2010/05/10

ひとを吸いよせる海辺──片瀬、鵠沼海岸

2010.4.24
【神奈川県】

片瀬海岸(Map)

 近ごろ付近でよく耳にする韓国・中国語を話す方々は、主に観光バスでやって来ます。
 お目当ては、江の島(今回訪問せず)や水族館かと思うのですが、彼らも海外旅行では、ガイドブックを参考にしているはずです。
 そこに何を載せるか考えると、江の島のバックに富士山が見える写真を選択するだろうと、推測します。
 おそらくわれわれが見ても「これいいねぇ〜」という写真なんだと思います。
 実際に富士山が望めたら最高なのですが、見えない日が多いのも確かです。
 こればっかりは仕方ないとあきらめ、あちこち歩かされて、お土産を買わされることになるのかも知れません……
 でも、彼らは東京方面からやって来るのでしょうから、海が開けた光景には、気持ちの良さを感じているのではないでしょうか?

 本来、江の島や片瀬海岸というスポットには、右写真のような家族やアベックの姿がふさわしい気がします。
 お台場等の東京湾内ではなく、近郊としてはアクセスもいい「湘南の海」に、「キレイではないけれど……」と、覚悟の上で足を運ぶ海辺であるように思います。
 ガキの時分、砂浜のイメージとはこの付近の光景に支配されたものですが、伊豆や、外房へと見聞が広がるたびに「江の島とは違う!」と思ったものでした……(身近な海岸が基準となるのは仕方のないことですよね)

 海岸付近からの狙い目は、当然バックは富士山ですが、「仕方ないか……」の本日でした。
 でもそのおかげで、普段は目にとまらない丹沢山系(大山)に関心を向けることができました。
 連山なので、特徴をつかみにくいのですが、雲のおかげで何となく絵になったか?


新江ノ島水族館(Map)


 立地はベストでも、「どうも物足りない」「2,000円の入場料は高いよ!」との印象があります(ガキ時分からの思い出はあるのですが…)。
 それでも「何か新しい展示があるかも?」と、水族館好きは吸いよせられてしまいます。
 もうブームの去った「オワンクラゲ」(2008年ノーベル賞を授与された下村脩さんの研究対象)ですが、当時は慌てて展示したせいでしょうか、幼生のように小さな個体でしたが、現在は成長した姿を見ることができます。

 イワシの群れの動きは速いので、雰囲気だけでも(上写真)。
 群れて泳ぐのは、すべての個体が「オレだけは食べてくれるな!」という、保身行動によるそうです。
 ということは、この水槽には彼らを捕食する魚がいるわけで、補給しないと減るばかり(この表現好きではないが正しい)というのが現実で、ここでは「生態系の有り様を再現している」ことになります(イルカショー等では、ご褒美に小魚を与えてますから、ここだけ残酷とは言えません)。


 前身である「江ノ島水族館」の開館は1954年で、オーナーは映画会社の日活でした(現在も同系列のよう)。
 これは石原裕次郎と関連があるのか? と思いきや、彼が日活に入社したのは1956年ですから、別な理由のようです(ちなみに吉永小百合さんは1960年入社)。
 その当時の建物はいまだに健在で、モデルルームの展示施設として利用されていました。
 いくらリニューアルされても、昔の姿を知る者は、建物の寿命の長さに驚かされます(国道134号をくぐる地下の歩道も健在)。
 水族館当時の印象として、少し大きめの水槽(現在の水族館のイメージとは比べものにならないほど小さい→熱帯魚等の販売店のイメージ)が壁に並んでいたような記憶がありますが、水の入った水槽を支えるために、かなり頑丈に作られた建物なのかも知れません。


旧くげぬまプールガーデン(Map)

 とてもローカルな施設紹介になり、スミマセン。
 ガキの時分によく来たプールで、海に面している場所柄、海岸に出て(出入り可能)海で泳いでも「海の家」使用料は必要ないので、得した気分になれる施設でした。
 その後各地に流れるプールやウオータースライダー等が登場してから、純粋に泳ぐのではなく、遊ぶ感覚に変化していった気がします(小学校低学年→高学年の意識の差かも)。
 現在は「鵠沼海浜公園 スケートパーク」という、スケートボードの遊戯施設になっています。


 写真は、スノーボードのハーフパイプのような施設で、頂上は5m程度の高さがあります。
 「飛んでくれ!」と応援しながら構えていましたが、利用者はプロではないのでそれは無理な要求だったようです。
 見ていると、3〜4回往復する中で技にチャレンジするようで、その出来次第で仲間からは、拍手やヤジが飛んでいました。
 驚いたのが子どもたちで、兄ちゃんたちのスキをついて集団でコースになだれ込んできます(ちびっ子ギャングのイメージ)。
 アプローチは底の部分からですが、振り子のようにみるみるその振幅を大きくしていきます。
 この子は恐怖心が無いようで、頂上から垂直に近いスロープを、空身の体で滑り台のように滑り降りていました。
 プロテクターを付けていても、おじさんはビビッてしまいそうです……


鵠沼皇大神宮(くげぬまこうだいじんぐう)(Map)

 以前から「くげぬま」となじんでいた「鵠」って何? と調べるうちに、この神社の存在を知りました(JR藤沢駅、小田急線藤沢本町駅が最寄り駅)。
 808年延喜式内社(えんぎしき:905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により編纂が始まり967年から施行された格式で、記載された社は朝廷から重要視された)とされる、石楯尾神社(いわだておじんじゃ:日本宗教の源流である自然崇拝(アニミズム)的な古神道のひとつ)が創建され、その後の832年には、鵠沼皇大神宮が創立されます。
 分かりづらい説明が続きますが、古神道の石楯尾神社は、朝廷の方針で新しい神道(現在も伝わる神話の世界観を持つ教義)である、鵠沼皇大神宮に置き換えられていったようにも受け止められます。
 ──いわゆる土着的宗教が、政治利用が目的の宗教に飲み込まれた事を示そうとする(新しい神道の正当性を誇示する)施設、にも感じられます。

 夏の例祭では、高さ約8mある人形山車(だし)が9基の繰り出すそうです(大きな倉庫には9つの扉がありました)。
 ですが、鳥居の外は電線が障害となるので、分解して巡行するという記述を目にしました。


 鵠沼の地は東海道線を境にして、南北で町の歴史に大きな違いがあります。
 前述の伝統を持つ北側は約1200年の歴史がありますが、南側は東海道線の開通により開けたので(1887年藤沢駅開業)、120年ほどの歴史しかありません。
 以前の東海道線南側一帯は、塩を含んだ砂丘・湿地帯で、耕地に適さなかったことが要因と思われます。

 本項のきっかけとなった「鵠」のルーツについて。
 鵠:こく、くぐいと読み、白鳥の別名、弓の的の中央にある黒い星、との意味があります。
 縄文時代までは、現在の東海道線(藤沢駅)付近まで海だったようで、寒冷期を向かえその海が後退した(現代の温暖化の逆)名残の沼地があったことは想像できます。
 でも、そこに白鳥が多く飛来した光景を想像すると、どうも別の地域が思い浮かんでしまいます。
 地域のイメージ作りには、時間と労力が必要と思われますが、現在の湘南のイメージはつい最近作られ、あっという間に浸透していったことに気付かされます。
 明治時代に鎌倉・逗子で始まった海水浴という遊びが広まるにつれ、かつての白鳥に替わりひとが吸いよせられ、サーファーや、カラスの黒に染められる海辺へと移り変わります。

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