2010/03/29

耳をすまして春を待つ──横浜橋、寿町

2010.3.20
【神奈川県】


横浜橋、寿町(Map)


 早咲きの「おかめ桜」の下で写真をチェックしていると、花びらがパラパラ落ちてくるので見上げてみれば、メジロが盛んに花をつついています。
 そんな姿を撮れないものかと構えている時、背後からおばあさんの声がしました。
「メジロは来てますか?」
「あそこにいますよ」と、指さしながら説明しますが
「そうですか。わたし目が悪いんで分かりませんが、いつも聞こえるメジロの鳴き声が聞こえないんでねぇ」
「食事に夢中みたいですね」
「あぁ、そうでしたか……」
 ハッキリ見えなくても耳をすませば、音量は小さくとも「春の兆し」をサラウンドで体感することができます。
 それを探そうとする感性は、きっと気持ちを明るくしてくれることでしょう……


 ここは大通り公園で(以前は埋め立て地の運河。現在は地下鉄が通っています)、ここを含め今回歩く地域には、初めて足を踏み入れます。
 現在JR根岸線が通る付近から港側には、元町側から伸びた砂嘴(さし:海に細長く突き出た砂浜)と呼ばれる陸地がありました。
 それは馬車道あたりで途切れ、桜木町側とは陸続きではなかったので、開港場はいわば出島のような形状でした。
 その内湾に当たるこの付近(伊勢佐木町〜南太田)は埋め立て地で「吉田新田」と呼ばれる田んぼでした。
 外国人がウロウロする港付近と、田んぼの境界に関所が置かれ、その港側を関内(かんない)、田んぼ側は関外(かんがい)と呼ばれました。
 関外という名称は使われなくなりましたが、その地域が横浜市の「関心の外」であるように感じられたのは、ちょっと驚きでした。

 右写真は「横浜橋商店街」のある真金(まがね)町で、失礼ながら「ちゃんとした、庶民の下町があるじゃない」との印象があります。
 しかし以前は「真金町遊廓」という旧赤線地帯(公認の遊郭)だったと聞きビックリ。
 明治時代、高島町(横浜と桜木町の間)にあった遊郭が火災で焼失したため、ここに移転して赤線廃止まで存続したそうです。
 赤線廃止後は、以前から青線地帯(非公認の地域)であった黄金町福富町や曙町に風俗街は移っていきます。
 その後真金町は、この商店街を中心とした下町の住宅街へと移り変わり、現在では性風俗産業とはほぼ無縁の地域となります。
 その復活ぶりは、環境浄化運動は成せばなる活動であることを、実感させてくれます。
 ただ、赤線地帯の転入は外的要因によるものでしたから、もともと地域住民の反感が強かったのかも知れません。

 大通り公園に面した商店街入口近くに、行列のある店がありました。
 「豊野丼」という天ぷら専門店で、テレビでも紹介される有名店らしく、自慢は海鮮類と値段の安さとのこと。
 でも「食ってみろ丼」という、てんこ盛りの天丼があることから、B級さは伝わってきますが、聞いただけで胃がもたれそうなおやじが立ち寄れる店ではないようです。
 B級より上を求められる場所ではないものの、通えるならば、定食の食べ比べをしてみたいと思う店が点在しています。
 キレイな店ではなくとも、ちょっとのぞいてみたい店があると、再訪のきっかけになったりします。

 落語家の桂歌丸さんは真金町の出身で、横浜橋商店街のホームページにもコメントを寄せています(現在も在住。夫人も真金町出身)。
 歌丸さんの生家は置屋(おきや:芸妓の所属事務所)だったそうで、あの人独特の、ふつうの男には出せない「色気」は、芸者に囲まれて育った生い立ちにあったのかと、とても感心しつつ納得しました。
 また、「浜っ子」のプライドを持つ方で、古典落語でも江戸ことばを多用しないそうです。
 意識して聞いたことがないので、今度聞いてみたいと思います。
 まま横浜を歩いてきましたが、ようやく「浜っ子のプライド」という概念にふれることができて、少しホッとしました……

 下写真は、浜っ子の自慢(だった)と思われる横浜文化体育館で、東京オリンピックのバレーボール(東洋の魔女)、プロレス(力道山)等々の様々なイベントが行われてきました。リンク先のホームページには「パンダの曲芸」なんて写真がありました。
 現在ではパンダの人権(?)に配慮して、芸を仕込めなくなりました。
 上海雑技団の出し物だったそうで、当時の中国では海外への売りモノは少なかったにせよ、時代の流れを感じさせられます。
 まさに「人寄せパンダ」ですが、これって日本の表現ですよね?


 さて、今回の山場となる「寿町」に、気合いを入れて突入です。
 ここは、日雇労働者が宿泊するための「ドヤ」(人が暮らすような「宿」ではないため、逆さまに読んだのが始まりだそう)という簡易宿泊所が立ち並ぶ「ドヤ街」と呼ばれる地域で、東京の山谷、大阪のあいりん地区(釜ヶ崎)と並ぶ三大ドヤ街とされます。

 この付近も戦後米軍に接収されますが、返還後の早い時期から在日韓国人が集まり、一帯の地主となります。
 職業安定所が移転してくると、ドヤ群の建設ラッシュが始まりますが、オーナーのほとんどは地主の在日韓国人だそうです。
 そこへ、日ノ出町や黄金町付近の大岡川沿岸バラック群や、船上宿泊施設から、港湾労働に携わる日雇労働者が押し寄せて、ドヤ街が形成されます。
 職安の移転場所選定には、意図があったのでは? と勘ぐりたくなります。
 ──映画『泥の河』(1981年)に描かれた光景(船上生活者も描かれた)が、大岡川付近に広がっていたことになります(映画の舞台は大阪)。

 この手の場所が初めてだったせいか、現実の迫力に圧倒されました。
 生活感が見て取れる下町のような地域で、「どこ行ってた?」「病院行ってきた」の世間話が聞こえたり、保育園があったり(子持ちの日雇いでは大変そう)と、十分ではなくとも、生活に必要な施設はそろっているようです。
 印象的だったのは、この場所ならではの濃厚なつながりのコミュニティを作る人々と、ただただ路傍に座り込むだけと思える人たちのギャップです。
 それは、ちゃんと働こうとする人と、流れてきたホームレスの違い(生活への意欲の差)かも知れません。
 しかし、ギャンブル好きが多いのか、憩いの場なのか分かりませんが、競輪のノミ屋(違法投票所)と思われる建物に人が集まっています。
 ギャンブルをしない者は、せっかくの報酬なのに、と思ってしまいます……

 上写真の建物は、どう見てもエアコンの数が多すぎます。一部屋を分割利用しているようです。
 いまどきのドヤ街は、マンション風に建て替えられたものが増えています。
 宿泊代で儲かっているのか、補助金等が出ているのか分かりませんが、外見だけは改善されているようで、自治体はひと安心していることでしょう。
 結果的に吹きだまってしまった港湾労働者ですが、町の繁栄のために自治体が旗を振って集めたわけですから、自治体に責任があるのは確かです(派遣労働者問題のルーツのように思えます)。

 この地域で「ちょっと失礼します」と座り込む人を撮るだけの勇気はなく、これ以外の写真は撮れませんでした(パンダより人の人権です)。
 決して治安は悪い訳ではなく、カメラをぶら下げて歩きながらも、無事に戻れる場所であることを報告しておきます。
 町を出た途端に緊張感は解けたものの、脱力感で足取りが重くなりました……


 追記─2010.3.27


 東京でもソメイヨシノが開花しましたが、春の到来を実感できない陽気が続いています。
 草木たちの季節感を「ちょっと早すぎだよ」となだめたくもなりますが、彼らにしたら「暖かい日も十分にあったぜ」と、温暖化を敏感に察知しているのかも知れません。
 そうなってしまうと、わたしたちの季節感とは、何を基準にしたらいいのでしょう……

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