2008/10/28

禅文化開花前夜──覚園寺、瑞泉寺

2008.10.21
【神奈川県】

 鶴岡八幡宮

 鶴岡八幡宮の正面から由比ヶ浜へ続く参道を若宮大路といいますが、鎌倉駅付近の二の鳥居から車道より一段高い参道があります。
 段葛(だんかずら)といって、昔は雨が降るとこの付近はぬかるんで歩きづらかったらしく、その対策として作られたそうです。
 八幡宮に向かうにつれ道幅が狭くなるように作られているそうで、遠近法を利用して実際よりも遠く見せる工夫がなされています。
 武家が築いた都市ですから、防御への配慮は抜かりなく施されていたということです。
 ここは桜並木で、シーズンともなれば「花道」となるのでキレイとは思いますが、人出もスゴイことになりそうです。

 ここは、1063年源頼義が奥州を平定後、出陣の時に祈願した京都の石清水(いわしみず)八幡宮を由比ヶ浜にまつったものを、1180年に頼朝が現在の地に移して、鎌倉の町づくりの中心としたそうです(頼朝の家系は「河内源氏」といって大阪が本拠)。
 ──京都の石清水八幡宮へ行ったときカメラを持ってなかったので写真ありません。後悔……


 実在性の高い最古の天皇と言われる応神天皇(=八幡神)がまつられています。
 八幡神は皇室の祖神ですから、皇室から分かれた源氏も氏神としたそうです。
 総本社は大分県の宇佐神宮(宇佐八幡宮)で農耕神や海の神とされていたものが、東大寺の大仏建造に協力することとなり、仏教保護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)が与えられ神仏習合を果たし、全国の寺の守護神として広まっていったとのことです。
 「八百万の神(やおよろずのかみ)」という多神教を受け入れる土壌を持った日本において、実に見事な作戦で拡大していったようです。
 その八幡様を鎌倉の中心に据えることで、関東の鎮守とし、武家精神のよりどころとし、国家鎮護の神として祭り上げ求心力としたようです。

 八幡様の由緒を調べたところで、静御前が舞いを披露したのは舞殿ではなく回廊だったと言われ、それどこにあるの? と、思いをはせたいところです。
 上写真左側は、樹齢1000余年、高さ約30mの大銀杏(おおいちょう)で、これもシンボルと言えると思います。
 この日も小学生たちが社会見学等でこの木に関する説明書きをメモしていましたが、きっとこの木のことは将来まで記憶に残ることでしょう。
 わたしも再会した大学時代まで「そういえばあった!」と覚えていました。

 近ごろ観光名所とされる神社仏閣で、じいさまたちがおばさまたちをナンパしている姿をよく見かけます。
 「ご案内しましょうか?」
 「いえ、何度も来てるので結構です……」
 ボランティアで由緒や歴史を解説してくれる方々なのですが、こんなこと言っては失礼なのですが、あまり相手にされないようです。
 こちらからお願いするまでおとなしくしていてくれればと思うのですが、本当にヒマなのか話し好きなのか、カメラを構えている時でも話しかけてきます。京都にも結構いました。
 親切の押し売りってうっとうしく感じてしまいますよね(大変失礼!)。
 分かってやってるんだとしたら、やっぱりナンパですよあれは。

 境内で作庭展が催されていてその中に「建長寺垣」なる説明があり、参考にと撮ってきたのですが、調べてみても見つかりません。見間違いだったか?
 建仁寺垣は出てくるのですが、形が違います…… ご存知ないですか?


 鎌倉宮

 ここは1869年(明治2年)に明治天皇が、護良親王(もりながしんのう)をまつるために造った神社だそうです。
 護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父や足利尊氏らと共に鎌倉幕府を倒すのですが、後醍醐天皇の「建武の新政」(歴史で習いましたね)に反発した足利尊氏に捕えられ、この地で殺されたそうです。
 上写真は、護良親王の忠臣で、親王の身代わりに切腹自刃した村上義光をまつる村上社の願掛けで、「身代わりさま人形」と言うのでしょうか、願いというか供えた人自身が被った災いが書きこまれています。

 もう七五三の季節のようで受付案内などが立っており、これからの週末などはにぎわうことでしょう。
 拝殿に置かれた大きな獅子頭は親王のお守りにちなむそうですが、子どもはよろこびそうですから人気があるのかも知れません。


 覚園寺(かくおんじ)

 「あれ? ここは中に入ったことないなぁ」
 というのも、ここは自由拝観ではなく、決められた時間に住職さんに案内してもらう見学だけなので、門前まで来てもパスしていたようです……


 ここは結構奥まった場所に位置していて、狭い谷(やつ)に沿って建物が並び、その奧には尾根が迫っています(反対側は建長寺)。
 そんな立地ゆえに残されたと思われる、無用な装飾もなく鎌倉時代の面影を感じさせてくれる境内と、室町時代に足利尊氏によって再建されたと言われる薬師堂(1354年の再建以来火災に遭っておらず、天井に尊氏自筆の銘が残る禅様式の建物)の簡素で枯れた姿は、奈良の山奥に来たかのような静寂感をもたらしてくれます。
 1296年の創建とされ、開山(初代住職)には京都・泉涌寺から智海心慧(ちかいしんえ)を招き、浄土、真言、律、禅の四宗兼学の場としたそうです。
 もともとは幕府執権である北条家の寺だったものを、倒幕後に後醍醐天皇が没収し、その後は尊氏に保護されたそうです。
 チェック項目である関東大震災ですが、建物自体は難を逃れたそうですが、納められている仏像群はかなりの被害を受けたそうです。

 そんなご説明や「閻魔大王は地蔵菩薩の化身である」等の、ありがたいお話しも聞かせてもらえるので、一度くらいは住職さんのお話を聞きにいかれてはいかがでしょうか?(50分くらいかかりましたが)
 ですが、自由に拝観できたとしてもきっと足が止まる出会いがあると思いますし、鎌倉で最もタイムトリップが出来る場所かも知れません(境内撮影禁止なので、説得力のある写真はありません)。


 瑞泉寺


 これまでは「庭がとても印象的なお寺さん」というだけのイメージですが、いい印象を持っていました。
 参道の石段の前に「夢窓国師(むそうこくし)古道場」の石碑があります。
 彼の名前を京都で学習した今回は「だから鎌倉の中では何か違うという印象を受けたんだ」と、見る前から納得です。
 門をくぐると、庫裏(くり:僧侶の居住)の姿や上写真の茶室(?)の窓などは京都でよく見られる造りで、庭園からは優雅さすら感じられます。
 「こりゃ鎌倉には他にないよなぁ」と、背景を知らなくても違いは分かっていたんだと一応は納得なのですが、ならば何で違う理由を知ろうとしなかったのでしょうねぇ?
 ──関心が薄かったのも確かでしょうし、説明を読んでも「へぇー」と流してしまい、それっきりだったのかも知れません……

 さすが夢窓国師(禅僧で庭園設計でも知られる)と、京都にいくつもある庭園(天龍寺南禅寺等)もとても素晴らしいのですが、鎌倉(東国)に唯一と言われるものに接した時の方が、その存在感が際立って感じられ、強いインパクトを受けました。
 「鎌倉で造るとこうなります」と言われてるような気がします。


 夢窓国師は1326年に鎌倉幕府執権の北条高時に招かれ、円覚寺に滞在し禅の教義を説き、北条家の信仰を得たそうです。
 そして翌年、御家人の二階堂道蘊(どううん)が、夢窓国師を開山(初代住職)として創建したそうで、臨済宗円覚寺派の寺院になります。
 当初は瑞泉院の名であったものを、室町の世となり初代鎌倉公方(かまくらくぼう:室町幕府の出先機関)の足利基氏(尊氏の四男)が瑞泉寺と改め、鎌倉における足利家の菩提寺となったそうです。

 ちょうど時代の変わり目だったんですね。
 禅というものを積極的に取り入れてきた鎌倉幕府ですが、禅の文化が展開していくのは夢窓国師が活躍をする室町時代となります。
 鎌倉という東国の地で武家政権を打ち立て、武家によるまつりごとを維持していくには「武士道(規律)」「質実剛健」を掲げる必要があったと思われます。
 一方室町幕府は京都に置かれたので、武家を統率するだけでは立ちゆかないことが想像されます。
 天皇がいて、平安時代から根付いた文化があり、庶民が暮らす町ですから、武士の規律維持だけではまつりごとが運ばない状況というものが、京都にとって、日本にとって、よろこばしいことだったのではないか、と思われます。
 鎌倉幕府滅亡後、この地は次第に衰退していったと思われますが、以降、歴史の表舞台からは遠ざかったおかげで、鎌倉時代という武家政権の文化遺産が残されたわけですから、そのまま保存できるとすれば、これもよろこばしいことと思えます。


 夢窓疎石(そせき:=国師)は、鎌倉時代末期(争いの前)に後醍醐天皇から京都・南禅寺に、北条氏から鎌倉・瑞泉寺に招かれます。
 鎌倉幕府滅亡後には再度後醍醐天皇から京都・南禅寺に、後醍醐天皇と対立し勝利した足利尊氏から京都・天龍寺に招かれています。
 権力が混乱していた情勢の中で、それを争って敵対した権力者たちに請われ、争いを仲裁するかのように東奔西走していたように思えてなりません。
 そんな活躍に対して、夢窓・正覚・心宗・普済・玄猷・仏統・大円という7つの国師号(高僧に対して天皇からの贈り名)を受け、七朝帝師と称されています。
 わたしにはそんなことよりも、室町の世となり平穏を取り戻した京都で、禅の教えとそこから花開いた禅の文化が定着していったことこそ、彼はよろこんだのではないかと、思えてなりません。
 それが現在にも残され、引き継がれているということが、彼の行動に間違いはなかった(正しさとはあまり言いたくない)ことの証しであり、信念に共鳴する人の多さを物語っているのだと思われます。




P.S. 【<ポニョの浦>埋め立て計画に国交相も「避けるべきだ」】というニュース見出しを目にしました。
 これは宮崎監督が、映画『崖の上のポニョ』の構想を練った場所で舞台のモデルになったとされる、広島県福山市鞆(とも)町の「鞆の浦」において、歴史的構造物である港を埋め立ててバイパス道路を建設しようとの計画が進められていることに対してのコメントです。
 観光を促進したい人々は「ポニョの里」のふれこみで宣伝したがっているのですが、地元の自治体では建設反対運動の世論が高まることを避けるため「映画とは関係ない」と突っぱねているとのことです。
 映画はもうヒットしているので十分ですから、ちょっと遠いですが機会を作って現地を歩いてもらって「埋め立て反対!」の声を高めてもらいたいと、切に望んでおります。
 映画館で「ポーニョ、ポーニョ、ポニョ」とうたっていた子どもたちが、大人になってこの地を訪れたとき、また自然とくちずさめるような風景を残しておいてあげたい、と願っております。

国立新美術館でピカソ展を見てきました。ピカソはいつ見ても楽しいのですが、昨年できた美術館の建物が格好いいんです。でも六本木という場所柄、ゴミゴミしたところに建てられているので、せっかくの容姿も離れて全貌を見渡すことができません。機会があれば、今度は建物を見に行ってみたいと思います。

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