2010/12/27

どんどん 行こう〜♪──折本町、東方町

2010.12.19
【神奈川県】


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 前回訪問時に、昔ながらの農家の家並みに強く引かれた大熊町と、鶴見川支流の認識からもれていた大熊川沿いの、訪問を楽しみにしていた地域になります。


池辺(いこのべ)富士(Map)


 最寄りは横浜市営地下鉄「都筑ふれあいの丘駅」ですから、港北ニュータウン付近に戻ってきたことになります(タウン南側の農業専用地区)。
 「山田(やまた)富士」に始まった「港北富士塚巡り」ですが、何だかんだと現存する3座を制覇したことになります(山田川和と池辺:上写真左下)。
 ここの景観の売りは、整備された農地の中に鎮座しているので、足下の温室や農地を見下ろして作物の種類や様子を一望できるところにあります。
 今さらながら都筑プール(都筑ふれあいの丘駅近くの屋内施設)の外観が、これらの富士塚を模したことにようやく気付きました(大阪から戻ったころ、しばらく泳ぎに通いました)。
 その温水熱の供給源は、写真奧の煙突があるゴミ焼却施設になります(鉄塔は「橋本線」)。大熊川の源流はそのあたりになりそう。

 富士塚の登山口にある鳥居が朽ちて倒れかけています。史跡管理側の責任とはいえ、周辺農地使用者(地元の農民とは限らない)に保全の意識がなければ、史跡の魅力も失われてしまいそうです。
 ここは以前古墳だった場所を富士塚にしたとの記述を目にしました。
 周辺の農地は整備されたとはいえ、地形は大きく変わってないと思われるので、この光景を目にした限りでは、それを否定する要素は無さそうです。

 一帯は「農業専用地区」という大義で整備されたものの、夜間の農地は暗闇となるため粗大ゴミ等の不法投棄が頻繁にあったらしく、格子状に敷かれた立派な自動車道はどこもバリケードで封鎖されています(人も通れないかと思うほどの存在感)。
 都市に隣接して整備された農地なので、近くに人家(農家)の無い場所に道路が整備整備されていると、不法投棄をもくろむ者には適した場所になってしまうようです。


大熊町(Map)


 前回訪問時にとてもインパクトを受けた大熊町に暮らす人々の、心の支えと思われる鎮守様「杉山神社」の駐車場では、地元の青年団と思われるやからが集まり、男ばかりが腕相撲で盛り上がっていました。
 何と素晴らしい「エネルギーのはけ口!」と思ったりするも、神社の新年行事で行われる腕相撲大会の賞品が豪華だったりするのかも?(勝手な想像です)。

 集落の高台に神社はありますが、近くを第三京浜が通り港北ICに近くアクセスがいいためか、丘の上にはゴルフ練習場やラブホテル群が建てられています。
 腕相撲する若者たちの姿とその建物群の対比に切ないものを感じつつも、そんな土地利用を制限するための「農業専用地区設定」にも思えてきます。
 幹線道を渡る橋からは、近ごろ人気のIKEA(輸入家具・雑貨店舗)の看板が見えますし、目の前まで開発が迫っている様子が見てとれます。
 開発制限や保護の理由はどうあれ、せっかく昔の姿が現存する地域なのですから、外的要因を押さえつつ静かに変遷を見守るべきという気がします。

 前回の菅田(すげた)地区では見かけなかった大根や白菜の姿も見られるので、横浜の土では育たないという理由ではないようです。
 種類別に植えられたうねに品種名を記した畑もありましたが、見学者が訪れるような場所には思えないので、試験的な栽培をしているのか、「毎年、どこに何を植えたか忘れちゃう」ことの予防策なのか? とも。

 白菜を縛っている絵は見ていたとしても、わらで縛られた姿は初めてという気がします。
 調べてみると、冬の早い時期(年内)に出荷するものは縛らずに結球したものを収穫しますが、本格的な寒さの時期(年明け後)に収穫する場合には、霜の影響を防ぐために外葉を縛って内部を守ります。
 それは、縛って寒さ(霜)に当てた方が甘味が増す(種類がある)ためだそうです。

 縛る際には「葉の間に虫がいないか確認し、結局は越冬できないハチでも出てもらってから縛る」という記述もありました。
 この手の作物栽培に関するホームページ等を読むと、作物に対する愛情が感じられ、とても暖かい気持ちにさせられます。
 寒い季節に読んだので、よりぬくもりを感じたのかも知れませんが、もう頭の中では「どんなお鍋を食べようか?」という方向に関心が向いてます。
 そんな愛情の込められた白菜を食べてみたいものです。きっと味が違うんでしょうね……


折本町、東方町(ひがしかた)(Map)

 今回も含めて散策に向かう際は、アバウトなルート設定だけを決め、結局は現地での「出会い次第」という自由さが楽しいのですが、今回は予定外のお寺に誘われた気がして、足を踏み入れたことが出会いにつながりました。
 お寺(真照寺)の背後に広がる墓地の奧に、ひな壇のような見晴らしのよさそうな高台が見えます。
 お墓沿いに抜けられないかと奧へ登っていくと、ササの垣根に抜けられそうな穴が空いてます。
 ここを通らない手はないとくぐってみれば、そこには広々とした農地の景色が広がっています。
 瀬戸内海に浮かぶ小さな島の、集落とは離れた高台に開かれた農地の光景のようで、急にセンサーが反応したロボットのように足が前へどんどん! 進みはじめます。
 「ワンダーランド」(単なる丘陵地にある農地の風景ですが)と感じた、自分自身を制御する司令室から「GO!」のサインが出てしまうと、関心の向くままに時間を忘れて歩き回ってしまいます。
 すでにこの時点で予定のルートを外れているので迷子状態ですが、そこで困ることも楽しみのひとつではあります……

 この日は日曜日でしたが、どこの畑にも人影があり、急に人が現れ驚かされたり、相手を驚かせたりすることに、「農地の息づかい」(生産者と作物の双方)を感じたような気がします。
 畑が人でにぎわうわけもないので、手入れの行き届いた印象というものが畑の「元気さ」であるとすれば、「静かな元気さに満ちた」地域と言えるのではないだろうか、
 前回も触れた、猛暑の影響を取り戻そうと、年末に向けての出荷で忙しい時期なのかも知れません。

 ただし、目にした範囲の印象ですが、前回までの整備され平らな農地である羽沢(はざわ)や菅田(すげた)では若者の姿を目にしましたが、ここの段々畑のような農地では、年配者と思われる方しか見られません。
 若者たちは「苦労が少ないならやってみるか」と考えてるようだ。などと部外者が決めつけるのも失礼ですが、チャレンジへの動機付けは、ハードルが低い分だけ可能性が広がる、という社会の風潮と変わらない印象を受けました。
 職業の選択肢は増えているので、家の外で社会の仕組みを学び「現実はどこにおいても厳しい」ことを経験した後の選択肢に、ようやく「家業」が見えてくるのかも知れません(決して悪いことではないと思います)。

 昔ながらの広い敷地に実にカッコいい蔵を構えた農家が、現在の横浜に数多く現存することに驚かされます。
 そんな実情をレポートする「農家訪問」的なもの(本でも、テレビでも)を見てみたい気がします。
 結局どの家も本質は変わらないので連載には向かないかも知れませんが、その背景にある心の豊かさが伝われば、好感度は上がるはずと思います。


 墓場の垣根を抜ける時の探検家も、その後は迷い人となりましたが、何とも楽しく歩ける情景に時間を忘れ「まだまだ行くぞ!」という気持ちがありました。
 島を歩く際には、帰りの船便を意識する必要があるので、未知の世界に足を踏み入れたい願望との葛藤がありますが、ここならいくら迷っても歩いて帰れるという安心感があります(そんな制限が島の魅力でもあります)。
 我流「楽しいさんぽ」の基本とする「来た道を戻りたくない」「以前訪れた場所につなぎたい」との気持ちはあっても、冬至ごろの日は短く、腹が減っては力も出ないので、田舎道的なバス通りに出たところで迎えを待つことにしました。
 これでは「おあずけ」的な不満も残るので、また来なきゃと思っています……

2010/12/20

「土」からもらう元気──菅田(すげた)

2010.12.12
【神奈川県】


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羽沢の道祖神(Map)

 前回感じた「キャベツ畑を見てみたい」という関心が、今回のルート設定になりました。

 右写真は前回の羽沢(はざわ)地区の道祖神(路傍の神。村の境界や辻などに祭られる村の守り神、旅人の安全の神)で、鶴見川支流の烏山川から分かれる支流の川筋に面していますから、ここが「羽沢の村境」だったことがうかがえます。
 その狭い谷筋に東泉寺(真言宗)というお寺があり、村境付近に残されている文化遺産を見た様子からは、村民の墓地とされていた場所に寺が建てられたようにも思えます。
 でも川筋は人の暮らしに適しているので、昔の集落は狭い川筋に並んでいて、農地を高台に開いたのかも知れません。
 お墓の存在というのは、土地の風習で集落の内側に立てたり、外側にあったりしますが、いずれにしても人の暮らしに寄り添う場所にあることは確かです。


菅田・羽沢農業専用地区(Map)


 前回紹介した、地域農業を保護する営農団地「菅田・羽沢農業専用地区」が、東泉寺のある沢を挟んで隣接しており、寺の脇の坂道を登ると「なるほど!」という、農地の展望が広がります。
 羽沢地区の農地は、ゆるやかな丘陵地(凸状)に畑が広がり「どこまで続いているんだろう」という想像を抱かせますが、菅田地区はゆるやかな谷地形(凹地)なので端から見通しが利くため「あそこまで行ってみよう」という行動につながります。
 しかし谷地形というものは、水の集まる水路付近だけが極端に浸食を受けますから、これまで歩いた谷戸のような急峻な斜面を形成するはずです。
 この場所がなだらかな地形である理由は、1979年に開業した貨物ターミナルJR横浜羽沢駅建設時に生じた残土で、付近の谷を埋め立てたことによります。
 残土処理の悩みと農地造成を同時に解決したと、横浜市が胸を張るような記述を目にしました。
 しかし、以前の横浜は谷戸ばかりでしたから、住宅造成地においても「この町は傾斜がゆるやかでよかった」という場所では、上述のような経緯を疑う必要があるかも知れません(安心なのはHill Topだけ)。


 道端でキャベツの写真を撮ろうと日差し待ちで座っていると、畑の中に車が何台も並んで駐車している場所があることに気付きました。
 小さな子ども連れの車が駐車し、にぎやかにつばきの垣根の内側へと消えていきます。
 地域の集まりでもあるのかと思っていたら、紙に手書きで「ハマみかん」と書かれた案内が張られただけのミカン狩り農園でした。そんな様子から、知る人ぞ知るという存在のようです。
 みかんは東京近郊でも昔からポピュラーな果実ですし、ガキの時分には目に入れば手を伸ばす存在だったので、口さみしさの足し(?)に食べる習慣がありましたが、大きな洗濯かご一杯1,500円といわれても、ひとりで食べきれるものではありません。
 でも子どもたちはよろこんで食べるんでしょうね。確かにガキ時分の実家(4人家族)では段ボール箱でミカンを買っても「もう無いの?」と、指先が黄色くなるまで食べていた記憶がよみがえります……
 そんな当時の様子に「時代」を感じたりしますが(当時、冬の果実ではミカンが「並」で、リンゴが「上」という程度)、現在の家庭ってどうなんでしょうか?


 今年を代表する漢字に「暑」が選ばれたのは、全国的に暑い陽気が突出していたせいせいなのでしょう。
 影響として、庶民は夏や秋口の野菜価格高騰を思い浮かべますが、猛暑の痛手を取り戻そうとする農家では種をまき直すところが多かったため、今度はその収穫期〜かき入れ時である年末にかけての供給過剰感〜値崩れが心配という状況のようです。
 暑さで傷んだキャベツやブロッコリーの苗に変えて、生育の早いホウレンソウなどの葉物(はもの)野菜に切り替え、当座の収入を確保したい心理が働くため、足を引っ張りあってしまうようです。
 個人農家ではリスクを負いきれないのでJA(農業協同組合)があるわけですが、気象庁に「この夏は異常気象でした」と言われたきりでは、いくら地域で力を合わせようが太刀打ちできません。
 補助金が出たとしても、生鮮野菜生産の不安定さ(農家収入の不安定・供給量の不安定)はなくなりません。
 何とかそんな状況を解消するようなアイディアが出てくれば、「ノーベル農学賞」(現在は無い)をあげたいという気もします。
 (上写真の緑は牧草用か?)


 前回紹介したご当地ブランド「横浜キャベツ」からの勝手な思い込みか、一面にキャベツ畑が広がる光景を思い浮かべていましたが、上述のように「農家という個人企業」には対応力も求められるので、一枚看板だけでは生活できない様子が見て取れます。
 キャベツ畑は広いものの、他にネギやブロッコリーも目につきますし、収穫の終わった畑には植えられたばかりの春向けの苗が「シナ〜っ」とした姿で、根付きまでの期間をじっと耐えています(その様子から、近ごろ雨が降ってなかったっけ? と教えられた思いです)。
 冬の野菜=白菜、大根、というイメージがありますが、大根は三浦半島で見られますが、白菜ってどこで作っているのだろう?
 近くにあれば、行ってみたい気がします。 


 菅田という地域は、鶴見川支流の砂田川沿いに発展した集落ですが、横浜駅からは前回紹介した羽沢地区の奧に当たり、整備された農地以外には起伏地が多いせいか大きな開発は行われておらず、バスに乗り合わせた女子中学生が「コンビニが無いんだよ!」と嘆く場所柄になります。
 いまどきでは「コンビニが無い=不便」という風潮もシャクに障りますが、コンビニが進出しない地域の地元商店街に元気がなければ、その利益を吸い上げる魅力もないと判断されているようで、腹を立てても仕方のない現実なのかも知れません……

 勤め先の女性(1児の母親)との会話に「こんな仕事(昼夜関係なく締め切りに追われる業務)をしていると、空いた時間に接した自然から元気をもらったりするよね」とあったのですが、今回はまさにその通りで、この畑を歩いている時、コンクリートの町中では決して体験できない「体がエネルギーを吸収している」と感じる瞬間がありました。
 北海道ではなくても(松山千春の『大空と大地の中で』が浮かんだので)人間も大地を踏みしめれば植物のように土の恵みを受けることができる、との例えで伝わるか?
 おそらく理屈では説明できない「本能」的な感覚と思いますが、通じる感覚はみんな持っていると思われます。
 普段から慣れ親しんでいれば日常的に受け入れているものを、そう感じてしまうのですから、その時の自分には大きく欠けていたのでしょう。
 その翌週もちょっと仕事がヘビーで、もらった元気を使い果たした感があるので、また歩きに行かなくては!


泉谷寺(せんこくじ)(Map)

 この寺には初代広重(浮世絵『東海道五十三次絵』作者)の描いた「山桜図」が残されることで知られます。
 本堂の杉戸に山桜が描かれたもので、広重の傑作とされるそうです(非公開)。
 当時の住職が広重の弟であったとされる関係から、その住職が勤めていた時期に描かれたものと言われますが、広重の先妻の兄説などの諸説もあるそう。

 広重について調べていて「ヒロシゲブルー」という項目を目にしました。
 広重の作品は海外(ヨーロッパやアメリカ)では、大胆な構図と青色、特に藍色の美しさで評価が高いそうです。
 この青は藍(インディゴ)で、欧米では「ジャパンブルー」「ヒロシゲブルー」とも呼ばれます。
 ヒロシゲブルーは、19世紀フランス印象派の画家などに大きな影響をあたえたとされ(ゴッホは広重の作品を模写しています)、当時ジャポニスムの流行を生みだした要因のひとつとされています。
 確かに彼の浮世絵の、空や海の「藍の色」は強烈な印象的として残っています。


 いつしか紅葉の季節も終わりのようで、今年は紅葉を追いかけなかったことに気付かされます。
 季節感というものは確かに持ち合わせているのですが、それを楽しもうとする「心のゆとり」が無くなってきた、ということかも知れません。
 京都では、人出が多いにもかかわらず「町の風物」として足を運んだものですが、こちらに戻って忙しく過ごすようになった途端に、そんな習慣を放棄してしまったという気がします。
 せっかくの「季節感」なのだから、積極的に楽しもうとする「こころ粋」を持つべき、と京都で学んだのですから、実にもったいないと反省です……

2010/12/13

丘の上の農村文化──羽沢(はざわ)

2010.11.27
【神奈川県】


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 本日の目的地は、鉄道網から取り残された交通の便のよくない丘陵地なので、アクセスしやすい新横浜駅からのバス路線を選択しましたが、土曜昼間の便が1時間に1本程度とは、ちょっと驚きました。
 帰りのバス停で横浜行きの本数の多さを知り、戻って地図を眺めると直線距離では横浜駅に近いことに気付きました。距離だけを考えればここも横浜圏に含まれます。
 てことは、わたしが乗ったバス路線は、新幹線利用者向けのローカル線だったようです。

 そのバス利用者には地元のお年寄りが多く、かかりつけ医が新横浜にあるのか?(失礼)と思ったりしますが、お年寄りたちの降り方がマイペースなので一層ローカル色を感じたりします。
 わたしの感覚では「次は○○です」のアナウンスがあると、早めに降車ボタンを押した方が安心に思えますが、ここのお年寄りたちには到着直前に押す「玄人押し(?)」が通なのか、妙なタイミングでボタンを押す人が多いので、こちらは、ちゃんと降りられるのかハラハラしてしまいます。
 そこは運転手もちゃんと理解しているようで、何の問題もなく乗降はスムーズに行われます。
 少し時間をかけてこの辺りの人々を観察すると、むかしの「横浜流」という生活スタイルが見えてくるのではないかと、思ったりします。


羽沢公園(Map)


 今回のテーマは「昔の横浜にあった田舎の風情を感じたい」なので、何もなさそうな公園も歩いてみるかと立ち寄ったものの、雑木林に散策路を整備しただけの公園でした(思い切り落ち葉を踏みしめられます!)。
 裏側の斜面は削られて新幹線が通る場所柄なので、残された山を削って宅地にしても騒音を広めてしまいますから、転用しにくい土地ではあります。
 特に新幹線脇には、このような使い道に悩む土地が帯状に連なっていると思われます(リニア新幹線でも出てくるでしょう)。
 時折走り過ぎる新幹線や、近くを通る貨物線からの警笛が聞こえるものの、そんな旅情からは取り残された「流れゆく車窓の景色を構成するひとつのパーツ」(としたら怒られるか?)のような地域です。
 駅周辺以外の新幹線線路脇は、騒音だけでメリットのない場所がほとんどになります(交通の不便な場所の方が圧倒的に多く、喜ぶのはガキだけ?)。


 この日は天気が良かったのでキレイな富士山(?)ではなく、似ている雲が見えました。
 神奈川県を歩いているので、「この方向に富士山が見えます」の表示はよく見かけるのですが、肝心の本体の姿を目にできる機会がこんなに少ないとは思っていませんでした。
 週イチしか歩けないので、見える日数なら7で割る必要がありますが、確率がこんなに低いものかと改めて実感しています(通勤電車の多摩川付近で意識していても、回数の少なさは同じようです)。
 だから見えたときの感慨があるのでしょうね……


 絵画のような絵が撮れたのではないかと思っています。
 竹の生えている場所はお寺の斜面ですが、道路脇の駐車場の奧で、脇にはアパートがあるような場所です。
 近ごろの駐車場には「無断立ち入り禁止」の看板が多く見られ、月極の場所などでは遠慮していたのですが、近ごろ「足跡以外に何も残しません」と、ズンズン足を踏み入れるようになってきました。
 挙動は不審と思われても、キョロキョロとあちこちのぞきながら歩くのはやめられません……


JR横浜羽沢駅(Map)

 右写真は、JR横浜羽沢駅という貨物ターミナルになります。
 以前紹介した武蔵野貨物線のように地下を潜行する東海道本線貨物支線で、本線に並走する京急線生麦駅付近で分岐し、この地を経由して横須賀線東戸塚駅付近で本線に合流する、横浜市街を迂回するバイパス線になります。
 新幹線新横浜駅で降りる準備の際、上り線の海側にチラッと目にした記憶があります。
 1979年に開業し、湘南ライナー(貨物線を利用した座席定員制通勤列車)などの旅客列車も横浜羽沢駅経由で運行されています。

 既に工事が始まっている、神奈川東部方面線計画(相模鉄道西谷駅〜JR横浜羽沢貨物駅付近(2015年)〜新横浜駅〜東急東横線日吉駅(2019年)を結ぶ路線)では、相模鉄道(相鉄)のJR線への乗り入れ、東急線との相互乗り入れをするそうで、開通の際にはこの周辺に新駅ができる予定です。
 この計画は、相鉄にとっては都心への直通運転が可能になるので、とても魅力的な話になります(おそらく横浜市の肝いりなのでしょう)。
 一方の東急は、創業者念願の新幹線新横浜駅へのアクセスは叶うことになりますが、その先の海老名や湘南台に用事のある人は少なさそうに思います。
 相鉄は、JRに乗り入れて湘南新宿ラインのルートで新宿駅まで直通運転を目指しています(東京〜上野方面へも計画があるそう)。
 乗り換えなしの直通運転は確かに便利ですが、新宿駅などでは、埼京線、りんかい線、湘南新宿ライン、成田エクスプレス発着ホームの共用になると、「乗りたい電車はいつ来るの?!」と、これまで以上に分かりにくくなりそうです……


羽沢(Map)


 羽沢地区には現在、団地や市営住宅等も建ち並びますが、農村文化が生きぬいてきた証しとされる歴史文化財(道祖神や庚申塔など)が数多く残されています。
 今回は農家の近くを歩けませんでしたが、地神講(農村で地神(じがみ)を祭る集まり)、稲荷講(稲荷を信仰する人の集まり)、念仏講(地域行事的な念仏を唱える集まり)という、昔ながらの農村文化が受け継がれているそうです。
 一帯の丘陵地には古くから畑が開かれ、麦類、粟、大豆、稗、ソバ等の栽培が営まれ、昭和初めまでは純農村地域でした。
 1969年の都市計画法で、地域の大部分が市街化調整区域(市街化を抑制すべき区域)に線引きされ、1972年には周辺地域農業を保護する営農団地「菅田・羽沢農業専用地区」とされます。
 現在この地域の横浜ブランド農産物は「横浜キャベツ」だそうです(そんな戦略は重要と思います)。
 まあ、三浦半島のような光景は無理にしても、ちょっとキャベツ畑を見たくなりました。

 団地や住宅街はあっても、どこで買い物をするんだろうと思うほど店舗の少ない地域だからか(歩いた道と違う場所にあるのか)、道端には何とも懐かしい「かわい〜い 魚屋さん♪」のメロディを流す魚屋の巡回販売車が停まっています。
 おばあさんが買いに来るも、店員はトラックの運転席で何やら携帯電話に夢中でお客に気付きません(土曜日なのでギャンブルか?)。
 待ちかねたおばあさんの「誰もいないなら持って帰っちゃうよ!」の大声でようやく気付き、慌てて運転席から出てきました。
 何だか、新幹線開業当時の新横浜駅に降り立った乗客が感じた「ここが横浜?」のギャップを裏返しにした、「まだ横浜にもこんな場所が?」と、とてもほのぼの感じられた光景です。

 古くからの集落中心地と思われる地区には、右写真の神明社、タブノキ(市の名木古木指定)、富士塚(上写真)や硯松(すずりまつ)などの史跡が集まっています。
 硯松には(現在の松は四代目)、戦国武将の太田道灌が小机城攻めの際、兵を励まそうと松の下に腰掛け「小机は まづ手習ひの始めにて いろはにほへと ちりぢりになる」の歌を詠んだとされる伝えがあります。

 この神明社は、隣接する小学校が授業の一環で地域文化との積極的な交流をうながしているためか、訪問者の目には地域住民に親しまれ、子どもたちにも郷土意識のより所になっているとの印象を受けます。
 交差点ごとに子どもたち手作りの案内地図が張られてあるのですが、デフォルメが個性的過ぎてかえって道に迷いそうです。
 ですが、それを手に歩いて迷ってみるのも一興という気もします。

 右写真は神明社の関東大震災で倒壊した鳥居のモニュメントですが、文字の彫刻は地震で倒壊後に彫り込んだのでしょうね。
 わざわざ手を掛けてまで災害の記憶を伝えようとする意志は、ありがたく受け止めなければいけません……

 以前も紹介した村の鎮守の神様は、この一帯でも地域文化のより所とされていることが理解できたので、これからはそんな鎮守様こそ要チェックというアンテナを持って歩こうと考えています。

2010/12/06

枯葉つむ 兵どもが 夢の跡──小机城跡

2010.11.20
【神奈川県】


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 鶴見川の流路を大まかに説明する際、「JR南武線〜東急東横線〜JR横浜線を乗り継いで、町田方面へ向かうイメージ」で伝わるとすれば、横浜線に乗り換えた辺りに差しかかります。
 横浜線小机駅〜新横浜駅〜東横線大倉山駅を歩いていると、新横浜のビル街は目立ちますが、やはりランドマークである「横浜国際総合競技場(日産スタジアム)」には存在感がありますし(川沿いは他に大きな構造物はない)、この日はその周囲をグルッと歩いただけという印象があります。

 本タイトルは松尾芭蕉「夏草や兵どもが夢の跡:なつくさや つわものどもが ゆめのあと」の句を拝借し、季節は夏でもないので枯葉がつもる、としました。


小机城跡(Map)


 上写真は時代劇などで目にする「冠木門(かぶきもん:門柱に横木(冠木)を渡した門)」が復元されたものです。
 門の内側には、ゲートボールや少年野球のグランドに使われる広場がありますが、この日は人けがほとんどありません。
 鶴見川の周辺には平坦な土地はいくらでもあるのに、史跡地にはイベント広場的な施設も必要との判断か、公園整備事業に盛り込まれたようです。
 いくら丘陵地でも自治体側とすれば、まず管理下の土地から有効活用を考えようとする姿勢は、間違いではないと思います。
 でも、お年寄りが丘の上まで階段を登ってくるのだろうか?

 城門について調べるうちに、地面にじかに柱を立てる「簡易な掘立建物」と、礎石の上に恒久的に建てられるものに区別されることを知りました。
 礎石を用いない建物が「掘っ立て小屋」とされるのは何となく分かりますが、礎石を敷くと「恒久的建物」になるとは知りませんでした(遺跡によっては掘立建物の遺構も残されていると思うのですが)。


 小机城は、永享の乱(えいきょうのらん 1437〜39年)【室町時代の鎌倉公方(かまくらくぼう:室町幕府の出先機関)である足利持氏と、関東管領(かんとうかんれい:鎌倉公方を補佐する役職で、上杉謙信を最後に消滅)上杉憲実の対立に端を発っし、室町幕府将軍が持氏討伐を命じた戦い】での記録が残るものの、正確な築城年代は分からないようです。

 この城に関わる人物で有名なのが太田道灌(おおたどうかん 1432〜86年:室町時代の武将で江戸城を築城)で、1478年長尾景春の乱(1476〜80年)鎮圧の活躍で名をはせます。

 ここに新たな学習テーマがあります。
 鎌倉幕府から室町幕府(京都)に都が移り、関東の鎌倉公方と、関東管領が機能しないために多くの争いが生じた背景を知らないと、上記もしくは戦国時代へと向かう世の中の空気について、理解できないという課題です。
 「関東での小競り合いまで調べてられない」と逃げていましたが、少しはかじらねばという状況に踏み込みつつあります。
 何でもそうですが、かじってみれば理解できるのに手前で足踏みするのは、「苦手意識」を盾にした「面倒くささ」なんでしょうね。
 でも、必要に迫られて「しょうがねぇなぁ」と、取り組むようにしないと、脳の老化は進むばかりという気もします……


 わたしが上写真の城門や竹藪から想起するのは、黒澤明、市川崑映画なので、ある意味「歴史・文化の教科書的存在」であったと言えそうです。
 黒澤さん、市川さんの映画が目指す「本物志向」の作品には、細部でも新たな発見は無いものかと、食い入って観ていたことが思い出されます。
 テレビの時代劇には、時代考証を突っ込まれないような工夫しか見えないので、ぼんやりと眺めるだけのプログラムとの印象があります。
 生きた素材かは分かりませんが、名匠の映画は歴史・文化に関心を向けるきっかけとしては、絶好の教材ではないでしょうか。

 城跡の谷間に並ぶロウソクの入った竹筒は、今回で7回目となる「竹灯籠まつり」(10月31日)に使われたものです(台風の影響で2日間の予定が1日だけの開催。そう言えば台風来てましたね)。
 それにしてもまだ片づいてないのは、単なる怠慢か、年末あたりに使い回すつもりなのか?

 山城に多い空堀(水の張られていない堀)の底には、当然枯葉等がたまりますが、ここでは堆肥を作るために枯葉を集めているようです。
 そのおかげで堀の底は、尾瀬などの湿地帯を歩くようなふっかふかの地面になっています(これ快感!)。
 日も当たらない場所なので、枯葉の下は水分がかなりグジュグジュしているらしく、この季節でも蚊がブンブン飛んでいます(部屋の中を1年中蚊が飛んでるという話が思い浮かびました)。


 ベンチに枯葉がつもるこんな光景を撮りたかったんです(もう少し盛りたいところですが、わたしの演出ではありません)。
 この絵に至るまでの情景を思い浮かべていると、いつの間にか今年の出来事を振り返っていることに気付きます(あ〜っ、年賀状買わなきゃ……)。

 人出の少ない公園の静けさが伝わるかと思いますが、この丘陵地の下にはJR横浜線のトンネルが通り、50m程先には城跡を分断する第三京浜(有料道路)が通されています。
 関東の歴史が短いからぞんざいに扱われるのか、「首都圏に必要なインフラ」は分かるも、もう数十m程度の「気配り」をお願いしたいところです(奈良では現在も未発掘の遺跡がザックザク発見されています)。
 落ち葉には桜の葉が多いようなので、春には人の出そうな場所です。

 以前の茅ヶ崎城跡でもアンテナが反応しましたが、ここも人が少なく落ち着いて瞑想にふける(タイトルのように歴史に思いをはせる)ことができましたし、何となく「城跡マニア」の芽が出てきたように感じられた散策コースです。


横浜国際総合競技場(Map)


 横浜国際総合競技場(日産スタジアム)付近で見られる「緑とコンクリート」のコントラストは、新横浜地区の開発に際して、地元の理解を得るために線引きした自治体方針の象徴のように見えます。

 新横浜駅は東海道新幹線開業(1964年)に伴い、鶴見川近くの田園地帯にこつ然と出現しました。
 新駅の候補地には、横浜線と東横線の交差する菊名駅付近が有力視されるも、西武グループ創業者堤康次郎の「腕力」により現在地に決定されます。
 ライバルであった、東急電鉄創業者五島慶太が負けたことにより、東横線沿線住民は新横浜へのアクセスに「何だかなぁ」という不便さを感じ続けることになります(菊名乗り換えでひと駅ですが、新幹線利用の際その乗り換え時間の見積がプレッシャーになります)。
 堤は周辺の土地をガッチリ買い占めた後、旧国鉄に売却して得た資金で写真左上の新横浜プリンスホテルなどを建設します(地域の活性化に貢献したことは確かですが)。

 開業当時、駅周辺の田園風景と「横浜」のイメージとのギャップから、「ここが横浜?」とのエピソードが多く残されるような光景でした。
 現在の駅周辺も、夜は暗い町というイメージがあります(看板等の規制があるのか?)。
 新しいビジネス街なので歓楽街の無い健全な地域とも言えそうですが、ラブホテルのネオンだけは派手な気がします。
 

 散策の道すがら橋の欄干に「ワールドカップ大橋」(2002年開通)なるプレートを目にし、こんな命名でいいのか? と驚きました。
 ですが、この地でワールドカップ決勝戦はもう行われないとすれば歴史ですし、それを「夢の跡」としたい民意であれば文句のつけようもありません。
 ちなみに韓国ソウルでも「ワールドカップ大橋」(2015年開通予定)の建設が始まったそうです。
 2022年のW杯招致で両国は落選しましたし、そう簡単に2度目の夢は訪れないということなのでしょう。(上写真は川面に映る絵)

 横浜国際総合競技場や新横浜公園周辺は、現在も鶴見川の巨大な遊水地なので、2004年の台風来襲時には鶴見川から水を流したため、競技場地下駐車場や、小机競技場などのグランド施設が水没しました。
 そんな融通の利かせ方で土地を有効活用することは、河川敷では当たり前なので住民の納得を得やすいと思いますが、台風後の整備費にはお金が掛かりそうです。

 以前紹介した大倉山記念館は、新横浜方面からとても目立って見えるので、こちら側を望む設計だったようです。
 この後大倉山駅まで歩くと、商店街の店構えに大きな西洋式の柱を用いる店が多いことに気付きます。
 山の上の建物を模した店舗のアピールのようですが、商店街としては統一感のない無駄なデザインという印象を受けます(それより道や歩道を広げて欲しい!)。

 ここだけではなく東横線の駅前はどこも、ゴミゴミとせせこましい町並みになってます。
 想像するに、渋谷〜横浜間に鉄道を建設するには、方角的に東北〜南西方向の線路を敷く必要があります。
 建設当時の沿線一帯は田舎町でしたから、当然南北を基準に集落が整備されていたのでしょう。そこに斜めに通された鉄道の駅周辺が急速に発展しても、町づくりが追いつかないのは当然という気がします。

 現在の東急線は、JRの路線を補完して地域の発展を促進していますが、創業者は「強盗慶太」(五島慶太)と言われるほど豪腕で敵も多い人物らしく(西武の堤も同様)、「西の小林・東の五島」(小林一三:阪急電鉄の創業者)とされるように、新しい社会インフラの枠組み決定・定着には、ある意味「腕力」が必要だったのかも知れません。
 すでに敷かれたインフラのレール上に新たな文化を築くことは、先人の遺産に依存するようで少々しゃくに感じても、この先その基盤を根っこから再構築するには「彼ら以上の腕力の持ち主」が必要ではないかと考えがちです。
 しかしこれからは、そんな「腕力」ではなく「知恵の勝負」に活路を見いださないと、日本の生きる道は開かれないのでは? という気がしてなりません……

2010/11/29

こころに響く枯れ姿──王禅寺、潮見台

2010.11.6
【神奈川県】


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 港北ニュータウンから鶴見川支流の早淵川をさかのぼると、田園都市線あざみ野駅付近を通り「美しが丘」(何が美しいのか聞いてみたくなります)とされる地域を抜け、潮見台という高台に至ります。
 多摩川と鶴見川の分水界(雨水が流れる先の川を分かつ境界)を、支流の水源域が接する付近で見たいと、溝の口からバスに乗りました。


王禅寺(Map)


 以前夜に乗った、小田急線新百合ヶ丘駅→田園都市線あざみ野駅行きバスの車窓から、丘陵地全体に点々と明かりが広がる様子を目にし「てっぺんの方まで開発されてるんだ」と、遠くの明かりを追ったことがあります。
 場所については「王禅寺○○」というバス停名だけが記憶に残ります。
 その地名の由来となる王禅寺が健在であることを知り、最初の目的地としました。

 王禅寺は、757年創建の真言宗(空海が開宗)の寺で、山号を「星宿山」とします。
 星が宿る山とはロマンチックにも思えますが、おそらく空海の教義にある宇宙観に由来するのではないでしょうか。
 中世(平安時代〜戦国時代)には、関東の高野山と呼ばれるほど栄え、周辺には多くの塔頭寺院(たっちゅう:師の塔(墓)の頭(ほとり)に建てた小院)が建てられたそうです。
 本来は禅宗の習わしですが、「禅」「律」「真言」三宗兼学とされた際のなごりかも知れません。
 1333年新田義貞の鎌倉攻めの戦火で焼失しますが(彼は古くからの建造物をことごとく焼き尽くしていきます)、戦国時代の小田原北条氏に領地を与えられ、境遇としては恵まれていたようです。


 江戸時代初期この地域は、二代将軍秀忠に嫁入りするお江与の方の「お化粧領(持参金)」とされ、二人が他界の後は、徳川家菩提寺である芝増上寺の領地(御霊屋領)となります。
 お江与の方とは、2011年NHK大河ドラマの主人公である「江(ごう)姫」のことで、徳川秀忠に嫁がされる際「江戸に与える=江与」とされたとも言われます。
 政略の駒として使われた印象はぬぐえませんが、武将の娘(浅井長政の三女)として凜と生き抜いたであろう生涯については、来年のドラマで学ばせていただきましょう。

 現在の境内は、ひとつの谷戸(谷間)だけの狭いものですが、その「枯れ方」がとてもシブく、思わず声を上げてしまいます。
 このお寺の美しさは、草木があるがままに育っているよう見える(見せる?)程度の手入れにとどめている「自然観」(自然と人間のかかわり方のさじ加減)の見事さにあります。
 秋も深まれば草木も冬支度で夏のような息吹はありませんが、その枯れかかった姿にも見るべきものがある、と語るかのようです。
 ただに伸びているだけでもよし、ただ枯れているだけでも結構。
 こころに響くものをめでればいい。
 そんな気持ちにさせられる「ありよう」でした。

 右写真は、日本最古の甘柿品種とされる「禅寺丸柿(ぜんじまるがき)」の原木で、鎌倉時代(1214年)にこの地で発見されました。
 日本ではそれまで渋柿しか知られておらず、日本初の甘柿(不完全甘柿)発見になります。

 カキへの関心は低いものの調べてみると…
・甘柿は、完全甘柿と渋が残ることがある不完全甘柿に分類される。
・甘柿同士の交配でも渋柿となる場合がある。
・甘柿は渋柿の突然変異種と考えられている。
・北海道と沖縄県では栽培されていない。
・「桃栗三年柿八年」とされるが、接ぎ木をすると4年で実がなる。
 秋の空に映える鮮やかなだいだい色が、みな甘いと思ってはいけないようです……

 明治時代には「カキが生まれた 柿生(かきお)村」とされますが、川崎市編入後その名は小田急線「柿生駅」だけとなります(地名は消失)。


王禅寺ふるさと公園(Map)

 王禅寺に隣接した公園で、川﨑市制60周年を記念してつくられました(1991年)。
 どうも記念事業というものは、大きなお金を動かすためのかけ声だったり、要望に応える恩着せがましさなど、後ろめたい裏事情があるのでは? と勘ぐりたくなります。
 内陸の丘陵地に砲台はないでしょうが、以前は何に利用されていたのだろうか?
 調べてみれば、近くの菅生には軍用地があったとの記述が目に入ってきます。
 ほらぁ〜、と調べていても、戦争をしかけた国の土地はどこも軍用地みたいなものだったでしょうから、この辺でやめておきます。

 それにしても朝鮮半島の騒がしさには、これまでの中東方面からの「風の便り」では済まされない身近さがあります。
 砲弾を撃ち込む国が悪いのか、撃ち込まれる国が悪いのか?
 世界各地の軍事政権の後ろ盾となる中国が強いのか、核放棄を訴えた(武器を放棄する)オバマのアメリカが弱くなったのか?
 ブッシュ時代なら、もう攻撃を始めていたでしょうし、中国も攻める姿勢には強気であっても、調停力の無さを露呈してしまい「知恵袋」として尊敬を集めた歴史の威厳を失っています。
 そんな情勢分析は二の次でいいですから、我が国はどうあるべきかの姿勢を示さないと、弾が飛んできただけで腰砕けになってしまいそうです。
 戦争はしたくないと考える人がほとんどである現在、どう対処すべきなのかは、国民全員が考えるべきことでもあります。

 ちなみにここは以前、王禅寺領地の山林だったそうです……


潮見台(Map)

 この付近で最も高い丘の上からは、横浜の海が見えたことにより潮見台の地名が残されています(標高100m程度)。
 現在は川崎市の潮見台浄水場があり、ここから市内へ水道水が送られます(川崎市の水道水源は、相模湖、津久井湖など横浜市と同じ)。
 浄水場建設の際この地から縄文時代の遺跡が発見されたそうで、標高の高い土地でも昔から暮らしやすかった場所柄がうかがえます。
 それは現在でもこの付近が、多摩川水系平瀬川(二ヶ領用水と立体交差する)、鶴見川水系早淵川、黒須田川、真福寺川の水源地であることからも想像ができます。
 現在の水量は少なくも、多摩川と鶴見川に水を供給しているのですから、多摩丘陵の地下水脈は現在も機能していることになります。
 それを題材に、丘陵地の水脈と大規模開発について考える授業などができればいいのでは、と思ったりします。

 尾根付近に整備されたグラウンドでは、地域の少年サッカー大会が行われていて、作戦会議の様子が聞こえてきます。
 「○○(強そうな相手)にはできるだけ失点しないように。△△(弱そうな相手)には7-0くらいで勝たなきゃだめだ」なんていう狙いで士気が上がるというのも、草サッカーの醍醐味かも知れません……(写真奧が浄水場)


 追記
 大河ドラマ「龍馬伝」が終わりましたが、あの暗殺シーンのお粗末さにはあきれました(ニューステロップは関係ない)。
 混沌とする世間の憎しみに討たれる危険性を龍馬自身が感じていたとしても、ドタ、バタ、ドン!(暗殺なので格好のいい死にざまはありえないが)〜エピローグという演出と、「ここで死ぬんだ」というお約束の場面にたどり着いた安堵感的なものが、「画面の空気感」に漂っていた気がしてなりません。
 結局、当初感じた「本気なのは香川照之だけ」の印象を思い起こしただけのエンディングでした。

 「篤姫」のように余韻で終われる物語はいいにしても、「義経」や本作のような作品では、「ラスト制作委員会」的な場で知恵を絞る必要があるではないだろうか。

 ところで「坂の上の雲」第二部が始まってしまいます。
 もう1年経ってしまいましたが、まだ原作本に手すら触れていません。
 第二部を見ながら気持ちを盛り上げていかねば、と思っています……

2010/11/22

懐かしさから生み出せるもの──仲町台〜大熊町

2010.11.13
【神奈川県】


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 今回もまだ港北ニュータウン付近をうろついていますが、横浜市が都市開発の目標とした「住居・職場・農業が一体となった街作り」の、職場・農業の現場を見て歩こうというのが今回のテーマです。
 

川和富士(かわわふじ)(Map)


 港北地区に3座現存する富士塚のひとつで、規模としては最も大きく(すそ野が広い)高さは15m程度あります。
 ニュータウン建設により公園に移設されますが、鶴見川方面の谷地形を見下ろす視界の広がりには開放感があります。
 その先にあるはずの富士山の姿が見えれば言うこと無いのですが、雲がかかっています(黄砂のせいかも)。
 最寄りの横浜市営地下鉄グリーンライン都筑ふれあいの丘駅付近からは、この富士塚頂上が舞台のように見えます。
 上に立つ人影がはしゃいでいるように見え、低いながらも頂に立った時の気分の良さとその振る舞いのわけを理解できる場所です。

 富士山の「砂走り」ではありませんが、上写真下の子のようにそり滑りのコースとされている場所があり、そこだけ草がはげています。草の上を滑ればもっと爽快と思ったら、多摩川土手に滑りに来てください。
 時折散歩する土手沿いは雑草(花を咲かせる草もある)が伸び放題なので、年に2〜3回草刈り作業が行われます。
 遊歩道のある場所が対象としてもかなりの面積があるので、かなり費用がかかると思いますが、草が伸びると歩道が歩きにくくなるので、必要と感じる行政サービスです。
 そんな土手をグラスそりの遊び場にすれば、双方にメリットがあると思ったりします。
 ただ、お母さんは「また草の種をいっぱい着けてきた」とため息かも知れません(あれ繊維に絡まるような構造なので、洗濯しても取れないんだよね)。

 背後の鉄塔には「橋本線」のプレートがありました。ここから相模原市橋本までだと結構距離はありそうですが、橋本方面の工場がお得意様というネーミングなのかと思ったりします。


サカタのタネ 本社(Map)

 港北ニュータウンが属する都筑区では、南部の鶴見川沿いは以前から工場の多い地域でしたが、ニュータウン開発と共にスタートした企業誘致により、企業本社や研究所の転入件数が増え、横浜市のもう一つの目標である「職場」が充実しつつあるようです(自治体の見解)。
 都筑区に本社を構える企業には「AOKIホールディングス」「パナソニック モバイルコミュニケーションズ」などもありますが、横浜市のもう一つの目標である「農業」とベストマッチな「サカタのタネ」本社があります。


 この会社は、1913(大正2)年創業「坂田農園」(横浜六角橋)に始まり、苗木の輸出入を軌道に乗せるも戦争で断念。そこから種苗業へ転換し、現在では「花と野菜の研究開発」を主業務とします。
 上写真のような緑化事業(コンクリートの上で植物を育てる)も行っており、「緑の多い町でもっと植物を育てましょう」などと、いまどきは何をやっても好感度アップにつながってしまう、実にうらやましい会社です。

 あこがれの職業というものは「電車の運転手」「プロ野球選手」から、年齢や社会情勢によって変化しますが、いまどきでは「グリーンのプロ」というのも、実にカッコイイ職業に思えたりします。
 「緑から食物まで」を研究するのですから、人類の未来が彼らの双肩にかかっている、と言えるかも知れません。

 展示温室のグリーンプラザは一般開放されていて(土日祝休館)、植物園の温室が持つ「植物図鑑」的な役割とは違い、ここはガーデニングや家庭菜園の「見本ディスプレイ園」という格段にキレイなショールーム的温室で、関心のある人が見たら思わず育てたくなるような展示なんだと思います。今度是非見学してみたい施設です。
 自治体、会社、住民のいずれにとっても相乗効果を生み出す、非常に珍しい例と思います。
 ド素人ですが「雇ってくれないかなぁ〜」とあこがれてしまいます。


農業専用地区(Map)


 仲町台駅から横浜方面に向かう地下鉄ブルーラインが地中に潜った少し先で視界が一気に開けます。
 この一帯が、横浜市の目標である「農業との共存」を実現した農業専用地区になります。
 ビニールハウスなども点在する一般的な農地ですが、戦略的な「横浜ブランド農産物」として、ホウレンソウやコマツナなど軟弱野菜に力を入れているとのこと。
 軟弱野菜とは耳慣れませんが「収穫から急速にいたみはじめる野菜:青物」のことで、消費地近くでの生産が必要とされる近郊農業向き作物になり、自治体では「小松菜の生産量は日本一」と鼻高々です。

 横浜市の農地整備事業では、住宅地の一画にポツンと農地が残されている様な土地と、市が事前に購入しておいたこの周辺の土地と交換することで、住宅地と農地の区画整理を目指しました。
 ここなら周囲に建物がないので、日当たりを心配せずにすみますし、回りも農家だけですからマイペースで精を出せると思います。
 先祖代々の土地も大切ですが、大都市近郊では宅地と農地は分けられていた方が互いに落ち着けるようにも思えます。
 以前は農家の家の周囲に農地があるのは当たり前でしたが、そんな形態の変化を農地の都市化(?)というものかも知れません。

 上写真中央奧に鉄塔が林立していますが、その辺りが以前名称だけ登場した港北変電所になります。
 そんな光景も、都市近郊の田園風景らしさと言えそうです。


大熊町(Map)

 農業専用地区に沿って丘陵地を下ると、となりの支流である大熊川に至ります。
 今回鶴見川を歩くに当たり、特に意識してない川だったので、ここで出会えなければ素通りするところでした。

 ここには「手つかずの農村集落」が昔のままの姿で現存しており、まるでガキの時分にタイムスリップしたかのような光景に、ちょっと鳥肌が立ちました。
 曲がりくねったあぜ道に沿って家の敷地を囲う生け垣が続き、その庭では飼っているニワトリが当たり前のように鳴いてますし、落ち葉たきの煙があちこちから上がっています。
 右写真の火の見やぐらは現役のようで、近ごろ見かけなくなった赤く丸い電灯(消防署や交番にあった電灯。右写真で判別できるか?)に目を引かれ、畑の道でペースダウンした歩く速度が、一段とスローになりました。


 横浜市の土地利用図を見ると、ここも農業専用地区に含まれるようですが、ここの場合は「農家の家並み保護地区」とすべく、あえて港北ニュータウン計画の網をかぶせ、なし崩し的な開発から守ろうとしたのではないか、とすら感じられました(ここを舞台に映画の1本も撮れそう)。
 だとしたら横浜市もやるもんだと思うのですが、果たして?

 忘れかけていた記憶をたどり断片をつなぎ合わせるうちに、また別の断片がよみがえるので、キリのない不毛な作業になるのですが、結局懐かしむだけでは何も生まれないと理解しているためか、とても切ない気持ちにさせられます。
 表現としては「胸がキューン」で通じるのでしょうが、「締め付けられる」「ときめく」ではなく「ざわめく」あたりの表現でいきたいと思うのは、オッサンが「キューン」じゃ無いだろうと意地になるからです……

 上写真は出来の悪いウリ(?)を畑のあぜに並べて、土盛りの一助としているようです。


 「むかしのまま」という表現を褒め言葉に使いたい地域では、(お約束のように)無邪気な表情で駆けだしてくる若いお兄ちゃんの素朴な姿が見られ、角張った車高の低い車が大きな音を立て走ってきますから、タイムスリップでないとしたら「ここはどこの田舎?」となるのでしょう。
 しかし、どっこい生きているローカルな生活感が、そんな「個性」を育てていると思える集落ですから、一杯やりながらお話をうかがいたいところです。
 懐かしがるばかりではなく、現在の生活で生かせる知恵や文化を取り込めれば、また新しいモノを生み出すヒントになるかも知れません。

 初めて訪れた夕暮れ時のバス停で、ひとりベンチに座る心細さは次の瞬間、旅行で初めて訪れ右も左も分からない土地で感じる「どこへ連れて行ってくれるのだろう」というワクワク感に変わります(この瞬間がたまらなく好きです)。
 やってきたバスの行き先が「鶴見」(大倉山、新横浜経由)という身近な地名であることから、少し足を伸ばせば横浜市にはまだ「未踏の地が残されている」と感じ、期待感が膨らんできました。

2010/11/15

燃料切れの景気浮揚エンジン──仲町台

2010.11.3
【神奈川県】


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 今回も引き続き、港北ニュータウンに整備された散策路を歩きます。
 前回は、市営地下鉄中川駅から「くさぶえのみち」「ふじやとのみち」「せきれいのみち」途中の、仲町台駅まで。
 今回は仲町台駅から「せきれいのみち」「ささぶねのみち」を通り、センター南駅まで歩きました。
 この2回で5時間程度歩きましたが、まだ散策路すら一周してないのですから、その広さが伝わるのではないかと思います。


せせらぎ公園(Map)

 横浜市のニュータウン開発計画からは、市営地下鉄の建設で沿線沿いの住宅地が線としてつながり、道路整備により面として広がることへの期待感が伝わってきます。
 今回歩いてみて「それは成功している」との印象を受けたように、世間的にも「失敗」の声は聞かれないようです。
 その成功要因を転入者の心理から考えると、お手頃な価格設定だったのかも知れませんし、「横浜」という耳当たりのよさと、「新しい町」(日本人は「新しもの好き」で「周りと一緒」であることに安心します)のしがらみのない自由な雰囲気に引かれたのかも知れません。

 そこに付け加えたいと思ったのが、「多少不便でも自然に触れられる場所」を求める気持ちをつかんだからではないか、ということです。
 宅地開発を目的としながらも、できるだけ開発前の里山に近い姿で自然環境を残そうとした取り組みが、身近な自然としてのバランス(さじ加減)にピタッとはまったように見えました。
 これがベストではなくても、「休みに散歩できる」「自然に触れながら子どもが遊べる」環境の実現が、ひとつの成功要因に思えます。
 子どもの多い町という印象に加え、どこの緑地からも子どもたちの歓声が聞こえてくる様子が、その答えという気がします。


 1965年横浜市の開発計画発表から準備がスタートし、1974年土地区画整理事業の認可が下り工事着手〜1996年区画整理完了。これをもって港北ニュータウン計画は完了とされます。
 都市開発とは、区画整理が終われば後はその土地を売って建物を建てるだけですから、大規模なもの以外は民間にもできるということなんですね。
 わたしの思考パターンからするとこの辺で、「こんな急斜面を削ちゃって…」などと批判的なことを書きたいところですが、町を歩いてみると、開発によるプラス面の方が圧倒的に多く、ケチをつけるより感心しきりだったので今回出番は無さそうです。

 区画整理にあたり、前回の「山田(やまた)富士」の石像撤去に関するものなど、さまざまな場所で多様な問題が発生したと思われますが、市側にはその都度キッチリと解決していく姿勢があったようです。
 (文化の理解は欠如しているが)地権者との土地取引では、遺恨を残さぬよう振る舞ったようですし、環境保護を訴える反対運動も収束し、大きな問題なく事が運んだようです。
 開発を行う際に、地権者の納得を得られたということは、それだけでプラス評価と言えるのでしょう(表に見えないだけか?)。
 そしてプラス面の成果と言えるのが、前回紹介した虫送りの行事です(自治体側の言葉ですからよく書かれているのは当然ですが)。
 以前からの住民と、新しく転入してきたと思われる子どもたちが、地域の行事で輪になれるのですから、地元以外の出身者にもその伝統を広めることができます。
 まして若い世代に愛着を持ってもらえたなら、地元側は言うこと無しのはずです。

 そのような伝統を見守ってきた里山の様子が、整備された姿とはいえこれだけ確保されていれば、子どもたちの遊び場として不足はないと思われます。
 そんな場所でのびのびと遊ぶ子どもの姿を見れば、「いいところだろ! お前が気に入ると思って選んだんだ」などと、お父さんも鼻高々でバリバリ働く意欲がわいてくるはずです。

 でもこの仕掛けは、明るい将来を描ける時代には完ぺきに近いシナリオとして、馬力のある景気浮揚エンジンとなってきましたが、現在ではその動力源を見失いかけている印象があります。
 景気低迷が続く現在にこそ、景気浮揚の原動力を作り出す仕掛けが欲しいのですが、国民全体を潤わすことができるような「大プロジェクトX」って、ちょっとやそっとじゃ思い浮かびません(テーマが大きすぎて提案も出てこない)。
 開発自体は成功裏に完了し、希望を抱いて転入した住民は、景気浮揚に貢献すべくバリバリ働いているのですが、将来の明るさというエサでもぶら下げてくれないと、息切れしてしまうのではないだろうか。
 実態は、青息吐息のようにも思われます……


 上写真2枚は、散策路沿いに整備された茅ヶ崎公園自然生態園(Map)内に、農家や水田の様子を再現した一画になります。
 狭いながらも、田んぼ、稲わら干し、かかし、柿の木、炭焼き釜、シイタケ栽培の原木等、農家の周辺にあったものは一通りそろっています。
 裏には、4分の1に割られた扇形の薪(まき)が積まれてあります。近ごろ目にする機会もないので、懐かしいというか暖かみを感じたりします。
 実生活では使ったことはないので、それ以外の活動経験から「薪→暖かい」を学習したことになりますから、子どもたちにもそんな経験が必要であると言えるのでしょう。
 いまどきは、まずは目にすることからスタートという気がします。


 先ほどの田んぼで刈られたと思われる稲が、隣接する小学校のフェンスに干されています。おそらくここの生徒たちが、稲刈り実習で刈ったのでしょう。
 以前センター南・北駅周辺を歩いたときに「実際の田んぼでの実地体験へと広げるべき」と書きましたが、知らなかっただけでやはりこの付近には、実地体験の機会が数多くあるようです。

 そういえば出身小学校の花壇の並びに、小さな田んぼがあったような気がしてきました(土の下にビニールが敷いてあった)。きっとあれこれやったんだと思いますが、もう覚えてません。
 そんな不真面目なガキは放っといて、印象に残っている人は必ずいますから、そんな人には必要な経験だったはずです。
 と、言えた義理ではありませんが……

 猛暑の影響でお米の品質が悪かったせいだろうか、外食ばかりですが近ごろ「あれっ?」と感じるほど、おいしくないお米に出会う機会が増えた気がします。そんなことありませんか?

 この地域は首都圏の西部地区に当たり、東名高速道路、東海道新幹線新横浜駅、羽田空港(センター南・北駅から羽田空港行き直行バスあり)に近いので、西方面からの交通の利便性が高く、関西、名古屋から関東に移住する人々に人気が高いそうです。
 そう言えば、関西弁を耳にしました。

 東北・上信越からの玄関口が上野であるように、西方面からの玄関口は品川・新横浜となるのでしょう。
 まだ先の話ですが、2027年開業を目指すリニアモーターカー(中央新幹線)の始発駅は品川に決まったようですが、神奈川県の停車駅は相模原市の橋本駅付近が有力候補と言われています。
 工場しかなかった橋本に高層ビルが林立し、相模原に関西弁があふれる日がやって来るのかも知れません。


鴨池公園こどもログハウス(Map)

 建物の中からこどもたちの大騒ぎする声と、ドタバタ駆け回る足音が聞こえてきます。
 ここは「鴨池公園こどもログハウス」という施設で、中にはぐるぐるすべり台、ネットの遊具、地下迷路等々、大はしゃぎしたくなる遊具満載の遊び場です。
 雨の日も遊べて、騒いでも怒られないというのは、子どもにとってはたまらない場所です(横浜市の各区にひとつあるそうです)。
 しっかし、中はホコリだらけなんだろうと思うも、彼らには関係ないことですわね。でも、近所でインフルエンザが流行ると閉鎖されてしまうのでしょうから、気をつけないと……

 散策路を歩く視線からは、尾根をつなぐ陸橋や、谷間を越えていく歩道など、元の地形を生かそうとする町づくりや、そこから生まれる景観の変化を楽しむことができました。
 ですがここは丘陵地。平坦地に育った者には「坂のある暮らし」ってのはとても想像できません。
 鶴見川をテーマとして歩くにあたり、丘陵地の多いことは覚悟しましたが(確かに近ごろ坂道ばかり歩いている)、それは休日の散策時に限られていますから。
 朝の出勤時に坂を登るのは、目が覚めていいとは思いますが、疲れた会社帰りに坂道を登らされたら、帰るのがイヤになってしまいそうです……