2008.11.4
【神奈川県】
若宮大路幕府跡(Map)
鎌倉幕府の所在地は2度移転したそうです。
源頼朝が建てた館は大蔵御所(Map)といって、鶴岡八幡宮東側にある現在の「頼朝の墓」近くにあったそうです。
そこでは、源氏三代の政治(頼朝、頼家、実朝+頼朝の妻で尼将軍と言われる北条政子)が46年間で幕を閉じた後、宇都宮辻子(うつのみやつじこ)(Map)に移転し、12年後に写真の若宮大路に移り、滅亡時までこの場所で政務が行われていました。
写真の石碑右側に「雪ノ下」の住所表示があります。前々から気になっていたので由来を調べてみました。
昔は、鶴岡八幡宮裏山の北斜面あたりの地名で、雪が降ったらなかなか消えないような場所であったから、という説。
頼朝が八幡宮の北側に、雪を保管する氷室を作らせたそうで、その下の地域にあたるので呼ばれるようになった、という説。
鎌倉はユキノシタという花がたくさん自生していた、という説。
などがあるようですが、いずれにしても鎌倉時代から「雪ノ下」の地名が存在していたことは確かなようです。
いい響きですよね。
本覚寺、妙本寺、常栄寺(ぼたもち寺)(Map)
鎌倉の南東地域には、日蓮(日蓮宗:法華経を経典とする)ゆかりの寺院が数多く残されています。
しかし当時日蓮は「災害や不幸の原因は、正法である法華経を立てない幕府にある」と、盾突いたわけですから、様々な災いが彼自身にもたらされることになります。
松葉ヶ谷の草庵(後述)の夜襲、伊東(伊豆)へ流罪、安房国小松原(鴨川市)での襲撃、腰越龍ノ口刑場(藤沢市、龍口寺)での処刑中止〜佐渡へ流罪、赦免され再度幕府に法華経をさとすも認めらません。
そんな苦境にもめげることなく、身延山久遠寺や池上本門寺などを建立しています。
もの凄い執念といいますか、それだけの信念が貫かれていたからこそ、現代までも受け継がれているのだと思われます。
右写真は常栄寺で、ぼたもち寺と呼ばれています。
龍ノ口の刑場に連行される日蓮に、この地の尼が供養としてごまのぼた餅を捧げたことによるそうで、この後、刑場での奇跡のおかげで死罪を免れ、佐渡への流罪となります。
宗教にまつわる話しには、にわかに信じがたい内容が含まれていたりしますが、これだけ幕府ににらまれた罪人でありながら、ゆかりのある寺院が鎌倉の地に残り続けていることは、奇跡と言えるのではないでしょうか。
それこそ民衆の信仰心のたまもの、と思えてなりません(苦境を乗り越えることを自らに重ねていたのかも知れません)。
最初の写真は本覚寺の門に下がるちょうちんで、えびす堂があった場所に日蓮宗の寺院を建立したことによるそうで、1月10日の本えびすには多くの人でにぎわうとのことです。
八雲神社(Map)
八幡太郎義家の弟で、奥州での後三年の役に苦戦する兄に加勢すべく駆けつけたことで知られる新羅(しんら)三郎義光が、鎌倉での疫病流行の対策として、厄除のために京都の祇園社(八坂神社)をこの地にまつったことが始まりとされています。
社のすぐ脇に「祇園山ハイキングコース」の登山口があります。
尾根道を通り、北条一族終焉の地である東勝寺跡や「北条高時腹切やぐら」に至る山道ですが、結構無理やり道を作ったような印象があります。
鎌倉の山道には崖を登るような道が多くあるので、ご覚悟のほどを。
長楽寺安養院(Map)
この寺は北条政子が夫頼朝の菩提を弔うために建てたものが、火災や他の寺院との統合を経て鎌倉時代末期にこの地に移転したそうです。
安養院とは政子の法名だそうで、その名が残されたことから、庶民に慕われた人物像がうかがえるのではないでしょうか
──どうも怖いおばさんというイメージが強いのですが……
写真は、布団にくるまって寝込んでいる「身代わり地蔵」です。
このお地蔵さんには「身代わりになってください」とお願いするよりも、いたわってあげたい気持ちにさせられてしまいます。
そんな気持ちがわいてくることが大切なのかも知れません。
妙法寺(Map)
ここは松葉ヶ谷(まつばがやつ)にある日蓮宗のお寺で、日蓮が安房(千葉県鴨川市)から鎌倉にやって来て最初に住んだ場所といわれています。
しかし、その場所として記録に残る「松葉ヶ谷の草庵」の場所については、見解が統一されていないようです。
妙法寺のしおりには
「鎌倉には最初の御小庵または御草庵と称する寺が二、三ありますが、明確な記録および歴史的根拠の点より見ても、妙法寺が御小庵の旧蹟であることは決定的であります。」
とあります。
どうもこの文章からするとその見解の相違には、とても根深いものがあるような印象を受けます。
寺院名の妙法(正しい教え、の意味)は、七字の題目といわれる「南無妙法蓮華経」(法華経の教えに帰依をする、という意味)に含まれています。
京都五山送り火にも「妙・法」の文字があり、集落全体が日蓮宗に改宗した松ヶ崎地区(市街地北部)の方々が受け継いでいるそうです。
送り火が終了後、山の麓にある涌泉寺(ゆうせんじ)の境内で「南無妙法蓮華経」に節をつけた「題目踊り」が行われるそうです。
最初の写真は妙法寺の法華堂で、花だと思うのですが周囲を草に覆われていて、時代劇によく出てくる、追われている浪人等が身を隠すお堂のように見えました。
だなんて、怒られるか?
安国論寺(Map)
ここも松葉ヶ谷にある日蓮宗のお寺です。何を言わんとするかご理解いただけますね。
日蓮が書いた「立正安国論」は歴史の授業で耳にしたと思いますが、それは「松葉ヶ谷の草庵」にて書かれたものとされています。
まあ、こちらは書名から名前をいただいたんだし、仲良くしてもいいのでは? と言いたいところですが、当事者はそうはいかないようです。
日蓮という人の信念は相当なもので、この立正安国論では「法華経を正法(正しい教え)に立すれば(立正)、国家・国民は安泰となる(安国)」と主張し、幕府内や民衆に広まっていた浄土宗や禅宗などを邪法(邪悪な教え)と切り捨てています。
それは当然政治批判と取られるので、伊豆への流罪になります。
しかし、元寇(げんこう:蒙古襲来)や国内の政治内乱的な事件が起こり、日蓮はこれを予言したとしてその立正安国論を「予言書」として布教活動を進めるのですが、それでも幕府には受け入れられなかったそうです。
その姿は、予言書を携えた受難者という構図にも見えてきます。
鎌倉時代は、仏教の「末法(まっぽう)」(釈迦が亡くなってから1,500年後からの10,000年間は、仏の教えが時代を経て次第に通用しなくなる時代)ととらえられ、浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)と同様、日蓮宗も末法思想に立脚しているそうなのですが、同じ土俵の上で正面切って「法華経の題目を唱える以外に成仏はできない」と言い切っています。
教義を認めてもらうためには、特にライバルがいる場合にはその相手を論破する必要が生じます。
その時点で日蓮の判断としては、武器を持たない宗教戦争を仕掛けるしかない、ということだったのだろうか?
布教を急ぐ理由があったのか、日蓮という人の性格なのか分かりませんが、少々強引に思える点も含めて、彼の行動には派手さがつきまとっているように思えます。
確かに宗教家には、パフォーマーの素養が必要なことは理解できるところですが……
しかし現在、日蓮系といわれる宗派および宗教団体(法華経を教義とする)などに属する信仰者は、(仲が悪そうなので一緒にすると怒られるかも知れませんが)霊友会、立正佼成会、創価学会等を含めると、神社神道系に次ぐ信者数になるそうです(浄土系をしのいでいる)。
──集計の信者数を全部足すと、日本の人口を超えてしまうので、おおまかな規模の比較しかできません。
神道系は国策的な面があるので多いのは当然ですが、それに次ぐ支持を得ているのですから「すごい力」だと思われますが、おそらく日蓮という人はこれでも満足していないのではないでしょうか。
末法思想という響きからは「終末論」を連想してしまいますが、末法という概念には世情不安や天変地異は含まれておらず、「世も末」「この世の終わり」とは違うようなので、予言が当たったとしてもそれは正法(正しい教え)によるものではないようです。
それでも「末法」の響きが恐ろしいので、明るそうな記述を探してみると、「涅槃経」(ねはんきょう:釈迦の入滅を書き記し、その意義を説く経典類の総称)では「仏法の衰退時において再び仏法が世に出現する」と説いて、悲観的な見方を否定してくれているそうです。
これで少しは安心と思ったのですが、逆にそれが新興宗教を生み出す土壌であるとしたら?
またふりだしに戻って、乱れた仏法の世を導いてくれる釈迦の生まれ変わりが出現して……
と考えると、眠れなくなっちゃいそうなので、このへんで。
上の写真2枚は境内にまつられてある、大陸から運ばれたと思われる石仏です。
右写真は境内の富士見台という見晴し(馬の背のような狭い崖の尾根)近くにある鐘楼です。
鐘突棒の後ろに貼ってあるシールに「NAMシステム」と書いてあり、これは定時に自動で鐘を突いてくれるシステムです。
大阪の高槻に住んでいたころ、近くのお寺から正午と午後6時に鐘の音が響いてきたのですが、そこも同様の自動鐘突きシステムを使っていました(近くで見ていると「ギィ、ギィ」と機械音がして風情がないのですが)。
休みの日など、正午の鐘の音で目を覚ましたこともあったりしました。
あまり大きすぎると困りますが、一般的なスピーカーから流れる5時のメロディよりは、時の鐘の方が好きだなぁ。
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