2009/09/14

祈りではなく、実弾で守る──観音崎

2009.9.5
【神奈川県】


 観音崎大橋(Map)

 ここも東京湾ですが、ここまでくると海水もキレイになりますし、砂浜も白くなってきます(サンゴによるものではありません)。
 下写真は観音崎大橋になりますが、神奈川県にしてはいい感じでしょ?


 三浦半島の観音崎は、東京湾の入口となる浦賀水道に突き出た岬で、房総半島の富津(ふっつ)岬とは7km程度しか離れておらず、観音崎側は急深ですが富津側は遠浅なので、水路としてはとても狭いものになります。
 地名の由来としては、741年に行基(ぎょうき or ぎょうぎ:東大寺大仏造営に寄与し、745年に日本最初の大僧正を与えられた僧侶)が、洞窟にいる大蛇を退治し、十一面観音(船守観音)を祭ったとの伝えによるそうです。
 行基が開いたと伝わるお寺は全国に多数存在していますが、彼は東国を訪れていないと思われるので、その威光を利用させてもらったのだと思われます。
 その観音寺は1880年(明治13年)、戦争準備の砲台建造に伴い移転の後、その地で火災により焼失してしまったそうです。
 1899年(明治32年)には「要塞地帯法」という、要塞施設の周囲一帯を軍の管理下に置くという法律が公布されます。
 それにより、土地の開墾、家屋の増改築等や漁までも制限されたようですから、房総半島の東京湾側と三浦半島の全域は、まさに軍によって占領された状態だったと思われます(日清戦争:1894年(明治27年)〜1895年、日露戦争:1904年(明治37年)〜1905年)。


 たたら浜(Map)

 まだ観音寺が存在した時代の観音様のお導きでしょうか、ガリヴァー(小説『ガリヴァー旅行記』(1726年)の主人公)が日本に上陸した場所とされるそうです。
 観音崎に上陸し、日本の「皇帝(将軍)」に江戸で拝謁し、オランダ人に対する「踏絵」を免除して欲しいと願い出たそうです。
 その後、長崎まで護送され、帰国の途(イギリス)についたとのこと。
 次に訪れた黒船のペリー(1853年)は、この地からも見えたであろう浦賀沖に停泊し、久里浜に上陸します(本件については、次回以降にレポートします)。
 そして、右写真の足跡(縮小レプリカ)を残した、初代ゴジラ(映画『ゴジラ』1954年)がこの地に上陸することになります。
 その背景に、お上の都合で信仰の地から観音様が移されてしまった無念さを重ねると、どことなく映画『大魔神』(1966年)にも通じる土着性が感じられ、日本的な物語として納得できるようにも思えますが、ゴジラはもっと大きな問題提起のために東京を目指します(ゴジラは水爆実験の落とし子的存在として登場しています)。

 この地に上陸した2例ともフィクションではありますが、(ペリーを含め)海外からも、ここが首都にとって重要な場所と考えられていたことには、なるほどと納得してしまいます。
 上記の理由からも、歴史ある観音様を移転させてまでも、砲台を築きたい場所であったことは、立地的には理解できるところです。
 しかし、日本人の感性としては「そんなことをすると、後で悪いことが起こるのでは?」と思いますし、後年味わった辛酸な結果(第二次世界大戦)を「観音様のおしかり」と言われると、納得してしまう気分を持ち合わせているように思われます。


 観音崎公園 海の見晴らし台(Map)

 右写真は、見晴らし台下の砲台跡へと続くトンネルで100m程度はあるでしょうか、坑内に照明はあるものの、入ることをためらう方が多いようです。
 その先に残された過去の遺産の上に、海を見晴らせるテラスがあります。
 訪れる人も少ない場所なので、ここからの眺めがひとつの楽しみでもありました。
 しかし! 一番のお気に入りであった「海の見晴らし台」が、施設の老朽化のため立ち入り禁止となっていました。
 それでもズンズンと入って行きましたが、庭園や周囲の木々の手入れがまったく施されずに見晴らしが失われてしまい、これではちょっと足が遠のいちゃうなぁ、という印象です。
 また、あの場所からの光景が早く見られることを、期待しております。

 掘ったトンネルにレンガをはめ込んでいったのでしょうが、中途半端な姿のまま残された理由には、何かドラマが隠されているようにも思えます……


 観音埼灯台(Map) ※灯台名は「埼」の字を使用するようです。

 日本初の洋式灯台で1869年(明治2年)に点灯を始め、この灯台建設の着工日である11月1日が灯台記念日とされるそうです。
 現在の灯台は3代目(関東大震災等で崩壊のため)ですが、初代の設計はレオンス・ヴェルニー(横須賀港にあるヴェルニー公園名由来の人物)等が担当したそうです。
 ここは、映画『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)のファーストシーンに登場した灯台なんだそうです。
 登場したことは覚えていますが、どこに出てきたかは忘れているので、再見の機会があれば注目してみます。


 江戸時代に鎖国していたこの国では、地元出身の土地勘を持った船頭が船を操ればよかったため、灯台の明かるさ(光の到達距離)はそれほど重要視されていなかったのかも知れません。
 しかし1854年の開国後、この地に不慣れな諸外国からの船が訪れるようになると、灯台(航路標識)整備の未熟さに「ダークシー(Dark Sea)」と呼ばれたそうです。
 そのため、外国との条約の中に灯台の整備が盛り込まれたとのことです。

 上述の映画のように、以前は灯台守が常駐していましたが、2006年に女島灯台(長崎県五島市)の自動化により、国内すべての灯台が無人化されたそうです。
 海上保安庁の役割と言ってしまえばそれまでですが、それは大変な仕事であったと思われます。


 右手の鮮やかな緑地は、海上自衛隊・観音埼警備所になり、立ち入りができません。
 いまどきは、敵軍阻止というものではなく、緊急時のヘリコプター発着所等に使用されるのではないでしょうか。
 そんな岬の突端にある構造物は、海軍時代の検潮所跡(海面の高さを観測する場所)とされています。

 灯台に登ったのですが、上では身動きの取れない状態でした。
 それは下写真の、原子力空母 ジョージワシントンを撮影するために陣取っているカメラマン(プロなのかなぁ?)たちのせいです。
 空撮できない場合のカメラポジションとしてはベストかと思われますが、人がすれ違うのがやっとの場所に三脚を立てるとは、神経を疑います(下写真は灯台の下で撮影)。
 しかし、それを知らなかったのはわたしだけ?
 見物の外国人は「マイフレンドの船が帰ってきた」と、日本人の彼女と見学に来ていたりして、ちょうどそんなタイミングだったようです。


 対向して行き交う船の距離の間隔が分かると思いますが、ここからも浦賀水道の航路の狭さが実感できるのではないでしょうか。
 そのため航路内では12ノット(時速約22キロ)の制限速度が定められ、オートパイロット(自動航行)は禁止されています。
 航路にはセンターブイが設置され、入り(北航路)と出(南航路)のそれぞれが、700m幅に設定されているそうです。
 ──写真左が北で入り、右が南で出の方向。

 砲台が実存していれば、撃てば当たる距離だ、などと思ったりもしました……


 ボードウォーク(Map)


 観音崎公園に隣接する観音崎京急ホテルの海沿いには、ボードウォークが設置されているので、しぶきのかかるような海辺を歩くことができますし、上写真のように岩場に渡ることも可能です。
 砂浜や岩場がある海岸なのですが、そこに降りずに海辺を歩きたいという方でも、海をとても身近に感じられる散歩道と思われます。
 海辺のバリアフリー散策路を目指しているようで、そんな素晴らしい取り組みの裏側には、提案と実現に尽力されたロマンチストがいたのだと思われます(管理は大変かも知れません)。
 でも、入口にある柵は外せるんですよね?
 というのも、入口にはオートバイ進入防止の柵があります。
 ハッキリ言ってそんな柵を作ること自体、野暮なのですが、それを防ぐことは教育では無理なのかも知れません。
 これは道徳観なので、教育ではなく自ら経験によって学ぶしかないのかなぁ……


 走水(はしりみず)港(Map)

 ここ走水港の名前は何度となく耳にしていて、訪れてみたいと思っていました。
 最も目を引くのは、防衛大学校の港湾設備になります(防衛大学校とは、幹部自衛官を教育訓練する防衛省の施設で、外国の士官学校に相当します)。
 一般の漁船が利用できる区域(一般的な漁港のような施設)はあまり広くなく、多くを占めているのは、地元船主が経営する釣り船関連の施設になります。
 ですから、各家の海辺にそれぞれの船着き場があり、釣り客を囲い込むような(響きは悪いですが、地方の漁村的な)構造になっていて、船着き場を横断的に歩くことはできませんでした。
 そんな印象からするとこの港はまだ、各船主が独立した漁や釣り船で生計が立てられるように見え、保守的な姿勢で各自のテリトリーを守れば生きていけるような、恵まれた状況のように思われました(右写真はガラクタばかりですが)。


 走水神社(Map)

 この神社の歴史は古く、「古事記」「日本書紀」にも登場するそうです(古くは馳水と書いたそう)。
 箱根の足柄峠(金時山、仙石原方面)経由で相模の国(神奈川県)に至った古東海道は、鎌倉を経て走水から海路で上総の国(房総方面)へ通じていたとされます。
 火災等により神社の起源等については不明だそうですが、古事記によると「父である景行天皇から東征を命ぜられた日本武尊(ヤマトタケル)は、110年、走水から上総へ向かう途中の海上で暴風雨に遭い、后である弟橘媛命(オトタチバナヒメ)が海に身を投じてその難を救った」と伝えられるそうです。
 それらの経緯により、父である景行天皇が、この地に日本武尊を祭ったことが始まりと伝わるそうです(もちろん弟橘媛命もここに祭られています)。
 また以前、弟橘媛の像が都内芝公園に建てられていたそうです(関東大地震で崩壊)。

 帰りはここから横須賀行きのバスに乗りましたが、途中旧道と思われる道幅の狭いトンネルを抜けて行きました。
 海側に道を通せずにトンネルを掘る必要性があったと思われる、この辺りが以前の海岸線と考えると、かなりの埋め立てをしたことになります。
 以前は、京浜急行の馬堀海岸駅の名前の通り、目の前に海辺が広がっていたのかも知れません。
 平地の少ない横須賀市としては、念願だったのではないでしょうか(付近の埋め立て地にある、大学時代の同級生の実家を訪れた記憶があります)。
 横浜からこの地域にかけての宅地事情は、傾斜地が続く土地柄ゆえ厳しいものと思われますが、そんな斜面に挑むかのように開発された住宅地が、目につき「地震が来たら大変なことになるのでは?」と、心配で仕方ありません。
 訪れる度にそんなことを思うのは、わたしだけでしょうか……

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