2010/05/31

街道沿いの旧別荘地──大磯

2010.5.16
【神奈川県】

旧東海道(Map)

 JR東海道線大磯駅は丘陵地に隣接しているので、この季節ホームからは、まぶしい新緑が迫るようなロケーションとなり、深呼吸をしたくなる心地よさがあります。
 平塚の隣駅ですが、東海道線の沿線風景はここから郊外に切り替わるようで、時間の進み方も違うように感じられます。

 現在の国道1号線は、ほとんど旧東海道を踏襲して作られていますが、ルート変更された部分には、旧街道の面影が残る場所があります。
 距離はわずかですが、車はほとんど通らず静かですし、道幅は当時と変わらないので歩くにはゆったりとしており、昔の街道の面影に思いをはせることができます。
 東海道は江戸時代に整備されますが、鎌倉時代には古東海道が存在しており、大磯は鎌倉郊外の保養都市とされたそうです。
 ──これは大磯町のホームページの表記で、遊郭があったことを指しています。そのくせサブタイトルが「湘南の奥座敷」では、現在も営業中かと誤解されそうです(そういう意図なの?)。

 「曽我物語」(鎌倉時代初期に起きた曾我兄弟の仇討ちの話)のヒロインである、虎御前(とらごぜん:遊女とされるが、当時の意味では巫女的な存在だった)が大磯にいたそうで、ゆかりの史跡が残されています(やはりそのあたりが町の売りなのかも……)。
 

鴫立庵(しぎたつあん)(Map)


 この名称は、西行(さいぎょう:武士・僧侶・歌人 1118〜1190年)が詠んだ歌にある「鴫(しぎ)がたたずむ沢」の表現から付けられたそうです。
 江戸時代初期(1664年)に崇雪という人物が、西行の歌にちなみ鴫立沢の標石を建てますが、その裏に刻まれた「著盡湘南清絶地:清らかですがすがしく、このうえもなく湘南は素晴らしい所」(中国の景勝地に例えた言葉)の表現が、湘南という名称の始まりとされます。
 その後、俳人大淀三千風が入庵(1695年)して以来、京都の落柿舎(らくししゃ)、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場とされるそうです。
 敷地内には歌碑や墓碑が並ぶ場所柄ゆえ、年配の来訪者が多い名所です。
 五七五という言葉のリズム感は好きなのですが、どうもその先までは関心が向かいません。
 でも、京都落柿舎は門前で引き返したのに、ここには入ったのですから、関心を持つ日も遠くないのかも知れません……




旧島崎藤村邸(Map)

 作家島崎藤村の、終の棲家(ついのすみか)となった「静の草屋」(藤村の命名)が大磯にあります。
 明治時代の名だたる方々の別荘地は、海に面した丘の上にありますが、この家は庶民の家並みの中にひっそりとたたずんでいます。
 藤村がこの地に移り住むことになったのは、第二次世界大戦開戦に備えて「事変のため六十五歳以上のものは、万一の場合帝都を去れ」との疎開命令がきっかけで、69歳での引越となります(とんでもない時代だったことを再認識します)。
 静子夫人(「静の草屋」の名はここからなのでしょう)によると、藤村が最も気に入った書斎だったと伝わります。


 旧島崎藤村邸周辺には、昔ながらの狭い路地が迷路のように続いています。
 いまどき家の前には、車が通れる道幅が求められますが、この地に家が建ち並んだころの必須条件としては、下水路の設置が重要だったと思われます。
 当時はそれを満たせば、道は歩ける幅で十分とされ、路地の原型となったようです(右下写真の路地中央に見える帯は、下水にふたをしたもの)。
 現在でもそんな路地は、平坦地の狭い島や、港・海岸に面した場所等の、人が密集する場所で見かけられます。

 ほど近い国道1号線の信号に、「滄浪閣(そうろうかく)前」の看板があります。
 その海側に、かなり大きめの宴会場的な建物が、閉鎖された姿で残されていますが、それが伊藤博文旧居の滄浪閣のようです。
 関東大震災で倒壊した後に再建され、2007年まで大磯プリンスホテル別館とされますが、閉鎖後に売却されることとなります。
 大磯町が歴史的建築物保存のために名乗りを上げるも、売却額が約25億5千万円では到底無理と断念しますが、新しい所有者に建物の保存協力を求めるそうです。
 当時は政治活動にも利用され、日露戦争の御前会議の下会議が行われた等と聞くと、再建されたとは言え中を見てみたい気もするので、大磯町には頑張っていただきたいところです。
 ──「滄浪」には、何事も自然の成り行きにまかせ身を処する、との意味があるそうで、伊藤博文の人物像にふさわしい気がします。

 伊藤博文が居を構えてからこの辺りには、山縣有朋、西園寺公望、大隈重信など、著名人の別荘が多く建てられ、明治の末には150戸以上の別荘がありました。
 それらの土地はどこも広く、海辺の丘の上に位置していたので(砂丘の上の楼閣か?)、現在ではその跡地を「海辺で暮らす」等のキャッチフレーズでの、ミニタウン的な再開発が盛んなようです。
 先日延焼した旧吉田茂邸(ここは山の上)は、当然ながら門は閉ざされたままですが、再建に向けての草の根運動が始まっていました。


 基本的にのんびりとした町なのですが、国道1号線だけは、渋滞に参加したい(?)車の列が続くことになります。
 道が狭いこの付近の迂回路として西湘バイパスがあっても、そちらも混雑していそうです(これまで何度も登場した相模湾沿いの国道134号線は、大磯駅付近が終点になります)。
 でも、一歩路地に踏みいれば、狭い道の入りくんだ町並みからは、落ち着きや、懐かしい雰囲気が感じられ、時間の流れ方に大きなギャップがある町、という印象を受けました。

 上写真は大磯漁港で、10cm程度の魚(カタクチイワシ?)ですがよく釣れるようで、10分程度ブラブラしている間に、3度ほど釣り上げる姿を目にしました。
 獲物は小さくとも釣れれば楽しいわけで、この付近の雰囲気は、天候や陽気のよさ+αの明るさが感じられました。
 大きな別荘などはもてあましそうなので、小さな獲物でもよろこべる方が、気が楽なのかも知れません……

2010/05/24

夏を待てない海遊び──平塚

2010.5.4
【神奈川県】

平塚(Map)

 これまで歩いた、鎌倉〜茅ヶ崎までの地名からは「海」が思い浮かびますが、あまり縁がなかったせいか平塚からは「平塚競輪」を想起してしまいます(七夕もありましたっけ……)。
 平塚の「塚」には、土を盛り上げて作られた墓の意味があり、そのルーツとされる伝説が残されています。
 桓武天皇(737年〜806年:平安京遷都)の血筋とされる平真砂子(たいらまさこ)が、この地で亡くなり塚を築いて弔ったが、塚は風化して平たくなった。もしくは「平氏の姫の墓」から「平塚」とされた、と伝わるようです。

 現在も都内では交通量の多い中原街道(東海道整備以前の主街道:虎ノ門〜平塚)の名は、徳川家康によって平塚に作られた中原御殿(将軍家の別荘)に由来するそうです。
 わたしの現住所は川崎市中原区で、目の前を中原街道が通り、近くに徳川家の鷹狩りに利用された小杉御殿があったことから、当時は平塚と性格が似た町だったのかも知れません。
 ですが、この付近の区名等で使われる「中原」の名称は、街道名にちなんだそうですから、ルーツは平塚にあったことになります。

 平塚では早くから工場誘致が行われ、太平洋戦争時には軍需工場が密集していたため、1945年の平塚大空襲で落とされた爆弾(焼夷弾)は、東京都八王子(航空機の製造工場があったそう)に次ぐ数だったそうです。
 平塚の「七夕まつり」は1951年に始まりますが、その前年に開催された「平塚大空襲の復興祭り」を起源とするそうです。
 東京大空襲は大きく取り上げられますが、主要軍事施設は周縁地域にあり、被害だけでなくその後の占領地とされた数や面積では、神奈川県は多い部類だと思われます(基地移設問題に絡めようとする意図はありません)。


 相模川河口の窪んだ入江に作られた須賀港の歴史は古く、空海来訪の伝説や、江戸時代には、千石船による江戸交易の寄港地として栄えたそうです。
 町中には、東海道が整備される前(江戸時代初期)の主要道とされた中原街道、その後の東海道、そして海の道と、交通・流通の要であった土地柄がしのばれる史跡が数多く残されているようです。
 ハイキング姿の年配グループのような、史跡めぐりをする方には興味深い土地かも知れません。
 これまで、駅に降り立つと海側を目指していましたが、陸側にも興味を感じはじめたこのごろです(そんなグループの仲間入りか?)。
 上写真は、須賀港にある船底の塗装場。


 上写真は、相模川の最下流に架かる新湘南大橋の海側に並ぶ釣り宿街で、『釣りバカ日誌』のハマちゃん、スーさんが現れそうなロケーションです。
 帰港する釣り船を数隻見かけましたが、出発は朝早いでしょうから、昼過ぎだとみんな上がった後なのか、所々に釣果の話題等で盛り上がるグループが見られます。
 ここの船釣りは、都心からのアクセスの良さと、季節によって狙える魚種も豊富(アジ、サバ、イサキ、マダイ、ハナダイ、ホウボウ、ヒラメ等)なことから、人気があるようです。


 以前は、漁船や釣り船も、上写真の相模川河口を経由して海に出ていましたが、現在は海側に新しい港湾施設(右写真)が作られたので、そこから海に向かう船が多いようです。
 海側の新港はマリーナ的施設なのに、係留されているのは漁船や釣り船がほとんどです。
 場所柄、釣り船の需要が多く、レジャーボート等は入り込む余地がなかったのか?
 そのため、釣り宿の目の前にある旧さん橋は使われなくなり、崩れるままの状況に見えます。
 それでも立ち入れる場所は、釣り人(おか釣り)たちに埋め尽くされています。
 釣りをしないので分からないのですが、彼らの目的って魚を釣り上げることなんですよね?
 海が好き、という気持ちは理解できますが、お金の掛からない暇つぶし、ってのもありそうな気がしました。
 どこも、釣れてるようには見えなかったもので……(大変失礼)


 海に面した新港の西側には、レジャー向けの砂浜が続いており、湘南平塚ビーチセンター前の浜辺には、様々なビーチスポーツ向けの施設が整備されています。
 ここには、ビーチバレーコート、ビーチサッカーコート、ビーチフットボール(タッチラグビーとアメフトをルーツとするような浜辺のスポーツ)コート、3 on 3(バスケットボール)コートがあります。
 利用は無料なので、愛好者が集まれば気軽に汗を流せそうな施設です。

 ビーチバレー選手の浅尾美和は「水着は小さいほど強そうに見えるんです」と、頼もしい(?)発言をしています。
 今の季節、陽気のいい日は海に飛び出したくなる気持ちは、とてもよく分かりますが(わたしも同じ)、みんなTシャツ・短パンでプレーしているので、それほど強そうな人はいないようです。
 まだ季節が早いようなので、夏には強そうな選手を見に来なくちゃ! ですね……

 海岸の沖合1km付近にある平塚沖波浪等観測塔は以前、独立行政法人防災科学技術研究所の実験場でしたが、独法機関の見直し伴い、2009年に東京大学が施設を取得し、その運営が移管されました(事業仕分けでは、このような見直しをして欲しいものです)。
 東大では、分野を超えた海洋研究と人材育成を目的とした運用を目指しているそうです。
 数ある○○法人の観測データ等の情報開示には、「義務は果たしているでしょ」との素っ気ない印象を受けることがあります(最低限それでいいのだが)。
 同じ研究機関でも、大学の報告には訴えかけてくるものがある、と感じたとき、○○法人の熱意不足に不満を覚えてしまいます。
 海上の観測塔と海底ケーブルでつながれた陸上の関連施設は、関東大震災を引き起こした相模トラフ(フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界)周辺に設置された、ケーブル式海底地震計等の中継局にもなっているそうです。
 それこそ、天下りの役人ではなく、バリバリの研究者に監視してもらいたいと思ってしまいます……

2010/05/17

砂と生きる──辻堂、茅ヶ崎

2010.5.01
【神奈川県】

辻堂、茅ヶ崎(Map)

 前回の、鵠沼海浜公園スケートパーク付近から相模川河口まで、「湘南海岸 砂浜のみち」という遊歩道が整備されています。
 全長は8km(小田急線片瀬江ノ島駅付近までを含めると10km程度)ありますが、ズーッと砂浜に沿って歩ける道です。
 確かに歩きではあるものの、平坦な舗装道なので歩きやすく、晴天で風のない日などは、気持ちいいので休まず歩いたりしますが、海辺ですから日焼けにはお気をつけ下さい。

 ここは辻堂海浜公園で、ジャンボプールや交通公園等がある広い公園です。
 連休の凧揚げ大会の準備でしょうか、一般人では扱わない大きい凧を揚げていました(訪問したのは連休中です)。

 この地域には公園のほかにも、小学校から大学までが集中していたり、大きな公団住宅や、ゴルフ場まで隣接していることから、大規模な開発が行われたように見受けられます。
 訪問時には、前回の鵠沼のような沼地が広がっていて、大規模な地盤改良によって開かれたと思っていましたが、調べてみると、以前ここには米軍基地があったと知り、驚きました。
 軍関連施設としての歴史は長く、江戸時代の銃術鍛練場から、明治時代には海軍の演習場とされ、砲術試験場および陸戦演習場となります。
 第二次世界大戦後に接収され、在日米海軍辻堂演習場となり、この地での演習から、朝鮮戦争の局面を変えた「仁川(インチョン)上陸作戦」の成功が生まれた、と伝わります(マッカーサー最後の賭けと言われます)。
 演習場が返還されたのは1959年で、それまでシーサイドラインの国道134号線は北側を迂回しており、沖縄や福生と同じ状況でした。


 上の烏帽子岩(えぼしいわ)は、米軍演習の標的とされ、岩の先端が欠けてしまい現在の姿となったそうです。
 江戸時代も、大筒稽古の標的としたそうですから(で、当たったんかい?)、米軍だけを責めるわけにもいきません。
 沖縄では、現在でも鳥島や、無人島が演習の標的とされており、そこでクラスタ爆弾が使用されたと耳にします。
 軍の兵器は野蛮に違いありませんが、近ごろは、基地移転問題に敏感になった「アレルギー反応」が広まっているように思われます。
 米軍はイヤだが、国土を守れるとは思えない自衛隊なら歓迎なのだろうか?
 ならば国民にも、外国から攻められない工夫を考える義務があるし、愚案であれ提案する姿勢が必要になります。
 安全保障について、真剣に考えるいい機会ではないか、とも思います。
 ──昔の琉球王国は、最小限の武力しか備えていなかったため、大和(日本)に蹂躙されたままの状態で、歴史を重ねています……


 上写真は、防砂柵を越えて砂がたまる様子を示したい絵です(奧は江の島)。
 今年の正月に歩いたとき、遊歩道の一部はほとんど砂に埋め尽くされてしまい、自転車では走れない状況でしたが、この日は片付けられていました。
 まずは遊歩道の掃除が求められますが、防砂林を横断する道等は後回しにされており、遊歩道と防砂林の間に砂の山が残されていたりします。
 加えて、砂浜の防砂柵にたまった砂の除去が必要ですから、別の対応が必要になります。
 片瀬海岸では、海の家(いまどきはビーチハウス?)建設準備のため、ショベルカーやブルドーザーで整地していました。

 少し場所は離れますが(茅ヶ崎のサザンビーチ近く)、ここでは、砂浜が浸食されてしまうので、大量の土砂が運び込まれ砂浜の「養浜事業」が行われています(写真奧の砂山は運び込まれたもの)。
 この付近の砂浜は、相模川から流れ出す土砂によって形成されたと考えられています。
 昭和30年代から、ダム建設や、砂利採取、都市開発が進み、土砂の流出量が激減します。
 その相模川系のダムで、最も土砂のたまる相模湖(相模貯水池)から、直接土砂を運び込んで砂浜を守ろうとしています。
 双方に必要な応急措置とは言え、お金を掛けすぎにも思えます。
 建設した構造物を壊すわけにもいかないので、将来的にはヘッドランド(人工岬:砂浜の浸食を防ごうとする取り組み)のような施設で、砂の流出を食い止めるような対策がメインになることと思われます。
 ──日本三景とされる「天橋立」では、砂の流出を食い止める堤防を作ったため、「天の串刺し」などと酷評されましたが、徐々に砂が堆積しているようです。

 そのような、砂との果てしない戦いを目にすると、安部公房の小説『砂の女』の状況を想起したりします……


 海岸でバーベキューするグループを多く見かけますが、陽気のいい日には誘われる衝動も理解できます。
 ですが、上空にはトンビやカラスの群れが集まるし、風が吹けばお皿の上は砂だらけ、という状況です。
 まあ多少の砂を食べても、お腹を掃除してくれるかも? という認識でいいんでしょうね……(上写真はヘッドランド付近の磯遊び)

 ここは、ヘッドランドとサザンビーチの間に設置されたボードウォークにある、木造の展望デッキです。
 砂の影響や、木材の腐食等はありますが、気持ちのいいデッキなので人気があり、この日も盛況でした(広くありません)。
 右写真は柱があってよく見えませんが、若い兄ちゃん3人組が肩を並べてゲームか何か(?)に夢中です。
 若い男の3人組を目にすると、どうも苦笑いしてしまいます。
 特段に思い出は無いのですが、最初の2人が顔を合わせて「アイツも呼ぶか」と、身近な仲間は集まっても「で、何する?」と、当てもなくダラダラと時間を過ごしてしまう昼下がり、なのではあるまいか? と。
 彼らがそうなのか分かりませんが、そんな無駄遣いと思える時間の過ごし方も、「まったりとした」等の表現を使うと、将来振り返ったときに、「ぜいたくな時間だった」と思えるのかも知れません……


 茅ヶ崎には名の知れた名称を持つ通りがあります。
●雄三通り
 かつて加山雄三が住んだことにちなむも、以前は父親の上原謙が暮らすことで、父親の名で呼ばれていたそうですから、名称は世襲制のようです。
●サザン通り
 海水浴場名を「サザンビーチ」に改名(1999年)したことに伴い(サザンオールスターズにあやかり、大盛況だそう)、ビーチへと続く通りに命名(2000年)。
●ラチエン通り
 サザンオールスターズ『ラチエン通りのシスター』で名が知られますが、ドイツ人貿易商のルドルフ・ラチエンが住んだ邸宅があり、彼が桜並木を作ったこと等に因むそうです。

 やはり、加山雄三や、桑田佳祐のような人を「海の子」と言うのでしょうから、「湘南ボーイ」の敷居は高そうです……(上写真は茅ヶ崎漁港)


 上写真は、相模川河口付近で飛び回るカイトサーフィンです(風が強いと宙づりになります)。
 それぞれの目的に適した場所で、海のレジャーを楽しんでいるようですが、先日この付近で水上バイクの事故がありました。
 茅ヶ崎付近のサーファーには、オッサンが多いような印象もあるので、くれぐれも、無理をしませんように。
 でも彼らが「海の子」だったら、部外者が物言うことではありませんね……

2010/05/10

ひとを吸いよせる海辺──片瀬、鵠沼海岸

2010.4.24
【神奈川県】

片瀬海岸(Map)

 近ごろ付近でよく耳にする韓国・中国語を話す方々は、主に観光バスでやって来ます。
 お目当ては、江の島(今回訪問せず)や水族館かと思うのですが、彼らも海外旅行では、ガイドブックを参考にしているはずです。
 そこに何を載せるか考えると、江の島のバックに富士山が見える写真を選択するだろうと、推測します。
 おそらくわれわれが見ても「これいいねぇ〜」という写真なんだと思います。
 実際に富士山が望めたら最高なのですが、見えない日が多いのも確かです。
 こればっかりは仕方ないとあきらめ、あちこち歩かされて、お土産を買わされることになるのかも知れません……
 でも、彼らは東京方面からやって来るのでしょうから、海が開けた光景には、気持ちの良さを感じているのではないでしょうか?

 本来、江の島や片瀬海岸というスポットには、右写真のような家族やアベックの姿がふさわしい気がします。
 お台場等の東京湾内ではなく、近郊としてはアクセスもいい「湘南の海」に、「キレイではないけれど……」と、覚悟の上で足を運ぶ海辺であるように思います。
 ガキの時分、砂浜のイメージとはこの付近の光景に支配されたものですが、伊豆や、外房へと見聞が広がるたびに「江の島とは違う!」と思ったものでした……(身近な海岸が基準となるのは仕方のないことですよね)

 海岸付近からの狙い目は、当然バックは富士山ですが、「仕方ないか……」の本日でした。
 でもそのおかげで、普段は目にとまらない丹沢山系(大山)に関心を向けることができました。
 連山なので、特徴をつかみにくいのですが、雲のおかげで何となく絵になったか?


新江ノ島水族館(Map)


 立地はベストでも、「どうも物足りない」「2,000円の入場料は高いよ!」との印象があります(ガキ時分からの思い出はあるのですが…)。
 それでも「何か新しい展示があるかも?」と、水族館好きは吸いよせられてしまいます。
 もうブームの去った「オワンクラゲ」(2008年ノーベル賞を授与された下村脩さんの研究対象)ですが、当時は慌てて展示したせいでしょうか、幼生のように小さな個体でしたが、現在は成長した姿を見ることができます。

 イワシの群れの動きは速いので、雰囲気だけでも(上写真)。
 群れて泳ぐのは、すべての個体が「オレだけは食べてくれるな!」という、保身行動によるそうです。
 ということは、この水槽には彼らを捕食する魚がいるわけで、補給しないと減るばかり(この表現好きではないが正しい)というのが現実で、ここでは「生態系の有り様を再現している」ことになります(イルカショー等では、ご褒美に小魚を与えてますから、ここだけ残酷とは言えません)。


 前身である「江ノ島水族館」の開館は1954年で、オーナーは映画会社の日活でした(現在も同系列のよう)。
 これは石原裕次郎と関連があるのか? と思いきや、彼が日活に入社したのは1956年ですから、別な理由のようです(ちなみに吉永小百合さんは1960年入社)。
 その当時の建物はいまだに健在で、モデルルームの展示施設として利用されていました。
 いくらリニューアルされても、昔の姿を知る者は、建物の寿命の長さに驚かされます(国道134号をくぐる地下の歩道も健在)。
 水族館当時の印象として、少し大きめの水槽(現在の水族館のイメージとは比べものにならないほど小さい→熱帯魚等の販売店のイメージ)が壁に並んでいたような記憶がありますが、水の入った水槽を支えるために、かなり頑丈に作られた建物なのかも知れません。


旧くげぬまプールガーデン(Map)

 とてもローカルな施設紹介になり、スミマセン。
 ガキの時分によく来たプールで、海に面している場所柄、海岸に出て(出入り可能)海で泳いでも「海の家」使用料は必要ないので、得した気分になれる施設でした。
 その後各地に流れるプールやウオータースライダー等が登場してから、純粋に泳ぐのではなく、遊ぶ感覚に変化していった気がします(小学校低学年→高学年の意識の差かも)。
 現在は「鵠沼海浜公園 スケートパーク」という、スケートボードの遊戯施設になっています。


 写真は、スノーボードのハーフパイプのような施設で、頂上は5m程度の高さがあります。
 「飛んでくれ!」と応援しながら構えていましたが、利用者はプロではないのでそれは無理な要求だったようです。
 見ていると、3〜4回往復する中で技にチャレンジするようで、その出来次第で仲間からは、拍手やヤジが飛んでいました。
 驚いたのが子どもたちで、兄ちゃんたちのスキをついて集団でコースになだれ込んできます(ちびっ子ギャングのイメージ)。
 アプローチは底の部分からですが、振り子のようにみるみるその振幅を大きくしていきます。
 この子は恐怖心が無いようで、頂上から垂直に近いスロープを、空身の体で滑り台のように滑り降りていました。
 プロテクターを付けていても、おじさんはビビッてしまいそうです……


鵠沼皇大神宮(くげぬまこうだいじんぐう)(Map)

 以前から「くげぬま」となじんでいた「鵠」って何? と調べるうちに、この神社の存在を知りました(JR藤沢駅、小田急線藤沢本町駅が最寄り駅)。
 808年延喜式内社(えんぎしき:905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により編纂が始まり967年から施行された格式で、記載された社は朝廷から重要視された)とされる、石楯尾神社(いわだておじんじゃ:日本宗教の源流である自然崇拝(アニミズム)的な古神道のひとつ)が創建され、その後の832年には、鵠沼皇大神宮が創立されます。
 分かりづらい説明が続きますが、古神道の石楯尾神社は、朝廷の方針で新しい神道(現在も伝わる神話の世界観を持つ教義)である、鵠沼皇大神宮に置き換えられていったようにも受け止められます。
 ──いわゆる土着的宗教が、政治利用が目的の宗教に飲み込まれた事を示そうとする(新しい神道の正当性を誇示する)施設、にも感じられます。

 夏の例祭では、高さ約8mある人形山車(だし)が9基の繰り出すそうです(大きな倉庫には9つの扉がありました)。
 ですが、鳥居の外は電線が障害となるので、分解して巡行するという記述を目にしました。


 鵠沼の地は東海道線を境にして、南北で町の歴史に大きな違いがあります。
 前述の伝統を持つ北側は約1200年の歴史がありますが、南側は東海道線の開通により開けたので(1887年藤沢駅開業)、120年ほどの歴史しかありません。
 以前の東海道線南側一帯は、塩を含んだ砂丘・湿地帯で、耕地に適さなかったことが要因と思われます。

 本項のきっかけとなった「鵠」のルーツについて。
 鵠:こく、くぐいと読み、白鳥の別名、弓の的の中央にある黒い星、との意味があります。
 縄文時代までは、現在の東海道線(藤沢駅)付近まで海だったようで、寒冷期を向かえその海が後退した(現代の温暖化の逆)名残の沼地があったことは想像できます。
 でも、そこに白鳥が多く飛来した光景を想像すると、どうも別の地域が思い浮かんでしまいます。
 地域のイメージ作りには、時間と労力が必要と思われますが、現在の湘南のイメージはつい最近作られ、あっという間に浸透していったことに気付かされます。
 明治時代に鎌倉・逗子で始まった海水浴という遊びが広まるにつれ、かつての白鳥に替わりひとが吸いよせられ、サーファーや、カラスの黒に染められる海辺へと移り変わります。