2010.3.13
【神奈川県】
季節の変わり目というものは、どの季節でも気候が安定しません。
でも今の時期には、春の嵐が来て黄砂が降ろうとも、それを受け止められる心の余裕があります。
「季節変わりへの期待感」が最も大きいと思われるこのころは、多少大きな問題でも軽やかに飛び越えられる「明るい気分」があります。
伊勢佐木町周辺(Map)
「ドゥドゥビ ドゥビドゥビ ドゥビドゥバー」って分かります?
おまじないや、左卜全(ひだりぼくぜん:『老人と子供のポルカ』は「ズビズバー」)さんではなく、青江三奈『伊勢佐木町ブルース』(1968年)の一節で、ガキの時分よく口にした覚えがあります。
それにしても、ガキが真似してもうまくできない「ア〜ン!」の吐息って、何だったんでしょうね?
NHK出演時には、擬音に置き換えられたとありました。
何と言われようが、伊勢佐木町の名を全国的に広めたのはこの曲ですから、記念碑やパネルがあるのも当然と思われます。
でも、後継者は? に応えたのが「ゆず」で、すぐ脇に2010年3月にオープンする「CROSS STREET」という多目的スペースの名付け親だそうです。
下写真は2008年に閉店された、伊勢佐木町のシンボルだった松坂屋です。
赤いひさしが残され営業当時の面影もあるので「あれ、今日は休み?」と錯覚しそうな姿です。
幕末に茂木惣兵衛が、前身である「野澤屋呉服店」を創業し、1910年(明治43年)現店舗付近に百貨店を開きます。
当時の茂木家は、三渓園の原家と並び称される財閥を形成したそうです。
関東大震災後に再建され、横浜大空襲では奇跡的に空襲を逃れますが、売り上げ低迷や、横井英樹の乗っ取り騒動を経て、1977年より横浜松坂屋となります。その際「ホワイトナイト」と表されたのは、かなりの好感度でしたが……
閉店当時親会社が、現在の建物を解体し高層ビルを新築すると発表したところ、周囲から「歴史的建造物の景観維持」の猛反対を受けたため、閉鎖したままの状態で塩漬けにされています。
反対意見の「無くなってしまうと、ほかの街と同じになってしまう」という視点を大切にしないと、個性を生かしたみらいは開けないと思います。
建物前には、ここで路上ライブをしていた「ゆず」が、2003年のNHK紅白歌合戦で、この場所から生中継をした時の写真が飾られてあります。
隣接する西館(同じ流れの外観)が、JRA(日本中央競馬会)の「有料会員制の場外馬券場」になってから、その賃料収入が安定したとあります。
桜木町でも目にし「何なの?」と思っていました。
ここは「エクセル伊勢佐木」という、1,000〜1,500円の利用料で座席に座りながら、地方競馬の馬券を買ってモニタ観戦できる施設なんだそうです。
多少は、イギリス紳士に近い気分を味わえるのかも知れませんが、さっそうとした姿で歩く人は目にできません……
以前は、横浜(というか神奈川県内)で本屋といえば「有隣堂」と、広く認知された本店が旧松坂屋の向かいにあります。
少し前まで本を探すには、大きな書店が頼りでしたが、いまどきはネットで見つかりますから、生き残りも大変そうです(文房具コーナーは人気だそうですが…)。
むかしは「ハマブラ」とか言ったのでしょうか?(イセブラだそう)
伊勢佐木モールは、現在もにぎわっているように見えますが(地元の人は「むかしと比べれば格段に減った」と言うでしょうが)、少し大きな地元商店街にも見えてきます。
早く対策を考えないと、風俗街に飲み込まれてしまうかも知れません。
横浜の町並みについて、ガキ時分の印象と思うものに、繁華街に写真のような4階建て程度のコンクリートの建物が並んでいた(4階建てもむかしは珍しかった)という記憶が残っています。
そんな時分に町を歩くわけもないので、おそらく小学校の社会見学等でバスの車窓から見たのではないかと思います(キョロキョロしてたんでしょう)。
それは接収地返還後の町並み復興にあたり、空襲で延焼したことを教訓に、不燃化都市を目指した横浜市が、広い通り沿いを防火建築帯に指定したことによります(1958年)。
「横浜ってスゲェなぁー」とキョロキョロしたことで、授業では教わらない(教わったこと自体を忘れたのか?)記憶が残っていることに、当時の社会見学も役に立っていたと、この年になってフォローしたい気持ちになりました。
そんな建物群も、表には年代物の味がにじんでいますが、裏側など結構ボロボロだったりします。
老朽化した町並みの再開発を機に、繁華街の環境浄化を進めてもらいたいと思います。
敗戦後、軍関連施設が占領軍に接収されるのは当然の話ですが、横浜は町全体(伊勢佐木町から港にかけて、中華街と県庁付近をのぞくほとんど)が接収されました。
港町の利便性から、占領統治のベース基地とされたため、敗戦(1945年)〜占領終了(1952年)までの間、町の機能は失われていたそうです。
当時の写真で印象的なのが、福富町付近に建てられた「カマボコ型兵舎」と、若葉町付近に伸びる滑走路です。
滑走路は、旧横浜日劇(以前映画『私立探偵 濱マイク』等の舞台とされた。現シネマ・ジャック&ベティ)付近にあったようです。
軍隊とは「必要なものを必要な場所に作る」ことを理解していても(日本軍も占領地でやったことでしょう)、横浜に飛行場を作るという発想すら持たないわれわれは、かなりのショックを受けます。
突然米軍がやって来て占領されれば、反感もあるわけで、スキを見て滑走路を突っ切って伊勢佐木町に映画を観に行った、なんてコメントを見かけたりすると、基地周辺に暮らす沖縄の人々と同様のバイタリティを感じたりします。
返還後は、町の姿をできるだけ以前の形に戻したそうですが、そのスキをヤクザ者が狙っていたような印象を受けます。
時間は経過していますが、若葉町の通り(現シネマ・ジャック&ベティ前)はエスニック通りと化し、韓国・タイ系の飲食店が多いばかりか、住民も海外の人が多いようです。
下写真の、福富町仲通の飲食店街では、韓国料理店が圧倒的に強く、ミニコリアタウン的な町になっています。
また、古くからのチャイナタウンとは了見の違う中国勢の触手が伸びています。
以前暮らした土地に、元の住民が戻ってこられない理由はさまざまとは思いますが、その結果がこれでは「横浜市は何をやってきたんだろう?」と感じざるを得ません。
はて、誰に占領されたのでしたっけ?
そして、現在横浜の風俗産業の中心と思われる福富町です。
おそらく黄金町と「川をはさんだ縄張り争い」をした地域と思われます。
近ごろでは、目を付けられた川向こうから流れてくる女性もいるでしょうから、一層濃くなっているのかも知れません。
「一見さんは福富町にひとりで飲みに行ってはいけない」と目にしたので、狭い路地には入れませんし、昼間っから黒服のお兄さんが声を掛けてきますから、現在横浜で最も怖い町かも知れません(イエイエ、まだまだ……)。
福富町は、伊勢佐木モールの北側に当たりますが、南側には「親不孝通り」なるものが存在し(博多にある同名の通りが印象に残っていますが、各地にありそうです)、ポツポツ風俗店が点在しながら西側の曙町に続きます。
2009年5月には、韓国人の売春婦が30人検挙される等、アジア系の「遠征売春」が急増しているんだそうです。
それは国際的都市というよりも、単なる「ヤクザ者がはびこる田舎町」という印象を受けます。
そうか!(目からうろこがポロリ) 博覧会好きでアピールしたがる本音は、横浜市は現在も「非文化都市」の負い目を感じていて、香港や上海と同じレベルの「発展途上都市」を自認していることの表れかも知れない、と……
ですが港町の治安維持は、一般的な都市とは比較にならないほど大変で、「あぶない刑事」等が活躍する下地がある、ということかも知れません。
地域住民には、最も改善して欲しい場所ではないかと思った公園です。
収入が期待できる地下駐車場の地上施設のためか、ままお金がかけられていて、市街地では珍しく3階程度の高さからの滑り台があり、子どもに人気があります(上写真は別施設。後方の看板は風俗店)。
しかし、どこもホームレスの仕業と思われるゴミだらけで、おまけに階段では汚れた腹を日光浴しながら昼寝していたりします。
お母さんは行きたくないのに、子どもがせがむのでイヤイヤ階段を上がっているように見えます。
横浜市の職員はそんな光景を見ても、何も感じないのだろうか?
2010年11月に「APEC(アジア太平洋経済協力)首脳会議」が開かれるんですから、それまでに環境整備しておかないと、海外のニュースにそんな映像が流れちゃいますよ。
そこで「アジアの国々と同じ問題を、われわれも抱えているのです」と、ケツをまくる覚悟があるのなら、その勇気は評価できると思いますが……
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