2010.3.20
【神奈川県】
横浜橋、寿町(Map)
早咲きの「おかめ桜」の下で写真をチェックしていると、花びらがパラパラ落ちてくるので見上げてみれば、メジロが盛んに花をつついています。
そんな姿を撮れないものかと構えている時、背後からおばあさんの声がしました。
「メジロは来てますか?」
「あそこにいますよ」と、指さしながら説明しますが
「そうですか。わたし目が悪いんで分かりませんが、いつも聞こえるメジロの鳴き声が聞こえないんでねぇ」
「食事に夢中みたいですね」
「あぁ、そうでしたか……」
ハッキリ見えなくても耳をすませば、音量は小さくとも「春の兆し」をサラウンドで体感することができます。
それを探そうとする感性は、きっと気持ちを明るくしてくれることでしょう……
ここは大通り公園で(以前は埋め立て地の運河。現在は地下鉄が通っています)、ここを含め今回歩く地域には、初めて足を踏み入れます。
現在JR根岸線が通る付近から港側には、元町側から伸びた砂嘴(さし:海に細長く突き出た砂浜)と呼ばれる陸地がありました。
それは馬車道あたりで途切れ、桜木町側とは陸続きではなかったので、開港場はいわば出島のような形状でした。
その内湾に当たるこの付近(伊勢佐木町〜南太田)は埋め立て地で「吉田新田」と呼ばれる田んぼでした。
外国人がウロウロする港付近と、田んぼの境界に関所が置かれ、その港側を関内(かんない)、田んぼ側は関外(かんがい)と呼ばれました。
関外という名称は使われなくなりましたが、その地域が横浜市の「関心の外」であるように感じられたのは、ちょっと驚きでした。
右写真は「横浜橋商店街」のある真金(まがね)町で、失礼ながら「ちゃんとした、庶民の下町があるじゃない」との印象があります。
しかし以前は「真金町遊廓」という旧赤線地帯(公認の遊郭)だったと聞きビックリ。
明治時代、高島町(横浜と桜木町の間)にあった遊郭が火災で焼失したため、ここに移転して赤線廃止まで存続したそうです。
赤線廃止後は、以前から青線地帯(非公認の地域)であった黄金町、福富町や曙町に風俗街は移っていきます。
その後真金町は、この商店街を中心とした下町の住宅街へと移り変わり、現在では性風俗産業とはほぼ無縁の地域となります。
その復活ぶりは、環境浄化運動は成せばなる活動であることを、実感させてくれます。
ただ、赤線地帯の転入は外的要因によるものでしたから、もともと地域住民の反感が強かったのかも知れません。
大通り公園に面した商店街入口近くに、行列のある店がありました。
「豊野丼」という天ぷら専門店で、テレビでも紹介される有名店らしく、自慢は海鮮類と値段の安さとのこと。
でも「食ってみろ丼」という、てんこ盛りの天丼があることから、B級さは伝わってきますが、聞いただけで胃がもたれそうなおやじが立ち寄れる店ではないようです。
B級より上を求められる場所ではないものの、通えるならば、定食の食べ比べをしてみたいと思う店が点在しています。
キレイな店ではなくとも、ちょっとのぞいてみたい店があると、再訪のきっかけになったりします。
落語家の桂歌丸さんは真金町の出身で、横浜橋商店街のホームページにもコメントを寄せています(現在も在住。夫人も真金町出身)。
歌丸さんの生家は置屋(おきや:芸妓の所属事務所)だったそうで、あの人独特の、ふつうの男には出せない「色気」は、芸者に囲まれて育った生い立ちにあったのかと、とても感心しつつ納得しました。
また、「浜っ子」のプライドを持つ方で、古典落語でも江戸ことばを多用しないそうです。
意識して聞いたことがないので、今度聞いてみたいと思います。
まま横浜を歩いてきましたが、ようやく「浜っ子のプライド」という概念にふれることができて、少しホッとしました……
下写真は、浜っ子の自慢(だった)と思われる横浜文化体育館で、東京オリンピックのバレーボール(東洋の魔女)、プロレス(力道山)等々の様々なイベントが行われてきました。リンク先のホームページには「パンダの曲芸」なんて写真がありました。
現在ではパンダの人権(?)に配慮して、芸を仕込めなくなりました。
上海雑技団の出し物だったそうで、当時の中国では海外への売りモノは少なかったにせよ、時代の流れを感じさせられます。
まさに「人寄せパンダ」ですが、これって日本の表現ですよね?
さて、今回の山場となる「寿町」に、気合いを入れて突入です。
ここは、日雇労働者が宿泊するための「ドヤ」(人が暮らすような「宿」ではないため、逆さまに読んだのが始まりだそう)という簡易宿泊所が立ち並ぶ「ドヤ街」と呼ばれる地域で、東京の山谷、大阪のあいりん地区(釜ヶ崎)と並ぶ三大ドヤ街とされます。
この付近も戦後米軍に接収されますが、返還後の早い時期から在日韓国人が集まり、一帯の地主となります。
職業安定所が移転してくると、ドヤ群の建設ラッシュが始まりますが、オーナーのほとんどは地主の在日韓国人だそうです。
そこへ、日ノ出町や黄金町付近の大岡川沿岸バラック群や、船上宿泊施設から、港湾労働に携わる日雇労働者が押し寄せて、ドヤ街が形成されます。
職安の移転場所選定には、意図があったのでは? と勘ぐりたくなります。
──映画『泥の河』(1981年)に描かれた光景(船上生活者も描かれた)が、大岡川付近に広がっていたことになります(映画の舞台は大阪)。
この手の場所が初めてだったせいか、現実の迫力に圧倒されました。
生活感が見て取れる下町のような地域で、「どこ行ってた?」「病院行ってきた」の世間話が聞こえたり、保育園があったり(子持ちの日雇いでは大変そう)と、十分ではなくとも、生活に必要な施設はそろっているようです。
印象的だったのは、この場所ならではの濃厚なつながりのコミュニティを作る人々と、ただただ路傍に座り込むだけと思える人たちのギャップです。
それは、ちゃんと働こうとする人と、流れてきたホームレスの違い(生活への意欲の差)かも知れません。
しかし、ギャンブル好きが多いのか、憩いの場なのか分かりませんが、競輪のノミ屋(違法投票所)と思われる建物に人が集まっています。
ギャンブルをしない者は、せっかくの報酬なのに、と思ってしまいます……
上写真の建物は、どう見てもエアコンの数が多すぎます。一部屋を分割利用しているようです。
いまどきのドヤ街は、マンション風に建て替えられたものが増えています。
宿泊代で儲かっているのか、補助金等が出ているのか分かりませんが、外見だけは改善されているようで、自治体はひと安心していることでしょう。
結果的に吹きだまってしまった港湾労働者ですが、町の繁栄のために自治体が旗を振って集めたわけですから、自治体に責任があるのは確かです(派遣労働者問題のルーツのように思えます)。
この地域で「ちょっと失礼します」と座り込む人を撮るだけの勇気はなく、これ以外の写真は撮れませんでした(パンダより人の人権です)。
決して治安は悪い訳ではなく、カメラをぶら下げて歩きながらも、無事に戻れる場所であることを報告しておきます。
町を出た途端に緊張感は解けたものの、脱力感で足取りが重くなりました……
追記─2010.3.27
東京でもソメイヨシノが開花しましたが、春の到来を実感できない陽気が続いています。
草木たちの季節感を「ちょっと早すぎだよ」となだめたくもなりますが、彼らにしたら「暖かい日も十分にあったぜ」と、温暖化を敏感に察知しているのかも知れません。
そうなってしまうと、わたしたちの季節感とは、何を基準にしたらいいのでしょう……
2010/03/29
2010/03/22
飛行場も作られた占領地──伊勢佐木町周辺
2010.3.13
【神奈川県】
季節の変わり目というものは、どの季節でも気候が安定しません。
でも今の時期には、春の嵐が来て黄砂が降ろうとも、それを受け止められる心の余裕があります。
「季節変わりへの期待感」が最も大きいと思われるこのころは、多少大きな問題でも軽やかに飛び越えられる「明るい気分」があります。
伊勢佐木町周辺(Map)
「ドゥドゥビ ドゥビドゥビ ドゥビドゥバー」って分かります?
おまじないや、左卜全(ひだりぼくぜん:『老人と子供のポルカ』は「ズビズバー」)さんではなく、青江三奈『伊勢佐木町ブルース』(1968年)の一節で、ガキの時分よく口にした覚えがあります。
それにしても、ガキが真似してもうまくできない「ア〜ン!」の吐息って、何だったんでしょうね?
NHK出演時には、擬音に置き換えられたとありました。
何と言われようが、伊勢佐木町の名を全国的に広めたのはこの曲ですから、記念碑やパネルがあるのも当然と思われます。
でも、後継者は? に応えたのが「ゆず」で、すぐ脇に2010年3月にオープンする「CROSS STREET」という多目的スペースの名付け親だそうです。
下写真は2008年に閉店された、伊勢佐木町のシンボルだった松坂屋です。
赤いひさしが残され営業当時の面影もあるので「あれ、今日は休み?」と錯覚しそうな姿です。
幕末に茂木惣兵衛が、前身である「野澤屋呉服店」を創業し、1910年(明治43年)現店舗付近に百貨店を開きます。
当時の茂木家は、三渓園の原家と並び称される財閥を形成したそうです。
関東大震災後に再建され、横浜大空襲では奇跡的に空襲を逃れますが、売り上げ低迷や、横井英樹の乗っ取り騒動を経て、1977年より横浜松坂屋となります。その際「ホワイトナイト」と表されたのは、かなりの好感度でしたが……
閉店当時親会社が、現在の建物を解体し高層ビルを新築すると発表したところ、周囲から「歴史的建造物の景観維持」の猛反対を受けたため、閉鎖したままの状態で塩漬けにされています。
反対意見の「無くなってしまうと、ほかの街と同じになってしまう」という視点を大切にしないと、個性を生かしたみらいは開けないと思います。
建物前には、ここで路上ライブをしていた「ゆず」が、2003年のNHK紅白歌合戦で、この場所から生中継をした時の写真が飾られてあります。
隣接する西館(同じ流れの外観)が、JRA(日本中央競馬会)の「有料会員制の場外馬券場」になってから、その賃料収入が安定したとあります。
桜木町でも目にし「何なの?」と思っていました。
ここは「エクセル伊勢佐木」という、1,000〜1,500円の利用料で座席に座りながら、地方競馬の馬券を買ってモニタ観戦できる施設なんだそうです。
多少は、イギリス紳士に近い気分を味わえるのかも知れませんが、さっそうとした姿で歩く人は目にできません……
以前は、横浜(というか神奈川県内)で本屋といえば「有隣堂」と、広く認知された本店が旧松坂屋の向かいにあります。
少し前まで本を探すには、大きな書店が頼りでしたが、いまどきはネットで見つかりますから、生き残りも大変そうです(文房具コーナーは人気だそうですが…)。
むかしは「ハマブラ」とか言ったのでしょうか?(イセブラだそう)
伊勢佐木モールは、現在もにぎわっているように見えますが(地元の人は「むかしと比べれば格段に減った」と言うでしょうが)、少し大きな地元商店街にも見えてきます。
早く対策を考えないと、風俗街に飲み込まれてしまうかも知れません。
横浜の町並みについて、ガキ時分の印象と思うものに、繁華街に写真のような4階建て程度のコンクリートの建物が並んでいた(4階建てもむかしは珍しかった)という記憶が残っています。
そんな時分に町を歩くわけもないので、おそらく小学校の社会見学等でバスの車窓から見たのではないかと思います(キョロキョロしてたんでしょう)。
それは接収地返還後の町並み復興にあたり、空襲で延焼したことを教訓に、不燃化都市を目指した横浜市が、広い通り沿いを防火建築帯に指定したことによります(1958年)。
「横浜ってスゲェなぁー」とキョロキョロしたことで、授業では教わらない(教わったこと自体を忘れたのか?)記憶が残っていることに、当時の社会見学も役に立っていたと、この年になってフォローしたい気持ちになりました。
そんな建物群も、表には年代物の味がにじんでいますが、裏側など結構ボロボロだったりします。
老朽化した町並みの再開発を機に、繁華街の環境浄化を進めてもらいたいと思います。
敗戦後、軍関連施設が占領軍に接収されるのは当然の話ですが、横浜は町全体(伊勢佐木町から港にかけて、中華街と県庁付近をのぞくほとんど)が接収されました。
港町の利便性から、占領統治のベース基地とされたため、敗戦(1945年)〜占領終了(1952年)までの間、町の機能は失われていたそうです。
当時の写真で印象的なのが、福富町付近に建てられた「カマボコ型兵舎」と、若葉町付近に伸びる滑走路です。
滑走路は、旧横浜日劇(以前映画『私立探偵 濱マイク』等の舞台とされた。現シネマ・ジャック&ベティ)付近にあったようです。
軍隊とは「必要なものを必要な場所に作る」ことを理解していても(日本軍も占領地でやったことでしょう)、横浜に飛行場を作るという発想すら持たないわれわれは、かなりのショックを受けます。
突然米軍がやって来て占領されれば、反感もあるわけで、スキを見て滑走路を突っ切って伊勢佐木町に映画を観に行った、なんてコメントを見かけたりすると、基地周辺に暮らす沖縄の人々と同様のバイタリティを感じたりします。
返還後は、町の姿をできるだけ以前の形に戻したそうですが、そのスキをヤクザ者が狙っていたような印象を受けます。
時間は経過していますが、若葉町の通り(現シネマ・ジャック&ベティ前)はエスニック通りと化し、韓国・タイ系の飲食店が多いばかりか、住民も海外の人が多いようです。
下写真の、福富町仲通の飲食店街では、韓国料理店が圧倒的に強く、ミニコリアタウン的な町になっています。
また、古くからのチャイナタウンとは了見の違う中国勢の触手が伸びています。
以前暮らした土地に、元の住民が戻ってこられない理由はさまざまとは思いますが、その結果がこれでは「横浜市は何をやってきたんだろう?」と感じざるを得ません。
はて、誰に占領されたのでしたっけ?
そして、現在横浜の風俗産業の中心と思われる福富町です。
おそらく黄金町と「川をはさんだ縄張り争い」をした地域と思われます。
近ごろでは、目を付けられた川向こうから流れてくる女性もいるでしょうから、一層濃くなっているのかも知れません。
「一見さんは福富町にひとりで飲みに行ってはいけない」と目にしたので、狭い路地には入れませんし、昼間っから黒服のお兄さんが声を掛けてきますから、現在横浜で最も怖い町かも知れません(イエイエ、まだまだ……)。
福富町は、伊勢佐木モールの北側に当たりますが、南側には「親不孝通り」なるものが存在し(博多にある同名の通りが印象に残っていますが、各地にありそうです)、ポツポツ風俗店が点在しながら西側の曙町に続きます。
2009年5月には、韓国人の売春婦が30人検挙される等、アジア系の「遠征売春」が急増しているんだそうです。
それは国際的都市というよりも、単なる「ヤクザ者がはびこる田舎町」という印象を受けます。
そうか!(目からうろこがポロリ) 博覧会好きでアピールしたがる本音は、横浜市は現在も「非文化都市」の負い目を感じていて、香港や上海と同じレベルの「発展途上都市」を自認していることの表れかも知れない、と……
ですが港町の治安維持は、一般的な都市とは比較にならないほど大変で、「あぶない刑事」等が活躍する下地がある、ということかも知れません。
地域住民には、最も改善して欲しい場所ではないかと思った公園です。
収入が期待できる地下駐車場の地上施設のためか、ままお金がかけられていて、市街地では珍しく3階程度の高さからの滑り台があり、子どもに人気があります(上写真は別施設。後方の看板は風俗店)。
しかし、どこもホームレスの仕業と思われるゴミだらけで、おまけに階段では汚れた腹を日光浴しながら昼寝していたりします。
お母さんは行きたくないのに、子どもがせがむのでイヤイヤ階段を上がっているように見えます。
横浜市の職員はそんな光景を見ても、何も感じないのだろうか?
2010年11月に「APEC(アジア太平洋経済協力)首脳会議」が開かれるんですから、それまでに環境整備しておかないと、海外のニュースにそんな映像が流れちゃいますよ。
そこで「アジアの国々と同じ問題を、われわれも抱えているのです」と、ケツをまくる覚悟があるのなら、その勇気は評価できると思いますが……
【神奈川県】
季節の変わり目というものは、どの季節でも気候が安定しません。
でも今の時期には、春の嵐が来て黄砂が降ろうとも、それを受け止められる心の余裕があります。
「季節変わりへの期待感」が最も大きいと思われるこのころは、多少大きな問題でも軽やかに飛び越えられる「明るい気分」があります。
伊勢佐木町周辺(Map)
「ドゥドゥビ ドゥビドゥビ ドゥビドゥバー」って分かります?
おまじないや、左卜全(ひだりぼくぜん:『老人と子供のポルカ』は「ズビズバー」)さんではなく、青江三奈『伊勢佐木町ブルース』(1968年)の一節で、ガキの時分よく口にした覚えがあります。
それにしても、ガキが真似してもうまくできない「ア〜ン!」の吐息って、何だったんでしょうね?
NHK出演時には、擬音に置き換えられたとありました。
何と言われようが、伊勢佐木町の名を全国的に広めたのはこの曲ですから、記念碑やパネルがあるのも当然と思われます。
でも、後継者は? に応えたのが「ゆず」で、すぐ脇に2010年3月にオープンする「CROSS STREET」という多目的スペースの名付け親だそうです。
下写真は2008年に閉店された、伊勢佐木町のシンボルだった松坂屋です。
赤いひさしが残され営業当時の面影もあるので「あれ、今日は休み?」と錯覚しそうな姿です。
幕末に茂木惣兵衛が、前身である「野澤屋呉服店」を創業し、1910年(明治43年)現店舗付近に百貨店を開きます。
当時の茂木家は、三渓園の原家と並び称される財閥を形成したそうです。
関東大震災後に再建され、横浜大空襲では奇跡的に空襲を逃れますが、売り上げ低迷や、横井英樹の乗っ取り騒動を経て、1977年より横浜松坂屋となります。その際「ホワイトナイト」と表されたのは、かなりの好感度でしたが……
閉店当時親会社が、現在の建物を解体し高層ビルを新築すると発表したところ、周囲から「歴史的建造物の景観維持」の猛反対を受けたため、閉鎖したままの状態で塩漬けにされています。
反対意見の「無くなってしまうと、ほかの街と同じになってしまう」という視点を大切にしないと、個性を生かしたみらいは開けないと思います。
建物前には、ここで路上ライブをしていた「ゆず」が、2003年のNHK紅白歌合戦で、この場所から生中継をした時の写真が飾られてあります。
隣接する西館(同じ流れの外観)が、JRA(日本中央競馬会)の「有料会員制の場外馬券場」になってから、その賃料収入が安定したとあります。
桜木町でも目にし「何なの?」と思っていました。
ここは「エクセル伊勢佐木」という、1,000〜1,500円の利用料で座席に座りながら、地方競馬の馬券を買ってモニタ観戦できる施設なんだそうです。
多少は、イギリス紳士に近い気分を味わえるのかも知れませんが、さっそうとした姿で歩く人は目にできません……
以前は、横浜(というか神奈川県内)で本屋といえば「有隣堂」と、広く認知された本店が旧松坂屋の向かいにあります。
少し前まで本を探すには、大きな書店が頼りでしたが、いまどきはネットで見つかりますから、生き残りも大変そうです(文房具コーナーは人気だそうですが…)。
むかしは「ハマブラ」とか言ったのでしょうか?(イセブラだそう)
伊勢佐木モールは、現在もにぎわっているように見えますが(地元の人は「むかしと比べれば格段に減った」と言うでしょうが)、少し大きな地元商店街にも見えてきます。
早く対策を考えないと、風俗街に飲み込まれてしまうかも知れません。
横浜の町並みについて、ガキ時分の印象と思うものに、繁華街に写真のような4階建て程度のコンクリートの建物が並んでいた(4階建てもむかしは珍しかった)という記憶が残っています。
そんな時分に町を歩くわけもないので、おそらく小学校の社会見学等でバスの車窓から見たのではないかと思います(キョロキョロしてたんでしょう)。
それは接収地返還後の町並み復興にあたり、空襲で延焼したことを教訓に、不燃化都市を目指した横浜市が、広い通り沿いを防火建築帯に指定したことによります(1958年)。
「横浜ってスゲェなぁー」とキョロキョロしたことで、授業では教わらない(教わったこと自体を忘れたのか?)記憶が残っていることに、当時の社会見学も役に立っていたと、この年になってフォローしたい気持ちになりました。
そんな建物群も、表には年代物の味がにじんでいますが、裏側など結構ボロボロだったりします。
老朽化した町並みの再開発を機に、繁華街の環境浄化を進めてもらいたいと思います。
敗戦後、軍関連施設が占領軍に接収されるのは当然の話ですが、横浜は町全体(伊勢佐木町から港にかけて、中華街と県庁付近をのぞくほとんど)が接収されました。
港町の利便性から、占領統治のベース基地とされたため、敗戦(1945年)〜占領終了(1952年)までの間、町の機能は失われていたそうです。
当時の写真で印象的なのが、福富町付近に建てられた「カマボコ型兵舎」と、若葉町付近に伸びる滑走路です。
滑走路は、旧横浜日劇(以前映画『私立探偵 濱マイク』等の舞台とされた。現シネマ・ジャック&ベティ)付近にあったようです。
軍隊とは「必要なものを必要な場所に作る」ことを理解していても(日本軍も占領地でやったことでしょう)、横浜に飛行場を作るという発想すら持たないわれわれは、かなりのショックを受けます。
突然米軍がやって来て占領されれば、反感もあるわけで、スキを見て滑走路を突っ切って伊勢佐木町に映画を観に行った、なんてコメントを見かけたりすると、基地周辺に暮らす沖縄の人々と同様のバイタリティを感じたりします。
返還後は、町の姿をできるだけ以前の形に戻したそうですが、そのスキをヤクザ者が狙っていたような印象を受けます。
時間は経過していますが、若葉町の通り(現シネマ・ジャック&ベティ前)はエスニック通りと化し、韓国・タイ系の飲食店が多いばかりか、住民も海外の人が多いようです。
下写真の、福富町仲通の飲食店街では、韓国料理店が圧倒的に強く、ミニコリアタウン的な町になっています。
また、古くからのチャイナタウンとは了見の違う中国勢の触手が伸びています。
以前暮らした土地に、元の住民が戻ってこられない理由はさまざまとは思いますが、その結果がこれでは「横浜市は何をやってきたんだろう?」と感じざるを得ません。
はて、誰に占領されたのでしたっけ?
そして、現在横浜の風俗産業の中心と思われる福富町です。
おそらく黄金町と「川をはさんだ縄張り争い」をした地域と思われます。
近ごろでは、目を付けられた川向こうから流れてくる女性もいるでしょうから、一層濃くなっているのかも知れません。
「一見さんは福富町にひとりで飲みに行ってはいけない」と目にしたので、狭い路地には入れませんし、昼間っから黒服のお兄さんが声を掛けてきますから、現在横浜で最も怖い町かも知れません(イエイエ、まだまだ……)。
福富町は、伊勢佐木モールの北側に当たりますが、南側には「親不孝通り」なるものが存在し(博多にある同名の通りが印象に残っていますが、各地にありそうです)、ポツポツ風俗店が点在しながら西側の曙町に続きます。
2009年5月には、韓国人の売春婦が30人検挙される等、アジア系の「遠征売春」が急増しているんだそうです。
それは国際的都市というよりも、単なる「ヤクザ者がはびこる田舎町」という印象を受けます。
そうか!(目からうろこがポロリ) 博覧会好きでアピールしたがる本音は、横浜市は現在も「非文化都市」の負い目を感じていて、香港や上海と同じレベルの「発展途上都市」を自認していることの表れかも知れない、と……
ですが港町の治安維持は、一般的な都市とは比較にならないほど大変で、「あぶない刑事」等が活躍する下地がある、ということかも知れません。
地域住民には、最も改善して欲しい場所ではないかと思った公園です。
収入が期待できる地下駐車場の地上施設のためか、ままお金がかけられていて、市街地では珍しく3階程度の高さからの滑り台があり、子どもに人気があります(上写真は別施設。後方の看板は風俗店)。
しかし、どこもホームレスの仕業と思われるゴミだらけで、おまけに階段では汚れた腹を日光浴しながら昼寝していたりします。
お母さんは行きたくないのに、子どもがせがむのでイヤイヤ階段を上がっているように見えます。
横浜市の職員はそんな光景を見ても、何も感じないのだろうか?
2010年11月に「APEC(アジア太平洋経済協力)首脳会議」が開かれるんですから、それまでに環境整備しておかないと、海外のニュースにそんな映像が流れちゃいますよ。
そこで「アジアの国々と同じ問題を、われわれも抱えているのです」と、ケツをまくる覚悟があるのなら、その勇気は評価できると思いますが……
2010/03/15
バイバイ、売春──日ノ出町、黄金町
2010.3.5
【神奈川県】
町に定着した「負のイメージ」は、これまで見ぬふりをしてきた行政側にも責任があると思います。
キャンペーンコピーのようなタイトルですが、地域住民の切実な願いを応援する意思表示でもあります。
だってむかしは、とても怖い町だったんですから……
日ノ出町、黄金町(Map)
まずは、日ノ出町駅前で軽く肩ならしを。
桜木町方面から野毛山動物園へ向かうバスは、建物前の交差点を大きく右折します。
以前バスの車内で女の子が、見上げる子どもの視線で上部だけが見えたのか「ストリップ!」と声を上げ、車内が失笑に包まれた記憶があります。
堂々とした劇場ですから、条例等には従っているのでしょうが、それだけでは片付けられない問題があります。
学校帰りにその前を通る子どもたちを目にし、すみ分けできないものか? と書こうとした時、ガキ時分の様子を思い出しました。
当時隣駅(町田)には、ポルノ専門の映画館があったため、市中にポルノ映画のポスターが堂々と貼られていましたが、現在ではあり得ない状況です。
いくらガキでも男子たちは、PTAが抗議するポスターの前で仲間たちと騒いでいたような記憶があります。
大人たちが言うように、そんなポスターが無ければ、わたしもさぞかし「健全な大人」になったのだろうか?
大人となりそんなことは棚に上げますが、現代のネット情報を「のぞき見る」状況には、どうも湿っぽさを感じてしまい、何らかの対策が必要などと、PTA的な発想になったりします。
いつの時代も、大人の心配をよそに子どもたちは「ハイハイ、健全な大人を目指しま〜す」なんて思ってないでしょうが、外から見ていると今どきの子どもたちは、とっても危うく見えてしまいます……
さて本題です。
ここは、京急日ノ出町〜黄金町(こがねちょう)駅間のガード下になります。
黄金町付近は、第二次世界大戦の空襲で壊滅し、米軍に接収された横浜中心部の周縁地に当たるせいもあってか、戦後はヒロポンや麻薬の密売所、非公認の特殊飲食店街(青線地帯:関東屈指の規模)になり果てます。
──「青線」とは、1956年(昭和31年)施行の「売春禁止法」で売春が公認された「赤線」に対し、非公認の地域を指したもの。
脇を流れる大岡川を境界とした、密売組織の縄張り争いが頻発し、警官も身の危険を感じる程の地域だったとか。
そんな地は、黒澤明監督の映画『天国と地獄』(1963年)で「地獄」の舞台として描かれました(再見したら気持ちが沈みました)。
10年以上前ですが、この地を歩いた際のインパクトが強く、昼間でさえ二度と近づくまいと思っていました。
風紀の乱れたこの地も、開発の波に取り囲まれたようで、近年、町内会やPTAを中心とした「初黄(はつこう)・日ノ出町環境浄化推進協議会」が発足し、地域、警察、行政の連携が生まれます。
2005年からは神奈川県警の「バイバイ作戦」(24時間警官監視)がスタートし、違法営業店舗は次々と撤退し売春が一掃されたことを知り、その後の様子を見たく足を運びました(確かに警官が立っています)。
右写真の並んだ室外機は、その数だけ個室があることを示しています。
「ちょんの間」と呼ばれる売春施設で、ウナギの寝床のように仕切られ、寝泊まりしながら客を取る部屋が、長屋風に作られています。
一眼レフカメラを買ったばかりのころ、モノクロ写真を撮りたくて野毛山動物園から下り、何も知らずにヒョコヒョコ路地に入ってビックリ、ドッキリ!(関東屈指の存在を知らないというのが、ウブだよね)
まだ明るいうちから、ロシア系(?)のおばさんたち(お姉さんではない)が、ホットパンツ(ってもう死語?)で口々に「1万円」と手を差し伸べてくるし(他の日本語知らないのかよ?)、路地には黒い服のおっさんが何人も立っているし……
狭い路地では逃げられませんから「ヤベッ、挟まれた…」と、結構ビビッた記憶が残っています。
もちろん当時は写真を撮る余裕もありませんが、現在はひさしの下に干し物が見える部屋以外は使われてないようです。
地元系新聞のサイトで見つけた表現に(無断転載できないので要約)、「セクシーな衣装の女性たちが道ゆく男を誘う街の情景は、アムステルダムの「飾り窓」のようでもあり、良くも悪くもハマの風物詩となっている」というのがありました。
締めに「近隣住民にとっては迷惑千万」とありますが、地元民の間では周知の事実であったとしても、これが新聞に掲載されたと考えると、ちょっと品性を疑いたくなります。
それほど昔の記事ではないのですが、時代背景の違いということなのだろうか。
やがて「バイバイ作戦」の警官が立ち始めると、まず客がいなくなるんでしょうね。次第に女性たちも立ち去り、人通りも少なくなり、そして町には誰もいなくなった(この町は何だったんだ?)、というのが現実のようです。
確かにゴーストタウン化したとしても、健全性を取り戻したのですから、これからが地域住民・行政にとって町作りのスタートになります。
地獄(古い話を蒸し返すなと怒られそう)からの再生を目指す「みらいビジョン」に期待しています。
上の建物から、寺山修司監督の映画『上海異人娼館/チャイナ・ドール』(1981年)を想起しました。
映画には退廃的な雰囲気がありましたが、そこまで連想できなくても、中国料理店だったようには見えませんよね?
上写真はガード下に展示されている、近隣の子どもたちの希望を絵にしたものです(真ん中が大岡川で、両脇は桜並木)。
川の両岸を埋め尽くす桜は理解できるのですが(大岡川の桜はキレイです)、川の流れに込めた思いが、何だかゴミが浮いているように見えてしまいます。指導した先生、どう思われます?
行政側が重い腰を上げた理由について「2009年(平成21年)の横浜開港150年までに一掃することを目指しています」とありました。
東京オリンピックで野毛を整備した時と同じ動機であることに、行政はきっかけがないと動かないことを、復習させられた気がします。
しかし、売春は「人類最古の職業のひとつ」と言われるほどですから、これでめでたしになるとは思えません。
川を渡ると、公認の(?)組織的な営業が盛んで、ビルの入口に黒いスーツのお兄さんが立っています。
以前縄張りを争った川の対岸については、また次回にでも(それを追っていると切りがなさそう……)。
【神奈川県】
町に定着した「負のイメージ」は、これまで見ぬふりをしてきた行政側にも責任があると思います。
キャンペーンコピーのようなタイトルですが、地域住民の切実な願いを応援する意思表示でもあります。
だってむかしは、とても怖い町だったんですから……
日ノ出町、黄金町(Map)
まずは、日ノ出町駅前で軽く肩ならしを。
桜木町方面から野毛山動物園へ向かうバスは、建物前の交差点を大きく右折します。
以前バスの車内で女の子が、見上げる子どもの視線で上部だけが見えたのか「ストリップ!」と声を上げ、車内が失笑に包まれた記憶があります。
堂々とした劇場ですから、条例等には従っているのでしょうが、それだけでは片付けられない問題があります。
学校帰りにその前を通る子どもたちを目にし、すみ分けできないものか? と書こうとした時、ガキ時分の様子を思い出しました。
当時隣駅(町田)には、ポルノ専門の映画館があったため、市中にポルノ映画のポスターが堂々と貼られていましたが、現在ではあり得ない状況です。
いくらガキでも男子たちは、PTAが抗議するポスターの前で仲間たちと騒いでいたような記憶があります。
大人たちが言うように、そんなポスターが無ければ、わたしもさぞかし「健全な大人」になったのだろうか?
大人となりそんなことは棚に上げますが、現代のネット情報を「のぞき見る」状況には、どうも湿っぽさを感じてしまい、何らかの対策が必要などと、PTA的な発想になったりします。
いつの時代も、大人の心配をよそに子どもたちは「ハイハイ、健全な大人を目指しま〜す」なんて思ってないでしょうが、外から見ていると今どきの子どもたちは、とっても危うく見えてしまいます……
さて本題です。
ここは、京急日ノ出町〜黄金町(こがねちょう)駅間のガード下になります。
黄金町付近は、第二次世界大戦の空襲で壊滅し、米軍に接収された横浜中心部の周縁地に当たるせいもあってか、戦後はヒロポンや麻薬の密売所、非公認の特殊飲食店街(青線地帯:関東屈指の規模)になり果てます。
──「青線」とは、1956年(昭和31年)施行の「売春禁止法」で売春が公認された「赤線」に対し、非公認の地域を指したもの。
脇を流れる大岡川を境界とした、密売組織の縄張り争いが頻発し、警官も身の危険を感じる程の地域だったとか。
そんな地は、黒澤明監督の映画『天国と地獄』(1963年)で「地獄」の舞台として描かれました(再見したら気持ちが沈みました)。
10年以上前ですが、この地を歩いた際のインパクトが強く、昼間でさえ二度と近づくまいと思っていました。
風紀の乱れたこの地も、開発の波に取り囲まれたようで、近年、町内会やPTAを中心とした「初黄(はつこう)・日ノ出町環境浄化推進協議会」が発足し、地域、警察、行政の連携が生まれます。
2005年からは神奈川県警の「バイバイ作戦」(24時間警官監視)がスタートし、違法営業店舗は次々と撤退し売春が一掃されたことを知り、その後の様子を見たく足を運びました(確かに警官が立っています)。
右写真の並んだ室外機は、その数だけ個室があることを示しています。
「ちょんの間」と呼ばれる売春施設で、ウナギの寝床のように仕切られ、寝泊まりしながら客を取る部屋が、長屋風に作られています。
一眼レフカメラを買ったばかりのころ、モノクロ写真を撮りたくて野毛山動物園から下り、何も知らずにヒョコヒョコ路地に入ってビックリ、ドッキリ!(関東屈指の存在を知らないというのが、ウブだよね)
まだ明るいうちから、ロシア系(?)のおばさんたち(お姉さんではない)が、ホットパンツ(ってもう死語?)で口々に「1万円」と手を差し伸べてくるし(他の日本語知らないのかよ?)、路地には黒い服のおっさんが何人も立っているし……
狭い路地では逃げられませんから「ヤベッ、挟まれた…」と、結構ビビッた記憶が残っています。
もちろん当時は写真を撮る余裕もありませんが、現在はひさしの下に干し物が見える部屋以外は使われてないようです。
地元系新聞のサイトで見つけた表現に(無断転載できないので要約)、「セクシーな衣装の女性たちが道ゆく男を誘う街の情景は、アムステルダムの「飾り窓」のようでもあり、良くも悪くもハマの風物詩となっている」というのがありました。
締めに「近隣住民にとっては迷惑千万」とありますが、地元民の間では周知の事実であったとしても、これが新聞に掲載されたと考えると、ちょっと品性を疑いたくなります。
それほど昔の記事ではないのですが、時代背景の違いということなのだろうか。
やがて「バイバイ作戦」の警官が立ち始めると、まず客がいなくなるんでしょうね。次第に女性たちも立ち去り、人通りも少なくなり、そして町には誰もいなくなった(この町は何だったんだ?)、というのが現実のようです。
確かにゴーストタウン化したとしても、健全性を取り戻したのですから、これからが地域住民・行政にとって町作りのスタートになります。
地獄(古い話を蒸し返すなと怒られそう)からの再生を目指す「みらいビジョン」に期待しています。
上の建物から、寺山修司監督の映画『上海異人娼館/チャイナ・ドール』(1981年)を想起しました。
映画には退廃的な雰囲気がありましたが、そこまで連想できなくても、中国料理店だったようには見えませんよね?
上写真はガード下に展示されている、近隣の子どもたちの希望を絵にしたものです(真ん中が大岡川で、両脇は桜並木)。
川の両岸を埋め尽くす桜は理解できるのですが(大岡川の桜はキレイです)、川の流れに込めた思いが、何だかゴミが浮いているように見えてしまいます。指導した先生、どう思われます?
行政側が重い腰を上げた理由について「2009年(平成21年)の横浜開港150年までに一掃することを目指しています」とありました。
東京オリンピックで野毛を整備した時と同じ動機であることに、行政はきっかけがないと動かないことを、復習させられた気がします。
しかし、売春は「人類最古の職業のひとつ」と言われるほどですから、これでめでたしになるとは思えません。
川を渡ると、公認の(?)組織的な営業が盛んで、ビルの入口に黒いスーツのお兄さんが立っています。
以前縄張りを争った川の対岸については、また次回にでも(それを追っていると切りがなさそう……)。
2010/03/08
にぎわいを取り戻せるか?──野毛(桜木町)
2010.2.28
【神奈川県】
これまでの横浜散策では、みなと「みらい」という命名にこだわりましたが、今回からは、みらいから取り残されながらも、繁栄していた「過去」の面影を継承する町並みの「現在(いま)」を歩きます。
野毛(桜木町)(Map)
東横線の横浜〜桜木町が廃止され、みなとみらい線に接続したので、人の流れが埋め立て地側(みらい側)に移動してしまい、昔からの繁華街である野毛一帯からは「にぎわい」が失われつつあります。
上写真はどこの歩道か分かります?
ここは、ストリートアート(落書き)で有名だった、旧東横線の桜木町の高架下です。
壮観としか言いようのない数と、幾重にも塗り重ねられ、歴史(?)すら感じさせる絵の並んでいた壁が、真っさらにリニューアルされており、かなり驚きました。
2008年08月から、東横線の高架部分を遊歩道にする整備工事が始まり、柱や壁面の補強工事のため、数々の絵たちは撤去されました(ゴミとされたんでしょうね)。
「もう落書きしちゃダメよ」と言われて、誰も描いていないお行儀の良さには、とてもすがすがしさを感じます。
でも結局、排気ガスで真っ黒になっちゃうんでしょうに……
落書きのルーツは、1970年代に壁画アーティストが、白いチョークで絵を描いたのが始まりだそうですから、薄汚れたころに復活するかも知れません。
桜木町駅には何度も来てるのに、存在すら知らなかった「鉄道発祥の地 記念碑」を見つけました。かつてここに日本最初の駅舎がありました。開通は1872年(明治5年)。
当時は、横浜ステイションとされ、品川ステイションとの間を35分かけ(馬車だと4時間)、1日9往復していたそうです。
横浜〜品川間はテスト運行で、新橋までは53分かかりました。現在乗り換えを含め29分ですから、それほど遅くない気がします。
料金の高さは以前もふれましたが、下等料金でもそば100杯分相当だそうです(前回はカゴの運賃との比較でしたが、この方がイメージしやすい)。
現在の立ち食いそばを300円程度と考えれば、3万円ですから、新幹線のぞみの自由席なら東京〜博多が2万円程度ですし、飛行機でも格安チケットなら沖縄往復できそうです。
当時は、発車時刻の15分前までにステイションに来ることを求めており、現在の飛行機のような感覚だったようです。
現在JRで使用されている軌道規格(2本ある線路の間隔:ゲージ)は、この時点で決められましたが、東京を走る主な鉄道のゲージには、3種類あることご存じだったでしょうか?(わたしは調べるまで、下記の上2つを同一と思っていました)
●欧米の標準規格とされる1,435mmあるのは、新幹線、京浜急行、京成、地下鉄丸の内、銀座線等──どう考えても正しそう。
●東京オリジナルとされる1,372mmが、京王、地下鉄新宿、都電、東急世田谷線等──東京の馬車鉄道に由来する、以前の市電規格。
●本記述の動機となった1,067mm が、JR在来線、東急、小田急線等──上述の横浜〜新橋に採用された規格を継承している。
──ちなみに鉄道模型で耳にする、Nゲージ規格はレール間隔が9mm。
明治政府発足当時は予算の無い時期ですから、当時の判断としては現実的だったのかも知れませんが、大隈重信(新政府財政担当)は狭い軌道を選択したことを「一世一代の失策」と後悔したそうです。
やはりレール間隔の広い方が、安定したスピード走行は可能になりますが、急カーブを作れない等の制限もあり、多額のお金が必要になります。
もし、直線性が要求される広い軌道を全国に敷いたなら、小回りが必要な山間部・海岸や港湾地域を含め、日本列島のイメージも現在とは違うものになっていたかも知れません。
でも、関西の私鉄はほとんど広い軌道でしたが(近鉄、阪急等)、だから有利と思える面は「スピード出すなぁ」(京浜急行が速いと感じる程度)くらいだったような気もします……
野毛は桜木町駅の陸側に広がる飲食店中心の繁華街で、背後に迫る丘陵の上には野毛山動物園、市立中央図書館や県立図書館があり、自治体としては文化的施設を置いて、好感度を上げたい土地柄だったように思えます。
陸蒸気(おかじょうき──蒸気機関車の俗称。蒸気船は「蒸気」と略された)の開通や港湾施設の整備が進み、現在のランドマークタワー付近にあった造船所などが活況を呈した時代には、町もにぎわったと思われますが(氷川丸はここで建造されました)、第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けます。
戦後(1945年)、港を中心とした市街地のほとんどを進駐軍に接収されたため、接収をまぬがれた野毛に人が集まり、闇市や露店が密集します。
そんな時代に登場した美空ひばり(磯子出身)の、デビューの場となった横浜国際劇場(現ウインズ横浜)や、12歳で映画初主演した『悲しき口笛』(1949年)の舞台となったこの地からの声援は、復興への希望だったことがとてもよく分かる気がします(時代が求めたスタアだったようです)。
JR桜木町駅からは「野毛ちかみち」という地下道が近道になります。
──その名称は「近道」と「地下道」とをかけている。という説明があったので、よく分かってますと思いつつも、乗っかってみました。
上写真2枚は都橋商店街という、川のカーブに沿って建てられた長屋的な飲食店街で、「ハーモニカ横丁」とも呼ばれる野毛らしい建物です。
東京オリンピック(1964年)開催に伴い、街並みの美化(汚いものを隠す)が進められ、付近で営業していた露店や屋台を、建物に収めるために作られたそうです。
何で東京オリンピックが横浜に関係あるのかというと、バレーボールの競技を横浜文化体育館(1962年建設)で行ったことによります(当時は東京周辺でも約5000席の客席数を持つ室内競技場は少なかったため)。
海外から訪れる観客や取材陣には見せたくない「現実」(北京五輪同様の状況だったのでしょう)が広がっていたようです。
東洋の魔女(女子バレーボール金メダル:もう知らない人もいるよね)がここで試合したことを書こうと調べていたら、プロレスの力道山(1924年〜1963年)もここで試合したそうで、ちょっと驚きました。
どうも関心の向く話題が古すぎてゴメンナサイね。今度、体育館の外観だけでも見てきます。
ここで開かれる「野毛大道芸」は、町の活性化のため1986年に始まったイベントで、現在では、春(野毛大道芸)、夏(夏の陣!)、秋(オータムフェスティバル )の年3回開催されています。
現在横浜市の中では、観客動員数最多のイベントなんだそうです。
みなとみらいで見かけたパフォーマー同様、観客を楽しませようとする人たちが乗り込んで来ますし、観客たちも一緒になって盛り上がる「一体感の輪」の楽しみ方を知っているのだと思います。
「お代は見てのお帰り」(入場は自由、でも帰りに払ってね→「金返せ」への対抗手段)と言うか、基本的に入場料も払いようがありませんから、チップ制と思うので、ハシゴしてもそんなにお金は掛かりません。
きっと楽しいイベントだと思うのですが、何せ狭い路地に大勢の人が押し寄せるので、大変な混雑(まさにお祭り)になりそうです。
2010年は4月24〜25日に開催されます。
とても素晴らしい町おこしですし、イベントをここまで育てるのは大変だったことも理解できますが、外から芸人を呼ぶだけでは、町の発展につながらないのでは? と思ったりします(サーカス用品店を1軒目にしましたが)。
上写真の「横浜にぎわい座」は、2002年に開場した大衆芸能施設で、館長は先日亡くなられた玉置宏(たまおきひろし:川崎市出身)さんでした。
落語家の桂歌丸さん(横浜在住)が、以前から盛んに応援していましたが、近ごろの落語ブームもあってかホームページには「完売御礼!」の文字が並ぶ、盛況のようです。
先日の歌丸さん無事退院の知らせは何よりでしたが、後継者を育てないと本当のぎわいは取り戻せないようにも思います。
歌丸さんは「おかげで、わたしゃいつまでも逝けないよ!」なんて言うんでしょうね。
こんなにも「昭和」から活躍した人たちの名前が登場するとは、自分でも驚きました(だから「過去の町」?)。
みなとみらい地区をいくら掘り下げても、出てくるのは泥や石だけです。
たかが150年でも、ここには確かに「庶民文化の歴史」が刻まれているように思えました。
現在関内駅前にある横浜市庁舎が、建物が手狭、老朽化および耐震性等の問題で、桜木町・馬車道付近(日本丸付近から大きく「帝蚕(ていさん)倉庫」の文字が見えた倉庫跡辺り)に移転する計画があるそうです。
そうなると、野毛・桜木町は喜んでも、すでに陥没している関内はどうなっちゃうんだろうか?
それこそ「自転車操業的みらい志向」と思える横浜市の、腕の見せ所になるのかも知れません……
【神奈川県】
これまでの横浜散策では、みなと「みらい」という命名にこだわりましたが、今回からは、みらいから取り残されながらも、繁栄していた「過去」の面影を継承する町並みの「現在(いま)」を歩きます。
野毛(桜木町)(Map)
東横線の横浜〜桜木町が廃止され、みなとみらい線に接続したので、人の流れが埋め立て地側(みらい側)に移動してしまい、昔からの繁華街である野毛一帯からは「にぎわい」が失われつつあります。
上写真はどこの歩道か分かります?
ここは、ストリートアート(落書き)で有名だった、旧東横線の桜木町の高架下です。
壮観としか言いようのない数と、幾重にも塗り重ねられ、歴史(?)すら感じさせる絵の並んでいた壁が、真っさらにリニューアルされており、かなり驚きました。
2008年08月から、東横線の高架部分を遊歩道にする整備工事が始まり、柱や壁面の補強工事のため、数々の絵たちは撤去されました(ゴミとされたんでしょうね)。
「もう落書きしちゃダメよ」と言われて、誰も描いていないお行儀の良さには、とてもすがすがしさを感じます。
でも結局、排気ガスで真っ黒になっちゃうんでしょうに……
落書きのルーツは、1970年代に壁画アーティストが、白いチョークで絵を描いたのが始まりだそうですから、薄汚れたころに復活するかも知れません。
桜木町駅には何度も来てるのに、存在すら知らなかった「鉄道発祥の地 記念碑」を見つけました。かつてここに日本最初の駅舎がありました。開通は1872年(明治5年)。
当時は、横浜ステイションとされ、品川ステイションとの間を35分かけ(馬車だと4時間)、1日9往復していたそうです。
横浜〜品川間はテスト運行で、新橋までは53分かかりました。現在乗り換えを含め29分ですから、それほど遅くない気がします。
料金の高さは以前もふれましたが、下等料金でもそば100杯分相当だそうです(前回はカゴの運賃との比較でしたが、この方がイメージしやすい)。
現在の立ち食いそばを300円程度と考えれば、3万円ですから、新幹線のぞみの自由席なら東京〜博多が2万円程度ですし、飛行機でも格安チケットなら沖縄往復できそうです。
当時は、発車時刻の15分前までにステイションに来ることを求めており、現在の飛行機のような感覚だったようです。
現在JRで使用されている軌道規格(2本ある線路の間隔:ゲージ)は、この時点で決められましたが、東京を走る主な鉄道のゲージには、3種類あることご存じだったでしょうか?(わたしは調べるまで、下記の上2つを同一と思っていました)
●欧米の標準規格とされる1,435mmあるのは、新幹線、京浜急行、京成、地下鉄丸の内、銀座線等──どう考えても正しそう。
●東京オリジナルとされる1,372mmが、京王、地下鉄新宿、都電、東急世田谷線等──東京の馬車鉄道に由来する、以前の市電規格。
●本記述の動機となった1,067mm が、JR在来線、東急、小田急線等──上述の横浜〜新橋に採用された規格を継承している。
──ちなみに鉄道模型で耳にする、Nゲージ規格はレール間隔が9mm。
明治政府発足当時は予算の無い時期ですから、当時の判断としては現実的だったのかも知れませんが、大隈重信(新政府財政担当)は狭い軌道を選択したことを「一世一代の失策」と後悔したそうです。
やはりレール間隔の広い方が、安定したスピード走行は可能になりますが、急カーブを作れない等の制限もあり、多額のお金が必要になります。
もし、直線性が要求される広い軌道を全国に敷いたなら、小回りが必要な山間部・海岸や港湾地域を含め、日本列島のイメージも現在とは違うものになっていたかも知れません。
でも、関西の私鉄はほとんど広い軌道でしたが(近鉄、阪急等)、だから有利と思える面は「スピード出すなぁ」(京浜急行が速いと感じる程度)くらいだったような気もします……
野毛は桜木町駅の陸側に広がる飲食店中心の繁華街で、背後に迫る丘陵の上には野毛山動物園、市立中央図書館や県立図書館があり、自治体としては文化的施設を置いて、好感度を上げたい土地柄だったように思えます。
陸蒸気(おかじょうき──蒸気機関車の俗称。蒸気船は「蒸気」と略された)の開通や港湾施設の整備が進み、現在のランドマークタワー付近にあった造船所などが活況を呈した時代には、町もにぎわったと思われますが(氷川丸はここで建造されました)、第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けます。
戦後(1945年)、港を中心とした市街地のほとんどを進駐軍に接収されたため、接収をまぬがれた野毛に人が集まり、闇市や露店が密集します。
そんな時代に登場した美空ひばり(磯子出身)の、デビューの場となった横浜国際劇場(現ウインズ横浜)や、12歳で映画初主演した『悲しき口笛』(1949年)の舞台となったこの地からの声援は、復興への希望だったことがとてもよく分かる気がします(時代が求めたスタアだったようです)。
JR桜木町駅からは「野毛ちかみち」という地下道が近道になります。
──その名称は「近道」と「地下道」とをかけている。という説明があったので、よく分かってますと思いつつも、乗っかってみました。
上写真2枚は都橋商店街という、川のカーブに沿って建てられた長屋的な飲食店街で、「ハーモニカ横丁」とも呼ばれる野毛らしい建物です。
東京オリンピック(1964年)開催に伴い、街並みの美化(汚いものを隠す)が進められ、付近で営業していた露店や屋台を、建物に収めるために作られたそうです。
何で東京オリンピックが横浜に関係あるのかというと、バレーボールの競技を横浜文化体育館(1962年建設)で行ったことによります(当時は東京周辺でも約5000席の客席数を持つ室内競技場は少なかったため)。
海外から訪れる観客や取材陣には見せたくない「現実」(北京五輪同様の状況だったのでしょう)が広がっていたようです。
東洋の魔女(女子バレーボール金メダル:もう知らない人もいるよね)がここで試合したことを書こうと調べていたら、プロレスの力道山(1924年〜1963年)もここで試合したそうで、ちょっと驚きました。
どうも関心の向く話題が古すぎてゴメンナサイね。今度、体育館の外観だけでも見てきます。
ここで開かれる「野毛大道芸」は、町の活性化のため1986年に始まったイベントで、現在では、春(野毛大道芸)、夏(夏の陣!)、秋(オータムフェスティバル )の年3回開催されています。
現在横浜市の中では、観客動員数最多のイベントなんだそうです。
みなとみらいで見かけたパフォーマー同様、観客を楽しませようとする人たちが乗り込んで来ますし、観客たちも一緒になって盛り上がる「一体感の輪」の楽しみ方を知っているのだと思います。
「お代は見てのお帰り」(入場は自由、でも帰りに払ってね→「金返せ」への対抗手段)と言うか、基本的に入場料も払いようがありませんから、チップ制と思うので、ハシゴしてもそんなにお金は掛かりません。
きっと楽しいイベントだと思うのですが、何せ狭い路地に大勢の人が押し寄せるので、大変な混雑(まさにお祭り)になりそうです。
2010年は4月24〜25日に開催されます。
とても素晴らしい町おこしですし、イベントをここまで育てるのは大変だったことも理解できますが、外から芸人を呼ぶだけでは、町の発展につながらないのでは? と思ったりします(サーカス用品店を1軒目にしましたが)。
上写真の「横浜にぎわい座」は、2002年に開場した大衆芸能施設で、館長は先日亡くなられた玉置宏(たまおきひろし:川崎市出身)さんでした。
落語家の桂歌丸さん(横浜在住)が、以前から盛んに応援していましたが、近ごろの落語ブームもあってかホームページには「完売御礼!」の文字が並ぶ、盛況のようです。
先日の歌丸さん無事退院の知らせは何よりでしたが、後継者を育てないと本当のぎわいは取り戻せないようにも思います。
歌丸さんは「おかげで、わたしゃいつまでも逝けないよ!」なんて言うんでしょうね。
こんなにも「昭和」から活躍した人たちの名前が登場するとは、自分でも驚きました(だから「過去の町」?)。
みなとみらい地区をいくら掘り下げても、出てくるのは泥や石だけです。
たかが150年でも、ここには確かに「庶民文化の歴史」が刻まれているように思えました。
現在関内駅前にある横浜市庁舎が、建物が手狭、老朽化および耐震性等の問題で、桜木町・馬車道付近(日本丸付近から大きく「帝蚕(ていさん)倉庫」の文字が見えた倉庫跡辺り)に移転する計画があるそうです。
そうなると、野毛・桜木町は喜んでも、すでに陥没している関内はどうなっちゃうんだろうか?
それこそ「自転車操業的みらい志向」と思える横浜市の、腕の見せ所になるのかも知れません……
2010/03/01
ほのかな早春の香り──三渓園
2010.2.20
【神奈川県】
2月の東京は、雪のちらつく日が多かったので、寒さを一層印象づけられましたが、下旬には「記録的な暖かさ」が訪れ、桜も咲きそうな陽気に、ひと息というか、一汗かいたのではないでしょうか。
季節としてはまだ早春ですから、今回のテーマは梅になります。
三渓園(Map)
三渓園(横浜市本牧)の紹介はこれで3回目(夏、紅葉)になります。
神奈川県には、このように大きな庭園施設は皆無ですし、季節ごとの手入れも行き届いているので、機会があれば足を運んでしまいます。
でも、本牧一帯はとても不便な場所で、横浜の陸の孤島と言われたりします(クレイジーケンバンドの横山剣は「本牧は車社会ですから…」とも)。
みなとみらい線の延伸計画もあるそうですが、反対運動等でもめているらしく、凍結状態だそうです。どうするんでしょう……
梅の名所は数々ありますが、ちょうど電車の中刷り広告で「観梅会」なるものを目にしたので、誘われるままに足を運びました。
梅の楽しみ方には、桜のように「こぞって満開を迎える」迫力とは違った「風情を味わう」楽しみがあると思います。
花見の対象とされる花には歴史的変遷があり、平安時代初期まで梅だったものを、平安貴族が桜に切り替えていったそうです。
時代のイメージとしても、奈良時代までが清らかな「梅」とすれば、平安時代は華やかな「桜」に例えられますし、江戸時代以降のお祭り騒ぎの「ソメイヨシノ」への変遷は、とても納得できる印象があります。
ここは、明治時代に製糸業で富をなした原富太郎(三渓)の邸宅でした。
日本初の器械製糸工場である富岡製糸工場(群馬県富岡市:教科書で習いました)を、官営→三井家から受け継ぎ富を得ます。
嫌みな表現をすれば、金にものをいわせて関心のある古い建築物を買いあさったと言えますが、現在でもきちんと整備され使用に耐えていますから、建設に携わった当時の職人や、持ち主も喜んでいると思われます。
茶室や別荘を買い取る程度なら分かりますが、仏塔(三重の塔)まで移築するのですから、ちょっとレベルが違います。
また、そんな建築物をきちんと据えられる広い土地を用意できるなんて、庶民感覚とは別次元の世界です。
上写真は、織田有楽斎(うらくさい)によると伝わる茶室です。彼が建てた「如庵」という茶室(現在愛知県で保存)は、国宝なんだそうです。
有楽斎は織田信長の弟(信長は次男、有楽斎は十一男)で戦国武将ですから、武勇伝も伝わりますが、千利休に茶を学び、独自に開いた流派(有楽流)の祖として知られています。
「織田家」のひびきからは、茶道の家元よりも、アイススケートの織田信成選手の「やんちゃさ」の方が、しっくり感じられる気がします。
三渓園の素晴らしさは、大きな建物(古くからの木造と思う)は会議・パーティ・結婚披露宴に、上下写真のような茶室は小規模な茶会に貸し出すなど、移築した建築物を現役活用しているところにあります。
上写真の沓脱石(くつぬぎいし)脇に、草履等が見えると思いますが、この室内では茶会が開かれているようで、中から笑い声が聞こえてきます。
そんな談笑も、破顔を隠してくれる簡素な小屋のおかげで、上品さが感じられます。
有楽斎の名から連想しがちな、有楽町の地名との関係ですが、彼が江戸に住んだという記録はないそうです。
ウグイスの声は耳にできませんが、池のほとりで丸々と太ったスズメたちを目にしました。
この辺りはエサが豊富なんだろう、と思っていたのですが、ひょっとすると繁殖の季節が近いのか? と、調べると、やはり春が繁殖期のようです。
都市部でも多く見かけますから、巣は身近にあるはずなので、どんな所にあるのか見てみたい気もします。
スズメは鳥獣保護法で狩猟鳥に指定されているので、捕獲可能だそうですが、食用のスズメは主に中国・韓国から輸入しているそうです。若い時分、話しの種に食べたことありますが、いい印象は無かった気がします。
スズメのお宿(何で竹林にあるイメージを持ってるのだろう?)の話題にするつもりが、これでは恨まれそうです……
暦では立春を過ぎた「春」になりますが、雪も舞う寒い日に漂う「香り」は、鳥や人の生命力を刺激してくれます。
待ってましたと、飛びつきたい「衝動」にかられるのは、本能なのかも知れません(別名に春告草(はるつげぐさ)があるそうです)。
梅の香りというのは不思議なもので、近くに花が無くても香るかと思えば、近づいてもイメージしている香りがしなかったりします。
先日、梅の香りは咲き始めに漂う、と目にしました。
ほのかな香りに「春への期待感」を感じられたなら、その年の儀式は済んだとされ、最初の感激はもう得られないのだろうか?(まさか免疫ができてしまうことはないでしょうが)。
天満宮(天神様)で見かける梅の紋章は、どこか古くさくシンプルすぎる印象もありますが、実に分かりやすい図案と思います。
初めて訪れる神社で、この紋章を見るとなぜかホッとしたりします。
他の神社を怪しく思っているわけではありませんが、天神様への祈りには善意というか、願い事にも悪意が混在しない、純粋な信仰対象ではないかと思ったりするのですが、そんなに単純なものではないのか?
「もうすぐ、は〜るですねぇ!」(東京でも春一番が吹きました)と、心の準備は万端なので、春の雪に気をつければ(津波も注意です)、季節だけは「春」がやってきます…… ?
「さくら」関連の楽曲が多い昨今ですが、『春一番』的な春への期待感を込めた曲を作ってもらえると、心情的にはとても励みになると思うのですが、いかがでしょうか?
【神奈川県】
2月の東京は、雪のちらつく日が多かったので、寒さを一層印象づけられましたが、下旬には「記録的な暖かさ」が訪れ、桜も咲きそうな陽気に、ひと息というか、一汗かいたのではないでしょうか。
季節としてはまだ早春ですから、今回のテーマは梅になります。
三渓園(Map)
三渓園(横浜市本牧)の紹介はこれで3回目(夏、紅葉)になります。
神奈川県には、このように大きな庭園施設は皆無ですし、季節ごとの手入れも行き届いているので、機会があれば足を運んでしまいます。
でも、本牧一帯はとても不便な場所で、横浜の陸の孤島と言われたりします(クレイジーケンバンドの横山剣は「本牧は車社会ですから…」とも)。
みなとみらい線の延伸計画もあるそうですが、反対運動等でもめているらしく、凍結状態だそうです。どうするんでしょう……
梅の名所は数々ありますが、ちょうど電車の中刷り広告で「観梅会」なるものを目にしたので、誘われるままに足を運びました。
梅の楽しみ方には、桜のように「こぞって満開を迎える」迫力とは違った「風情を味わう」楽しみがあると思います。
花見の対象とされる花には歴史的変遷があり、平安時代初期まで梅だったものを、平安貴族が桜に切り替えていったそうです。
時代のイメージとしても、奈良時代までが清らかな「梅」とすれば、平安時代は華やかな「桜」に例えられますし、江戸時代以降のお祭り騒ぎの「ソメイヨシノ」への変遷は、とても納得できる印象があります。
ここは、明治時代に製糸業で富をなした原富太郎(三渓)の邸宅でした。
日本初の器械製糸工場である富岡製糸工場(群馬県富岡市:教科書で習いました)を、官営→三井家から受け継ぎ富を得ます。
嫌みな表現をすれば、金にものをいわせて関心のある古い建築物を買いあさったと言えますが、現在でもきちんと整備され使用に耐えていますから、建設に携わった当時の職人や、持ち主も喜んでいると思われます。
茶室や別荘を買い取る程度なら分かりますが、仏塔(三重の塔)まで移築するのですから、ちょっとレベルが違います。
また、そんな建築物をきちんと据えられる広い土地を用意できるなんて、庶民感覚とは別次元の世界です。
上写真は、織田有楽斎(うらくさい)によると伝わる茶室です。彼が建てた「如庵」という茶室(現在愛知県で保存)は、国宝なんだそうです。
有楽斎は織田信長の弟(信長は次男、有楽斎は十一男)で戦国武将ですから、武勇伝も伝わりますが、千利休に茶を学び、独自に開いた流派(有楽流)の祖として知られています。
「織田家」のひびきからは、茶道の家元よりも、アイススケートの織田信成選手の「やんちゃさ」の方が、しっくり感じられる気がします。
三渓園の素晴らしさは、大きな建物(古くからの木造と思う)は会議・パーティ・結婚披露宴に、上下写真のような茶室は小規模な茶会に貸し出すなど、移築した建築物を現役活用しているところにあります。
上写真の沓脱石(くつぬぎいし)脇に、草履等が見えると思いますが、この室内では茶会が開かれているようで、中から笑い声が聞こえてきます。
そんな談笑も、破顔を隠してくれる簡素な小屋のおかげで、上品さが感じられます。
有楽斎の名から連想しがちな、有楽町の地名との関係ですが、彼が江戸に住んだという記録はないそうです。
ウグイスの声は耳にできませんが、池のほとりで丸々と太ったスズメたちを目にしました。
この辺りはエサが豊富なんだろう、と思っていたのですが、ひょっとすると繁殖の季節が近いのか? と、調べると、やはり春が繁殖期のようです。
都市部でも多く見かけますから、巣は身近にあるはずなので、どんな所にあるのか見てみたい気もします。
スズメは鳥獣保護法で狩猟鳥に指定されているので、捕獲可能だそうですが、食用のスズメは主に中国・韓国から輸入しているそうです。若い時分、話しの種に食べたことありますが、いい印象は無かった気がします。
スズメのお宿(何で竹林にあるイメージを持ってるのだろう?)の話題にするつもりが、これでは恨まれそうです……
暦では立春を過ぎた「春」になりますが、雪も舞う寒い日に漂う「香り」は、鳥や人の生命力を刺激してくれます。
待ってましたと、飛びつきたい「衝動」にかられるのは、本能なのかも知れません(別名に春告草(はるつげぐさ)があるそうです)。
梅の香りというのは不思議なもので、近くに花が無くても香るかと思えば、近づいてもイメージしている香りがしなかったりします。
先日、梅の香りは咲き始めに漂う、と目にしました。
ほのかな香りに「春への期待感」を感じられたなら、その年の儀式は済んだとされ、最初の感激はもう得られないのだろうか?(まさか免疫ができてしまうことはないでしょうが)。
天満宮(天神様)で見かける梅の紋章は、どこか古くさくシンプルすぎる印象もありますが、実に分かりやすい図案と思います。
初めて訪れる神社で、この紋章を見るとなぜかホッとしたりします。
他の神社を怪しく思っているわけではありませんが、天神様への祈りには善意というか、願い事にも悪意が混在しない、純粋な信仰対象ではないかと思ったりするのですが、そんなに単純なものではないのか?
「もうすぐ、は〜るですねぇ!」(東京でも春一番が吹きました)と、心の準備は万端なので、春の雪に気をつければ(津波も注意です)、季節だけは「春」がやってきます…… ?
「さくら」関連の楽曲が多い昨今ですが、『春一番』的な春への期待感を込めた曲を作ってもらえると、心情的にはとても励みになると思うのですが、いかがでしょうか?
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