2011/11/28

平地を占領された町の生きる道──横浜

大阪で維新は可能なのだろうか?
 知事・市長選挙で、改革派が圧勝しました。
 橋下さんの言う「体質の硬直化」は、大阪人気質(良くも悪くも)「古き日本人的な考え方」に根ざしていると思われます。
 新しいモノ好きではあっても、改革を進める中で遭遇する「そんなんかなわんわ〜」の壁をどう乗り越えるのか、お手並み拝見というところでしょうか。


2011.11.13
【神奈川県】


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 横浜という地名からはどうしても港や海を想起してしまい、海好きは海辺に足が向いてしまいますが、今回はその誘惑を振り切って丘陵地を目指します。


三ツ沢公園(Map)

 バス停は「三ツ沢総合グランド入口」とされ、メインの施設には「ニッパツ三ツ沢球技場」(サッカースタジアム)と「三ツ沢公園陸上競技場」がある市立の運動公園になります。
 横浜駅から2kmほどの距離ですが海抜40mの丘陵地にあるので、0mに近い駅(埋め立て地)からバスは坂道を一気に登っていきます。
 その坂道付近で「北軽井沢」の地名を目にしますが、「軽井沢」の地名は全国のいたるところにあるようです(40以上)。
 ルーツにはアイヌ語説、古代出雲語説等があるようですが、どこもきれいな清水の湧く山里に名が残るので、以前この地のわき水も有名だったことでしょう。

 公園の前身は、戦前1939年創建の神奈川県護国神社外苑が、戦中の1942年に防空緑地整備事業として整備されたものになります。
 空襲で護国神社(国のために殉難した人の霊(英霊)を祭る)が焼失後は慰霊塔とされ、市に譲渡された土地と周辺の用地を確保して、公園整備が進められます。
 以前「防空緑地整備事業」は「日本軍の基地を守るための砲台施設」と書きましたが、そのルーツは関東大震災にあると知り、ここで訂正させていただきます。
 この計画は関東大震災復興の一環として、東京を火災延焼防止用のグリーンベルトで囲おうとする壮大なものでしたが、結局とん挫します。
 しかし、日中戦争開戦(1937年)に伴う防空法の制定により緑地計画は「防空緑地計画」へと変容します。
 それは東京の外環状に、空襲に備える広大な避難地を作る計画で、ちょうど戦意高揚のためにでっち上げられた「紀元2600年(1940年:昭和15年 神武天皇即位紀元2600年を祝う行事)記念事業」として推進されます。
 砧(きぬた)公園小金井公園等、そんな勢いで作られた施設がいくつもあったとの記憶があります。

 避難所として機能した場所もあったでしょうが、あれだけの爆弾を落とされては、たどり着くまでが生死の分かれ目であったように思えてなりません。
 とは言え父親の実家(世田谷区)付近では、広くはないが道路のおかげで、空襲による火災の延焼を免れたと聞きます。
 津波や火災など、さまざまな危険性から身を守るための町づくりが必要なことを、切実に感じる近ごろです。

 当初の「緑地整備予定地」は戦後GHQの方針で「農地解放」として民間に払い下げられますが、現在はそんな土地を売価よりはるかに高い金額で買い戻して、緑地にしようとしています。
 その場しのぎ的な政策が生んだ問題を、横浜市は地域で修復しようと農地の区画整理を進めているのか、に思い至ります。

 当時の農地解放(改革)には、共産主義を排除したいGHQの思惑があったようです。
 国が農耕地を始めすべてを統制管理していた戦時中までの施策から、共産主義に傾くことを警戒したため、共産党支持層であった小作人を自作農=土地資本保有者(事業主)とすることで、多くが保守系に流れたとされます。
 税金で養ってきたともいえる共産国的な農家保護政策ですが、TPP参加に際して大きな判断が求められています。


 三ツ沢球技場(現在ニッパツの冠)といえば、以前はJリーグ「横浜マリノス」(現在もホームだが、ほとんど日産スタジアム(横浜国際総合競技場)を使用)、「横浜フリューゲルス」(1999年マリノスと合併→「横浜F・マリノス」)2チームがホームスタジアムとしていましたが、フリューゲルス解散後、サポーターたちの後押しにより設立された「横浜FC」がホームとします。
 この日は湘南ベルマーレとの試合があり、神奈川県勢の闘いとあって観客が続々と集まってきます。

 特段のサポーターでないわれわれの、「早く帰れそうだから、サッカー見られるかな」の関心は日本代表戦に限られますが(TV中継の有無もある)、その底辺(では失礼か?)を支えるJ2チームの応援に集まる人々の姿に、「あなた方のおかげで、FIFAランキング20位内に定着できた」と、球技場へと駆ける子どもたちの将来を応援したい気持ちになります……

 ここは、東京オリンピック(1964年)のサッカー会場として使用された施設になります(最初の写真)。


 運動公園に隣接して、横浜市立平沼記念体育館があります。
 この日は女子ハンドボールの試合が行われていましたが、ここはバレーやバスケットに加え、フットサルにも貸し出されるそうです。
 「平沼」の名称は「平沼橋」(相鉄線駅名にもある)に関係がありそう、と調べてみました。
 体育館の名称は、市民スポーツの父とされる平沼亮三(実業家、政治家、アマチュアスポーツ選手、元貴族院議員、元横浜市長)に由来し、2度のオリンピック(1932年ロサンゼルス、1936年ベルリン)で選手団長を務めたそうですから、立派なスポーツ界の名士です。
 また76歳で、神奈川国体(1955年)開会式の聖火最終ランナーを務め、その姿を見た昭和天皇が「松の火をかざして走る老人(おひびと)のををしき姿見まもりにけり」と詠んだ句が残されることからも、その心意気がうかがい知れます。

 現在の横浜駅周辺には江戸時代中ごろまで、袖ヶ浦とされる入江が保土ケ谷付近まで広がっていましたが、18世紀ごろから埋め立て〜新田開発が始まり、19世紀には程ヶ谷宿(旧表記)の豪商平沼家と岡野家が大規模な埋め立てを行います。
 その後明治時代に前回登場した高島嘉右衛門が、湾口である現在の横浜駅、高島町一帯を横浜港(桜木町方面)への鉄道建設のために埋め立てます。
 埋め立て地に囲まれた水域は「平沼」と呼ばれますが、そこも平沼家によって埋め立てられ、東海道本線が通されました(現在の平沼橋付近)。
 説明が長くなりましたが、上述の平沼亮三はその平沼家出身ゆえに貴族院議員(位の高さ以外にも勅選議員、多額納税者議員の資格がある)となれたとしても、生涯地元発展やスポーツ振興に取り組んだ姿勢が、地元から感謝されたようです。

 人名が地名として残されるためには、その方の人徳が必要条件ではありますが、「田舎の町」という要素も必要だったのではあるまいか?
 横浜はそんな田舎町だったようです……


 今回初めて馬術練習場があることを知りました。
 ホームページでは「横浜市で唯一馬術の練習場がある」と自慢げではあっても、わたしも仕事でのかかわりが無ければ「あっ、お馬さん!」などとは、関心の向かない施設だったことでしょう……


横浜国立大学(Map)

 一度歩きたいと思っていて、地図では三ツ沢公園から近そうと向かってみると、「三ツ沢=3つの沢がある」の由来となるような急峻な地形を体感させられます。
 横浜駅に近いからって、こんな急斜面に無理して住まなくてもと、感心を通り越すような住宅がひしめいています。
 みなさん「健康のため」なんですよね?

 本大学は4つの旧制官立教育機関を統合し、1949年に新制国立大学として設立されます。
 国立大学で名称に「国立」が入るのはここだけ! と自慢する声も聞かれますが、設立当初に「横浜大学」の名称で申請するも、他校と競合するほど人気が高いため、お互いにその名は使用しないことにしたそうです。

 見せてもらったくせに失礼ですが、歴史を感じさせるような建造物が無くちょっとガッカリですし、「○○学部棟」の看板が各建物にあるも「ここだけで事足りるの?」と思うような小所帯の建物が並びます。
 学部を増設する規模拡大路線ではなく、少数精鋭化の大学院教育研究を目指しているようです。
 上写真は建設学科棟で、日の当たるベランダには、この夏「節電効果」を発揮したと思われる植物の痕跡が見られます。


 キャンパスは、旧ゴルフ場(程ヶ谷カントリー倶楽部)跡地に作られたため、起伏に富むものの緑は豊かで、森の中で研究しているようなイメージがあります。
 上写真は野外音楽堂ですが、舞台奧の壁が裏側の緑に覆われてしまいそうでも、手入れをしないところに校風を感じたりします(さぼってるだけかも知れませんが……)。

 建物デザインはみな機能重視のようで、右写真でテラスのように見えるパイプの並びは数少ない装飾に思えますし、カメラ反対側の建物には実験設備用のパイプ配管が並びますから、ライトアップすれば、近ごろ人気の工場やコンビナートの夜景のようになるのでは? とも思える光景です。

 近ごろは少子化対策として「オシャレなキャンパス」をアピールする大学も多く目にしますが、「硬派」な印象と「手を加えない自然環境」の中で「研究」を目指す施設の印象に、応援したい気持ちにさせられました。

 上述2つの施設は戦後に作られますが、平坦な市街地のほとんどを米軍に占領された当時、自治体が自由に利用できる土地はこのような丘陵地しかなかった、という状況を頭に入れて、これからの横浜を見ていくべきという気がします。


 追記
 元プロ野球監督の西本幸雄さんが亡くなられました。
 91歳とは…… つい先日までテレビでお見かけした気がしますから、性格的には「出たがり屋」だったのでしょう。
 阪急ブレーブス、近鉄バファローズ監督時代の姿が印象に残ります。
 パリーグで8回の優勝経験があるも、日本シリーズで一度も優勝できず「悲運の闘将」とされた方です。
 特に残るのは、1979年日本シリーズ広島との対戦で、伝説となった「江夏の21球」と語られる試合に負けた際の印象です。
 「江夏にやられた」の言葉は今も残りますが、振り返ってみれば当時「江夏を打てる打者はいなかった」ように思います。
 しかし西本さんは、「そんな打者を育てられなかった」ことを悔やみます。
 そんなカッコイイ「男 西本」さんが好きになり近鉄ファンとなりますが、球団は2004年で消滅してしまいました。
 一度、日本シリーズでの西本さんの胴上げ姿を、涙しながら見たいとの願いは叶いませんでした……
 ありがとうございました。


《お知らせ》
 今回で東横沿線シリーズ(渋谷〜横浜)は、みなとみらい線を歩かず終了としますが、それには12月3日に引越予定の慌ただしさがあります。
 そんな理由から、来週のアップはお休みします(インターネット接続できない期間が生じるため。無くてもいいことを証明したい気もするが)。
 「荷物少ないから何とかなるだろ」と、今回はどうもたるんでる気がしますが、何とかやっつけるつもりです……

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