2008/11/04

鎌倉は源氏一門の聖地──報国寺、朝比奈切通し

2008.10.28
【神奈川県】

 鶴岡八幡宮の正面を右に折れ、鎌倉で唯一川らしい流れの滑川(なめりかわ)に沿って、横浜の金沢八景方面に向かう金沢街道が続いていきます。
 横浜横須賀道路等から鎌倉市街に向かう経路で、道幅が狭く折れ曲がっているため、いつでも混雑している印象があります。
 その細長い谷筋に、鎌倉・室町時代に活躍した一族の拠点があります。

 杉本寺


 ここは、734年に行基が創建した鎌倉最古の寺と言われています(長谷寺より2年古いが、その微妙な差が疑わしくも……)。
 行基は奈良時代の僧侶で、東大寺の大仏造営などの活動が認められ、日本で初めて大僧正(だいそうじょう:仏教界の頂点)となった方です。
 別に揚げ足を取るつもりはありませんが、調べてみるとどうも行基という人の行動範囲は近畿が中心で、関東には来てないようです。
 それだけの高僧ですから、あやかりたいと考える人は結構いたようで、「行基による創建」とうたう寺院は各地に多いそうです(許可だけ与えたりしたのだろうか)。
 ですが、鎌倉幕府が開かれるころの火災で焼失したものを源頼朝が再建して以来、8月10日の4万6千日参り(この日に参拝すると4万6千日分詣でたのと同じご利益があるとされる)には、朝から多くの参拝者が訪れるほど信仰を集めているそうですから、行基さんも許してくれることでしょう。


 報国寺


 「竹の寺」として有名です(京都の地蔵院も静かな竹の寺でした)。
 ここはもと塔頭(たっちゅう)寺院の跡地に孟宗竹が群生したことが始まりのようで、狭い敷地なのに「あるままの竹林にしよう」と考えたのだとしたら、その方には先見性があったことになります。竹のおかげで人気高いです。
 嵐山洛西のような圧倒される竹林も素晴らしいのですが、ここのような箱庭的竹林でも、手や意識が届く範囲を包み込んでくれますから広さ的には十分なわけで、ちょうど落ち着ける広さなのだと思います。
 そんな箱庭からも自然の営みを感じ取り、味わい、思慮することができる感性を日本人は持っているのですから、民俗学的には理にかなっているとも言えるのではないでしょうか。
 ──以前の嵐山の項には「鎌倉は物足りない」と書いてありました。「郷に入れば郷 に従え」ということでしょうか。しかし、オレもいい加減だよなぁ……

 広さはどうであれ、人出が多いと落ち着けないのはどこでも一緒ですよね(この日は少なめでしたが)。

 この寺は、1334年に足利家時(鎌倉幕府の御家人で尊氏の祖父)による創建とする説と、上杉重兼(公家から武士になり後世の上杉謙信の祖先)によるとする説があります。
 足利家時を調べていると、祖先は鎌倉に最初にやって来た源氏である八幡太郎義家とありました。
 源氏と名乗るのですから姻戚関係にあることは想像できるのですが、源頼朝、足利尊氏、新田義貞は、八幡太郎義家の子孫にあたるのだそうです。
 彼らは河内源氏と言われ近畿出身ですから、東国に進出してから100年の間に勢力を拡大し、幕府を開くまでの力を蓄えたことになります。
 そんな状況を考えると京都で生まれ育った義経(牛若丸)は、都会育ちのボンボンで朝廷にチヤホヤされるのが疎ましく思われるのも、仕方ないことのようにも思われます。
 ──わたしも都落ちして日がたつので、東国人の見方になってきました。

 もうじき紅葉の季節がやってきますが、その前に鎌倉を歩き終えてしまいそうです……




 浄妙寺

 ここは前述の報国寺の近くにあり、1188年足利義兼(北条政子の妹と結婚)の創建によるそうで、尊氏の父・貞氏の墓があり、鎌倉五山第五位の臨済宗建長寺派の禅寺になります(創建当時は真言宗)。
 当時は、足利家の屋敷がこの地にあったそうで、この谷筋一帯は足利家の本拠だったようです(菩提寺とした瑞泉寺は尾根の反対側)。

 わたくしこれまで、鎌倉時代のこの地にゆかりがあるのは源頼朝の一族と、妻である北条政子の一族(伊豆の豪族で平氏の家系と言われるが定かではない。幕府と同時に滅亡)の認識しかありませんでした。
 その後に台頭する足利家については、新田義貞(群馬県太田市付近)のように鎌倉の外(栃木県に足利という町もありますし)に本拠があるものと、ぼんやりながらも認識しておりました。
 足利家は鎌倉幕府において、将軍家一門(血縁関係者で編成された家臣団)の一員だそうですから、将軍の片腕としてそばにいて当たり前だったと思われます。

 ここまできてようやく理解できてきた気がするのが、室町幕府がなぜ京都五山だけではなく鎌倉五山を制定したのかについての理由です。
 室町幕府第三代将軍足利義満(京都・鎌倉五山を固定させた)は、国を治めるためにまず京都の秩序を守らなければなりませんが、これまで武家政権を築き上げてきた鎌倉の地と、それを支えてきた足利家の祖先に敬意を払う必要から、京都と鎌倉を同等に扱おうとしたのではないでしょうか。
 それゆえ天皇家にゆかりのある南禅寺を別格扱いとした上で京都と鎌倉を並べ、鎌倉五山の順位を建長寺(国政の寺)、円覚寺(元寇の戦没者追悼)、寿福寺(頼朝もしくは源氏一族追悼)、浄智寺(北条一族追悼もしくは当時も隆盛だった)、浄妙寺(尊氏の父もしくは足利家祖先追悼)としたのではないだろうか。
 その順列には、武家政権を築いた源氏一門の鎌倉においての歴史が示されているように思えてきます。

 覚園寺(かくおんじ)の保護に何で尊氏が力を貸すのか不思議で、対立していた後醍醐天皇への対抗意識のように考えていました。
 おそらく彼は、源氏一門の聖地である鎌倉を他の権力(天皇や公家)から守りたい気持ちだったのでは、と思うようになりました。

 ホント、何にも分かっちゃいませんね。
 でも、これも間違いかも知れませんし、だから歩き回るわけですけどね……


 朝比奈切通し

 鎌倉の東端で、現在では横浜市との市境の峠になります。
 鎌倉七口のひとつで、旧鎌倉街道の下道(しもつみち:東京湾を渡り房総半島へ、もしくは東京方面へと続く)と言われていますから、重要な街道になります。
 以前、鎌倉に港はなかったと書きましたが、材木座海岸付近に和賀江島という人工島に港を作ったものの使い物にならなかったため、六浦港(現在の金沢八景付近)からの輸送路が必要となりこの道を開いたそうです。
 仮粧坂(けわいざか)ほど急坂ではありませんが、路面舗装や壁面保護もされぬまま手堀りの跡がそのままで残されており、当時の雰囲気を感じさせてくれる歴史街道といった趣で、オススメです。


 すぐ上を自動車道(現在の金沢街道)が通っているので時より音は聞こえますが、切り立った壁面上にうっそうと茂った木々に囲まれ、どこかの山の中にいるかのような気分に浸ることができます。
 この日は人出も少なくすれ違ったのは2組で、うち1組は女性がひとりで歩いてきたのですが、「こんにちは」のあいさつくらいしないと不安を感じるんじゃないか、というくらい物寂しい雰囲気ではあります。
 鎌倉という地であるにもかかわらず、そんな静かさに接することができる場所なので気に入っており、よく歩きに来てました。


 壁面の岩のあちこちから、しみ出してきた水の滴が落ちてきます。
 最初の写真の路面両脇に溝のようなものが見えますが、そんな湧き水を誘導するための側溝と思われます。
 そんな水滴はみるみるうちに小さな流れを作り、鎌倉側の入り口付近ではもうちゃんとした小川になっています(行程は逆なので、混乱したらゴメンナサイ)。
 ここは一発、水滴を撮ってやろうじゃないか、と腰を据えたのですが、これが難しい。10枚以上撮ってこんなもんでした。
 自然相手の写真を撮るには、相応の装備と忍耐力や根性が必要であること、再認識です。
 でも、またチャレンジしてみます。


 峠付近の削られた壁面に、磨崖仏(まがいぶつ)が刻まれています。
 ここが峠ですから、工事でも最後になったと思われるので、おそらく工事の無事ではなく通行の安全を祈願したのだと思われます。
 見上げると両側から、10mは有にある壁面とその上に生い茂る木々が迫ってきます。
 崩れ落ちたと思われる岩も転がっているので、訪れる際にはご注意ください。
 注)ここを歩くには泥で汚れてもいいような運動靴が必要です。


●神代植物公園(東京都調布市)──10月31日(おまけ)


 天気予報にだまされてのこのこ出かけたものの、雲が全天を覆ったままだし、気温は上がらないし……

 ここは武蔵野の丘陵地帯で、以前は雑木林が広がっていたと思われます。園内にはそんな面影を伝えてくれる林が残されています。
 手入れをされた雑木林でも、竹林と違っていろいろな種類の木が混在しており、木それぞれの個性と言うか、好き勝手に伸びているので統制のとりようがありません。
 そんな「混沌」の中をさまようことは楽しいのですが、世間がそうなってしまうと楽しむどころか不安になってしまいます。

 空腹感はなかったのですが「新そば 始めました」の誘惑には逆らえず、深大寺そばをいただきました(深大寺はすぐ隣)。
 おいしゅうございましたが、そばは体温を下げると聞いたことを思い出すと、余計に寒く感じられるような陽気でした。

 全体的に色合いが渋いので、いろどりに花の写真を載せました。

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