2008/10/14

秋日和──北鎌倉

2008.10.9
【神奈川県】

 北鎌倉


 北鎌倉の駅といえば、小津安二郎監督の映画『晩春』(だったと思う)で、笠智衆さんと原節子さんの父娘が並んで電車を待つ場面を想起してしまいます。
 公開されたのは1949年といいますから、もう面影すら無いのも仕方ありませんね。
 しかし、もうあのような映画が作られることはないであろうと思うと、そんな面影を求めに訪れたい気持ちにさせられるのも確かです。
 当時の駅舎の看板が展示されているのですが、ケースの中なのでガラスに反射して背景が写り込んでしまいます。
 右写真は当時からあったのではと思われる、ホーム脇のトンネルです。
 人とオートバイ専用というところが、土地の狭い鎌倉らしい風情と言えるかも知れません。
 小津監督は以前紹介したように、すぐそばの円覚寺(今回未訪問)に眠られていますが、原節子さんはまだこの地にご健在とのことです。「衰えた容姿を見せたくない」と引退された方ですから、無用なせんさくはいたしませんが、穏やかに過ごされますことを……

 映画全盛期の「スタア」とは、やはり原節子さんや高峰秀子さんではないかと思っています。

 ※タイトルの「秋日和」は小津さんの映画タイトルからお借りしました。


 東慶寺


 この寺を創建したのは鎌倉幕府の第8代執権北条時宗(NHK大河ドラマで和泉元彌が演じ、モンゴルが攻めてきた「元寇」に対処した人)夫人の覚山尼(かくさんに)とされるそうです。
 明治時代まで尼寺で、尼五山(なんてのもあったんですね)の第二位のお寺だったそうです。
 現在では、男性住職になり存続する寺(東慶寺を含め3カ所)以外は廃寺となったそうです。
 「縁切寺:駆け込み寺」として有名ですが、江戸時代には「縁切寺法」というものがあり、女性からの離婚請求権が認められるようになる明治6年(1872年)までその役割は続いたそうです。
 ──法律まであるとは知りませんでした。

 上写真はかやぶきの鐘楼の屋根なのですが、所々に飛び出している部分があります。古くなるとこのような現象が現れるのでしょうか?


 浄智寺

 臨済宗円覚寺派に属する禅宗の寺院で、鎌倉五山第4位だそうです(鎌倉五山については建長寺の項で説明します)。
 高峰顕日(こうほうけんにち:仏国禅師。後嵯峨天皇の第二皇子。夢窓国師の師で関東の禅宗を確立した方)や、夢窓疎石(むそうそせき:夢窓国師。京都の禅寺や庭園に関する項にたびたび登場した禅宗のスーパースター)らが住職を務めたことがあるそうです。
 最盛期には七堂伽藍や、塔頭(たっちゅう:覚えてますか? 師を慕う弟子たちがその寺の周囲に建てた寺院のこと)も11を数えたとのことで、円覚寺に匹敵する規模で、幕府滅亡後の室町時代まで栄えたそうです。

 前回鎌倉のイメージを、枯れているだとか、寂れているとか申しましたが、幕府滅亡後に衰退していったことは確かだと思いますが、もう一つ大きな理由があることを見落としていました。
 関東大震災(1923年:大正12年)によって鎌倉は壊滅的な被害を受けた、ということです。
 ──目から鱗(うろこ)です。大学の卒論が関東大震災でしたから、その辺りもトレースしながら回ってみます。

 次項のアジサイで有名な明月院の階段もそうなのですが、鎌倉では上写真のようにすり減った石段が目につきます。
 修復してないのは確かなのですが、昔から鎌倉石という近くで採掘できる加工のしやすい(=軟弱な)凝灰岩を利用してきたためと思われます(石を割って調べたわけではありませんが)。
 そんな岩に囲まれた地域ゆえ、坂や切り通し、これからたびたび登場すると思われる「やぐら」(岩肌に掘られた洞穴)など「岩を削る文化」が盛んになったのだと思われます。
 ──現在では、大規模なものは禁じられているとは思いますが、こんなところに家を建てるの? というような細かな削り込み(現代の芸術?)に引き継がれています。



 明月院

 どこかで見たことのあるような構図ですが(京都源光庵)、こちらは下写真と併せて「お月見」のような印象がありませんか?
 窓の奧には、菖蒲園(期間限定の公開)のとても落ち着いた庭があるので、この窓は庭を眺めるためと思われます。
 一度だけ庭に入ったことがあり、その時この窓は半分閉められていた印象があったのですが、では、今日はなぜ全開なの?
 明月院だけに、月齢(月の満ち欠け)を表しているのだろうか? ならば、今日は満月?
 だとしたらとても粋なセンスと思ったのですが、本日の月齢は10で上弦の半月(明るい部分が大きくなっていく途中)+2日にあたるそうで、残念ながらそんな意味ではなかったようです。
 今年はもう一度中秋の名月が見られることをどこかで聞いた覚えがあるので、やはりそんな意味ではないのだろうか? と勝手に思い込んでいます……



 建長寺


 鎌倉幕府の成立後も、京都の公家政権との対立が続いていたのですが、承久の乱(1221年:後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して兵を挙げて敗れた)の後、北条氏の権力基盤が安定すると、鎌倉に「禅の寺」ありと、京都の公家文化に対抗するため建立されたようにも思われます。
 建長5年(1253年)に完成したことから寺の名前に年号を使用したことも、国を治めるための寺院であることのアピールを狙った意図がうかがわれます。

 そうなると次には権威が必要になってきますが、ご承知の通り権威とは時代の権力者が替わる度に変化してしまいます。
 ここで紹介する鎌倉五山とは室町時代になってから定まった(?)ものだそうで、室町幕府は京都にありますからここでは当然京都南禅寺が別格とされ上位より、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺とされるのだそうです。
 ──そんなのどうでもいいとは思いながらも、この先もそれをより所に書かせてもらうと思うので、一応ご紹介だけさせてもらいました。

 第一位の建長寺は「官寺」としての性格が強かったので、前出の北条時宗は元寇での戦死者を弔うために円覚寺(1282年創建)を建てたそうです(そこには日本の武士と元軍(モンゴル・高麗等)の戦士が、分け隔てなく供養されているそうです)。
 鎌倉ではそのように、自ら作ったしきたりを守り続けることで文化を築こうとしていたようです。

 かつてこの地は地獄谷と呼ばれる(鎌倉には地獄がたくさんあること──極楽寺の地もそうでした)処刑場があったそうです。
 その地にあった心平寺という寺に地蔵堂があったことから、建長寺の本尊は地蔵菩薩となったそうです(一般的に禅寺のご本尊は釈迦如来)。
 このことは「ご本尊は何でもいいのか?」と突っこむのではなく、その土地ごとにふさわしい仏様をご本尊とすべきである、とする寛容さととらえるべきだと思います。 
 これから先も、処刑されていった人たちの供養とともに、国の安寧を祈る場所であり続けますように。

 上写真の総門に掲げられた「巨福山(こふくさん)」の「巨」の文字に「、」があるの分かりますでしょうか。
 「この点があることで字に安定感が出る」のだそうです。
 わたしはちょっと分からないのですが、そう理解される方がいらしたら説明していただけないでしょうか?


 巨福呂坂(こぶくろざか)


 鎌倉七口のひとつで、現在は大船から北鎌倉を通り鎌倉市街へ向かう街道になっています。
 鎌倉の道ははどこも狭いのですが、他に道はないのでダンプカーも頻繁に行き来しています。
 特に北鎌倉付近の散策には注意が必要です。

 ここは有事の際に「いざ鎌倉!」とはせ参じた道「鎌倉街道」のひとつだそうで、鎌倉を中心として放射状に伸びた道を呼んでいたようです。
 そういえば、旧鎌倉街道なる表示を方角の違う場所でいくつか見た記憶があります。
 この道は「中道(なかつみち)」というそうで、戸塚・日吉・渋谷を経て宇都宮へと向かい、頼朝の奥州征伐(藤原氏および義経)で通ったとされる道だそうです。
 義経が通ったならまだしも頼朝が通ったでは、いにしえのテレビドラマ「はぐれ雲」(主演:渡哲也)のラストに出てきた「○月○日明治天皇 品川宿通過」(これじゃ物語終わっちゃうし、古くてスミマセン。知ってる人います? ちなみに、石原プロの製作で、最終回には石原裕次郎が出ていたそうな)みたいなもので「あっ、そう」とロマンも感じないのは頼朝うんぬんというよりも、これは完全にわたしの趣味ですね……

 本日は見事な秋日和でした。

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