが、鎌倉駅付近の二の鳥居から車道より一段高い参道があります。
 段葛(だんかずら)といって、昔は雨が降るとこの付近はぬかるんで歩きづらかったらしく、その対策として作られたそうです。
 八幡宮に向かうにつれ道幅が狭くなるように作られているそうで、遠近法を利用して実際よりも遠く見せる工夫がなされています。
 武家が築いた都市ですから、防御への配慮は抜かりなく施されていたということです。
 ここは桜並木で、シーズンともなれば「花道」となるのでキレイとは思いますが、人出もスゴイことになりそうです。

 ここは、1063年源頼義が奥州を平定後、出陣の時に祈願した京都の石清水(いわしみず)八幡宮を由比ヶ浜にまつったものを、1180年に頼朝が現在の地に移して、鎌倉の町づくりの中心としたそうです(頼朝の家系は「河内源氏」といって大阪が本拠)。
 ──京都の石清水八幡宮へ行ったときカメラを持ってなかったので写真ありません。後悔……


 実在性の高い最古の天皇と言われる応神天皇(=八幡神)がまつられています。
 八幡神は皇室の祖神ですから、皇室から分かれた源氏も氏神としたそうです。
 総本社は大分県の宇佐神宮(宇佐八幡宮)で農耕神や海の神とされていたものが、東大寺の大仏建造に協力することとなり、仏教保護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)が与えられ神仏習合を果たし、全国の寺の守護神として広まっていったとのことです。
 「八百万の神(やおよろずのかみ)」という多神教を受け入れる土壌を持った日本において、実に見事な作戦で拡大していったようです。
 その八幡様を鎌倉の中心に据えることで、関東の鎮守とし、武家精神のよりどころとし、国家鎮護の神として祭り上げ求心力としたようです。

 八幡様の由緒を調べたところで、静御前が舞いを披露したのは舞殿ではなく回廊だったと言われ、それどこにあるの? と、思いをはせたいところです。
 上写真左側は、樹齢1000余年、高さ約30mの大銀杏(おおいちょう)で、これもシンボルと言えると思います。
 この日も小学生たちが社会見学等でこの木に関する説明書きをメモしていましたが、きっとこの木のことは将来まで記憶に残ることでしょう。
 わたしも再会した大学時代まで「そういえばあった!」と覚えていました。

 近ごろ観光名所とされる神社仏閣で、じいさまたちがおばさまたちをナンパしている姿をよく見かけます。
 「ご案内しましょうか?」
 「いえ、何度も来てるので結構です……」
 ボランティアで由緒や歴史を解説してくれる方々なのですが、こんなこと言っては失礼なのですが、あまり相手にされないようです。
 こちらからお願いするまでおとなしくしていてくれればと思うのですが、本当にヒマなのか話し好きなのか、カメラを構えている時でも話しかけてきます。京都にも結構いました。
 親切の押し売りってうっとうしく感じてしまいますよね(大変失礼!)。
 分かってやってるんだとしたら、やっぱりナンパですよあれは。

 境内で作庭展が催されていてその中に「建長寺垣」なる説明があり、参考にと撮ってきたのですが、調べてみても見つかりません。見間違いだったか?
 建仁寺垣は出てくるのですが、形が違います…… ご存知ないですか?


 鎌倉宮

 ここは1869年(明治2年)に明治天皇が、護良親王(もりながしんのう)をまつるために造った神社だそうです。
 護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父や足利尊氏らと共に鎌倉幕府を倒すのですが、後醍醐天皇の「建武の新政」(歴史で習いましたね)に反発した足利尊氏に捕えられ、この地で殺されたそうです。
 上写真は、護良親王の忠臣で、親王の身代わりに切腹自刃した村上義光をまつる村上社の願掛けで、「身代わりさま人形」と言うのでしょうか、願いというか供えた人自身が被った災いが書きこまれています。

 もう七五三の季節のようで受付案内などが立っており、これからの週末などはにぎわうことでしょう。
 拝殿に置かれた大きな獅子頭は親王のお守りにちなむそうですが、子どもはよろこびそうですから人気があるのかも知れません。


 覚園寺(かくおんじ)

 「あれ? ここは中に入ったことないなぁ」
 というのも、ここは自由拝観ではなく、決められた時間に住職さんに案内してもらう見学だけなので、門前まで来てもパスしていたようです……


 ここは結構奥まった場所に位置していて、狭い谷(やつ)に沿って建物が並び、その奧には尾根が迫っています(反対側は建長寺)。
 そんな立地ゆえに残されたと思われる、無用な装飾もなく鎌倉時代の面影を感じさせてくれる境内と、室町時代に足利尊氏によって再建されたと言われる薬師堂(1354年の再建以来火災に遭っておらず、天井に尊氏自筆の銘が残る禅様式の建物)の簡素で枯れた姿は、奈良の山奥に来たかのような静寂感をもたらしてくれます。
 1296年の創建とされ、開山(初代住職)には京都・泉涌寺から智海心慧(ちかいしんえ)を招き、浄土、真言、律、禅の四宗兼学の場としたそうです。
 もともとは幕府執権である北条家の寺だったものを、倒幕後に後醍醐天皇が没収し、その後は尊氏に保護されたそうです。
 チェック項目である関東大震災ですが、建物自体は難を逃れたそうですが、納められている仏像群はかなりの被害を受けたそうです。

 そんなご説明や「閻魔大王は地蔵菩薩の化身である」等の、ありがたいお話しも聞かせてもらえるので、一度くらいは住職さんのお話を聞きにいかれてはいかがでしょうか?(50分くらいかかりましたが)
 ですが、自由に拝観できたとしてもきっと足が止まる出会いがあると思いますし、鎌倉で最もタイムトリップが出来る場所かも知れません(境内撮影禁止なので、説得力のある写真はありません)。


 瑞泉寺


 これまでは「庭がとても印象的なお寺さん」というだけのイメージですが、いい印象を持っていました。
 参道の石段の前に「夢窓国師(むそうこくし)古道場」の石碑があります。
 彼の名前を京都で学習した今回は「だから鎌倉の中では何か違うという印象を受けたんだ」と、見る前から納得です。
 門をくぐると、庫裏(くり:僧侶の居住)の姿や上写真の茶室(?)の窓などは京都でよく見られる造りで、庭園からは優雅さすら感じられます。
 「こりゃ鎌倉には他にないよなぁ」と、背景を知らなくても違いは分かっていたんだと一応は納得なのですが、ならば何で違う理由を知ろうとしなかったのでしょうねぇ?
 ──関心が薄かったのも確かでしょうし、説明を読んでも「へぇー」と流してしまい、それっきりだったのかも知れません……

 さすが夢窓国師(禅僧で庭園設計でも知られる)と、京都にいくつもある庭園(天龍寺南禅寺等)もとても素晴らしいのですが、鎌倉(東国)に唯一と言われるものに接した時の方が、その存在感が際立って感じられ、強いインパクトを受けました。
 「鎌倉で造るとこうなります」と言われてるような気がします。


 夢窓国師は1326年に鎌倉幕府執権の北条高時に招かれ、円覚寺に滞在し禅の教義を説き、北条家の信仰を得たそうです。
 そして翌年、御家人の二階堂道蘊(どううん)が、夢窓国師を開山(初代住職)として創建したそうで、臨済宗円覚寺派の寺院になります。
 当初は瑞泉院の名であったものを、室町の世となり初代鎌倉公方(かまくらくぼう:室町幕府の出先機関)の足利基氏(尊氏の四男)が瑞泉寺と改め、鎌倉における足利家の菩提寺となったそうです。

 ちょうど時代の変わり目だったんですね。
 禅というものを積極的に取り入れてきた鎌倉幕府ですが、禅の文化が展開していくのは夢窓国師が活躍をする室町時代となります。
 鎌倉という東国の地で武家政権を打ち立て、武家によるまつりごとを維持していくには「武士道(規律)」「質実剛健」を掲げる必要があったと思われます。
 一方室町幕府は京都に置かれたので、武家を統率するだけでは立ちゆかないことが想像されます。
 天皇がいて、平安時代から根付いた文化があり、庶民が暮らす町ですから、武士の規律維持だけではまつりごとが運ばない状況というものが、京都にとって、日本にとって、よろこばしいことだったのではないか、と思われます。
 鎌倉幕府滅亡後、この地は次第に衰退していったと思われますが、以降、歴史の表舞台からは遠ざかったおかげで、鎌倉時代という武家政権の文化遺産が残されたわけですから、そのまま保存できるとすれば、これもよろこばしいことと思えます。


 夢窓疎石(そせき:=国師)は、鎌倉時代末期(争いの前)に後醍醐天皇から京都・南禅寺に、北条氏から鎌倉・瑞泉寺に招かれます。
 鎌倉幕府滅亡後には再度後醍醐天皇から京都・南禅寺に、後醍醐天皇と対立し勝利した足利尊氏から京都・天龍寺に招かれています。
 権力が混乱していた情勢の中で、それを争って敵対した権力者たちに請われ、争いを仲裁するかのように東奔西走していたように思えてなりません。
 そんな活躍に対して、夢窓・正覚・心宗・普済・玄猷・仏統・大円という7つの国師号(高僧に対して天皇からの贈り名)を受け、七朝帝師と称されています。
 わたしにはそんなことよりも、室町の世となり平穏を取り戻した京都で、禅の教えとそこから花開いた禅の文化が定着していったことこそ、彼はよろこんだのではないかと、思えてなりません。
 それが現在にも残され、引き継がれているということが、彼の行動に間違いはなかった(正しさとはあまり言いたくない)ことの証しであり、信念に共鳴する人の多さを物語っているのだと思われます。




P.S. 【<ポニョの浦>埋め立て計画に国交相も「避けるべきだ」】というニュース見出しを目にしました。
 これは宮崎監督が、映画『崖の上のポニョ』の構想を練った場所で舞台のモデルになったとされる、広島県福山市鞆(とも)町の「鞆の浦」において、歴史的構造物である港を埋め立ててバイパス道路を建設しようとの計画が進められていることに対してのコメントです。
 観光を促進したい人々は「ポニョの里」のふれこみで宣伝したがっているのですが、地元の自治体では建設反対運動の世論が高まることを避けるため「映画とは関係ない」と突っぱねているとのことです。
 映画はもうヒットしているので十分ですから、ちょっと遠いですが機会を作って現地を歩いてもらって「埋め立て反対!」の声を高めてもらいたいと、切に望んでおります。
 映画館で「ポーニョ、ポーニョ、ポニョ」とうたっていた子どもたちが、大人になってこの地を訪れたとき、また自然とくちずさめるような風景を残しておいてあげたい、と願っております。

国立新美術館でピカソ展を見てきました。ピカソはいつ見ても楽しいのですが、昨年できた美術館の建物が格好いいんです。でも六本木という場所柄、ゴミゴミしたところに建てられているので、せっかくの容姿も離れて全貌を見渡すことができません。機会があれば、今度は建物を見に行ってみたいと思います。

2008/10/21

異空間への入口──源氏山周辺

2008.10.16
【神奈川県】

 亀ケ谷(かめがやつ)坂  ※谷を「やつ」と読みます

 「風が止まっている……」
 由比ヶ浜からの海風は谷筋に沿って山を越えていきますが、ここはちょうどその通り道のようで、峠に差しかかるといつでも海からの風が通り抜けていきます。
 ところがこの日はその風がまるっきり吹いてきません。何か悪いことが起こる前ぶれ?

 鎌倉七口のひとつですから一応峠道ですが、本日のルート(北鎌倉→鎌倉)で歩くとダラダラとした傾斜でたどり着けるので、手軽に切通しの雰囲気を味わえる場所です。
 でも、逆ルートはキツイ坂道になっています。つまり、海側が急傾斜なので海から吹いてきた風が山にぶつかり、坂の切通しに集まってくるのだと思われます。
 暑い時期などはその風がとても心地よく、展望は良くないのですが必ず峠でひと息入れてしまいます。
 そんな気落ちを察するかのように椅子が置いてあり腰掛けられたのですが、この日は見あたりませんでした。
 持ち帰って使えるような代物ではないと思うのですが、道標と同じ様な認識だったもので、無くなってしまうと寂しい気もします。

 この緑のトンネルの向こう側には鎌倉の市街地があるのですが、その先は京都につながっていると思えた本日です。


 寿福寺

 「政子の墓はどこですかぁ?」
 探し疲れちゃったのか、人けの少ない墓地で心細くなったのか、小学生グループの女の子が甘えるような声を掛けてきました。
 そのくせ、場所を教えると礼も言わずに駆けだしていきます。現金なヤツ。
 栃木と群馬から来た小学校のグループ学習的な社会見学のようで、地図を片手にオリエンテーリングのように古都を巡っています。
 注:政子とは北条政子(頼朝の妻)。下写真は「政子の墓」ではありません。


 ここは源氏が関東に進出したときの拠点だったそうで、背後に構える源氏山は、先祖である八幡太郎義家が奥羽での後三年の役に出陣するときに、源氏の白旗を立て戦勝を祈ったことから「源氏山」(旗立山)と呼ばれるようになったそうです。山頂の源氏山公園(後述の仮粧坂の上)には頼朝の銅像があります。
 この寺は、頼朝の没後に政子が源氏をまつるために創建し、臨済宗の開祖である栄西を開山(初代住職)に招いたそうです。
 ここは鎌倉五山第三位で、臨済宗建長寺派の禅宗寺院になります。

 栄西は1195年、博多に日本最初の禅道場である聖福寺を建立するも、京都の既存勢力である天台宗(比叡山)や真言宗(高野山)に割ってはいることができず、幕府を頼って鎌倉に来たとされています。
 ここで両者の思惑が一致し、寿福寺(1200年)建立の後に頼家(鎌倉幕府第2代将軍)の後ろ盾を得て、京都の建仁寺(1202年)を創建したとのことです(ようやく京都と鎌倉がつながった!)。
 それでも臨済宗のルーツは建仁寺とされています。
 ということは、寿福寺が臨済宗となったのは後年のことになります。
 建長寺派といわれますが建長寺は1253年の創建ですから、寿福寺創建時に建長寺は無かったことになります。
 ちなみに、鎌倉五山の中で最も古い創建(1188年)となる浄妙寺(ここも建長寺派)も、禅宗となったのは後のことのようです。

 京都と鎌倉を並べて比較することでようやく、栄西と臨済宗とその時代背景について整理ができてきた気がしました。
 あぁ、納得!
 分かって(分かった気がして)みると、もう一度時系列を整理しながら「禅刹再訪」といきたいところですが、そりゃ無理ってもんです……

 右写真は、昔のディズニーアニメに出てくる擬人化された「木の精」のように見えませんか?


 海蔵寺

 横須賀線で北鎌倉から鎌倉へ向かう途中のトンネルを抜けた辺りを扇ガ谷(おうぎがやつ)といい、その谷の奥まった地にたたずむお寺です。
 門前のハギの花が有名だそうですが、もう終わっていました。
 以前のこの辺りは訪れる人もまばらという印象があったのですが、花の季節のなごりでしょうか、この日はまま人出がありました。
 右写真は「十六井戸」といって、大きなやぐら(石窟)の床面に直径70cm、深さ50cm程度の穴が16個あり、そこから水がわき出しているというものです。
 奧の壁の上部に観音菩薩像、その下に弘法大師像があります。
 お寺のパンフレットには、もと真言宗(空海の教え)の寺跡に臨済宗建長寺派の寺を建立した経緯から、その16の数を「十六大菩薩」(真言宗の経典)と説明されていましたが、わたしには「墓所との説もあるが…」の方が理解しやすく感じられました。
 前出の寿福寺にある北条政子のお墓を含め、やぐらという石窟はお墓のために掘られたと考えた方が自然と思われます。
 ここは一族の共同墓所など、何かの理由で同じ場所に納める必要が生じたために作られたものではないかと思われます(穴のサイズがちょうど墓穴の大きさにも思えます)。
 月日を経て、そういう場所からわき出した水に功徳(御利益)があるとするならば、納得しやすいようにも思うのですが……
 そこのストーリー(言い伝え)をうまく作れなかったのだろうか?


 仮粧(けわい)坂  ※「化粧坂」と書く場合もある


 ここは鎌倉七口のひとつで、旧鎌倉街道の上道(かみつみち)と呼ばれ、瀬谷、町田、多摩へと続いていたそうです。
 つづらおりも2カ所だけで距離は短いのですが、傾斜はえらく急な坂道です。
 また新田義貞の鎌倉攻めの話しを蒸し返しますが、極楽寺坂(攻略できず稲村ヶ崎の海を渡った)、巨福呂坂と、ここ仮粧坂の3カ所から攻め入ったとのことですが、どこも険しい地形でよくこんなところで戦ったと思うような、切通しをめぐっての局地戦が繰り広げられたようです。
 「天然の要害」であった時代を想像する助けとなる戦いですが、それを打ち破った新田軍には「国家再建」という時代の波による勢いがあったということなのでしょう。

 坂の名前の由来には「平家の大将の首を化粧して実検した」「この付近に遊女がいた」などと言われているようですが、わたしは「都市(ハレの場)への入口なので身だしなみを整える場」(異なる世界への入口)という説を支持したいと考えています(鎌倉以外にも昔の都市の周辺に同様の地名があるそうです)。

 何度も登場しますが、鈴木清順監督の映画『ツィゴイネルワイゼン』では、以前紹介した釈迦堂の切通しとここを併せて「冥界への出入り口」のイメージとして使っていました。


 銭洗(ぜにあらい)弁天

 暗がりの中を人々は光の差す方へ吸い寄せられていきます。
 その先にあるのは、もちろん「銭」洗弁天です。
 株じゃ儲けられない時節ですから、せっせと洗って増やしましょう! んなわけないか……
 言い伝えによると、頼朝が夢の中で宇賀福神(この神社の神)に「ここの水を汲んで神仏を供養すれば天下が平和になる」とお告げを受けてまつったのが始まりとのことです。
 それがいつからか、この水でお金を洗うと「倍増」→「10倍」→「100倍」になって返ってくると、景気がよくなってきたそうです。
 裏返せば、どんどん世知辛い世の中になってきている、とも言えそうです。
 お金を入れて洗うためのザルが備えられていますが、しかしザルでお金を洗うって、何かどんどん無くなっていくような、ではネガティブにすぎますかね……

 コインを2枚洗って、1枚を使いもう1枚は財布にしまっておくのがいいとか、洗ったお金はなるべく早く使った方がいい、などと言われているようです。
 以前、鎌倉駅の券売機に「濡れた紙幣は使用できません」の張り紙がありました(今日は目に入りませんでした)。
 どうせ洗うなら高額の紙幣がいいと考え、早く使おうとする人が多かったんでしょうねぇ。
 「早く使うならここでどうぞ!」とばかりに、境内には駄菓子屋かと思うようなみやげ物屋が並んでいます。
 子どもたちは「ちゃんとすぐに使ったよ!」の言い訳が用意されているので、お店に群がっていきます。
 見事な商売ですこと……



 佐助稲荷

 言い伝えによると、ここも頼朝の夢枕伝説から建立されたとあります。
 伊豆に流されていた時、夢の中で鎌倉のお稲荷様に挙兵をうながされ、それに従い兵を挙げ平家を滅ぼしたとのことで、幕府を開いた後に社殿を建てたということです。
 まあ、当時の鎌倉にまだ敵はいませんし、町の整備も必要ですし、庶民の心の安らぎや天下太平を願う意味でも、頼朝は思う存分やっていたということではないでしょうか。
 ──頼朝本人に仏教への感心が無かったのか、武士に開かれていない時代だったからなのか、頼朝の命による上述の2つは神社です。

 ここの印象として、伏見稲荷大社のように鳥居がすき間無くズラーッと並んでいるイメージがあったのですが、写真でもお分かりの通り、鳥居の間に赤いのぼりが並んでいるものでした。
 ここは出世稲荷で、のぼりが1本10,000円とありました。
 伏見稲荷の鳥居にも名前が入っていたので値段が付いているのだと思われますが、鳥居は高そうですからのぼりくらいが身の丈に合っていそうです。


 キツネの置物には大・中・小だけではなく、左・右向きがあるんですね。
 配置してみるとそのバリエーションが、とても有効的であることがよく分かります。
 でも、温泉街などにある射的の景品みたい、なんて言ったら怒られますね……

 目の前に出現する光景は、それが京都であるか東国であるかが問題なわけではなく、共通していると感じられる精神を理解することが、わたしたちのアイデンティティを確認することになり、この国の安寧を祈り、それを現実のものとしていく原動力となるのではないでしょうか。
 ──鎌倉でも少し地に足が付いてきた気がします……


 ●昭和記念公園(東京都立川)──10月18日(おまけ)


 今週はさわやかな天気の日が続き、そんな陽気と「コスモスが見ごろです」のふれ込みに誘われて、立川の昭和記念公園を歩いてきました。
 ここは元米軍の立川基地で飛行場等があった場所なので、とても広い敷地が公園として整備されています。
 のんびり歩いていると、一周するのに2時間はかかってしまいます。
 東京近郊で季節の花を手軽に見られる場所ですから、人出が多いのも仕方ないですね。
 イチョウ並木の葉はまだ緑ですが銀杏の実が落ち始めており、強烈なにおいが漂ってきます。
 これも秋本番の季節感ですから仕方ないですね……


 コスモスの花も太陽を追いかけているようです。

2008/10/14

秋日和──北鎌倉

2008.10.9
【神奈川県】

 北鎌倉


 北鎌倉の駅といえば、小津安二郎監督の映画『晩春』(だったと思う)で、笠智衆さんと原節子さんの父娘が並んで電車を待つ場面を想起してしまいます。
 公開されたのは1949年といいますから、もう面影すら無いのも仕方ありませんね。
 しかし、もうあのような映画が作られることはないであろうと思うと、そんな面影を求めに訪れたい気持ちにさせられるのも確かです。
 当時の駅舎の看板が展示されているのですが、ケースの中なのでガラスに反射して背景が写り込んでしまいます。
 右写真は当時からあったのではと思われる、ホーム脇のトンネルです。
 人とオートバイ専用というところが、土地の狭い鎌倉らしい風情と言えるかも知れません。
 小津監督は以前紹介したように、すぐそばの円覚寺(今回未訪問)に眠られていますが、原節子さんはまだこの地にご健在とのことです。「衰えた容姿を見せたくない」と引退された方ですから、無用なせんさくはいたしませんが、穏やかに過ごされますことを……

 映画全盛期の「スタア」とは、やはり原節子さんや高峰秀子さんではないかと思っています。

 ※タイトルの「秋日和」は小津さんの映画タイトルからお借りしました。


 東慶寺


 この寺を創建したのは鎌倉幕府の第8代執権北条時宗(NHK大河ドラマで和泉元彌が演じ、モンゴルが攻めてきた「元寇」に対処した人)夫人の覚山尼(かくさんに)とされるそうです。
 明治時代まで尼寺で、尼五山(なんてのもあったんですね)の第二位のお寺だったそうです。
 現在では、男性住職になり存続する寺(東慶寺を含め3カ所)以外は廃寺となったそうです。
 「縁切寺:駆け込み寺」として有名ですが、江戸時代には「縁切寺法」というものがあり、女性からの離婚請求権が認められるようになる明治6年(1872年)までその役割は続いたそうです。
 ──法律まであるとは知りませんでした。

 上写真はかやぶきの鐘楼の屋根なのですが、所々に飛び出している部分があります。古くなるとこのような現象が現れるのでしょうか?


 浄智寺

 臨済宗円覚寺派に属する禅宗の寺院で、鎌倉五山第4位だそうです(鎌倉五山については建長寺の項で説明します)。
 高峰顕日(こうほうけんにち:仏国禅師。後嵯峨天皇の第二皇子。夢窓国師の師で関東の禅宗を確立した方)や、夢窓疎石(むそうそせき:夢窓国師。京都の禅寺や庭園に関する項にたびたび登場した禅宗のスーパースター)らが住職を務めたことがあるそうです。
 最盛期には七堂伽藍や、塔頭(たっちゅう:覚えてますか? 師を慕う弟子たちがその寺の周囲に建てた寺院のこと)も11を数えたとのことで、円覚寺に匹敵する規模で、幕府滅亡後の室町時代まで栄えたそうです。

 前回鎌倉のイメージを、枯れているだとか、寂れているとか申しましたが、幕府滅亡後に衰退していったことは確かだと思いますが、もう一つ大きな理由があることを見落としていました。
 関東大震災(1923年:大正12年)によって鎌倉は壊滅的な被害を受けた、ということです。
 ──目から鱗(うろこ)です。大学の卒論が関東大震災でしたから、その辺りもトレースしながら回ってみます。

 次項のアジサイで有名な明月院の階段もそうなのですが、鎌倉では上写真のようにすり減った石段が目につきます。
 修復してないのは確かなのですが、昔から鎌倉石という近くで採掘できる加工のしやすい(=軟弱な)凝灰岩を利用してきたためと思われます(石を割って調べたわけではありませんが)。
 そんな岩に囲まれた地域ゆえ、坂や切り通し、これからたびたび登場すると思われる「やぐら」(岩肌に掘られた洞穴)など「岩を削る文化」が盛んになったのだと思われます。
 ──現在では、大規模なものは禁じられているとは思いますが、こんなところに家を建てるの? というような細かな削り込み(現代の芸術?)に引き継がれています。



 明月院

 どこかで見たことのあるような構図ですが(京都源光庵)、こちらは下写真と併せて「お月見」のような印象がありませんか?
 窓の奧には、菖蒲園(期間限定の公開)のとても落ち着いた庭があるので、この窓は庭を眺めるためと思われます。
 一度だけ庭に入ったことがあり、その時この窓は半分閉められていた印象があったのですが、では、今日はなぜ全開なの?
 明月院だけに、月齢(月の満ち欠け)を表しているのだろうか? ならば、今日は満月?
 だとしたらとても粋なセンスと思ったのですが、本日の月齢は10で上弦の半月(明るい部分が大きくなっていく途中)+2日にあたるそうで、残念ながらそんな意味ではなかったようです。
 今年はもう一度中秋の名月が見られることをどこかで聞いた覚えがあるので、やはりそんな意味ではないのだろうか? と勝手に思い込んでいます……



 建長寺


 鎌倉幕府の成立後も、京都の公家政権との対立が続いていたのですが、承久の乱(1221年:後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して兵を挙げて敗れた)の後、北条氏の権力基盤が安定すると、鎌倉に「禅の寺」ありと、京都の公家文化に対抗するため建立されたようにも思われます。
 建長5年(1253年)に完成したことから寺の名前に年号を使用したことも、国を治めるための寺院であることのアピールを狙った意図がうかがわれます。

 そうなると次には権威が必要になってきますが、ご承知の通り権威とは時代の権力者が替わる度に変化してしまいます。
 ここで紹介する鎌倉五山とは室町時代になってから定まった(?)ものだそうで、室町幕府は京都にありますからここでは当然京都南禅寺が別格とされ上位より、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺とされるのだそうです。
 ──そんなのどうでもいいとは思いながらも、この先もそれをより所に書かせてもらうと思うので、一応ご紹介だけさせてもらいました。

 第一位の建長寺は「官寺」としての性格が強かったので、前出の北条時宗は元寇での戦死者を弔うために円覚寺(1282年創建)を建てたそうです(そこには日本の武士と元軍(モンゴル・高麗等)の戦士が、分け隔てなく供養されているそうです)。
 鎌倉ではそのように、自ら作ったしきたりを守り続けることで文化を築こうとしていたようです。

 かつてこの地は地獄谷と呼ばれる(鎌倉には地獄がたくさんあること──極楽寺の地もそうでした)処刑場があったそうです。
 その地にあった心平寺という寺に地蔵堂があったことから、建長寺の本尊は地蔵菩薩となったそうです(一般的に禅寺のご本尊は釈迦如来)。
 このことは「ご本尊は何でもいいのか?」と突っこむのではなく、その土地ごとにふさわしい仏様をご本尊とすべきである、とする寛容さととらえるべきだと思います。 
 これから先も、処刑されていった人たちの供養とともに、国の安寧を祈る場所であり続けますように。

 上写真の総門に掲げられた「巨福山(こふくさん)」の「巨」の文字に「、」があるの分かりますでしょうか。
 「この点があることで字に安定感が出る」のだそうです。
 わたしはちょっと分からないのですが、そう理解される方がいらしたら説明していただけないでしょうか?


 巨福呂坂(こぶくろざか)


 鎌倉七口のひとつで、現在は大船から北鎌倉を通り鎌倉市街へ向かう街道になっています。
 鎌倉の道ははどこも狭いのですが、他に道はないのでダンプカーも頻繁に行き来しています。
 特に北鎌倉付近の散策には注意が必要です。

 ここは有事の際に「いざ鎌倉!」とはせ参じた道「鎌倉街道」のひとつだそうで、鎌倉を中心として放射状に伸びた道を呼んでいたようです。
 そういえば、旧鎌倉街道なる表示を方角の違う場所でいくつか見た記憶があります。
 この道は「中道(なかつみち)」というそうで、戸塚・日吉・渋谷を経て宇都宮へと向かい、頼朝の奥州征伐(藤原氏および義経)で通ったとされる道だそうです。
 義経が通ったならまだしも頼朝が通ったでは、いにしえのテレビドラマ「はぐれ雲」(主演:渡哲也)のラストに出てきた「○月○日明治天皇 品川宿通過」(これじゃ物語終わっちゃうし、古くてスミマセン。知ってる人います? ちなみに、石原プロの製作で、最終回には石原裕次郎が出ていたそうな)みたいなもので「あっ、そう」とロマンも感じないのは頼朝うんぬんというよりも、これは完全にわたしの趣味ですね……

 本日は見事な秋日和でした。

2008/10/07

ドライフラワーのように守られた──極楽寺、長谷

2008.10.3
【神奈川県】

 極楽寺

 教科書で「鎌倉は三方を山に囲まれ、一方は海に面した天然の要害の地」と習いましたが、ここ極楽寺はその山の外側に位置します。
 なぜそんな場所(以前は地獄谷と呼ばれていたそうです)にと思いますが、鎌倉幕府2代目執権北条義時の三男坊ゆえか、政治への関心を失った重時は仏門に入り、この寺院の整備に力を注いだそうです。
 最盛期には七堂伽藍(しちどうがらん:寺の主要な七つの建物の意味ですが、宗派、時代によってその形式は異なります)が整えられ、49もの子院が並ぶ大寺院だったそうです。
 ここは、奈良西大寺から来た僧侶の忍性(にんしょう)によって、真言律宗最初の寺として開かれたそうです。
 真言律宗とは、真言密教(弘法大師空海の教えで、即身成仏と鎮護国家をめざすもので、高野山、京都・東寺が中心)と律宗(鑑真の教えで、戒律(かいりつ:自分を律する内面的な道徳規範)を学ぶもので、当初は奈良・東大寺、現在は唐招提寺が中心)の双方から教義を取り入れたものだそうです。
 結局何が言いたいかと言うと、奈良・平安時代のしがらみ等から立地的にも隔絶された鎌倉の地だからこそ、新しい教義の確立〜布教を思いっきり出来たのではないか? と感じられたということです。

 時代的な背景からの命名と思われますが、このころの宗教界の新しい動きを「鎌倉仏教:平安時代末期から鎌倉時代にかけて発生した仏教変革の動き」というのだそうです。
 浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)、時宗(一遍)、法華宗(日蓮宗、日蓮)をそう呼ぶようで、それまでの平安仏教を貴族仏教とすると、鎌倉仏教は武士や一般庶民に向けて広められたものを言うのだそうです。
 この変革を「国家からの自立」「個人の救済」というような、個人尊重の原点とする向きもあるそうで、それが戦国時代の門徒衆などの一揆につながる庶民意志の確立を育てていった、とも言えそうです。
 ──京都での視点というものは、官からのもの(上から目線)になりがちでしたが、離れてみると庶民の希求というものも視野に入るので、往事が多面的に理解できるような気がしてきます。

 一方の真言律宗の扱いですが、新(鎌倉)・旧(平安)仏教のはざまで議論が続いているそうです。戒律(権力構造での序列)という考え方を取り入れている点が争点のようです(序列にはインド的な印象を受けますよね)。
 詳しい話しは避けますが、極楽寺の立地はそんな教義の立場もあって、鎌倉市(現在)ではあっても市中からは山を隔てた場所にあることがふさわしい「極楽」(理想の地)だったのかも知れません。

 このお寺は「境内撮影禁止」とアピールしているので、門外からのぞくような絵だけです。
 この並木は桜と思われるので、季節には門外からでもキレイな写真が撮れるのではないでしょうか?

 極楽寺の駅名からテレビドラマ「俺たちの朝」を想起される方はいらっしゃいますか?
 1976年秋から1年間放映された極楽寺を舞台にした青春ドラマで、勝野洋、小倉一郎、長谷直美等が出演していました。
 番組は見てなかったのですが、高校時代(と思う)に鎌倉周辺をテーマにグループで自由研究をする、というような課外授業があり(自分は何をやったか覚えていません……)、当時存在も知らなかった極楽寺という場所へ行くグループがいて「チューちゃんのいるとこよ!」に、「はぁ〜?」としか言えず、何か時代に乗り遅れてるような寂しさを感じたことが思い出されます(だって、長谷直美好きじゃないもん! くらい言ってたかも知れません……)。
 いま考えてみれば、舞台設定としては実にいい場所と思われます。


 極楽寺切り通し


 前述のような「天然の要害」であっても幕府を開くとなれば、人の往来や物資の流通には街道が必要ですから、「鎌倉七口」と言われる、名越、朝比奈、巨福呂坂(こぶくろざか)、仮粧坂(けわいざか)、亀ケ谷、大仏、極楽寺に、坂や切り通しが作られています。
 そのひとつがここ極楽寺切り通しになります。車も通る道路ではありますがそれほどの交通量もなく、わずかな時間であれば切り通しの空気と静寂を感じることができます。
 右写真は、切り通しの途中にある脇道です。この上にも家があるんでしょうね。

 この切り通しの道は京都に続いています。「とはずがたり」という、都人の後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)という方が、出家の後に書いたとされる紀行文に登場するそうです。
 ここから眺めた鎌倉市中の光景はいくらにぎやかであったとしても、京への思いを募らせたのではないでしょうか。
 人の足で移動した当時の距離感と、野蛮とされた東国への旅路は、修行そのもののようにも思われます。

 これから鎌倉の案内が始まるところではあるのですが、幕府滅亡に関する話しから始まってしまいます。
 ここは足利尊氏(室町幕府初代将軍)ら反乱軍の決起により鎌倉幕府打倒のため、1333年の新田義貞の鎌倉攻めの時に有名になったそうです。
 ここの守りは堅く攻め込めないので、稲村ヶ崎の崖の下を海から攻め込んだという逸話につながります(近ごろ稲村ヶ崎では崖の崩落が激しいようで、展望台が2カ所閉鎖されていました)。
 この戦のせいで、極楽寺の伽藍は焼け落ちてしまったそうです。

 極楽寺駅から切り通しに入る辺りに「極楽亭」なる喫茶店の看板がありました。
 どんな極楽が待っているのか不明ですが、名前だけでも引かれてしまうお店ですね(入れませんでしたが)。


 御霊神社(ごりょうじんじゃ)

 切り通しを下った近くの斜面に面して御霊神社があります。
 御霊神社の名を持つ神社は各地にあるようで、京都の上御霊神社に立ち寄ったことがあります。
 江ノ電は、極楽寺駅とこの神社の前までトンネルを通ってきます。
 鳥居のすぐ前を線路が通っていてその先はすぐ階段になっているので、新聞配達のお兄さんはバイクを降りて線路下に敷かれた石の上歩いて、古新聞交換のトイレットペーパーを配っています。

 ここは、鎌倉権五郎神社(かまくらごんごろうじんじゃ)として親しまれているそうで、右下の写真はこの神社を案内する道しるべです。
 最近、こんな指で道を案内する絵を見なくなりましたねぇ。
 ──わたしは、寺山修二の映画『田園に死す』を想起したのですが、知らないだろうなぁ……

 この鎌倉権五郎(景正)と言う人が、後三年の役(ごさんねんのえき:平安時代後期の東北地方の戦い)で名を挙げて、この周辺に武士団の鎌倉党を作り上げたとのことです(経緯については省略してますので調べてください)が、この人は平氏であったとされているようです。
 ──ここでおさらいの時間です。源氏、平氏の違いとは、ともに皇族が臣下に下る際に賜る姓の一つで、源氏は、皇族がその身分を離れたときに受けるとのこと。一方平氏は、天皇の孫以降の代に受けたとのことなので、源氏の方が格が上なのだそうです(そんなことどうでもいいんですけどね)。

 そんな平氏の鎌倉(田舎)武士たちを、都を追放された源氏の統領である頼朝が束ねて決起したということは、いにしえの日本にとっては一大クーデターだったわけです。
 ようやく、その輪郭がおぼろげながらイメージ出来るようになってきました。
 歴史って勉強しないとホント、分からないものですねぇ〜 ってのが、実感です。


 長谷寺


 創建は鎌倉幕府のはるか以前の奈良時代(736年)とされているそうです。
 観音様が有名で長谷観音の方が通じるかも知れません。
 その観音様ですが、以前訪れた奈良の長谷寺の観音様を作るとき、同じ楠の大木から2体の観音様を作り1体を本尊にし、もう1体を海に流したものが三浦半島に流れ着いて、この寺のご本尊となったとのことです。
 そんな話しの真偽はともかくとしても東国の蛮人たちは、当時の文化の中心である奈良・京都のおこぼれ(模倣)でもいいから、とにかく心のより所を作りたかったと思えてなりません。
 昔は、信仰心を文化度のバロメーターにするようなところがあったので、とにもかくにも「野蛮人」のレッテルを払しょくせねばとの気持ちが強かったようにも思えます。
 でもそんな努力が実り、現在も引き継がれる信仰を根付かせたことが認められて、室町幕府や家康などから援助を受けていたそうですから、東国の文化として評価されたのだと思われます。
 立地がいいですから(それは創建のビジョンの良さでもあります)見晴台からの景色も見事で、往事は鎌倉の市中をくまなく見渡せる場所だったと思われます。
 弁天窟という洞窟の中に、小さな弁天様が並べられている部屋がありました。
 ストロボは使わん、と意地で撮りましたがこんな程度でしょうね……


 鎌倉大仏


 お待たせしました、鎌倉のシンボルです。とてもいい天気でした。

 大仏はもともと、奈良の大仏を見た頼朝の発案から(彼の死後に)実現されたそうなのですが、現在の所在である高徳院の起こりについては不明なのだそうです。
 まあこれも、文化の真似事から始まったわけで「存続は力なり(?)」と根付きましたが、当初は奈良同様の大仏殿があったものの津波で流されてそれっきりの雨ざらし、となってしまったそうです。
 鎌倉の人たちにとっては「そのままでいい存在」であった、というところが現在の鎌倉を形作ってきたとも言えるような気がします。
 鎌倉時代以降は世間から見放されていて、かつては威光を放った寺院なども朽ちるままに放置され、地元の人々に親しまれる寺院等だけがドライフラワーのように守られてきた、というようにも思われます。
 おそらく、息を吹き返したのは江戸に都が移って以降なのではないでしょうか。
 そんな視点でもう一度鎌倉を回ってみると、これまでと違った姿が見えてくるような気がしてきて、楽しみになってきました。

 長谷方面は人が多いのであまり立ち寄らないのですが、遠目からも外装が変わった印象を受けた鎌倉文学館を間近で見られず(展示替えとのこと)悔しいので、また来てみたいと思っています。

2008/10/06

江ノ電でGO!──いざ? 鎌倉

2008.10.2
【神奈川県】

 江ノ電


 久しぶりの晴天なので、これまた久しぶりに横浜などでは見られない「開けた海」と対面したい気分もあり、ルートを変更してこれも久しぶりの江ノ電経由で鎌倉へ向かいました。
 海沿いの国道134号は平日でも渋滞していることに驚きながらも、やはり開けた場所は気持ちのいいモノです。

 江ノ電(江ノ島電鉄)とは、藤沢から鎌倉までの全長10kmを34分で結ぶ単線の電車で、市電のように道路を自動車と並んで走ったり、家並みの軒先をかすめ玄関先が線路にもかかわらず踏切がなかったり、七里ヶ浜の海が車窓全面から眺められたりと、海辺の町中をのんびりと走る沿線住民と密着している路線です。
 などなど、陽気のいい日には遠回りでも誘われてしまう電車です。
 近ごろでは新型車両が続々と導入されていて、いろいろな形式や広告の装飾がされた車両が走っています。
 でも、新しい車両は行き先表示等が電光掲示なので、上写真のようなプレートをぶら下げた電車に出会うことが少なくなりました(これはラッキーでした)。
 右写真は腰越(こしごえ)駅で、近くには源義経が兄頼朝に鎌倉入りを止められ滞在していた満福寺があり、許しを請う「腰越状」と言われる手紙を書いたとされています。
 現在の腰越と言えば、目の前の漁港で捕ったくせにちょっと高めかと思いますが、新鮮なシラスと脂がのったアジがおいしゅうございます。むかしはシラスを300円程度で「一度にこんなに食えないよ!」というくらいビニールに入れて、港で売っていたんですけどね……


 台風が弱まった低気圧の影響で、高い波が来てるかと思いきやベタなぎでサーファーも少ないのですが、低い波でもキレイに立って乗るのには感心してしまいます。
 こんなところにも、日本人の器用さが現れているのかとも思わされたのですが、これは違います?


 しっかし、電車を撮るって難しいですねぇ。
 止まっててくれませんし、それを逃すと次の電車を待たねばならないわけですから、時間と根気が必要です。
 止まったとしても駅に停止した瞬間だけで、次の瞬間にはダイヤ通りの運行が使命の乗務員は動作がキビキビしてますから、すぐに動き回ってしまいます。
 ローカル線なので、運転手も半分駅員のような役割をするため、駅に着いた時の方が忙しそうです。
 上写真も、構図を変える間もありませんもの。対応策として、カメラの連写という機能を初めて使いました。
 機能の問題なのか、使い方が分かってないのか、まともに写っていたのは最初の一枚だけでした(意味無いジャン!)。
 練習しますと言うか使う機会がないので、そんな機能いりません(フィルムカメラ時代はお金が掛かるので使えませんでしたし)。
 ──CMなどでは連写の音が格好良く思えるのですが、自分でやっているとその音が恥ずかしくなってきます。「傑作を撮っています!」と宣言しているようで……

 人気のある江ノ電なので写真を撮りに来るやからが多いのでしょう、運転手さんなどはカメラを意識するとなるべく撮られないようなフェイントをする人が多いことを知りました。
 「一緒にしないで欲しいんですけど」と勝手に思っていたのですが、なるほど、鉄道写真マニアの方々のご苦労が少し理解できたような気がしました。
 ──鉄道は嫌いではありません……

2008/10/02

見上げてごらん──生田緑地

2008.9.25
【神奈川県】

 日本民家園


 生田(いくた)緑地は、小田急線向ヶ丘遊園駅(遊園地は2002年閉園)から徒歩15分程度の場所にある丘陵地帯を整備した市民公園です。
 起伏があるので広さは感じられませんが、日本民家園、青少年科学館(プラネタリウム)、岡本太郎美術館という趣の異なった施設があるので、全部見て回ると1日遊べる公園施設です(現在「藤子・F・不二雄ミュージアム」が準備中だそうです)。

 日本民家園は、主に東日本で使われていた古民家を移設・復元して展示する民家の博物館になります。
 茅葺きや板葺きの家が点在しているのですが、どれも手近にある材料から作られているため労力は掛かったと思われますが、とても太い木を梁や柱に使用した上、丁寧な作りなのでどの家も丈夫そうに見えます。
 一軒家に暮らしたことはないので意見する資格はないのですが、近ごろの建売り住宅やマンションに対して不安を感じるというのは、見えない部分(壁等に隠された裏側)が多すぎるからかも知れません。
 ここにある古民家は、柱の状態や屋根の様子まで室内から確認することができ、必要に応じて修繕できるということが、そこに暮らす人の安心感につながるのではないかと思えました。
 移築された民家は適宜手入れされていて、屋根の葺き替え作業中で見学できない家屋の縁側で、作業の方が昼寝している姿が目に入りました。
 古民家の縁側で昼寝ってのは、気持ちいいんだろうなぁ、などと思ったのですが「都会人は維持する苦労も知らないくせに勝手なことばかり言う」と怒られるかも知れません。
 近ごろの「田舎には心優しい人たちが暮らしている」と勝手な解釈をして「甘えさせてください」と、ちん入するテレビ番組と変わらんじゃないかと。
 「気持ちよくなるためにあなたは何をしてきたの?」と問われているような気がしてきました。

 家屋の中も使えるようになっていて、右写真のように囲炉裏で火を焚きながら解説をしてくれるボランティアの方がいらっしゃいます。
 この場でまね事などはできないので、ちゃんと薪を燃やしていてますから当たり前のように屋内には煙が充満しています。
 確かに煙たいのですが、これが「人の気配」というものであり、ぬくもりなのだと思われます。
 昔の旅人などが人家の明かりを目にした安堵感は、囲炉裏の火を想起したからではないか、と思ったりします。
 そんな雰囲気をこの地で体感できるとは驚きなのですが、ここでは「どうぞ、どうぞ」と誘われて上がっても、お茶も出てきませんけどね……

 小ぎれいな賃貸の部屋に越してきて、なるべくキレイに使おうとあれこれ遠慮しながら暮らすよりも、どれだけノビノビできるだろうか、とも思いますが、生涯かなわないことでしょう。


 岡本太郎美術館

 岡本太郎という人の言動についてはあまり好意を持てないのですが、作品はとても分かりやすいと感じています。
 「爆発だぁー!」のパフォーマンスは、いまどきはとても受けるかも知れません。
 ここは2度目かと思われますが前回、のぞき穴から作品を見るような展示があって、それをのぞいていた子どもが突然、恐怖におののいた表情をして泣き叫びだした状況がとても印象に残っていて再見したかったのですが、展示が変わってしまったようです。
 刺激が強すぎる、などのクレームがあったのかも知れません。
 この日も小学生たちが団体で社会見学等に訪れていました。
 彼らも、わたしが小学生のころに見た大阪万博の太陽の塔に感じた「変な顔〜!」というような印象を持つかも知れません。
 でも、それを忘れずに自分の意志で再見して新たな認識が持てたならば、この日の社会見学がとても大切な経験になるのだと思われます。
 それをいまの彼らに説得しても理解してもらえないこと、自分の経験から理解できます。
 教育って難しいですねぇ。

 今回の訪問では、この作家は手を動かしてモノを創るだけで、コミュニケーション能力は「丸出だめ夫」(昔の漫画タイトル)ではないか、なんてことを感じました。ファンの方には怒られそうですね。
 わたしは何事も「シンプル・イズ・ベスト」と思うところがあるのですが、太郎さんの作品からもそんな精神が感じられます。
 彼は複雑な表現は得意としていない方のようで(それが成功しているとは思えないのですが、渋谷に展示される「明日の神話」は見ててみたいと思います。でもあれはコラージュと思っています)、きっと分析していけばいくつかのパターンに集約されるであろう「曲線」の組み合わせによって、さまざまな表現をしてきたのではないか? と思えます。
 そんな曲線たちには、それぞれに込められた「パッション(意志や祈り)」による意味づけがされているゆえ、多様性の表現が可能なのではないだろうか。
 公的に使用されていてもわたしには理解不能な「速記文字」ですが、作品がそれに似た暗号のように見えたとしても、作者の思いが伝わるような「曲線」に仕立てることが芸術家の使命なのかも知れませんし、それはしっかりと伝わってきていると思います。


 青少年科学館(プラネタリウム)

 この川崎市営のプラネタリウムが開館したのは1971年で、小学生のころ月替わりの演題を毎月見に来た思い出があります(映画好きの映画館通いと同じかも知れません)。
 当時は入館料が小学生10円(だったと思う)なので、電車賃の方が高かったのではあるまいか。
 ──これを自慢として書こうと思ったら、現在は中学生以下「無料」なんだそうです。素晴らしい! 川崎市もやるもんじゃのう〜。

 当時プラネタリウムと言えば渋谷の五島プラネタリウムしかなく、小学生では入れないほど入館料が高かった印象があるので、天文好きの少年にはパラダイスのように思えたものでした。
 「クラスのみんなに宣伝したい」との申し出に、快くパンフレットを何十枚もくれた職員の方がいらしたこと思い出されます(教室でプレゼンした覚えがあります)。
 当然のように、スペースシャトルの宇宙飛行士にはなれませんでしたし(アポロ11号のころですからそれこそ、ウルトラマンになりたい! と同じくらいの夢物語でした)、宇宙や天文の仕事にも就けませんでしたが、この場を利用してささいな宣伝しかできませんが、恩返し出来ればと思います。

 上写真右側が一般的なプラネタリウム投影機で目にされたことがあるかと思われますが、左側の箱に入った球形のものが少し前に話題となった「メガスターII」と言う410万個の星を投影できる機械で、ギネスブックに「世界一のプラネタリウム」として認定されたそうです。
 その星の数で何を表現するかと言えば天の川です。説明員の方も、それを見てもらおうと盛んにアピールしてくれます。入場時に結構性能のいい双眼鏡を貸してくれるのですが、それで星空をのぞいて見ろというわけです。
 あれまあ、鳥肌が立つくらい天の川の星がひとつひとつ区別できちゃいます。これは投影機の性能以外あり得ません。また、肉眼ではボヤッとしている星の群れを双眼鏡でのぞくと、アンドロメダ星雲の姿が見えるではありませんか!
 これぞ、ガキのころに倍率の低い天体望遠鏡で夜空を見つめたときに出会って感動した光景そのものです。土星の輪や、木星の大赤斑(だいせきはん)、M78星雲付近の馬頭星雲等に「写真と同じだ!」などと感動したものでした……
 メガスターを開発した方も、ここのプラネタリウムで星の世界と出会ったと聞きます。
 そんな夢を持ってくれる子どもたちがひとりでも増えてくれることを願いつつ、毛利さんたちの足元にも及びませんが協力できればと思い……
 東京では星も数えるくらいしか見えないけれど、まずはプラネタリウムで夜空を見上げてごらんよ!
 ──こんなblog子どもは見ないか……

 しかし「何て素晴らしいロマンを持っていたのだろうか」と、自分の少年時代の感性を誇りに感じています。
 って、それだけじゃ何の意味もないのだよ。
 そのこともちゃんと理解しておりますので、その晩は落ち込みました……


 日航機御巣鷹山墜落事故で亡くなられた坂本九ちゃん(呼びやすいので愛称で失礼)は、川崎出身だそうなのでヒット曲「見上げてごらん夜の星を」からタイトルをお借りしました。