2010.11.20
【神奈川県】
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鶴見川の流路を大まかに説明する際、「JR南武線〜東急東横線〜JR横浜線を乗り継いで、町田方面へ向かうイメージ」で伝わるとすれば、横浜線に乗り換えた辺りに差しかかります。
横浜線小机駅〜新横浜駅〜東横線大倉山駅を歩いていると、新横浜のビル街は目立ちますが、やはりランドマークである「横浜国際総合競技場(日産スタジアム)」には存在感がありますし(川沿いは他に大きな構造物はない)、この日はその周囲をグルッと歩いただけという印象があります。
本タイトルは松尾芭蕉「夏草や兵どもが夢の跡:なつくさや つわものどもが ゆめのあと」の句を拝借し、季節は夏でもないので枯葉がつもる、としました。
小机城跡(Map)
上写真は時代劇などで目にする「冠木門(かぶきもん:門柱に横木(冠木)を渡した門)」が復元されたものです。
門の内側には、ゲートボールや少年野球のグランドに使われる広場がありますが、この日は人けがほとんどありません。
鶴見川の周辺には平坦な土地はいくらでもあるのに、史跡地にはイベント広場的な施設も必要との判断か、公園整備事業に盛り込まれたようです。
いくら丘陵地でも自治体側とすれば、まず管理下の土地から有効活用を考えようとする姿勢は、間違いではないと思います。
でも、お年寄りが丘の上まで階段を登ってくるのだろうか?
城門について調べるうちに、地面にじかに柱を立てる「簡易な掘立建物」と、礎石の上に恒久的に建てられるものに区別されることを知りました。
礎石を用いない建物が「掘っ立て小屋」とされるのは何となく分かりますが、礎石を敷くと「恒久的建物」になるとは知りませんでした(遺跡によっては掘立建物の遺構も残されていると思うのですが)。
小机城は、永享の乱(えいきょうのらん 1437〜39年)【室町時代の鎌倉公方(かまくらくぼう:室町幕府の出先機関)である足利持氏と、関東管領(かんとうかんれい:鎌倉公方を補佐する役職で、上杉謙信を最後に消滅)上杉憲実の対立に端を発っし、室町幕府将軍が持氏討伐を命じた戦い】での記録が残るものの、正確な築城年代は分からないようです。
この城に関わる人物で有名なのが太田道灌(おおたどうかん 1432〜86年:室町時代の武将で江戸城を築城)で、1478年長尾景春の乱(1476〜80年)鎮圧の活躍で名をはせます。
ここに新たな学習テーマがあります。
鎌倉幕府から室町幕府(京都)に都が移り、関東の鎌倉公方と、関東管領が機能しないために多くの争いが生じた背景を知らないと、上記もしくは戦国時代へと向かう世の中の空気について、理解できないという課題です。
「関東での小競り合いまで調べてられない」と逃げていましたが、少しはかじらねばという状況に踏み込みつつあります。
何でもそうですが、かじってみれば理解できるのに手前で足踏みするのは、「苦手意識」を盾にした「面倒くささ」なんでしょうね。
でも、必要に迫られて「しょうがねぇなぁ」と、取り組むようにしないと、脳の老化は進むばかりという気もします……
わたしが上写真の城門や竹藪から想起するのは、黒澤明、市川崑映画なので、ある意味「歴史・文化の教科書的存在」であったと言えそうです。
黒澤さん、市川さんの映画が目指す「本物志向」の作品には、細部でも新たな発見は無いものかと、食い入って観ていたことが思い出されます。
テレビの時代劇には、時代考証を突っ込まれないような工夫しか見えないので、ぼんやりと眺めるだけのプログラムとの印象があります。
生きた素材かは分かりませんが、名匠の映画は歴史・文化に関心を向けるきっかけとしては、絶好の教材ではないでしょうか。
城跡の谷間に並ぶロウソクの入った竹筒は、今回で7回目となる「竹灯籠まつり」(10月31日)に使われたものです(台風の影響で2日間の予定が1日だけの開催。そう言えば台風来てましたね)。
それにしてもまだ片づいてないのは、単なる怠慢か、年末あたりに使い回すつもりなのか?
山城に多い空堀(水の張られていない堀)の底には、当然枯葉等がたまりますが、ここでは堆肥を作るために枯葉を集めているようです。
そのおかげで堀の底は、尾瀬などの湿地帯を歩くようなふっかふかの地面になっています(これ快感!)。
日も当たらない場所なので、枯葉の下は水分がかなりグジュグジュしているらしく、この季節でも蚊がブンブン飛んでいます(部屋の中を1年中蚊が飛んでるという話が思い浮かびました)。
ベンチに枯葉がつもるこんな光景を撮りたかったんです(もう少し盛りたいところですが、わたしの演出ではありません)。
この絵に至るまでの情景を思い浮かべていると、いつの間にか今年の出来事を振り返っていることに気付きます(あ〜っ、年賀状買わなきゃ……)。
人出の少ない公園の静けさが伝わるかと思いますが、この丘陵地の下にはJR横浜線のトンネルが通り、50m程先には城跡を分断する第三京浜(有料道路)が通されています。
関東の歴史が短いからぞんざいに扱われるのか、「首都圏に必要なインフラ」は分かるも、もう数十m程度の「気配り」をお願いしたいところです(奈良では現在も未発掘の遺跡がザックザク発見されています)。
落ち葉には桜の葉が多いようなので、春には人の出そうな場所です。
以前の茅ヶ崎城跡でもアンテナが反応しましたが、ここも人が少なく落ち着いて瞑想にふける(タイトルのように歴史に思いをはせる)ことができましたし、何となく「城跡マニア」の芽が出てきたように感じられた散策コースです。
横浜国際総合競技場(Map)
横浜国際総合競技場(日産スタジアム)付近で見られる「緑とコンクリート」のコントラストは、新横浜地区の開発に際して、地元の理解を得るために線引きした自治体方針の象徴のように見えます。
新横浜駅は東海道新幹線開業(1964年)に伴い、鶴見川近くの田園地帯にこつ然と出現しました。
新駅の候補地には、横浜線と東横線の交差する菊名駅付近が有力視されるも、西武グループ創業者堤康次郎の「腕力」により現在地に決定されます。
ライバルであった、東急電鉄創業者五島慶太が負けたことにより、東横線沿線住民は新横浜へのアクセスに「何だかなぁ」という不便さを感じ続けることになります(菊名乗り換えでひと駅ですが、新幹線利用の際その乗り換え時間の見積がプレッシャーになります)。
堤は周辺の土地をガッチリ買い占めた後、旧国鉄に売却して得た資金で写真左上の新横浜プリンスホテルなどを建設します(地域の活性化に貢献したことは確かですが)。
開業当時、駅周辺の田園風景と「横浜」のイメージとのギャップから、「ここが横浜?」とのエピソードが多く残されるような光景でした。
現在の駅周辺も、夜は暗い町というイメージがあります(看板等の規制があるのか?)。
新しいビジネス街なので歓楽街の無い健全な地域とも言えそうですが、ラブホテルのネオンだけは派手な気がします。
散策の道すがら橋の欄干に「ワールドカップ大橋」(2002年開通)なるプレートを目にし、こんな命名でいいのか? と驚きました。
ですが、この地でワールドカップ決勝戦はもう行われないとすれば歴史ですし、それを「夢の跡」としたい民意であれば文句のつけようもありません。
ちなみに韓国ソウルでも「ワールドカップ大橋」(2015年開通予定)の建設が始まったそうです。
2022年のW杯招致で両国は落選しましたし、そう簡単に2度目の夢は訪れないということなのでしょう。(上写真は川面に映る絵)
横浜国際総合競技場や新横浜公園周辺は、現在も鶴見川の巨大な遊水地なので、2004年の台風来襲時には鶴見川から水を流したため、競技場地下駐車場や、小机競技場などのグランド施設が水没しました。
そんな融通の利かせ方で土地を有効活用することは、河川敷では当たり前なので住民の納得を得やすいと思いますが、台風後の整備費にはお金が掛かりそうです。
以前紹介した大倉山記念館は、新横浜方面からとても目立って見えるので、こちら側を望む設計だったようです。
この後大倉山駅まで歩くと、商店街の店構えに大きな西洋式の柱を用いる店が多いことに気付きます。
山の上の建物を模した店舗のアピールのようですが、商店街としては統一感のない無駄なデザインという印象を受けます(それより道や歩道を広げて欲しい!)。
ここだけではなく東横線の駅前はどこも、ゴミゴミとせせこましい町並みになってます。
想像するに、渋谷〜横浜間に鉄道を建設するには、方角的に東北〜南西方向の線路を敷く必要があります。
建設当時の沿線一帯は田舎町でしたから、当然南北を基準に集落が整備されていたのでしょう。そこに斜めに通された鉄道の駅周辺が急速に発展しても、町づくりが追いつかないのは当然という気がします。
現在の東急線は、JRの路線を補完して地域の発展を促進していますが、創業者は「強盗慶太」(五島慶太)と言われるほど豪腕で敵も多い人物らしく(西武の堤も同様)、「西の小林・東の五島」(小林一三:阪急電鉄の創業者)とされるように、新しい社会インフラの枠組み決定・定着には、ある意味「腕力」が必要だったのかも知れません。
すでに敷かれたインフラのレール上に新たな文化を築くことは、先人の遺産に依存するようで少々しゃくに感じても、この先その基盤を根っこから再構築するには「彼ら以上の腕力の持ち主」が必要ではないかと考えがちです。
しかしこれからは、そんな「腕力」ではなく「知恵の勝負」に活路を見いださないと、日本の生きる道は開かれないのでは? という気がしてなりません……
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