2010/04/26

都の門外とされた──腰越、小動(こゆるぎ)

2010.4.18
【神奈川県】

龍口寺、腰越(Map)

 龍口寺(りゅうこうじ:日蓮宗)は、江ノ電:江ノ島駅、湘南モノレール:湘南江の島駅(「ノ」「の」と表記が違います)にほど近く、ガキの時分大晦日に除夜の鐘を鳴らしたこともあり、なじみがあるくせに、通り過ぎることが多くなりました。
 刑場跡と知ってから立ち寄らなくなったのかも知れません。
 鎌倉時代のこの地には、龍口(たつのくち)刑場があり、処刑や首実検(くびじっけん:討ち取った首を提出させ、相手の氏名や経緯を確認し、戦功として承認する)が行われていました。
 この地で1271年に、日蓮宗の開祖である日蓮が処刑されそうになります(日蓮宗では処刑直前に奇跡が起き助かったと伝わる)。
 要するに血なまぐさい事は都の門外で行われ、また、京都方面からの来訪者の目につく場所ですから、見せしめ的な意味も含まれていたようです。
 その地に死者を弔う寺社が作られることは、人の気持ちとして、納得できるところです。


 龍口の地名は、この地に伝わる「五頭竜伝承」にちなんでつけられました。
 昔、鎌倉の深沢にあった大きな湖に五頭竜が住んでおり、十六人の子供が竜の犠牲になったことから、「子死越」が腰越の地名の起こりになったと言われます。
 悪事を働いていた五頭竜は、やがて江の島の女神(弁財天)に心奪われ、改心し山に姿をかえて付近の守護神となった、と伝わります。


 また、モノレール駅の反対側にある常立寺(じょうりゅうじ:真言宗→日蓮宗)には、刑場跡の名残である元使五人塚があります。
 鎌倉時代、2度目の蒙古襲来(元寇)の際に、降伏を要求する元の国使が鎌倉にやってきますが、時の執権である北条時宗は、国使5人を処刑し常立寺に埋葬します。
 この地に建てられた5基の五輪塔が、元使五人塚と呼ばれます(写真はその裏にある供養塔)。
 白鵬らモンゴル出身力士が、時折墓参りに訪れるほど有名です。

 出だしから、明るくない話題でスミマセン。でも、そんな歴史の上に現在が成り立っています。
 この日、龍口寺境内では骨董市が開かれ、にぎわっていました。

 ご存知の方も多いと思いますが、右は写真は、店舗に江ノ電の車体をはめ込んでしまった「江ノ電もなか本舗 扇屋」の店頭です。
 龍口寺の門前で、江ノ電が、江ノ島駅から腰越駅までの路面区間に出てくる目の前に位置しており、運転席付近から見ると、単線なのに対向車両が来るように見えたりします。
 この日は日曜日で、江の島方面に向かう道は渋滞しており、この道に慣れないドライバーが電車の行く手を阻んでしまい、盛んに警笛を鳴らされていました。

 運転席の窓の中は、お菓子作りの作業場になっていて、店員さんの姿を見ることができます。
 土産物店やそば屋等、表から見学できるディスプレイを備えた店もよく見かけますが、それを江ノ電の運転席から見せようとするセンスは、この土地ならではです。


 まじめそうな制服姿(これは大切!)の集団が、とてもお行儀良く見え好感を感じるのは、写真からは話し声や動作が見て取れないせいかも知れません。
 実際のGirls' Talkでは、何を話しているのやら……(見た限りは、素直そうな女の子たちに見えました)
 最近よく目にする、バッグの片側の持ち手だけを肩にかける姿ですが、中身が落ちてもファスナーを閉めて同じ持ち方をしますから、ファッションなんでしょうが、片側だけ痛みが早そうな気がしてなりません。
 オッサン、もっとほかに言うことねえのかよ?


満福寺(Map)

 腰越の満福寺と言えば、1185年源義経が兄頼朝の怒りを買い鎌倉入りを許されず、腰越の地で頼朝に心情を訴える「腰越状」を書いた寺として知られています。
 弁慶が書いた下書きとされる書状(達筆)が展示されており、下写真の本堂に飾られる彫り物が当時をイメージさせてくれます。
 いささか後付けっぽくはありますが、それがこの寺の売りですから……
 本堂内の襖絵等々は、すっかり「義経・弁慶」色に染められていて、よく見かける「ちょっとガッカリする名所」的な雰囲気を感じてしまいます。
 弁慶ゆかりのモノは各地にありますが、常人では考えられない大きなモノを弁慶に結びつけようとするのは、ネタの無さを暴露しているように思われてなりません(弁慶の手玉石、腰掛け石等があります)。


 1184年義経は、平氏追討の功績により後白河法皇から任官を命ぜられるも、「武士による政権」を作ろうとした頼朝は、朝廷との関係を断ち切ろうとしない義経に不満を抱きます。
 それ以来悪化した、頼朝との関係を修復すべく義経は鎌倉に向かいますが、鎌倉に入ることを許されず、腰越の満幅寺にとどめ置かれます。
 義経は打開策として一通の嘆願状を書き、頼朝の信望が厚い大江広元に取り次いでもらったものが「腰越状」です。
 頼朝へ届けられたものの、結局義経は鎌倉入りを許されず京都へ引き返すことになります。
 切々とした兄への思いや、これまでの平家との戦いについてつづられ、頼朝の情に訴えかけたようですが、ふたりの根底にある、育ちや考え方、そしてビジョンの相違が浮き彫りとなってしまったようです。
 その恨みを「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と発したことで、窮地に追い込まれていきます。

 関東で満福寺と言えばここになりますが、京都で同じ読みのお寺があったこと思い出しました。
 宇治近くの「萬福寺」(万福寺としていました)で、三大禅宗(臨済宗、曹洞宗)のひとつとされる「黄檗宗(おうばくしゅう)」の本山で、大陸風の建造物が印象的でした。


小動(Map)

 現在国道134号線は、緩やかな坂道として超えていきますが、鎌倉時代には都の境界とされた峠だったようです。
 付近には、上述の満幅寺、浄泉寺、小動神社等が軒を連ねます。
 当時は人が住んでなかったと思われる、七里ヶ浜から稲村ヶ崎や極楽寺あたりまでは、寺社は見当たりません。
 都の入口は稲村ヶ崎や極楽寺であっても、人の少ない七里ヶ浜を緩衝地帯としながら、この地が外郭の門とされていたように思えます。
 刑場もそうですが、都に出入りする人々でも、その内部に葬れない人たちのための寺社が密集する場所であったことが、それを示しているのだと思います。

 この地で、太宰治が女性と睡眠薬を服用し自殺を図るも、本人は助かったとのこと(それがこの地のアピールになるとは思えませんが)。


腰越漁港(Map)

 港の直売所や、町中の食堂の売り物である「シラス」等がメインかと思っていましたが、結構大きな釣り船が目立ちました(釣り人が集まりそうな立地ですものね)。
 でも、スタイルを変えられない年配の方々は、写真のように昔ながらの漁を続けてるようです。
 この港には若さの活気が感じられ、あまり見た目にはパッとしない小ぶりの海藻干し(あれが高級なのかも)にも、パキパキ対応する若者には、見ていて心地よさを感じました。

 上写真の港は、小動岬の東(七里ヶ浜)側の小さな港ですが、そこも腰越漁港の一部に含まれるそうです。


 漁港に面した神戸川(ごうどがわ)の西側には、江の島へと続く海水浴場が広がります。
 彼女たちがやっているのは「ビーチテニス」というものになります。
 ビーチバレーにテニスの要素を取り入れ、バドミントンのようにラケットで空中のボールを打ち合うもので、ブラジルで生まれ、オリンピック種目となることを目指しているようです。


●ご報告
 ようやく今週から社会復帰の見通しがつきました。
 ご心配をお掛けし、申し訳ございませんでした。
 blogは継続するつもりですが、状況との相談になると思われ「やってみなけりゃ分からない」と思っております。
 さぁ、頑張らなきゃ! です……