2008/10/07

ドライフラワーのように守られた──極楽寺、長谷

2008.10.3
【神奈川県】

 極楽寺

 教科書で「鎌倉は三方を山に囲まれ、一方は海に面した天然の要害の地」と習いましたが、ここ極楽寺はその山の外側に位置します。
 なぜそんな場所(以前は地獄谷と呼ばれていたそうです)にと思いますが、鎌倉幕府2代目執権北条義時の三男坊ゆえか、政治への関心を失った重時は仏門に入り、この寺院の整備に力を注いだそうです。
 最盛期には七堂伽藍(しちどうがらん:寺の主要な七つの建物の意味ですが、宗派、時代によってその形式は異なります)が整えられ、49もの子院が並ぶ大寺院だったそうです。
 ここは、奈良西大寺から来た僧侶の忍性(にんしょう)によって、真言律宗最初の寺として開かれたそうです。
 真言律宗とは、真言密教(弘法大師空海の教えで、即身成仏と鎮護国家をめざすもので、高野山、京都・東寺が中心)と律宗(鑑真の教えで、戒律(かいりつ:自分を律する内面的な道徳規範)を学ぶもので、当初は奈良・東大寺、現在は唐招提寺が中心)の双方から教義を取り入れたものだそうです。
 結局何が言いたいかと言うと、奈良・平安時代のしがらみ等から立地的にも隔絶された鎌倉の地だからこそ、新しい教義の確立〜布教を思いっきり出来たのではないか? と感じられたということです。

 時代的な背景からの命名と思われますが、このころの宗教界の新しい動きを「鎌倉仏教:平安時代末期から鎌倉時代にかけて発生した仏教変革の動き」というのだそうです。
 浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)、時宗(一遍)、法華宗(日蓮宗、日蓮)をそう呼ぶようで、それまでの平安仏教を貴族仏教とすると、鎌倉仏教は武士や一般庶民に向けて広められたものを言うのだそうです。
 この変革を「国家からの自立」「個人の救済」というような、個人尊重の原点とする向きもあるそうで、それが戦国時代の門徒衆などの一揆につながる庶民意志の確立を育てていった、とも言えそうです。
 ──京都での視点というものは、官からのもの(上から目線)になりがちでしたが、離れてみると庶民の希求というものも視野に入るので、往事が多面的に理解できるような気がしてきます。

 一方の真言律宗の扱いですが、新(鎌倉)・旧(平安)仏教のはざまで議論が続いているそうです。戒律(権力構造での序列)という考え方を取り入れている点が争点のようです(序列にはインド的な印象を受けますよね)。
 詳しい話しは避けますが、極楽寺の立地はそんな教義の立場もあって、鎌倉市(現在)ではあっても市中からは山を隔てた場所にあることがふさわしい「極楽」(理想の地)だったのかも知れません。

 このお寺は「境内撮影禁止」とアピールしているので、門外からのぞくような絵だけです。
 この並木は桜と思われるので、季節には門外からでもキレイな写真が撮れるのではないでしょうか?

 極楽寺の駅名からテレビドラマ「俺たちの朝」を想起される方はいらっしゃいますか?
 1976年秋から1年間放映された極楽寺を舞台にした青春ドラマで、勝野洋、小倉一郎、長谷直美等が出演していました。
 番組は見てなかったのですが、高校時代(と思う)に鎌倉周辺をテーマにグループで自由研究をする、というような課外授業があり(自分は何をやったか覚えていません……)、当時存在も知らなかった極楽寺という場所へ行くグループがいて「チューちゃんのいるとこよ!」に、「はぁ〜?」としか言えず、何か時代に乗り遅れてるような寂しさを感じたことが思い出されます(だって、長谷直美好きじゃないもん! くらい言ってたかも知れません……)。
 いま考えてみれば、舞台設定としては実にいい場所と思われます。


 極楽寺切り通し


 前述のような「天然の要害」であっても幕府を開くとなれば、人の往来や物資の流通には街道が必要ですから、「鎌倉七口」と言われる、名越、朝比奈、巨福呂坂(こぶくろざか)、仮粧坂(けわいざか)、亀ケ谷、大仏、極楽寺に、坂や切り通しが作られています。
 そのひとつがここ極楽寺切り通しになります。車も通る道路ではありますがそれほどの交通量もなく、わずかな時間であれば切り通しの空気と静寂を感じることができます。
 右写真は、切り通しの途中にある脇道です。この上にも家があるんでしょうね。

 この切り通しの道は京都に続いています。「とはずがたり」という、都人の後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)という方が、出家の後に書いたとされる紀行文に登場するそうです。
 ここから眺めた鎌倉市中の光景はいくらにぎやかであったとしても、京への思いを募らせたのではないでしょうか。
 人の足で移動した当時の距離感と、野蛮とされた東国への旅路は、修行そのもののようにも思われます。

 これから鎌倉の案内が始まるところではあるのですが、幕府滅亡に関する話しから始まってしまいます。
 ここは足利尊氏(室町幕府初代将軍)ら反乱軍の決起により鎌倉幕府打倒のため、1333年の新田義貞の鎌倉攻めの時に有名になったそうです。
 ここの守りは堅く攻め込めないので、稲村ヶ崎の崖の下を海から攻め込んだという逸話につながります(近ごろ稲村ヶ崎では崖の崩落が激しいようで、展望台が2カ所閉鎖されていました)。
 この戦のせいで、極楽寺の伽藍は焼け落ちてしまったそうです。

 極楽寺駅から切り通しに入る辺りに「極楽亭」なる喫茶店の看板がありました。
 どんな極楽が待っているのか不明ですが、名前だけでも引かれてしまうお店ですね(入れませんでしたが)。


 御霊神社(ごりょうじんじゃ)

 切り通しを下った近くの斜面に面して御霊神社があります。
 御霊神社の名を持つ神社は各地にあるようで、京都の上御霊神社に立ち寄ったことがあります。
 江ノ電は、極楽寺駅とこの神社の前までトンネルを通ってきます。
 鳥居のすぐ前を線路が通っていてその先はすぐ階段になっているので、新聞配達のお兄さんはバイクを降りて線路下に敷かれた石の上歩いて、古新聞交換のトイレットペーパーを配っています。

 ここは、鎌倉権五郎神社(かまくらごんごろうじんじゃ)として親しまれているそうで、右下の写真はこの神社を案内する道しるべです。
 最近、こんな指で道を案内する絵を見なくなりましたねぇ。
 ──わたしは、寺山修二の映画『田園に死す』を想起したのですが、知らないだろうなぁ……

 この鎌倉権五郎(景正)と言う人が、後三年の役(ごさんねんのえき:平安時代後期の東北地方の戦い)で名を挙げて、この周辺に武士団の鎌倉党を作り上げたとのことです(経緯については省略してますので調べてください)が、この人は平氏であったとされているようです。
 ──ここでおさらいの時間です。源氏、平氏の違いとは、ともに皇族が臣下に下る際に賜る姓の一つで、源氏は、皇族がその身分を離れたときに受けるとのこと。一方平氏は、天皇の孫以降の代に受けたとのことなので、源氏の方が格が上なのだそうです(そんなことどうでもいいんですけどね)。

 そんな平氏の鎌倉(田舎)武士たちを、都を追放された源氏の統領である頼朝が束ねて決起したということは、いにしえの日本にとっては一大クーデターだったわけです。
 ようやく、その輪郭がおぼろげながらイメージ出来るようになってきました。
 歴史って勉強しないとホント、分からないものですねぇ〜 ってのが、実感です。


 長谷寺


 創建は鎌倉幕府のはるか以前の奈良時代(736年)とされているそうです。
 観音様が有名で長谷観音の方が通じるかも知れません。
 その観音様ですが、以前訪れた奈良の長谷寺の観音様を作るとき、同じ楠の大木から2体の観音様を作り1体を本尊にし、もう1体を海に流したものが三浦半島に流れ着いて、この寺のご本尊となったとのことです。
 そんな話しの真偽はともかくとしても東国の蛮人たちは、当時の文化の中心である奈良・京都のおこぼれ(模倣)でもいいから、とにかく心のより所を作りたかったと思えてなりません。
 昔は、信仰心を文化度のバロメーターにするようなところがあったので、とにもかくにも「野蛮人」のレッテルを払しょくせねばとの気持ちが強かったようにも思えます。
 でもそんな努力が実り、現在も引き継がれる信仰を根付かせたことが認められて、室町幕府や家康などから援助を受けていたそうですから、東国の文化として評価されたのだと思われます。
 立地がいいですから(それは創建のビジョンの良さでもあります)見晴台からの景色も見事で、往事は鎌倉の市中をくまなく見渡せる場所だったと思われます。
 弁天窟という洞窟の中に、小さな弁天様が並べられている部屋がありました。
 ストロボは使わん、と意地で撮りましたがこんな程度でしょうね……


 鎌倉大仏


 お待たせしました、鎌倉のシンボルです。とてもいい天気でした。

 大仏はもともと、奈良の大仏を見た頼朝の発案から(彼の死後に)実現されたそうなのですが、現在の所在である高徳院の起こりについては不明なのだそうです。
 まあこれも、文化の真似事から始まったわけで「存続は力なり(?)」と根付きましたが、当初は奈良同様の大仏殿があったものの津波で流されてそれっきりの雨ざらし、となってしまったそうです。
 鎌倉の人たちにとっては「そのままでいい存在」であった、というところが現在の鎌倉を形作ってきたとも言えるような気がします。
 鎌倉時代以降は世間から見放されていて、かつては威光を放った寺院なども朽ちるままに放置され、地元の人々に親しまれる寺院等だけがドライフラワーのように守られてきた、というようにも思われます。
 おそらく、息を吹き返したのは江戸に都が移って以降なのではないでしょうか。
 そんな視点でもう一度鎌倉を回ってみると、これまでと違った姿が見えてくるような気がしてきて、楽しみになってきました。

 長谷方面は人が多いのであまり立ち寄らないのですが、遠目からも外装が変わった印象を受けた鎌倉文学館を間近で見られず(展示替えとのこと)悔しいので、また来てみたいと思っています。

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