2009/09/28

黒船に背負わされた運命──久里浜

2009.9.19
【神奈川県】


 黒船来航の地である浦賀と共に久里浜の地名は、ペリー一行が上陸した場所として記憶されていると思います。
 ペリー来航の際、浦賀には日米双方の多くの関係者が会するための広い土地が無かったため、浜辺も広い久里浜が上陸の地に選ばれたそうです。
 しかし、そんな歴史的出来事があったために、この横須賀の地は、国や軍隊の力によって翻弄(ほんろう)されていくことになります。
 もともとは沼地で人も住めない土地でしたが、1660年頃の新田開発によって開かれたそうです。
 新田開発を事業としていた砂村新左衛門によるそうで、彼は東京都江東区砂町の開発も行い、「砂町」の地名は彼の名前が由来とされるそうです。

 平作川(ひらさくがわ)に沿って伸びる平坦地は、三浦半島においては広く、現在では工場も立ち並んでいます。
 2008年8月、その工場団地にある原発燃料製造会社「グローバル・ニュークリア・フュエル・ジャパン」で放射能漏れがあったと、ニュースで知りました(そこに放射性物質を扱っている工場があったとは、知りませんでした)。
 茨城県東海村で臨界事故を起こした工場もそうですが、素知らぬふりをして住宅地に隣接していたりします。
 放射性物質は目に見えませんから、近隣住民の方々はまさしく「不安と隣り合わせ」と思われます。
 そのような物質を取り扱う工場の立地を制限できないものか、と思ってしまいます。
 前段からいきなり文句で始まってしまいスミマセン。


 くりはま花の国(Map)

 秋めいてきたと思ったら、もう「コスモスまつり」が始まっていました。
 9月5日から10月25日まで行われているそうですが、まだ見頃は先のようです(この日は風が強く、コスモスの花が風になびいて撮れない……)。


 わたしは、コスモスの季節にしか来たことはありませんが、春にはポピー園となるそうです。
 よくもこんな傾斜地に公園を作ったもので、整備や手入れも大変だろうにと、ゼイゼイと坂を登りつつ感じるような立地になります。
 三浦半島には、田浦梅林等の花の名所があっても、みな坂道の上にある印象があります。
 比較的平地という印象のある衣笠の菖蒲園も、バスで行ったのでそんな印象があるのか? 土地柄ですから、仕方ありませんね……
 それでもここは、公園施設化されていて、園内を運行するバス(フラワートレイン)や、ハーブ園には足湯があったりするので、計画を立てていれば楽しめる施設と言えます。


 最も高い場所にある「冒険ランド」には、2代目「ゴジラ滑り台」があります(上写真)。
 初代は、足跡のあった観音崎のたたら浜にあったそうです。ゆえに地元では「復活!」としています。
 この「滑り台」かなり本気で作られていますが、市民からの募金を集め、映画を制作した東宝に作ってもらったそうです。
 サイズも初代(1954年)の大きさだそうで、背後にある現代の送電線の高さには到底及ばない大きさになっています(ゴジラは、日本の高度成長に合わせて巨大化していきます)。
 しかし、調べてみると初代ゴジラの体長は50mだったそうですが、この滑り台はそんなには大きくないと思います(シッポまでの長さなの?)。


 久里浜火力発電所(Map)


 1957年に建設が始まり、1960年の運転開始当時は、発電所の総出力が世界最大だったようで、地元の商店街では「発電もなか」という発電機形の最中がお土産として販売されたそうです。
 やっとの思いで整備した農地を政府(幕府)に占領され、いつの間にか軍隊の駐屯地とされてしまい、庶民はほそぼそと漁猟等を続けるしかなかった地域にとって、発電所の建設はお祭りのようなものだったのではないでしょうか。

 京浜急行久里浜駅(JRの駅もすぐ近くにあります)から海に向かうと、学校施設や公団住宅が整然と区画されている一帯があります。
 その光景というか、ニオイというか、以前は米軍基地に使用されていたような印象を受けます。
 第二次世界大戦まで軍隊が使用していた施設は、米軍に接収されたことは理解できますが、返還された現在でも、自衛隊の施設が点在しています。
 それは、地元による自治のコントロールが、現在でも不能であり続けていることの表れと思われます。
 土地を奪われ自立することがかなわなかった町とすれば、産業も育たないわけで、発電所建設に異を唱えることもできずに、現在に至っているように思えました。
 外見も中身も同じには思えないかも知れませんが(本質的にはそう違わないのではと)、原発銀座と言われる福井県の若狭湾周辺を想起しておりました……

 右写真は、公園と発電所に隣接する、ゴミ焼却施設の煙突になります。
 上述の「花の国」は、この焼却施設建設の見返りなのでしょう……


 東京湾フェリー(Map)

 三浦半島の久里浜と、房総半島の金谷を結ぶフェリー航路になります。
 わたしは三浦半島側の住人になるので、金谷近くにある鋸山(のこぎりやま)や南房総を目指す場合には「便利だよねぇ〜」という交通機関でした。
 それが今では、東京湾アクアラインや、富津館山道路が開通しただけでなく、高速道路料金値下げの影響をモロに受ける交通機関となっています。
 この先、高速料金が無料になったとしたら、おそらくやっていけないのではないでしょうか?
 ここでも、時代の流れに翻弄されている様子が見て取れます。


 しかし世論調査では、高速道路料金の無料化に反対する意見が、6割を超えていると耳にします。
 道路建設費の返済に税金が使われることや、排気ガス増大を懸念する背景があると言われています。
 「休日は1,000円で乗り放題」に、狂喜して連休には渋滞を生み出した、ちょっと単純なわたしたちですが、この調査結果には、国民の冷静さがうかがわれると思います。
 国民をなめていた前政権の策に踊らされながらも、その上を示唆した現政権に「待った!」をかける世論に対して、どのような修正をしていくのでしょうか?
 フェリー会社の関係者でなくても、とても関心のある問題です。


 ペリー公園(Map)

 黒船船団を率いた、マシュー・カルブレイス・ペリーは、1853年浦賀沖に停泊し、幕府が指定したこの地に上陸したとされます(右写真は公園に立てられた記念碑の裏面)。
 ──脱線しますが、ペリーのフルネームをここで知り、以前深夜番組で藤井隆がやっていた「マシュー」のモデルは、ペリーなのでは? と思った次第です(カツラは金髪でしたが)。

 最初の来日では、米大統領の親書を渡すことが目的とされますが、翌1854年には現在の横浜市において、日米和親条約の調印を実現させます。
 それは、徳川家光以来200年以上続いた鎖国が解かれた事を意味します。
 伝えによるとペリーは、高圧的な態度を取る人物だったそうで、声が熊のような大声だったこともあり、船員の間では「熊おやじ」呼ばれていたそうです。

 それ以来、この地域の軍事都市化が推進され、横須賀全域で軍事施設の建設が進められることになります。
 1938年に、現在の久里浜駐屯地の前身である海軍通信学校が開校、1942年に現在の京急久里浜駅が開業し、1944年に軍事目的とされるJR横須賀線久里浜駅が開業します(JRの駅はローカルな風情があってとても好きです)。
 米軍から返還後は、一部が学校や、工業団地等に転用されますが、依然として法務省、国土交通省、自衛隊など国の施設(火力発電所等)や、研究所に使用されています。

 この地でも、再開発〜マンションやショッピングセンターが作られていますが、どうも土地のプライド的なものを感じることができません。
 浦賀のような地元神社の祭りではなく、観光向けと思われるような「ペリー祭り」の宣伝を目にしました……
 土地独自の歴史を重ねられなかった経緯というものは、取り返せないかも知れませんが、これからのビジョンが大切なのではないでしょうか。


 前述の平作川河口に伸びる堤防になります。
 以前は、左の電柱(簡易的航路標識)が木製でとても風情があったのですが、さすがに取り替えられたようです。
 電柱まで歩いて行けたのですが、この日は潮の影響でしょうか波をかぶっています。この地の地盤が沈降していなければいいのですが……
 ──関東大地震前に三浦半島では地盤が沈下していたという記録を目にしたことがあります。

 何だか文句ばかり書いてきましたが、銭湯に入ったこともあるし、「あの店は無くなった」等、印象としてはあれこれ残っているので、結構な回数訪れているのだと思います。
 好きだから苦言ばかり言ってるのだろうか……


 P.S. 日本の新しいファーストレディはアメリカで、「ここがわたしの舞台よ!」のようなパフォーマンスを見せてくれました。実に頼もしい限りです。
 あれくらいのアピールをして、ようやく海外に認められることは、ご本人が一番理解しているのだと思われます。
 それを「宇宙人」などと表現する日本人の、「大和撫子」信奉(わたしにもあります)は、完全に過去の遺物と化しているようです……
 「タカラジェンヌ」という経歴を英語で何と表現するのでしょうか? 
 「ダンサー」とか言われたら、どうしましょう……

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