2008/11/25

空襲を免れた町──和田塚、由比ヶ浜、長谷

2008.11.19
【神奈川県】

 古都を歩くとなると仕方ない面があるとはいえ、どうしてもお寺や神社巡りが中心となってしまいます。
 とても勉強になったのですが、少々食傷気味です。鎌倉には庭園のあるお寺が少ないことも理由のひとつと思われます。
 今回はのんびりと江ノ電沿線に沿って、路地をブラブラ歩きました。


 和田塚駅 周辺(Map)

 右の建物には「THE BANK」の看板があるので、以前は銀行の建物だったようですが、現在はその名前のBarとの情報を目にしました。
 ここは六地蔵交差点で、左の通りは鎌倉のメインストリートである若宮大路とほぼ並行の、南西方向(この方角には何か意味があるのだろうか?)に由比ヶ浜へ伸びていきます。
 海に向かう道というのはどこでも、そこに広がるであろう開放的な景色への期待感から、誘惑的な光景に見えてきます。

 江ノ電鎌倉駅の隣となる和田塚駅の由来は、前回「名越切通し」でもふれた、源氏三代将軍の後に実権を握った北条氏と、ライバル関係にあった三浦一族である和田氏が戦い滅んだ場として、墓碑が設けられたことによります(付近からおびただしい数の人骨が見つかったそうです)。

 今回の移動体撮影は条件が良かったので(晴天で光の当たる場所)、シャッタースピードをできるだけ速くして撮ってみました。
 江ノ電ですから速度は遅いですが、目の前を通過する車窓に見える乗客の表情までとらえることが出来ました。
 てことは、普段利用している電車でも、ある瞬間を撮られてしまう恐れがあるということですから、ポケーッと景色を眺めていられなくなってしまいます。
 電車に乗ってるところを、車外から撮られて文句が言えるのか?
 利用目的にもよると思いますが「たまたま写っていた」との弁明が、一般通念と言われても仕方ない気がします。
 しかし今回も、思ってもいない絵が撮れたわけですから、そんなやからがいないとは言い切れませんよね。


 鎌倉文学館(Map)

 ここ文学館の紹介文に「空襲を免れた町」とありました。
 京都と同様に、そのことが現代の町の有り様を左右したことは間違いありません。
 ということは、関東大震災(大正12年)の被害から立ち直った当時の町の姿を呈している、数少ない地域になります。
 鶴岡八幡宮の裏山開発の是非を巡って生まれたという「古都保存法」(1966年)等による規制に守られたこともあり、区画整理等をされないまま現代に至ったようです。
 そこに暮らす住民たちは、ひょっとすると逆の意見なのかも知れません。
 しかし「鎌倉は不便な場所」であることを受け入れているからこそ、穏やかに暮らすことのできる場所であり続けたのではなか、と思うのですが。

 そんな落ち着きを保った鎌倉には、明治以降から文学者たちが立ち寄り(夏目漱石等)、活動の拠点とした地(川端康成、大佛次郎:おさらぎ じろう 等)が多々あります。
 そんな人たちは「鎌倉文士」と呼ばれ、東京の別荘地的な知名度UPに貢献したようです。
 確かに作品はこの地で書かれたとしても、元からの地場の伝統とされるものは、あまり見あたらない気がします(鎌倉彫、鎌倉焼)。
 鎌倉市は「武士の都」と宣伝してますが、昔の武士たちは権力を手に入れても、私腹を肥やす程度が関の山で、京都の皇族や公家などのように、後の文化となるような「道楽」に使えるようなお金もなければ、意欲も無かったのではないか、と思ってしまいます。
 江戸時代の東京には、文化と言えるモノがあったと思われますが、さて、現代の東京はいかがなものか?
 私腹を肥やす人の数が増えたのは、ある面「豊か」と言えるかも知れませんが、では「東京の文化とは?」の問いに対する答えに、何が思い浮かぶでしょうか?

 でも、現代の鎌倉には「鳩サブレー」等、全国区といえる名物を生み出す活力がありますから、これから新しい鎌倉文化の歴史が作られていくのもと思われます。


 長谷駅 周辺(Map)

 やはり多くの人が集まるのは、大仏様のご利益でしょう。大人は別としても、社会見学等で訪れる子どもたちは大仏を外せませんよね。
 今回は裏道散策で結構のんびりと歩けるのですが、道は細く行き止まりばかりで迷路のようです(嫌いじゃありませんが)。
 なかなか駅にたどり着けないおじいさんに道を尋ねられ、踏切で「駅はあそこだから、電車が行った後に線路脇を歩いて行くのが近い」と教えちゃいましたが、地元の人たちは電車を避けて歩いてますからね。
 結局おじいさんも、線路脇を地元の人の後について歩いていきました。
 江ノ電沿線には「玄関を出ると線路」という家が数多くあります。
 この地で育った人や、長く暮らしている方が多いのでしょう、当たり前の行動なのですが、脇から線路に出るときには必ず左右を確認してから、線路を渡ったり、脇の道に出てきます。
 その姿がとてもこの地らしい風情に思われ、江ノ電の走る速度と同じくらい生活のリズムにゆとりがあり、瀬戸内海の町のような落ち着きを感じさせてくれます。


 わたしを含め、何が好きでこんなに大勢の方がこの町を訪れるのでしょう?
 東京圏から「日帰りで遊びに行ける古都だから」という回答が多いように思われます。
 東国に暮らすわれわれにとって身近な鎌倉は、何度か行けば分かったつもりになれる場所であり、よく分からなくても好感の持てる場所であるような気がします。
 京都・奈良には、なかなか行けないという理由をつけて、鎌倉で「古都疑似体験」をしているのかも知れません。
 修学旅行で「見たことある!」の京都・奈良でも、それは「一度くらいは見ておくべき」という入門編でしかないわけですから、大人になってから自分の意志で是非とも歩いてみてもらいたいと思う気持ちが強くなりました。
 もう趣旨は伝わっていると思いますが、鎌倉の機嫌を損ねずに京都・奈良をどう薦めたらいいのか、鎌倉も好きなのでちょっと困りました。

 海に面した古都はここだけ、ということもひとつの魅力かと思われるのですが、海まで歩いてくる人はそれほどいません。
 江ノ電の車窓から眺められれば、それで満足なのでしょうか。
 いい雰囲気ですからねぇ(寒くないし)。


 由比ヶ浜(Map)


 この日は海からの風がもの凄く強い日で、波しぶきや、砂が舞い飛んでいました。
 平日ということもあり人影は少ないのですが、果敢なウインドサーファーたちは気持ちいいのか(キツイと思うのですが)、海の上を滑って転んでいます。
 でも、風をつかんだセールはすごいスピードでカッ飛んでいきます。
 海の上も大変でしょうが、ボードやセールを持って海岸沿いの国道を渡る人が、風にあおられる危なっかしさの方が見ていられない状況でした。


 ガキのころ、祖母や親せきと何度も海水浴に来たことがあり、そんな情景を思い出そうとしましたが、そこに面影を見いだせるほどの記憶は残っていませんでした。

 これで、鎌倉は終了になります。
 この項を書くために調べたことがとても勉強になり、鎌倉に対する認識もだいぶ変わった気がしています。
 でも、鎌倉を歩きたいと思ったとき、人の多いお寺や神社などには寄らず、比較的静かな亀ヶ谷、釈迦堂、朝比奈の切通しなどを選択する意識は変わらないだろう、と思っています。

2008/11/18

武力は権力を守るために──名越切通し、材木座

2008.11.14
【神奈川県】

 法性寺、大切岸(Map)

 ここは、鎌倉を三方から守る尾根の南東側を越えた山の裏側に位置し、現在の区分では逗子市になります。
 前回ふれた「松葉ヶ谷の草庵の夜襲」の際、日蓮が山王権現(滋賀県坂本にある日吉大社の別名で、全国の日吉・日枝・山王神社の総本宮。日蓮が修行した延暦寺の守護神)の化身である白猿に導かれ、たどり着いたとの伝説が残るお寺です。

 この日は逗子駅からの行程で、市街から横須賀線の鎌倉へ抜けるトンネル方面の尾根付近を見ると、帯状に岩肌が露出している屏風岩のような光景が目に入ります。
 「大切岸」(おおきりぎし)という、山肌を削って作られた砦のような防衛施設だそうです(写真は境内にあるお墓の脇)。
 これは、源氏将軍三代の後に実権を握った北条氏と、三浦半島の衣笠城を拠点としていた三浦氏が敵対関係となったため、防御施設として築かれたそうです(要するに権力抗争です)。


 名越(なごえ)切通し(Map)


 鎌倉七口のひとつに数えられ、当時は戸塚から浦賀へ続く浦賀道だったそうです。
 ここは前述の大切岸の近くにあり、同様に防衛施設の様相を呈しています。
 写真のように、あまり広くない通路部分の両脇の高台には「平場」と言われる平坦な場所が作られていて、そこから進入してきた敵をねらい打ちするという設計だったようです。
 また、右写真のように通路の真ん中に「置石」という障害物を設置して、馬の進入を妨害したそうです。
 よくもまあ知恵が働くものだと感心してしまうのですが、都の防衛に必死だった姿勢がうかがえます。
 武家の政権ならば当たり前かも知れませんが、力で天下を取った者は、力でしかそれを守れない、と白状しているようなもので、そんなTopが行った政治状況では、庶民の暮らしが豊かだったとは思えません。
 生活に窮した庶民の思いを代弁してくれたのが日蓮だとすれば、人々が日蓮宗にすがらざるをえない不遇な時代に生きた痕跡を、うかがい知れる地域であるように思えてきます。


 材木座周辺(Map)


 住宅街の玄関先の路地(通りから奥まった家まで細長い路地が伸びています)に咲く小さな花ですが、近寄ってみるとミツバチが群れていて、ブンブンと盛んに羽音が聞こえてきます。
 晩秋にミツを集めるには花も少ないので大変だろうし、冬はどうしているのでしょう?
 成虫は10度以下では生存できないので死に絶えてしまい、卵やさなぎだけが越冬できるのだそうです。
 だとすれば、彼ら自身、個体としての最後の活動が近いということになります。
 そんなミツバチの姿から、TVドラマ「風のガーデン」の養蜂家(ガッツ石松一家)を想起しておりました。
 ついでに脱線しますが、先週(11月13日放映)の、身勝手な父と純粋な息子が再会するシーンの「天と地ほどもある意識の次元の違い」を表現する倉本聰さんの脚本は見事だなぁと、感心しました。
 ──緒方拳さんの姿を見ておきたいのと、「テレビは最後だ」と言う倉本さんにケチつけようと思っていたのですが……

 右上写真は来迎寺(らいこうじ:真言宗→時宗)門前にあるミモザの木です。
 花の季節は早春だそうですから少し準備が早いかと思われますが、紅葉が始まるころの若草色が目にとまりました。
 頼朝の挙兵に加わり奮戦した三浦義明を弔うため、頼朝が建てたお寺だそうで、その時節の鎌倉方と三浦氏は仲良かったようです。

 右写真手前は枳殻(からたち)、もしくは近しい種類の実と思われます。茎には見覚えのあるトゲがあります(奧はカキ)。
 近ごろあまり見かけないと思うのですが、この辺りではその黄色い実をよく見かけます。
 植えられた当時の家が残っているからなのか、日蓮宗寺院が多い土地柄の理由があるのか、現代人が利用しなくなってしまった活用法があるのか、なんて言ってると、みのさんたちがやって来そうです。
 ──種が多く、酸味・苦味が強いので食用とはされないものの、果実酒に使われたり、未成熟の実を乾燥させて生薬とするそうです。余談ですが、オレンジとカラタチの雑種に「オレタチ」があるそうです。

 ここ五所神社の主のようです。
 ちょっと前まで新聞配達のおっさんの、毎日のあいさつ(?)を受けてゴロゴロしていたくせに、いなくなった途端に境内の真ん中に座り、参道をにらみはじめました。
 神社の主というような意識ではなく、日なたに出たかっただけなんだろ? 
 五所神社は、明治時代に乱橋(みだればし)村と材木座村が合併した際、三島、八雲、諏訪、金比羅、視女八坂(みるめやつざか)の5つの神社の合祀(ごうし)からきた名称だそうで、6月には材木座の海で禊ぎを行なう例祭、別名「乱材祭」(みざいまつり:合併の村名に由来)で知られているそうです。
 祭りに繰り出すおみこしの収納庫の扉が開いています(手で触れる状態)。
 そうか、猫はそれを見張っているんだ!


 光明寺(Map)

 ここは、浄土宗の寺院です。
 この周辺は日蓮宗寺院ばかりで、日蓮の銅像や「南無妙法蓮華経」の石碑ばかり見ていた気がするので、少しホッとできた気がする、なんて言ったら怒られるでしょうか。

 何だか久しぶりに石庭を見た気がするのですが、作りは立派でも、どうも気合いが入っているようには思えません。
 中から全景を拝することできるのですが、掃き清めた白石の模様が猫かなにかに踏み荒らされたままになっていました。
 日なたの見学用の長いすでは、猫が無防備な姿で昼寝をしています。
 京都の石庭は、動物をシャットアウトしているのか、毎朝手入れをしているのか不明でもピシッとしていましたが、ここは明らかに放置されているように見えます。
 ここは禅宗ではないから、猫に「喝!」は入れられないのだろうか?


 和賀江島(Map)


 和賀江島とは、国内で初めて作られたと言われる人工港(桟橋)です。
 開府直後に作られてから、1800年くらいまで使用されていたようで、大陸からの船も立ち寄ったそうです(以前「使い物にならなかった」と書き、失礼しました)。
 材木座とは、この港から鶴岡八幡宮の改築などに使用される木材が運び込まれたことなどから、材木を扱う商工組合(座)があったことに由来するそうです。
 現在でも、干潮時には石積みの基礎部分を見ることができるのですが、あいにくこの時は潮が満ちていました(石碑も裏側からしか見られませんでした)。
 材木座海岸はウインドサーフィンが盛んで(一度やったことありますが、実に気持ちイイ)、夏の季節には光明寺あたりの町中でもビキニ姿の女性がビーチサンダルでかっ歩しており、驚いたことがあります。


 逗子マリーナ(Map)


 古都の景色から一転してリゾート的な景色になりますが、前述の和賀江島から徒歩5分程度で逗子マリーナにたどり着きます。
 和賀江島も当時としては相当な大事業だったと思われますが、ここは現代サイズの大規模な埋め立てによるものです。
 この埋め立てには、鎌倉霊園(朝比奈切通しの山の上)の造成による残土が使われたそうで、当時は一石二鳥だなんてはしゃいでいた様子が思い浮かびますが、バブル崩壊時にはオーナー捜しが大変だったようです。
 ここにあるのは、分譲マンションとマリーナ(港湾施設、結婚式場等)ですから、どうも利用する機会が見つけられずに、海を眺めていたりします(右下は江ノ島)。


2008.11.11 大琳派展──東京国立博物館【東京都 上野】

 所蔵しているお寺(京都・建仁寺)に行っても見ることが出来ない「風神雷神図(国宝)」を見ておこうと出かけました。
 1枚目の「槙檜図屏風」(俵屋宗達筆、石川県立美術館所蔵:金箔に墨で描かれ、汚れと思われるくすんだ色合いが印象的)を見た途端に「各地に散在している絵が一同に見られる美術展っていいなぁ」ですから、現代人的な横着さが目覚めてしまいました(人出もすごいのですが)。
 目的であった「風神雷神図」は、ピンと来なくてちょっとガッカリなのですが、俵屋宗達(たわらや そうたつ)の他の作品はインパクトのある絵ばかりで、このような企画展が数多く開かれる東京近郊に住んでる人は得だよなぁ、などと思ってしまいます。
 でも、国宝や重要文化財となれば保存や展示環境の問題もあるので、行っても見られないもの(風神雷神図はレプリカしか見られません)もあるわけで、確実に見ることが出来る美術展とは、実に経済的であります(それを文化的と言えるのかぁ!!)。

 時間があったので、同じ敷地内にある「法隆寺宝物館」をのぞいてみると、仏像やらお面やらがズラーっと並んでいます。
 これらは、明治時代に天皇に献上された納宝物だそうですが、時まさしく廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:仏教排斥運動)の最中で、文化財保護のためのやむを得ない措置であったと言われています。
 いい状態で保管しながら、ひとりでも多くの人に見てもらうため、地価の高い場所に立派な建物を作って展示する必要や価値も理解できるのですが、それもやっぱり東京じゃないといけないんでしょうか?
 「天皇のいる東京でこそ」という論理であるならば、国の形は維持できても、文化の継承〜発展を妨げやしないだろうか?
 これらの宝物群は法隆寺の地で見てこそ、と思うのですが……
 ──岡本太郎作「明日の神話」の公開が渋谷駅で始まりました。一日30万人が利用する公共の場においての公開ですから、その効果を否定できるものではありません。

 法隆寺宝物館の壁面には、ドイツ産の石灰岩が使われており、そこには化石が多く含まれているように見受けられました。
 詳しい方がいらしたらレクチャーを聞かせてもらえないでしょうか。
 受付のお姉さん全然関心がないみたいだったので……

2008/11/11

「正しい教え」とは?──幕府跡、日蓮宗寺院

2008.11.4
【神奈川県】

 若宮大路幕府跡(Map)

 鎌倉幕府の所在地は2度移転したそうです。
 源頼朝が建てた館は大蔵御所(Map)といって、鶴岡八幡宮東側にある現在の「頼朝の墓」近くにあったそうです。
 そこでは、源氏三代の政治(頼朝、頼家、実朝+頼朝の妻で尼将軍と言われる北条政子)が46年間で幕を閉じた後、宇都宮辻子(うつのみやつじこ)(Map)に移転し、12年後に写真の若宮大路に移り、滅亡時までこの場所で政務が行われていました。

 写真の石碑右側に「雪ノ下」の住所表示があります。前々から気になっていたので由来を調べてみました。
 昔は、鶴岡八幡宮裏山の北斜面あたりの地名で、雪が降ったらなかなか消えないような場所であったから、という説。
 頼朝が八幡宮の北側に、雪を保管する氷室を作らせたそうで、その下の地域にあたるので呼ばれるようになった、という説。
 鎌倉はユキノシタという花がたくさん自生していた、という説。
 などがあるようですが、いずれにしても鎌倉時代から「雪ノ下」の地名が存在していたことは確かなようです。
 いい響きですよね。


 本覚寺、妙本寺、常栄寺(ぼたもち寺)(Map)


 鎌倉の南東地域には、日蓮(日蓮宗:法華経を経典とする)ゆかりの寺院が数多く残されています。
 しかし当時日蓮は「災害や不幸の原因は、正法である法華経を立てない幕府にある」と、盾突いたわけですから、様々な災いが彼自身にもたらされることになります。
 松葉ヶ谷の草庵(後述)の夜襲、伊東(伊豆)へ流罪、安房国小松原(鴨川市)での襲撃、腰越龍ノ口刑場(藤沢市、龍口寺)での処刑中止〜佐渡へ流罪、赦免され再度幕府に法華経をさとすも認めらません。
 そんな苦境にもめげることなく、身延山久遠寺や池上本門寺などを建立しています。
 もの凄い執念といいますか、それだけの信念が貫かれていたからこそ、現代までも受け継がれているのだと思われます。

 右写真は常栄寺で、ぼたもち寺と呼ばれています。
 龍ノ口の刑場に連行される日蓮に、この地の尼が供養としてごまのぼた餅を捧げたことによるそうで、この後、刑場での奇跡のおかげで死罪を免れ、佐渡への流罪となります。
 宗教にまつわる話しには、にわかに信じがたい内容が含まれていたりしますが、これだけ幕府ににらまれた罪人でありながら、ゆかりのある寺院が鎌倉の地に残り続けていることは、奇跡と言えるのではないでしょうか。
 それこそ民衆の信仰心のたまもの、と思えてなりません(苦境を乗り越えることを自らに重ねていたのかも知れません)。

 最初の写真は本覚寺の門に下がるちょうちんで、えびす堂があった場所に日蓮宗の寺院を建立したことによるそうで、1月10日の本えびすには多くの人でにぎわうとのことです。


 八雲神社(Map)


 八幡太郎義家の弟で、奥州での後三年の役に苦戦する兄に加勢すべく駆けつけたことで知られる新羅(しんら)三郎義光が、鎌倉での疫病流行の対策として、厄除のために京都の祇園社(八坂神社)をこの地にまつったことが始まりとされています。

 社のすぐ脇に「祇園山ハイキングコース」の登山口があります。
 尾根道を通り、北条一族終焉の地である東勝寺跡や「北条高時腹切やぐら」に至る山道ですが、結構無理やり道を作ったような印象があります。
 鎌倉の山道には崖を登るような道が多くあるので、ご覚悟のほどを。


 長楽寺安養院(Map)


 この寺は北条政子が夫頼朝の菩提を弔うために建てたものが、火災や他の寺院との統合を経て鎌倉時代末期にこの地に移転したそうです。
 安養院とは政子の法名だそうで、その名が残されたことから、庶民に慕われた人物像がうかがえるのではないでしょうか
 ──どうも怖いおばさんというイメージが強いのですが……

 写真は、布団にくるまって寝込んでいる「身代わり地蔵」です。
 このお地蔵さんには「身代わりになってください」とお願いするよりも、いたわってあげたい気持ちにさせられてしまいます。
 そんな気持ちがわいてくることが大切なのかも知れません。


 妙法寺(Map)

 ここは松葉ヶ谷(まつばがやつ)にある日蓮宗のお寺で、日蓮が安房(千葉県鴨川市)から鎌倉にやって来て最初に住んだ場所といわれています。
 しかし、その場所として記録に残る「松葉ヶ谷の草庵」の場所については、見解が統一されていないようです。
 妙法寺のしおりには
 「鎌倉には最初の御小庵または御草庵と称する寺が二、三ありますが、明確な記録および歴史的根拠の点より見ても、妙法寺が御小庵の旧蹟であることは決定的であります。」
とあります。
 どうもこの文章からするとその見解の相違には、とても根深いものがあるような印象を受けます。

 寺院名の妙法(正しい教え、の意味)は、七字の題目といわれる「南無妙法蓮華経」(法華経の教えに帰依をする、という意味)に含まれています。
 京都五山送り火にも「妙・法」の文字があり、集落全体が日蓮宗に改宗した松ヶ崎地区(市街地北部)の方々が受け継いでいるそうです。
 送り火が終了後、山の麓にある涌泉寺(ゆうせんじ)の境内で「南無妙法蓮華経」に節をつけた「題目踊り」が行われるそうです。

 最初の写真は妙法寺の法華堂で、花だと思うのですが周囲を草に覆われていて、時代劇によく出てくる、追われている浪人等が身を隠すお堂のように見えました。
 だなんて、怒られるか?


 安国論寺(Map)


 ここも松葉ヶ谷にある日蓮宗のお寺です。何を言わんとするかご理解いただけますね。
 日蓮が書いた「立正安国論」は歴史の授業で耳にしたと思いますが、それは「松葉ヶ谷の草庵」にて書かれたものとされています。
 まあ、こちらは書名から名前をいただいたんだし、仲良くしてもいいのでは? と言いたいところですが、当事者はそうはいかないようです。

 日蓮という人の信念は相当なもので、この立正安国論では「法華経を正法(正しい教え)に立すれば(立正)、国家・国民は安泰となる(安国)」と主張し、幕府内や民衆に広まっていた浄土宗や禅宗などを邪法(邪悪な教え)と切り捨てています。
 それは当然政治批判と取られるので、伊豆への流罪になります。
 しかし、元寇(げんこう:蒙古襲来)や国内の政治内乱的な事件が起こり、日蓮はこれを予言したとしてその立正安国論を「予言書」として布教活動を進めるのですが、それでも幕府には受け入れられなかったそうです。
 その姿は、予言書を携えた受難者という構図にも見えてきます。
 鎌倉時代は、仏教の「末法(まっぽう)」(釈迦が亡くなってから1,500年後からの10,000年間は、仏の教えが時代を経て次第に通用しなくなる時代)ととらえられ、浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)と同様、日蓮宗も末法思想に立脚しているそうなのですが、同じ土俵の上で正面切って「法華経の題目を唱える以外に成仏はできない」と言い切っています。
 教義を認めてもらうためには、特にライバルがいる場合にはその相手を論破する必要が生じます。
 その時点で日蓮の判断としては、武器を持たない宗教戦争を仕掛けるしかない、ということだったのだろうか?
 布教を急ぐ理由があったのか、日蓮という人の性格なのか分かりませんが、少々強引に思える点も含めて、彼の行動には派手さがつきまとっているように思えます。
 確かに宗教家には、パフォーマーの素養が必要なことは理解できるところですが……

 しかし現在、日蓮系といわれる宗派および宗教団体(法華経を教義とする)などに属する信仰者は、(仲が悪そうなので一緒にすると怒られるかも知れませんが)霊友会、立正佼成会、創価学会等を含めると、神社神道系に次ぐ信者数になるそうです(浄土系をしのいでいる)。
 ──集計の信者数を全部足すと、日本の人口を超えてしまうので、おおまかな規模の比較しかできません。

 神道系は国策的な面があるので多いのは当然ですが、それに次ぐ支持を得ているのですから「すごい力」だと思われますが、おそらく日蓮という人はこれでも満足していないのではないでしょうか。


 末法思想という響きからは「終末論」を連想してしまいますが、末法という概念には世情不安や天変地異は含まれておらず、「世も末」「この世の終わり」とは違うようなので、予言が当たったとしてもそれは正法(正しい教え)によるものではないようです。
 それでも「末法」の響きが恐ろしいので、明るそうな記述を探してみると、「涅槃経」(ねはんきょう:釈迦の入滅を書き記し、その意義を説く経典類の総称)では「仏法の衰退時において再び仏法が世に出現する」と説いて、悲観的な見方を否定してくれているそうです。
 これで少しは安心と思ったのですが、逆にそれが新興宗教を生み出す土壌であるとしたら?
 またふりだしに戻って、乱れた仏法の世を導いてくれる釈迦の生まれ変わりが出現して……
 と考えると、眠れなくなっちゃいそうなので、このへんで。

 上の写真2枚は境内にまつられてある、大陸から運ばれたと思われる石仏です。
 右写真は境内の富士見台という見晴し(馬の背のような狭い崖の尾根)近くにある鐘楼です。
 鐘突棒の後ろに貼ってあるシールに「NAMシステム」と書いてあり、これは定時に自動で鐘を突いてくれるシステムです。
 大阪の高槻に住んでいたころ、近くのお寺から正午と午後6時に鐘の音が響いてきたのですが、そこも同様の自動鐘突きシステムを使っていました(近くで見ていると「ギィ、ギィ」と機械音がして風情がないのですが)。
 休みの日など、正午の鐘の音で目を覚ましたこともあったりしました。
 あまり大きすぎると困りますが、一般的なスピーカーから流れる5時のメロディよりは、時の鐘の方が好きだなぁ。

2008/11/04

鎌倉は源氏一門の聖地──報国寺、朝比奈切通し

2008.10.28
【神奈川県】

 鶴岡八幡宮の正面を右に折れ、鎌倉で唯一川らしい流れの滑川(なめりかわ)に沿って、横浜の金沢八景方面に向かう金沢街道が続いていきます。
 横浜横須賀道路等から鎌倉市街に向かう経路で、道幅が狭く折れ曲がっているため、いつでも混雑している印象があります。
 その細長い谷筋に、鎌倉・室町時代に活躍した一族の拠点があります。

 杉本寺


 ここは、734年に行基が創建した鎌倉最古の寺と言われています(長谷寺より2年古いが、その微妙な差が疑わしくも……)。
 行基は奈良時代の僧侶で、東大寺の大仏造営などの活動が認められ、日本で初めて大僧正(だいそうじょう:仏教界の頂点)となった方です。
 別に揚げ足を取るつもりはありませんが、調べてみるとどうも行基という人の行動範囲は近畿が中心で、関東には来てないようです。
 それだけの高僧ですから、あやかりたいと考える人は結構いたようで、「行基による創建」とうたう寺院は各地に多いそうです(許可だけ与えたりしたのだろうか)。
 ですが、鎌倉幕府が開かれるころの火災で焼失したものを源頼朝が再建して以来、8月10日の4万6千日参り(この日に参拝すると4万6千日分詣でたのと同じご利益があるとされる)には、朝から多くの参拝者が訪れるほど信仰を集めているそうですから、行基さんも許してくれることでしょう。


 報国寺


 「竹の寺」として有名です(京都の地蔵院も静かな竹の寺でした)。
 ここはもと塔頭(たっちゅう)寺院の跡地に孟宗竹が群生したことが始まりのようで、狭い敷地なのに「あるままの竹林にしよう」と考えたのだとしたら、その方には先見性があったことになります。竹のおかげで人気高いです。
 嵐山洛西のような圧倒される竹林も素晴らしいのですが、ここのような箱庭的竹林でも、手や意識が届く範囲を包み込んでくれますから広さ的には十分なわけで、ちょうど落ち着ける広さなのだと思います。
 そんな箱庭からも自然の営みを感じ取り、味わい、思慮することができる感性を日本人は持っているのですから、民俗学的には理にかなっているとも言えるのではないでしょうか。
 ──以前の嵐山の項には「鎌倉は物足りない」と書いてありました。「郷に入れば郷 に従え」ということでしょうか。しかし、オレもいい加減だよなぁ……

 広さはどうであれ、人出が多いと落ち着けないのはどこでも一緒ですよね(この日は少なめでしたが)。

 この寺は、1334年に足利家時(鎌倉幕府の御家人で尊氏の祖父)による創建とする説と、上杉重兼(公家から武士になり後世の上杉謙信の祖先)によるとする説があります。
 足利家時を調べていると、祖先は鎌倉に最初にやって来た源氏である八幡太郎義家とありました。
 源氏と名乗るのですから姻戚関係にあることは想像できるのですが、源頼朝、足利尊氏、新田義貞は、八幡太郎義家の子孫にあたるのだそうです。
 彼らは河内源氏と言われ近畿出身ですから、東国に進出してから100年の間に勢力を拡大し、幕府を開くまでの力を蓄えたことになります。
 そんな状況を考えると京都で生まれ育った義経(牛若丸)は、都会育ちのボンボンで朝廷にチヤホヤされるのが疎ましく思われるのも、仕方ないことのようにも思われます。
 ──わたしも都落ちして日がたつので、東国人の見方になってきました。

 もうじき紅葉の季節がやってきますが、その前に鎌倉を歩き終えてしまいそうです……




 浄妙寺

 ここは前述の報国寺の近くにあり、1188年足利義兼(北条政子の妹と結婚)の創建によるそうで、尊氏の父・貞氏の墓があり、鎌倉五山第五位の臨済宗建長寺派の禅寺になります(創建当時は真言宗)。
 当時は、足利家の屋敷がこの地にあったそうで、この谷筋一帯は足利家の本拠だったようです(菩提寺とした瑞泉寺は尾根の反対側)。

 わたくしこれまで、鎌倉時代のこの地にゆかりがあるのは源頼朝の一族と、妻である北条政子の一族(伊豆の豪族で平氏の家系と言われるが定かではない。幕府と同時に滅亡)の認識しかありませんでした。
 その後に台頭する足利家については、新田義貞(群馬県太田市付近)のように鎌倉の外(栃木県に足利という町もありますし)に本拠があるものと、ぼんやりながらも認識しておりました。
 足利家は鎌倉幕府において、将軍家一門(血縁関係者で編成された家臣団)の一員だそうですから、将軍の片腕としてそばにいて当たり前だったと思われます。

 ここまできてようやく理解できてきた気がするのが、室町幕府がなぜ京都五山だけではなく鎌倉五山を制定したのかについての理由です。
 室町幕府第三代将軍足利義満(京都・鎌倉五山を固定させた)は、国を治めるためにまず京都の秩序を守らなければなりませんが、これまで武家政権を築き上げてきた鎌倉の地と、それを支えてきた足利家の祖先に敬意を払う必要から、京都と鎌倉を同等に扱おうとしたのではないでしょうか。
 それゆえ天皇家にゆかりのある南禅寺を別格扱いとした上で京都と鎌倉を並べ、鎌倉五山の順位を建長寺(国政の寺)、円覚寺(元寇の戦没者追悼)、寿福寺(頼朝もしくは源氏一族追悼)、浄智寺(北条一族追悼もしくは当時も隆盛だった)、浄妙寺(尊氏の父もしくは足利家祖先追悼)としたのではないだろうか。
 その順列には、武家政権を築いた源氏一門の鎌倉においての歴史が示されているように思えてきます。

 覚園寺(かくおんじ)の保護に何で尊氏が力を貸すのか不思議で、対立していた後醍醐天皇への対抗意識のように考えていました。
 おそらく彼は、源氏一門の聖地である鎌倉を他の権力(天皇や公家)から守りたい気持ちだったのでは、と思うようになりました。

 ホント、何にも分かっちゃいませんね。
 でも、これも間違いかも知れませんし、だから歩き回るわけですけどね……


 朝比奈切通し

 鎌倉の東端で、現在では横浜市との市境の峠になります。
 鎌倉七口のひとつで、旧鎌倉街道の下道(しもつみち:東京湾を渡り房総半島へ、もしくは東京方面へと続く)と言われていますから、重要な街道になります。
 以前、鎌倉に港はなかったと書きましたが、材木座海岸付近に和賀江島という人工島に港を作ったものの使い物にならなかったため、六浦港(現在の金沢八景付近)からの輸送路が必要となりこの道を開いたそうです。
 仮粧坂(けわいざか)ほど急坂ではありませんが、路面舗装や壁面保護もされぬまま手堀りの跡がそのままで残されており、当時の雰囲気を感じさせてくれる歴史街道といった趣で、オススメです。


 すぐ上を自動車道(現在の金沢街道)が通っているので時より音は聞こえますが、切り立った壁面上にうっそうと茂った木々に囲まれ、どこかの山の中にいるかのような気分に浸ることができます。
 この日は人出も少なくすれ違ったのは2組で、うち1組は女性がひとりで歩いてきたのですが、「こんにちは」のあいさつくらいしないと不安を感じるんじゃないか、というくらい物寂しい雰囲気ではあります。
 鎌倉という地であるにもかかわらず、そんな静かさに接することができる場所なので気に入っており、よく歩きに来てました。


 壁面の岩のあちこちから、しみ出してきた水の滴が落ちてきます。
 最初の写真の路面両脇に溝のようなものが見えますが、そんな湧き水を誘導するための側溝と思われます。
 そんな水滴はみるみるうちに小さな流れを作り、鎌倉側の入り口付近ではもうちゃんとした小川になっています(行程は逆なので、混乱したらゴメンナサイ)。
 ここは一発、水滴を撮ってやろうじゃないか、と腰を据えたのですが、これが難しい。10枚以上撮ってこんなもんでした。
 自然相手の写真を撮るには、相応の装備と忍耐力や根性が必要であること、再認識です。
 でも、またチャレンジしてみます。


 峠付近の削られた壁面に、磨崖仏(まがいぶつ)が刻まれています。
 ここが峠ですから、工事でも最後になったと思われるので、おそらく工事の無事ではなく通行の安全を祈願したのだと思われます。
 見上げると両側から、10mは有にある壁面とその上に生い茂る木々が迫ってきます。
 崩れ落ちたと思われる岩も転がっているので、訪れる際にはご注意ください。
 注)ここを歩くには泥で汚れてもいいような運動靴が必要です。


●神代植物公園(東京都調布市)──10月31日(おまけ)


 天気予報にだまされてのこのこ出かけたものの、雲が全天を覆ったままだし、気温は上がらないし……

 ここは武蔵野の丘陵地帯で、以前は雑木林が広がっていたと思われます。園内にはそんな面影を伝えてくれる林が残されています。
 手入れをされた雑木林でも、竹林と違っていろいろな種類の木が混在しており、木それぞれの個性と言うか、好き勝手に伸びているので統制のとりようがありません。
 そんな「混沌」の中をさまようことは楽しいのですが、世間がそうなってしまうと楽しむどころか不安になってしまいます。

 空腹感はなかったのですが「新そば 始めました」の誘惑には逆らえず、深大寺そばをいただきました(深大寺はすぐ隣)。
 おいしゅうございましたが、そばは体温を下げると聞いたことを思い出すと、余計に寒く感じられるような陽気でした。

 全体的に色合いが渋いので、いろどりに花の写真を載せました。