2010/10/11

ハマの埋め立て地でリフレッシュ──鶴見川河口

2010.10.2
【神奈川県】


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鶴見川河口付近 埋め立て地(Map)


 青い空、白い灯台(?)、リゾートホテルにガラス張りの温室と、南国のような絵にも見えますが、ここは鶴見川河口付近の埋め立て地で、横浜市の様々なゴミ処理施設が密集する場所になります(鶴見は横浜市)。
 白い構造物は焼却場の煙突、ホテルのような建物は「ふれ〜ゆ」というその余熱を利用した温浴・プール施設(温泉ではない)、右のガラス張りの建物は植物園になります。
 大きな焼却場に付きもののセットメニューですが、もひとつおまけに「鶴見リサイクルプラザ:リサイクルの啓蒙推進施設」が併設されています。
 この埋め立て地一帯には「下水処理場」「汚泥処理センター」「資源化センター(リサイクル)」など、横浜市の処理施設が集められ、ここなら周囲を気にせず処理ができると、かなり伸び伸びとした敷地が確保されています。
 「ふれ〜ゆ」の正式名称は「横浜市高齢者保養研修施設」とあるので、高齢者をリサイクル(NG ! )→リフレッシュさせてくれます。

 右写真は首都高速湾岸線の「つばさ橋」で、以前訪れたJR海芝浦駅(東芝ふ頭のような埋め立て地)からも臨めましたが、ここはそのとなりの埋め立て地になります。
 この区画は「横浜市ふ頭」的な公共の場所なので、往来も自由でバスも運行しており、海側にある釣りデッキには親子で糸を垂れる姿も見られます。
 ですが、管理のため「17時閉鎖」「日没後は閉鎖(監視カメラで撮影できない)」などの制限があるためか、アベックの数が極端に少ない海辺との印象を受けます。
 高齢者向けの施設なので早じまいなのは分かりますが、お年寄りは夜遊びしたがらないのだろうか? って、しないよねぇ〜。

 同埋め立て地には、横浜市立大学大学院(独立行政法人 理化学研究所との連携大学院)が開設されています。
 八景島方面の埋め立て地にもキャンパスと付属病院がありますから、横浜市の埋め立て事業には、自由に使える土地を確保したい切実さがあったこと、改めて感じた気がします。


生麦(なまむぎ)(Map)


 以前紹介したJR国道駅の、国道15号線側とは反対の出口に面した通りが、生麦魚河岸通りになります。
 現在も通りの魚河岸は健在のようですが、こちらは昼過ぎに歩くもので、その様子を直接見ることはできません。
 旧街道っぽい通りながらも広く感じる道幅(キチッと店の前が片付けられているため広い印象を受けるのか)、仕事ぶりが感じられる後始末の光景(上写真)には、客を大切にしている姿勢が見てとれ、昔からのにぎわいが続いている様子が目に浮かぶ気がしました。

 江戸前の漁師町で、古くからの看板に「貝」の名が付く店の多さから、貝類の扱いが多い河岸のように見えます。
 ここ鶴見川河口付近から西側の横浜方面は丘陵地が海まで迫っているので、埋め立て前の海岸は急深と思われますが、東の川崎側には埋め立て以前、多摩川・鶴見川双方の流れから形成された複合扇状地のような湿地が広がっていたので、遠浅の干潟で多くの貝類が採れたことと思われます。
 川崎市の海岸線は短いのですが全面埋め立てられたため、古い港の有無については調べないと分かりませんが、当時から船着き場を持っていたこの地と多摩川河口の羽田の漁師は、川崎沖の埋め立て地付近(現在の工場地帯)で魚介を採っていたのではないでしょうか。
 浅瀬の無くなった現在、魚河岸で扱う貝類は一体どこで採っているのでしょう。金沢八景、もしくは千葉の木更津周辺か?


 上写真は地元の案内に「河口干潟」とされる一画で、水害防止が重視される河口付近の護岸はコンクリートで固めたいところを、迂回させてもこの「貝殻干潟」を保全したいと考えている、地域の「文化遺産」になります。
 古くからの単なる貝殻廃棄場に過ぎませんが、その量が膨大だったため現在も水際からは、原型の貝殻が洗い出されています。
 ここは教科書で学んだ貝塚(縄文〜弥生時代)とは、年代・性格的にも異なったものになります。
 始まりは不明ですが、『古事記』(712年)に記述されるヤマトタケルの項(伝説)によると、現在の京浜工業地帯付近は「広大な低湿地帯で通行に適さない」場所とされ(彼は船で房総半島に渡ります)、人影も見られない土地であったとすれば、後の時代に形成されたことになります。
 人が定着し貝漁が始められた後の貝殻廃棄場ではあっても、ここだけ白い砂浜か? というインパクトはありますし、残されているおかげで当時の貝漁について関心が向いたのですから、地元には大切な遺産であると納得です。

 ちょうどこの辺りが河川管理上の河口にあたりますが、海側には埋め立て地が広がります。
 川の延長のようにも見えるコンクリートの護岸に挟まれた流路は、海になるので運河とされるのでしょう。


 父親が海の方を見ながら息子に何やら語りかけています。
 息子の方は、とりたてて大きなリアクションをすることもなく、時折語り続ける父の表情を見上げている、とても素敵な光景です。
 内容は分かりませんが、きっと父は「男のロマン」を語っているのだろうと思いたくなります。
 だってここで、母とのなれ初めを語っても子どもには「何のこっちゃ?」ですものね。

 近ごろ生麦といえば「キリンビール工場」かも知れませんが、地名をメジャーにしたのは「生麦事件」になるでしょう(写真はその碑、背後がビール工場)。
 幕末の1862年この付近で薩摩藩主の父・島津久光の行列に、騎馬で乱入したイギリス人を藩士が殺傷した事件で、外交問題になります。
 この手の事件発生は当然と思われるのは、まず言葉が通じない、互いの文化を知らない(日本では行列に際しては下馬が礼儀)、そして当時異国人を歓迎する日本人は皆無(攘夷:外国排斥)ですから、異国人にとって日本はデンジャラスな国だったはずです。
 それでも奔放にふるまう異国人たちの姿勢には、日本(武士や刀)をなめきったおごりがあったようにも思います(というか、幕府が何も説明してなかったのでしょう)。
 江戸幕府は、1853年ペリー来航〜1854年日米和親条約締結(下田、函館を開港)で開国しますが、庶民の意識は江戸時代のまま置き去りにされたのでは不安は膨らむ一方で、大政奉還(1867年)までの13年間無策とくればクーデター(明治維新)も起こるわけです。

 同時代の龍馬は何をしていたか並べてみたくて調べました。
 1854年 開国:江戸での剣術修行を終えて土佐へ帰国
 1862年 生麦事件:土佐藩脱藩
 1867年 大政奉還:亀山社中を「海援隊」に〜暗殺(大政奉還後)

 一昨年の大河ドラマ『篤姫』ではその状況で「徳川慶喜に頑張ってもらわねば」と願ったものが、今年の『龍馬伝』では「慶喜の腹をくくらせる決定打は?」と、正反対の状況を提示してくれるNHKの企画力は見事と思いますが、当時の庶民は2年(番組の切り替え)で世の中の見方や考え方の修正ができたわけもなく、混沌とする情勢を不安げに見守っていたことと思います。
 再度切り返す視点として、幕末の会津藩の物語を見たいと思うのですが、白虎隊はもうやっちゃいました?

 最後になりましたが生麦の地名の由来とは、徳川二代将軍秀忠がこの地のぬかるみで往生した際、村人たちが付近の生麦を刈って道に敷いて行列を通したことに対し、秀忠から「生麦」という地名と、漁業権の特別な権利を与えられたとされます(羽田の漁師も幕府のお墨付きを受けていました)。
 ビール工場建設の際には多少の理由にはなったかと思いますが、「生麦」にビール工場というのははまりすぎな気もします。
 でもこの地で、どこから「水」を引いているのだろうか?
 地下水だと多少しょっぱそうな気もしますが、そこから苦みを生み出すのであれば、お見事! という気もします……(失礼)

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