2011/11/07

戦後の面影が残るということ──白楽、六角橋

2011.10.23
【神奈川県】



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白幡池、篠原園地(Map)

 白楽駅は一度降り立った事がありますが、六角橋商店街とは反対側に出て隣の東白楽駅まで歩いた記憶があります(何もなかった)。
 2駅間の線路は、商店筋から離れる方向にカーブし、車窓から見る商店街側の光景は、線路際まで家屋が立て込んで見通しが利かないこともあり、町の様子をイメージしづらい印象があります。
 歩く前に地図を見て「こんな所に池が!」と驚き、歩いみれば「釣りキチが集まる池?」の様子にまたビックリです。

 ここは横浜市立公園の「白幡池」で、隣接の県立「篠原園地」へと緑地が続きます。トータルしても広くありませんが、いい具合の自然環境が保たれています。

 以前歩いた鶴見川は多摩地区から海を目指すも、新横浜・菊名〜大倉山に続く丘陵地帯に行く手を阻まれ、南東に向かっていた流れは北へ大きく蛇行します。
 その流れを阻む丘陵地を水源とする入江川が代わりに南東へと流れ、その源流のひとつであるこの地は、かんがい用ため池とされ付近の農耕に利用されました。
 現在園地の環境整備は県や市が分担しますが、池の管理は地域住民が主体となっているそうです。
 それはある意味、理想的な役割分担といえますが、下写真を見ればその理由が理解できます(釣り天国を侵すべからず!)。


 陣取った全員が、細く短くしなりの強い「玄人っぽい」釣り竿を持って並ぶだけで迫力がありますが、「この気合い何?」と思うほどの真剣さで竿に向かっています。
 写真のように目つきはマジですし、見ていると、とても微妙なアタリに手首で対応し、瞬時に「クンッ!」と手首を返して見事に釣り上げています。

 その様子を見届けている間にも、周囲で次々と釣り上げる状況に驚いてしまいます(ビデオで撮ったら驚きますって。こんなにバンバン上げる様子を見たのは初めて)。
 釣り上げたさかなは20cm程度で厚みはありません。「おぉ〜、これがヘラブナ釣りか!?」と、初めて見た気がしてちょっと感動です。
 小学生のころチラッとかじった釣りの本で読んだ「ヘラブナは受け口なので釣り上げるのは難しい」イメージを思い出しました。

 この池は水深が深くヘラブナの生息に向いているので、釣りを楽しむために放流されたブルーギルやブラックバスと同様(ヤツらは迷惑だが)、むかしの人にもヘラブナ釣りのメッカにしたい気持ちがあったような気もします。
 ルアー、リール、返し針は使用禁止で、キャッチアンドリリース原則のようです。だからみなさん細く短い竿を使用した「真剣勝負」が挑めるのでしょう(上の彼はザリガニ釣りか?)。


 隣接の篠原園地には斜面を利用した雑木林や、子ども用プールがあります。
 プールのフェンスには、ここで見られる四季の自然や動植物の観察レポートが張り出され、なかなか楽しめる展示になっています。
 それに感化されたのか、保護のため立ち入り禁止とされる場所に踏み入り、観察する中学生くらいの男子がいました。
 保護区域に「入らなければ理解できないこと、入ったせいで自然を破壊したこと」を、総合的に理解できるようになってもらいたいと応援します。
 上写真は「カントリーヘッジ:小動物や虫たちのエサ場や産卵場」として、意図的に設置された枯れ木等の山です。


六角橋(Map)

 「白楽」の地名からは「白楽天っていたよね?」「七福神だっけ?」と思ったりしますが、七福神は大黒天 · 恵比寿神 · 毘沙門天 · 弁財天 · 福禄寿 · 寿老人 · 布袋と宝 船ですから、そのいい加減さを思い知らされます。
 そのイメージの元を探すと、横浜中華街の店名だったりするかも知れません……
 ちなみに白楽天とされる方は存在し、平安時代の中国(唐)の詩人、白居易(はくきょい)で、字(あざな)は楽天とあります。
 仮にそこから企業名をもらったとしても結びつきません(便利でも好感度は低い)。

 以前は東海道神奈川宿で働く伯楽(ばくろう、馬喰、博労:馬に関する仕事をする人)が多く暮らすことから、伯楽(ばくろう)→白楽(はくらく)とされますが(当時の庶民は漢字に弱かったようにも見てとれます)、その元は周(中国)の馬を見分ける名人「伯楽」によるようです(そう「名伯楽」です)。
 ばくろうに因む地名は、馬喰町のように日本各地に存在します。当然ながら白楽天は無関係です……

 右上写真は旧綱島街道とされる白楽駅前のメインストリートで、カメラ後方側から神奈川大学の学生が流れてくると、すっかり歩行者天国と化します。
 近くにはその道と並行する、現在では裏通りとなった、戦後からの雰囲気を保つアーケード街の「仲見世通り」が残ります。
 六角橋商店街では今年(2011年)8月に火事があり、片付けられたさら地を目にするとかなり延焼した様子がうかがえます。
 よく「すれ違うのがやっとの通路幅」と表現されますが、それがむかしの規格だったのでしょう(1間≒1.8m等)。京都の錦小路などは、その狭さで生じる混雑を商売の武器にする面もありますが、人が流れなければ武器にもならないこの通りはシャッター街になりつつあるようです……

 横浜市営地下鉄ブルーラインは当初、六角橋を通り横浜と新横浜をほぼまっすぐに結ぶ計画だったものが、地元の反対運動でルート変更されたそうです。
 表向きは騒音問題による反対でも意見を左右したのは、横浜駅方面への客の流出を恐れた六角橋商店街の反対運動のようです。
 その選択は正しかったと思えませんし結果を見ずとも、魅力的な個性を打ち出す行動力無くして、都市近郊の商店街に未来は無い、という現実に行き着いてしまいます。

 町が開発される様子を見る度に思うのは、「町(住民)にその意志があったのか?」ということです。
 時代的な勢い(波)で開発さた都市(東京)には同情する面もありますが、未練で無為に残されても町のためとは思えません。
 そんな開発の触手を払いのけてきた「都市近郊の田舎町」でも、都市計画無き虫食い開発に侵攻される前に、将来設計を明確にした積極的な新しい町作りを目指した方が、地域の発展につながるのではないか、と思う近ごろです(そんな意味で横浜は地方都市の代表格)。

 このアーケードには確認した限り3つのトイレが設置されていて、中には狭い建物のすき間の先にあったりします(右下写真)。
 実際、このすき間を通ろうとした時、出てくる人と鉢合わせ道を譲りました。「ここにあって助かった!」という「救いの神」の前では、人は謙虚に振る舞いますから、やはり「トイレの神様」はいるのかも知れません……

 六角橋には新横浜ラーメン博物館への出店で注目を集めたラーメン店があり、機会があればと思っていました。
 現在では「横浜家系(いえけい)」とされるとんこつ醤油味で油コッテリ系の店は珍しくありませんが、さすがに「うまい」と感じさせてくれます。
 しかし、嗜好や胃袋は年齢と共に経年変化するので、食後まで「しょっぺぇ」が残り、やめればいいのに一口スープを飲んだら最後、胃がもたれ家に帰り胃薬を飲みました……

 この「六角橋」の地名には思い出があります。
 中学三年の担任だった先生への年賀状の宛先にこの地名があり、何度も書かないにしても印象に残っていました。
 当時から最大の関心事だった「六角橋とはどんな橋か?」のオチは以下の通りです。
 日本武尊(ヤマトタケル)が東征(東方の蛮族の討伐)の際、この地の豪族の館に泊まり五位木(ごいぎ)という六角の木の箸で食事をし、その箸を豪族に贈ったことから、村名は「六角箸村」→「六角橋村」とされたそうです。
 そんな脱力的な伝説の後に「この地の橋は六角形の材木で組まれたという説もある」とされても、水を差された薪にもう火は付かない状況です……

 ですが、風水では「六角」は幸福を招くの記述に、希望を託したいと思います。


 追記──「黙れ!」

 東日本大震災の災害廃棄物(がれき)を東京都が受け入れた際、都民から抗議の声が寄せられ石原知事は「(放射線計測により)なんでもないものを持ってくるんだから『黙れ』と言えばいい」と切り捨てます。
 東電でも、原子安全保安院(国)でもなく、東京都が実施した検査も信用できないならば、東京で暮らさなければいいとの口調です。
 確かに、「安全だった」と評価されるのは何年も後のことでしょうが、それを今判断しなければ国や自治体の行政が滞ってしまうのも事実です。
 「力のある(財政規模・施設・処理能力)自治体が率先しなくてどうする」と、反対意見を切って捨てられる政治家(主導力)こそ、非常時に求められる存在なのかも知れません。
 この件に関しては、胸がすいた思いがしました……

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