2013.5.26・27
【神奈川県】──箱根
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2013.5.26
馬入ふれあい公園、湘南平(平塚)(Map)
今回は、父の傘寿(80歳)記念に家族で箱根に行った様子になります(母も今年80歳)。
寿命が延びたとはいえ、両親共に自立活動可能な体で80歳を迎えることは立派ですし、子どもからすれば「とても助かる」と、改めて感謝する次第です。
まずは、相模原出身者限定のローカル情報です。
フィッシングパーク(1998年閉鎖)から原当麻(はらたいま)を抜けて相模川へ下った辺りに、圏央道相模原愛川インターチェンジが開業しました。現在は東名高速に新設された海老名ジャンクションまで通行可能。
今後、原当麻周辺の道路整備が必要になりそうです。
混雑を避けるため日程を日・月とするも、宿が箱根湯本なので初日は道草します。
一枚目は平塚「馬入ふれあい公園:2002年日韓ワールドカップの収益余剰金で造られたサッカーグラウンドがある」河川敷に広がる花畑の風車(オーストラリア製)。
二枚目の湘南平にある展望台(179mあり初訪問)からは湘南海岸が一望でき、神奈川県有数の夜景スポットとのこと。海風が斜面を駆け上がってきます。
箱根湯本:滝通り(Map)
箱根湯本は、鉄道の玄関口なので何度も降り立ちましたし、車で立ち寄り湯の訪問も付近の施設を選ぶことが多く、知ったつもりでいました。
現在はメインである早川本流側(箱根駅伝ルート)に目が向きますが、旧東海道が通る須雲(すくも)川沿いにも温泉街が並びます(湯本付近で川筋が合流する)。
駅前の道が右にカーブするあたり(その先は函嶺洞門(かんれいどうもん):その建設まで道はなかった)を、左に入ると旧東海道に通じる「滝通り」で、裏通り的ですがいかがわしい場所ではありません。
滝通りは橋を越えると、右の温泉宿「萬寿福」玄関前で左に折れます。谷あいではよく目にする光景で宣伝にはなるが、車に突っ込まれる心配も……
右は与謝野晶子の歌にも詠まれた「玉簾の瀧:たまだれのたき」で、現在では「不老長寿の水」や滝上にある「縁結びの神」のパワースポットとして売り出しています。
以前よく訪れた奧湯本「天山:立ち寄り湯」は川筋の奧と考えると、温泉の楽しみ方も変わり、奥まった場所でものんびりできる施設が人気の一方で、駅に近く道路に面しても小さな宿は閉鎖に追い込まれるようです。
そんな変化から駅前通りには店舗が並び、城崎温泉のような「若者にアピール」する観光地を目指すようです。
2013.5.27
山のホテル(Map)
ここの庭はツツジやシャクナゲが有名で、淡い期待を抱き足を運ぶも、完全に後の祭りでした……
上は、ずいぶん前に小田急のポスターに使われた記憶が残るパラソル。
この後、芦ノ湖スカイライン(富士山側の外輪山尾根道)を走りますが、雲に覆われ富士山は望めません。これこそ日頃の行いの悪さです……
大涌谷(Map)
箱根といえば、大涌谷の温泉タマゴは外せません。
「1個食べると7年長生きする」のうたい文句は別にしても「また食べに来る!」と、心とらわれる存在は信仰対象のようもでもあります。
イチオシのスポットですが、これまで経験したことのない渋滞(駐車場まで30分以上)に遭遇します。
普通なら挫折するところですが、ここまできて目前の温泉タマゴをあきらめるわけにはいきません。
確かに増えた海外からの観光客によるものか?
以前の姿をご存じの方も、年月は同じように進みますから、自分も含め家族(父・母・妹)も年を重ねました。
何度も「家族旅行はこれが最後?」と話すものの、みな健在で出歩く意欲を持ち「また行きたいね」が希望になればと思います……(妹の回復は順調のようです)
箱根湿生花園(Map)
ここは湿原の植物を育てる施設なので派手さはありませんが、仙石原の土地柄(火山灰土壌と湿原)に適した植物が手入れよく育成されています。
ですがミズバショウには早く、目玉不足の時季だったようです。
一番元気なのは、ゲート付近で販売される「あじさい」の鉢植えでした……
湿原で最も記憶に残るのはガキ時分に家族と行った尾瀬で、泊まりがけで歩く広大さに圧倒されました(上は木道をたんたんと歩き続けたイメージを狙って)。
園内で見ごろが絵になったのは右下のショウブ程度です。
「帰りは御殿場経由」に、両親とも「二の岡ハムを買おう」とノリノリです。
わたしは初めてですが、農家の敷地内にある一般的な肉屋程度の販売所に、パラパラながらも次から次へと車がやって来る様子には、ちょっと驚きました。
「また買いに行こう」の元気があれば運転手になるつもりでいますが、いつも付き合ってばかりも…… に「言い訳は無いか?」と自問し始めています。
親が子どもの面倒を見てきたのは、負担や義務感は大きくも「未来の希望」のためと思いますが(ドライ過ぎますか?)、子どもが親の面倒を見る際には、仮に負担や義務感が同じとしても「未来を見たくない」気持ちから、ため息がでてしまいます。
「面倒くさい」「やっかい」も家族の義務ですし、親のよろこぶ顔はうれしいながらも、双方とも「覚悟の季節」に足を踏み入れたような気がします……
2013/06/17
2013/05/06
連休の湘南・横浜シーサイド
2013.5.3〜5
【神奈川県】──片瀬海岸、平塚、横浜
連休で実家(相模原)に戻る際に立ち寄るのは、毎度の鎌倉・江の島周辺ですが、寝坊して鎌倉に寄れないことも近ごろは常習化しつつあります。
今年2月、江の島に渡る「江の島弁天橋」に工事台船が衝突し破損したため、歩行者専用道は通行止めとなりましたが、連休前に復旧されたようです。
島に向かう車の列は普段以上の大渋滞となり、海岸通りを鎌倉まで続くことでしょう。
ドライブデートの目的地としたい気持ちは分かるが、それは間違い!
おじさんの経験では、行くとすれば平日のランチタイムでしょうか……
ここは相模川河口付近にある須賀漁港で、防潮扉外側から港内をのぞく絵。
小さい港でも海に近い場所柄なため、港を堤防でキッチリ囲い海水の進入に備えます。
沿岸・近海漁の港ですが市場も併設されており、朝方は地魚の取引でにぎわいそうです。
上はビーチフットボールの様子で、これが「セット:プレーオン」の構えになります。
5人1チームで、相手のタッチをよけながらゴールゾーンに楕円球を運び得点を競うゲーム。
両足の間からボールを後方にパスしてプレーオン(上写真黄色の娘)の様子や、攻撃権を持つ側は相手にタッチされた場所から攻撃が再開でき、前方にボールを投げていい様子(制限はあるらしい)などから、「アメフト」に近い印象を受けます。
これは明治大学ラグビー部のOBが提案した(1990年)、日本発祥のビーチスポーツとのこと。
ビーチでは、バレー、サッカー、フットボールは可能でもバスケは無理なので、ボールが弾むコートが用意されています。
以前は無かった右の「象の鼻」のオブジェは、キャッチーでとても分かりやすいシンボルになっています。
象の鼻とは、上写真手前の石積み防波堤の名称で、上空から見るとそんな姿に見える港湾施設です。
奧の大桟橋に停泊中の巨大客船は「コスタ・ビクトリア」という船らしく、桟橋デッキより船首の方が高いのですから、その大きさに驚かされます。
赤レンガ倉庫付近警備員の「世界一周の途中に立ち寄っているそうです」の説明には言わされてる感があり、マニュアル通りの対応? に聞こえてしまいます……
このところゴールデンウィークで天気がいいのは前半だけで、後半は残念な年が続いた印象があるも、東京周辺に限れば全般的に恵まれましたから、遊ぶ側も受け入れ側も、満足できたのではないでしょうか。
さぁ、働かなければ、ですね……
【神奈川県】──片瀬海岸、平塚、横浜
2013.5.3
片瀬海岸(Map)今年2月、江の島に渡る「江の島弁天橋」に工事台船が衝突し破損したため、歩行者専用道は通行止めとなりましたが、連休前に復旧されたようです。
島に向かう車の列は普段以上の大渋滞となり、海岸通りを鎌倉まで続くことでしょう。
ドライブデートの目的地としたい気持ちは分かるが、それは間違い!
おじさんの経験では、行くとすれば平日のランチタイムでしょうか……
2013.5.4
平塚(Map)小さい港でも海に近い場所柄なため、港を堤防でキッチリ囲い海水の進入に備えます。
沿岸・近海漁の港ですが市場も併設されており、朝方は地魚の取引でにぎわいそうです。
5人1チームで、相手のタッチをよけながらゴールゾーンに楕円球を運び得点を競うゲーム。
両足の間からボールを後方にパスしてプレーオン(上写真黄色の娘)の様子や、攻撃権を持つ側は相手にタッチされた場所から攻撃が再開でき、前方にボールを投げていい様子(制限はあるらしい)などから、「アメフト」に近い印象を受けます。
これは明治大学ラグビー部のOBが提案した(1990年)、日本発祥のビーチスポーツとのこと。
ラグビーやアメフトの、速さや技で抜かれても当たりでは負けない自己満足(?)よりも、はるかに華麗なパス回しが期待できそうです。
2013.5.5
横浜(Map)象の鼻とは、上写真手前の石積み防波堤の名称で、上空から見るとそんな姿に見える港湾施設です。
奧の大桟橋に停泊中の巨大客船は「コスタ・ビクトリア」という船らしく、桟橋デッキより船首の方が高いのですから、その大きさに驚かされます。
赤レンガ倉庫付近警備員の「世界一周の途中に立ち寄っているそうです」の説明には言わされてる感があり、マニュアル通りの対応? に聞こえてしまいます……
このところゴールデンウィークで天気がいいのは前半だけで、後半は残念な年が続いた印象があるも、東京周辺に限れば全般的に恵まれましたから、遊ぶ側も受け入れ側も、満足できたのではないでしょうか。
さぁ、働かなければ、ですね……
2013/01/07
声援を送り、元気をもらう新年
2012.12.31〜2013.1.3
【神奈川県・東京都】──湘南、田町
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近年、年末年始の行動パターンは大体決まっていて、暮れに実家へ帰る際、鎌倉・江の島に寄り道し、正月は湘南海岸沿いを歩くことが年中行事となっています。
日本海側の方々には申し訳ありませんが、この季節の関東は晴天が続くので「誘われる」感覚があります。
今回は鎌倉を歩く時間が無く、上は片瀬にある龍口寺鐘楼ですが、ガキ時分に除夜の鐘を突いた記憶があります。
付近は鎌倉時代の刑場跡(都の外れとされる地)で、1271年日蓮宗開祖の日蓮が処刑されそうになり、その地に建立したお堂が寺の始まりとされます。
右は源義経が兄頼朝に鎌倉入りを許されず、心情を綴る手紙「腰越状」を書いたとされる満福寺の門前。
ちょうちん飾りは完了も、出店の連中がバタバタと騒いでいます。無くても問題はないが、無いとさみしい気もするので、正月には盛り上げてもらいましょう。
年末も混雑する江ノ電ですが、この十数時間後に極楽寺駅の土砂崩れで、元日は極楽寺〜長谷間は終日不通となり、計画を狂わされた方も多かったことでしょう。
江ノ電には、危なっかしい場所はいくつもありますから、1日で復旧したことを良しとしてください。
東京に引越して1年ですが、その間一度も神奈川のレポートを書いておらず、昨年と今回の年始の書き込みが並んでしまいました。昨年の年末はベタなぎだった海の様子が見て取れます。
この日は風が強く波は高いのですが、あまりサーファーの姿は見られません。
それって、風が強すぎなのか?
こちらも風と戦いながら夕日を待ちますが、富士山を目にできたので、「ラッキーな年!」として締めくくることができます。
新しい年は、是非とも明るい年に!
2013.1.1
辻堂・茅ヶ崎海岸(Map)
元日も太平洋岸の空には「筋状の雲?」が見られるように、風の強さは昨日と変わりません(上写真の下は江の島)。
何度もめげそうになるも、日差しのおかげで何とか風に立ち向かえます。
素人目に波があるように見えるも閑散としているのは、湘南のサーファーたちは皆「帰省したのだろうか?」とも。
冬の海で波がある日は風が強く「寒い!」んです。
先ほどから「寒い」を連呼するのは、確かに「寒さに弱くなった」や「根性が無くなった」に違いないのですが、この先も冬を生き続けるには「暖かインナー」とされる「ジジシャツ」「パッチ」などが必需品となるのでしょうね(研究しなければ)……
もう帰りたいところですが、アピールしてくれる子どもたちを無視できません。
そんな姿を見ていると、きっと靴はグショグショなのに走り回る姿は「止まったら冷たいんだもん!」なのでしょう。
そんな経験を振り返ると、犬のように走り回っていた時分の興奮が「恐ろしく」感じられます。
人の親ではありませんが、子供たちの危うさを見守る義務感が備わってきたような気がします……(ちょっと、遅いんじゃないの!?)
正月2日から軍事演習開始!
厚木基地での訓練は、横須賀に原子力空母ジョージワシントン入港時に行われ、その計画通りに遂行されます(2013年2月から横須賀で長期修理される予定も、その間艦載機はどうするのか?)。
上写真下のレーダー搭載機の訓練なら、尖閣諸島周辺でやる方がよほど緊張感が持てる気がします(これは、基地機能を沖縄方面に集めるべきとの意図ではありません)。
昨年末の為替相場で円安が進み株価が上がったことを、新政権発足への期待とする向きがありましたが、そんなバカなことはありません。
主役は当然ながらアメリカで、財政の崖への対応方針が決するまで「円」を仮の待避所としていた連中が、ホームに戻っただけのことです。
日本はどうあがこうが、世界はアメリカを中心に動いているのですから、この機を着実なステップとできなければ、光明と感じた「気分」がしぼんでしまいます……
今年で2度目となる「正月の華:箱根駅伝」ライブですが、この盛り上がりに乗っかった瞬間、応援側にもウルウルくるモノがあります。
都内なので母校の声援は増え、地下鉄や電車を利用し追いかけて応援してくれる、ランナーはこれ以上ない声援の後押しを受け、力を振り絞れることでしょう。
激励には、自分への叱咤の叫びと感じる声もあります。
テレビでは感じられない「ガンバレーッ!」の声援に込められた「オレも頑張るぞー!」の気持ちこそが、「新年の華=祭り」であるこの催しを定着させた原動力ではないか? と感じたりします……(写真は優勝した日体大アンカー)
最後尾運営車の「最終走者が通過しました、ご声援ありがとうございました」のアナウンスを耳にし、三々五々家路につく人々の晴れ晴れとした表情には満足感が読み取れ、「さぁ、今年も頑張ろうね!」と気合いが入っているようにも見受けられます……
【神奈川県・東京都】──湘南、田町
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2012.12.31
腰越、片瀬(Map)近年、年末年始の行動パターンは大体決まっていて、暮れに実家へ帰る際、鎌倉・江の島に寄り道し、正月は湘南海岸沿いを歩くことが年中行事となっています。
日本海側の方々には申し訳ありませんが、この季節の関東は晴天が続くので「誘われる」感覚があります。
今回は鎌倉を歩く時間が無く、上は片瀬にある龍口寺鐘楼ですが、ガキ時分に除夜の鐘を突いた記憶があります。
付近は鎌倉時代の刑場跡(都の外れとされる地)で、1271年日蓮宗開祖の日蓮が処刑されそうになり、その地に建立したお堂が寺の始まりとされます。
右は源義経が兄頼朝に鎌倉入りを許されず、心情を綴る手紙「腰越状」を書いたとされる満福寺の門前。
ちょうちん飾りは完了も、出店の連中がバタバタと騒いでいます。無くても問題はないが、無いとさみしい気もするので、正月には盛り上げてもらいましょう。
年末も混雑する江ノ電ですが、この十数時間後に極楽寺駅の土砂崩れで、元日は極楽寺〜長谷間は終日不通となり、計画を狂わされた方も多かったことでしょう。
江ノ電には、危なっかしい場所はいくつもありますから、1日で復旧したことを良しとしてください。
東京に引越して1年ですが、その間一度も神奈川のレポートを書いておらず、昨年と今回の年始の書き込みが並んでしまいました。昨年の年末はベタなぎだった海の様子が見て取れます。
この日は風が強く波は高いのですが、あまりサーファーの姿は見られません。
それって、風が強すぎなのか?
こちらも風と戦いながら夕日を待ちますが、富士山を目にできたので、「ラッキーな年!」として締めくくることができます。
新しい年は、是非とも明るい年に!
2013.1.1
辻堂・茅ヶ崎海岸(Map)
元日も太平洋岸の空には「筋状の雲?」が見られるように、風の強さは昨日と変わりません(上写真の下は江の島)。
何度もめげそうになるも、日差しのおかげで何とか風に立ち向かえます。
素人目に波があるように見えるも閑散としているのは、湘南のサーファーたちは皆「帰省したのだろうか?」とも。
冬の海で波がある日は風が強く「寒い!」んです。
先ほどから「寒い」を連呼するのは、確かに「寒さに弱くなった」や「根性が無くなった」に違いないのですが、この先も冬を生き続けるには「暖かインナー」とされる「ジジシャツ」「パッチ」などが必需品となるのでしょうね(研究しなければ)……
もう帰りたいところですが、アピールしてくれる子どもたちを無視できません。
そんな姿を見ていると、きっと靴はグショグショなのに走り回る姿は「止まったら冷たいんだもん!」なのでしょう。
そんな経験を振り返ると、犬のように走り回っていた時分の興奮が「恐ろしく」感じられます。
人の親ではありませんが、子供たちの危うさを見守る義務感が備わってきたような気がします……(ちょっと、遅いんじゃないの!?)
2013.1.2
大和市付近(Map)正月2日から軍事演習開始!
アメリカでは、年末年始も関係なく議会で「財政の崖」についての議論が続きますから、軍隊が訓練を休む訳にはいきません。
元日を休んだのは、思いやり予算に対する返礼の「思いやり?」とは笑止な!厚木基地での訓練は、横須賀に原子力空母ジョージワシントン入港時に行われ、その計画通りに遂行されます(2013年2月から横須賀で長期修理される予定も、その間艦載機はどうするのか?)。
上写真下のレーダー搭載機の訓練なら、尖閣諸島周辺でやる方がよほど緊張感が持てる気がします(これは、基地機能を沖縄方面に集めるべきとの意図ではありません)。
昨年末の為替相場で円安が進み株価が上がったことを、新政権発足への期待とする向きがありましたが、そんなバカなことはありません。
主役は当然ながらアメリカで、財政の崖への対応方針が決するまで「円」を仮の待避所としていた連中が、ホームに戻っただけのことです。
日本はどうあがこうが、世界はアメリカを中心に動いているのですから、この機を着実なステップとできなければ、光明と感じた「気分」がしぼんでしまいます……
2013.1.3
箱根駅伝@田町(Map)今年で2度目となる「正月の華:箱根駅伝」ライブですが、この盛り上がりに乗っかった瞬間、応援側にもウルウルくるモノがあります。
都内なので母校の声援は増え、地下鉄や電車を利用し追いかけて応援してくれる、ランナーはこれ以上ない声援の後押しを受け、力を振り絞れることでしょう。
激励には、自分への叱咤の叫びと感じる声もあります。
最後尾運営車の「最終走者が通過しました、ご声援ありがとうございました」のアナウンスを耳にし、三々五々家路につく人々の晴れ晴れとした表情には満足感が読み取れ、「さぁ、今年も頑張ろうね!」と気合いが入っているようにも見受けられます……
2012/01/09
新しい年を祈る──鎌倉、湘南
2011.12.31
【神奈川県】
年末年始に実家へ帰る際、鎌倉・江の島方面に立ち寄ったり出かける機会が多いので、自分の中では「新年を迎える光景」として定着しています。
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※上地図は以前の「湘南を歩く」の流用です。
鶴岡八幡宮(Map)

近ごろ鎌倉に関心が向くと必ず思い浮かべる「鶴岡八幡宮の大銀杏(おおいちょう)」なので、訪問の機会を探っていました。
信仰心は別にしても、この大木に愛着を持つ人は多いと思いますし、ガキの時分から意識しながらも、失って初めて知る「シンボルの偉大さ」に、「再生を見守りたい」祈りのような気持ちが芽ばえてきました。
倒れたのは2010年3月10日(今年の3月も要注意か?)なので、もう少し大きな幹が伸びているかと思うも、現在はどの幹を育てるか観察中だそう。
倒れた株の中心には、水や肥料(?)を送り込むチューブが配されていますから、神社側の取り組みにも並々ならぬ熱意が感じられます。
また機会を作って来ちゃいそうです……
参道の若宮大路沿いにある材木屋のディスプレイ(木材にペイントしたもの)で、後の用途を見こした粋なはからいに見えます。
ここに飾られた木材が住宅用の建材に使われるとすれば、新春を祝った木材が持つ縁起の良さが、建築中の無事故や家屋・家族息災の祈りにつながると、好感されることでしょう。
わたしにはそんな機会は無いとしても、できることなら、こんなディスプレイに使用された木材を使用して家を建てたい、と思ってしまいます(「うちには龍の守り神がいる」と言ってみたい)。
こんなはからいは正月だけと考えると年に1セットだけなので、希少品として人気がありそうな気がします。
片瀬海岸(Map)
「年に一度しか会えない娘たちも大きくなりました」としたら「ずいぶん遅かったんですね」とか言われそうです……
年末の片瀬海岸(江の島に面した浜)でのお決まりの絵ですが、「行く年・来る年」のような「大きなひと息」をつく時には、広い空や海に対面していると、踏ん切り(意気込みくらい言いたいところです)が付けやすいのだと思います。
2011年を振り返ると、1995年の「阪神・淡路大震災」で土木や地震研究の認識がひっくり返されたショックをはるかに超える衝撃に、声を失ったことが最も印象に残ります(放射線汚染は重大な過失で、それこそ「想定内」とできなかった国が補償すべき問題。それと被災地支援の遅れは別次元の問題)。
一応地震を学んだ者として、考えもしなかった規模の巨大地震発生に、その説明を聞けば「可能性は低くもそれは理解できる」という、「想定外」を連呼する連中と同じであったことに、無力感を覚えました。
今後も、微力であれ自分にできることを探り続ける姿勢を忘れないように、と思えてならない年でした……
2012.1.1
片瀬海岸(Map)

新年も昨日と同じ片瀬海岸(江ノ島水族館脇)からスタートです。
昨日、ガキ時分から親しんできた「旧江ノ島水族館」の建物が解体されたことを知り、国道134号(渋滞名所)をくぐる地下道(アートトンネル『アクアパラダイス』とされたそう)の様子を見ようと足を運びました。
旧水族館側はさら地とされ分かりませんが、海側の旧マリンランド(ショー向けに客席のあったプール施設)側には、閉ざされた入口が残されています。
しかし地下道ってどうやって埋めるんでしょう? お金はかけられないとしても、上に道路が通るのでいい加減にできませんよね。
先日「藤沢市、津波緊急避難所協力施設を多数確保」のニュースを目にしました。
切実な課題に着目して国道沿いを歩くと、無理と思ったラブホテル(右写真左下)まで協力している様子に成果が見受けられますが、そこには周辺住民の切実さがあります。
小田急線片瀬江ノ島駅周辺には、10階建て以上の建物が増えていますが、国道134号沿いには高さ制限があるようで、中層程度のマンションが建ち並んでいます。
建物の多くは協力的ですが、高級そうな建物は非協力的なようで「非人道的施設」のレッテルを張るにしても、津波からの避難という視点で湘南海岸を見渡すと、避難所とできそうな建物は限られていることに気付かされます。
その実情を知る周辺住民の不安感が、津波緊急避難所を増やそうと活動し、藤沢市の腰を上げさせた実態が見えてくる気がします。
ですが、夏の海水浴シーズンに津波が押し寄せる事態に遭遇すれば、周辺住民や海水浴客は避難施設が少ないために逃げられず、みな波にさらわれてしまうかも知れません……
これは不安をあおって注目を集めようとする週刊誌(ポスト、現代等)のネタではなく、周辺住民が直面する切実な現実です。

昨日の大晦日同様、元日の海も「ベッタベタのなぎ:おだやかな海」なので、オットセイ(サーファー)の頭数は少数になります。
それでもあきらめきれない黒装束たちは海をにらみ続け、何かの兆しを目にしたのでしょう、自転車ばかりかボードを抱え駆けてくる兄ちゃんもいます。
そんな「兆しを感じた」連中には、あきらめて帰途につく姿は目に入らないのかも知れません。
だから、今日は無理だって!
2012.1.2
母校近くの乗馬クラブ(Map)
現在たずさわる乗馬関連雑誌で、出身高校の近くに乗馬クラブがあることを知り、一度行こうと思っていました。
正月休みで「本日休業」の札が下がるも、門が開いていたので勝手にテラスまでズカズカと上がりましたが、人影はありません。
馬の世話に正月はないので世話の方がいたのでしょうが、断り無く写真を撮れないので、敷地外からの写真になります。

ここは相模原市麻溝台という地域で通学当時は、医療研究で注目される「北里大学病院」、青木功、尾崎将司等が出場する大会を開催する「相模原ゴルフクラブ」、広大な敷地を有する「日産自動車の部品工場」があり(上述はみな現存)、「税金を払ってくれるなら、好きに使ってくれ!」というような郊外の荒れ地でした。
当時はこの付近の農業従事者は元気でしたから、乳牛の牧場が高校に隣接し(風向きによっては「窓を閉めろ!」の事態もしばしば)、現在の乗馬クラブ付近には養鶏場が建ち並んでいましたから、住宅地として開発するには時間を要したと思われます。
後年、田園都市線「中央林間駅」の名が広まりますが、その名の通り付近一帯は雑木林が広がる台地でしたから、ガキ時分にはセーターを枯葉だらけにして走り回っていました。
高校の通学時に自転車で通り抜けた薄暗い印象の雑木林に自動車道路が通されることとなり、当時は「この雑木林は消える運命か?」と思いましたが、今回、道路以外は何ら変わらない姿を目にし「ビジョンある開発」だったことが理解できました。その新しい道路が乗馬クラブ前に至ります。
相模原市は政令指定都市に昇格(2010年移行)しますが、以前の環境を守ろうとする「のんびりした土地柄」が保たれるようですから、「米軍基地にも寛容なのか」と思ってしまいます……
立ち寄れませんでしたが、この付近にある「宇宙科学研究所」では、小惑星探査機「はやぶさ」の管制業務が行われました。
何でこんな地に? ですが、以前その一帯には「淵野辺キャンプ」とされる米軍施設があり、1974年の返還後からさまざまな施設の建設ラッシュがあり(プロ野球も行われる「相模原球場」を以前利用しました)、国のあっせんで誘致されたようです。
管制施設はともかく、ガキの時分から耳にした「淵野辺キャンプ前」というバス停名が「宇宙科学研究所入口」とされたことは、「(テントを張るような)キャンプ場はどこにあるの?」→「はやぶさの基地だよね!」の認識に変ぼうしたのですから、どれだけ明るくなったことか!
──ガキ時分に「グレーゾーンの不可解さを経験すること」は、悪いばかりとは言えない気もしますが……
2012.1.3
【東京都】
箱根駅伝─復路@田町駅前(Map)

「見にいこう」の関心を持ち箱根駅伝の中継を眺めつつ「蒲田の踏切か」と、目を離したすきに「エッ、田町の駅前?」と降りていくと、「テレビの画面と一緒だ(?)」の印象と、その臨場感から気持ちが高揚していく様が自覚でき、スタジアムの興奮が「晴れの舞台」として町中に出現することに驚かされました。
沿道の応援も、ランナーが見えた場所から盛り上がるウエーブのようですから、通りがかりの人もその波に足を止め注視してしまうランナーたちの懸命な姿が、目の前を駆け抜けていきます。
でも「これじゃ、横断歩道の信号は変わらない」と陸橋に向かうアベックもいますが、周囲の熱狂的な応援を前にすると「引き下がるしかない」と、白旗を挙げるしかないようです……
この歓声を受け駆け抜けるランナーたちの気分は最高でしょうが同時に、毎年目にしてしまう実力を発揮できなかった選手の姿を思い起こします。
おそらく箱根駅伝は、他の競技会や大会とは違い格段に注目される大会のため、プレッシャーや緊張、そして応援の迫力に舞い上がったりしたのでは? と、この場に立って初めて思い至りました。
箱根駅伝ではメンタルトレーニングも重要であると知り、プレッシャーや声援を力にできる選手たちのたくましさに改めて驚かされました……
追記
こんなBlogですが、丸5年続けたことになります。
決しておもしろいとは思えませんが、歩き回ることは好きなので、そこで撮った写真を公開するには「説明文:絵解き、キャプション」が必要と思ったものが、文章も長くなりがちです。
これからも雑感、関心、興味のおもむくまま「いい出会いはないか」とブラブラしながら、自分なりに感じたことをつづっていくつもりです。
【神奈川県】
年末年始に実家へ帰る際、鎌倉・江の島方面に立ち寄ったり出かける機会が多いので、自分の中では「新年を迎える光景」として定着しています。
より大きな地図で 湘南 を表示
※上地図は以前の「湘南を歩く」の流用です。
鶴岡八幡宮(Map)

近ごろ鎌倉に関心が向くと必ず思い浮かべる「鶴岡八幡宮の大銀杏(おおいちょう)」なので、訪問の機会を探っていました。
信仰心は別にしても、この大木に愛着を持つ人は多いと思いますし、ガキの時分から意識しながらも、失って初めて知る「シンボルの偉大さ」に、「再生を見守りたい」祈りのような気持ちが芽ばえてきました。
倒れたのは2010年3月10日(今年の3月も要注意か?)なので、もう少し大きな幹が伸びているかと思うも、現在はどの幹を育てるか観察中だそう。
倒れた株の中心には、水や肥料(?)を送り込むチューブが配されていますから、神社側の取り組みにも並々ならぬ熱意が感じられます。
また機会を作って来ちゃいそうです……
参道の若宮大路沿いにある材木屋のディスプレイ(木材にペイントしたもの)で、後の用途を見こした粋なはからいに見えます。ここに飾られた木材が住宅用の建材に使われるとすれば、新春を祝った木材が持つ縁起の良さが、建築中の無事故や家屋・家族息災の祈りにつながると、好感されることでしょう。
わたしにはそんな機会は無いとしても、できることなら、こんなディスプレイに使用された木材を使用して家を建てたい、と思ってしまいます(「うちには龍の守り神がいる」と言ってみたい)。
こんなはからいは正月だけと考えると年に1セットだけなので、希少品として人気がありそうな気がします。
片瀬海岸(Map)
「年に一度しか会えない娘たちも大きくなりました」としたら「ずいぶん遅かったんですね」とか言われそうです……年末の片瀬海岸(江の島に面した浜)でのお決まりの絵ですが、「行く年・来る年」のような「大きなひと息」をつく時には、広い空や海に対面していると、踏ん切り(意気込みくらい言いたいところです)が付けやすいのだと思います。
2011年を振り返ると、1995年の「阪神・淡路大震災」で土木や地震研究の認識がひっくり返されたショックをはるかに超える衝撃に、声を失ったことが最も印象に残ります(放射線汚染は重大な過失で、それこそ「想定内」とできなかった国が補償すべき問題。それと被災地支援の遅れは別次元の問題)。
一応地震を学んだ者として、考えもしなかった規模の巨大地震発生に、その説明を聞けば「可能性は低くもそれは理解できる」という、「想定外」を連呼する連中と同じであったことに、無力感を覚えました。
今後も、微力であれ自分にできることを探り続ける姿勢を忘れないように、と思えてならない年でした……
2012.1.1
片瀬海岸(Map)

新年も昨日と同じ片瀬海岸(江ノ島水族館脇)からスタートです。
昨日、ガキ時分から親しんできた「旧江ノ島水族館」の建物が解体されたことを知り、国道134号(渋滞名所)をくぐる地下道(アートトンネル『アクアパラダイス』とされたそう)の様子を見ようと足を運びました。
旧水族館側はさら地とされ分かりませんが、海側の旧マリンランド(ショー向けに客席のあったプール施設)側には、閉ざされた入口が残されています。
しかし地下道ってどうやって埋めるんでしょう? お金はかけられないとしても、上に道路が通るのでいい加減にできませんよね。
先日「藤沢市、津波緊急避難所協力施設を多数確保」のニュースを目にしました。切実な課題に着目して国道沿いを歩くと、無理と思ったラブホテル(右写真左下)まで協力している様子に成果が見受けられますが、そこには周辺住民の切実さがあります。
小田急線片瀬江ノ島駅周辺には、10階建て以上の建物が増えていますが、国道134号沿いには高さ制限があるようで、中層程度のマンションが建ち並んでいます。
建物の多くは協力的ですが、高級そうな建物は非協力的なようで「非人道的施設」のレッテルを張るにしても、津波からの避難という視点で湘南海岸を見渡すと、避難所とできそうな建物は限られていることに気付かされます。
その実情を知る周辺住民の不安感が、津波緊急避難所を増やそうと活動し、藤沢市の腰を上げさせた実態が見えてくる気がします。
ですが、夏の海水浴シーズンに津波が押し寄せる事態に遭遇すれば、周辺住民や海水浴客は避難施設が少ないために逃げられず、みな波にさらわれてしまうかも知れません……
これは不安をあおって注目を集めようとする週刊誌(ポスト、現代等)のネタではなく、周辺住民が直面する切実な現実です。

昨日の大晦日同様、元日の海も「ベッタベタのなぎ:おだやかな海」なので、オットセイ(サーファー)の頭数は少数になります。
それでもあきらめきれない黒装束たちは海をにらみ続け、何かの兆しを目にしたのでしょう、自転車ばかりかボードを抱え駆けてくる兄ちゃんもいます。
そんな「兆しを感じた」連中には、あきらめて帰途につく姿は目に入らないのかも知れません。
だから、今日は無理だって!
2012.1.2
母校近くの乗馬クラブ(Map)
現在たずさわる乗馬関連雑誌で、出身高校の近くに乗馬クラブがあることを知り、一度行こうと思っていました。
正月休みで「本日休業」の札が下がるも、門が開いていたので勝手にテラスまでズカズカと上がりましたが、人影はありません。
馬の世話に正月はないので世話の方がいたのでしょうが、断り無く写真を撮れないので、敷地外からの写真になります。

ここは相模原市麻溝台という地域で通学当時は、医療研究で注目される「北里大学病院」、青木功、尾崎将司等が出場する大会を開催する「相模原ゴルフクラブ」、広大な敷地を有する「日産自動車の部品工場」があり(上述はみな現存)、「税金を払ってくれるなら、好きに使ってくれ!」というような郊外の荒れ地でした。
当時はこの付近の農業従事者は元気でしたから、乳牛の牧場が高校に隣接し(風向きによっては「窓を閉めろ!」の事態もしばしば)、現在の乗馬クラブ付近には養鶏場が建ち並んでいましたから、住宅地として開発するには時間を要したと思われます。
後年、田園都市線「中央林間駅」の名が広まりますが、その名の通り付近一帯は雑木林が広がる台地でしたから、ガキ時分にはセーターを枯葉だらけにして走り回っていました。高校の通学時に自転車で通り抜けた薄暗い印象の雑木林に自動車道路が通されることとなり、当時は「この雑木林は消える運命か?」と思いましたが、今回、道路以外は何ら変わらない姿を目にし「ビジョンある開発」だったことが理解できました。その新しい道路が乗馬クラブ前に至ります。
相模原市は政令指定都市に昇格(2010年移行)しますが、以前の環境を守ろうとする「のんびりした土地柄」が保たれるようですから、「米軍基地にも寛容なのか」と思ってしまいます……
立ち寄れませんでしたが、この付近にある「宇宙科学研究所」では、小惑星探査機「はやぶさ」の管制業務が行われました。
何でこんな地に? ですが、以前その一帯には「淵野辺キャンプ」とされる米軍施設があり、1974年の返還後からさまざまな施設の建設ラッシュがあり(プロ野球も行われる「相模原球場」を以前利用しました)、国のあっせんで誘致されたようです。
管制施設はともかく、ガキの時分から耳にした「淵野辺キャンプ前」というバス停名が「宇宙科学研究所入口」とされたことは、「(テントを張るような)キャンプ場はどこにあるの?」→「はやぶさの基地だよね!」の認識に変ぼうしたのですから、どれだけ明るくなったことか!
──ガキ時分に「グレーゾーンの不可解さを経験すること」は、悪いばかりとは言えない気もしますが……
2012.1.3
【東京都】
箱根駅伝─復路@田町駅前(Map)

「見にいこう」の関心を持ち箱根駅伝の中継を眺めつつ「蒲田の踏切か」と、目を離したすきに「エッ、田町の駅前?」と降りていくと、「テレビの画面と一緒だ(?)」の印象と、その臨場感から気持ちが高揚していく様が自覚でき、スタジアムの興奮が「晴れの舞台」として町中に出現することに驚かされました。
沿道の応援も、ランナーが見えた場所から盛り上がるウエーブのようですから、通りがかりの人もその波に足を止め注視してしまうランナーたちの懸命な姿が、目の前を駆け抜けていきます。
でも「これじゃ、横断歩道の信号は変わらない」と陸橋に向かうアベックもいますが、周囲の熱狂的な応援を前にすると「引き下がるしかない」と、白旗を挙げるしかないようです……
この歓声を受け駆け抜けるランナーたちの気分は最高でしょうが同時に、毎年目にしてしまう実力を発揮できなかった選手の姿を思い起こします。
おそらく箱根駅伝は、他の競技会や大会とは違い格段に注目される大会のため、プレッシャーや緊張、そして応援の迫力に舞い上がったりしたのでは? と、この場に立って初めて思い至りました。
箱根駅伝ではメンタルトレーニングも重要であると知り、プレッシャーや声援を力にできる選手たちのたくましさに改めて驚かされました……
追記
こんなBlogですが、丸5年続けたことになります。
決しておもしろいとは思えませんが、歩き回ることは好きなので、そこで撮った写真を公開するには「説明文:絵解き、キャプション」が必要と思ったものが、文章も長くなりがちです。
これからも雑感、関心、興味のおもむくまま「いい出会いはないか」とブラブラしながら、自分なりに感じたことをつづっていくつもりです。
2011/11/28
平地を占領された町の生きる道──横浜
大阪で維新は可能なのだろうか?
知事・市長選挙で、改革派が圧勝しました。
橋下さんの言う「体質の硬直化」は、大阪人気質(良くも悪くも)「古き日本人的な考え方」に根ざしていると思われます。
新しいモノ好きではあっても、改革を進める中で遭遇する「そんなんかなわんわ〜」の壁をどう乗り越えるのか、お手並み拝見というところでしょうか。
2011.11.13
【神奈川県】
より大きな地図で 東横沿線 を表示
横浜という地名からはどうしても港や海を想起してしまい、海好きは海辺に足が向いてしまいますが、今回はその誘惑を振り切って丘陵地を目指します。
三ツ沢公園(Map)
バス停は「三ツ沢総合グランド入口」とされ、メインの施設には「ニッパツ三ツ沢球技場」(サッカースタジアム)と「三ツ沢公園陸上競技場」がある市立の運動公園になります。
横浜駅から2kmほどの距離ですが海抜40mの丘陵地にあるので、0mに近い駅(埋め立て地)からバスは坂道を一気に登っていきます。
その坂道付近で「北軽井沢」の地名を目にしますが、「軽井沢」の地名は全国のいたるところにあるようです(40以上)。
ルーツにはアイヌ語説、古代出雲語説等があるようですが、どこもきれいな清水の湧く山里に名が残るので、以前この地のわき水も有名だったことでしょう。
公園の前身は、戦前1939年創建の神奈川県護国神社外苑が、戦中の1942年に防空緑地整備事業として整備されたものになります。
空襲で護国神社(国のために殉難した人の霊(英霊)を祭る)が焼失後は慰霊塔とされ、市に譲渡された土地と周辺の用地を確保して、公園整備が進められます。
以前「防空緑地整備事業」は「日本軍の基地を守るための砲台施設」と書きましたが、そのルーツは関東大震災にあると知り、ここで訂正させていただきます。
この計画は関東大震災復興の一環として、東京を火災延焼防止用のグリーンベルトで囲おうとする壮大なものでしたが、結局とん挫します。
しかし、日中戦争開戦(1937年)に伴う防空法の制定により緑地計画は「防空緑地計画」へと変容します。
それは東京の外環状に、空襲に備える広大な避難地を作る計画で、ちょうど戦意高揚のためにでっち上げられた「紀元2600年(1940年:昭和15年 神武天皇即位紀元2600年を祝う行事)記念事業」として推進されます。
砧(きぬた)公園、小金井公園等、そんな勢いで作られた施設がいくつもあったとの記憶があります。
避難所として機能した場所もあったでしょうが、あれだけの爆弾を落とされては、たどり着くまでが生死の分かれ目であったように思えてなりません。
とは言え父親の実家(世田谷区)付近では、広くはないが道路のおかげで、空襲による火災の延焼を免れたと聞きます。
津波や火災など、さまざまな危険性から身を守るための町づくりが必要なことを、切実に感じる近ごろです。
当初の「緑地整備予定地」は戦後GHQの方針で「農地解放」として民間に払い下げられますが、現在はそんな土地を売価よりはるかに高い金額で買い戻して、緑地にしようとしています。
その場しのぎ的な政策が生んだ問題を、横浜市は地域で修復しようと農地の区画整理を進めているのか、に思い至ります。
当時の農地解放(改革)には、共産主義を排除したいGHQの思惑があったようです。
国が農耕地を始めすべてを統制管理していた戦時中までの施策から、共産主義に傾くことを警戒したため、共産党支持層であった小作人を自作農=土地資本保有者(事業主)とすることで、多くが保守系に流れたとされます。
税金で養ってきたともいえる共産国的な農家保護政策ですが、TPP参加に際して大きな判断が求められています。

三ツ沢球技場(現在ニッパツの冠)といえば、以前はJリーグ「横浜マリノス」(現在もホームだが、ほとんど日産スタジアム(横浜国際総合競技場)を使用)、「横浜フリューゲルス」(1999年マリノスと合併→「横浜F・マリノス」)2チームがホームスタジアムとしていましたが、フリューゲルス解散後、サポーターたちの後押しにより設立された「横浜FC」がホームとします。
この日は湘南ベルマーレとの試合があり、神奈川県勢の闘いとあって観客が続々と集まってきます。
特段のサポーターでないわれわれの、「早く帰れそうだから、サッカー見られるかな」の関心は日本代表戦に限られますが(TV中継の有無もある)、その底辺(では失礼か?)を支えるJ2チームの応援に集まる人々の姿に、「あなた方のおかげで、FIFAランキング20位内に定着できた」と、球技場へと駆ける子どもたちの将来を応援したい気持ちになります……
ここは、東京オリンピック(1964年)のサッカー会場として使用された施設になります(最初の写真)。

運動公園に隣接して、横浜市立平沼記念体育館があります。
この日は女子ハンドボールの試合が行われていましたが、ここはバレーやバスケットに加え、フットサルにも貸し出されるそうです。
「平沼」の名称は「平沼橋」(相鉄線駅名にもある)に関係がありそう、と調べてみました。
体育館の名称は、市民スポーツの父とされる平沼亮三(実業家、政治家、アマチュアスポーツ選手、元貴族院議員、元横浜市長)に由来し、2度のオリンピック(1932年ロサンゼルス、1936年ベルリン)で選手団長を務めたそうですから、立派なスポーツ界の名士です。
また76歳で、神奈川国体(1955年)開会式の聖火最終ランナーを務め、その姿を見た昭和天皇が「松の火をかざして走る老人(おひびと)のををしき姿見まもりにけり」と詠んだ句が残されることからも、その心意気がうかがい知れます。
現在の横浜駅周辺には江戸時代中ごろまで、袖ヶ浦とされる入江が保土ケ谷付近まで広がっていましたが、18世紀ごろから埋め立て〜新田開発が始まり、19世紀には程ヶ谷宿(旧表記)の豪商平沼家と岡野家が大規模な埋め立てを行います。
その後明治時代に前回登場した高島嘉右衛門が、湾口である現在の横浜駅、高島町一帯を横浜港(桜木町方面)への鉄道建設のために埋め立てます。
埋め立て地に囲まれた水域は「平沼」と呼ばれますが、そこも平沼家によって埋め立てられ、東海道本線が通されました(現在の平沼橋付近)。
説明が長くなりましたが、上述の平沼亮三はその平沼家出身ゆえに貴族院議員(位の高さ以外にも勅選議員、多額納税者議員の資格がある)となれたとしても、生涯地元発展やスポーツ振興に取り組んだ姿勢が、地元から感謝されたようです。
人名が地名として残されるためには、その方の人徳が必要条件ではありますが、「田舎の町」という要素も必要だったのではあるまいか?
横浜はそんな田舎町だったようです……

今回初めて馬術練習場があることを知りました。
ホームページでは「横浜市で唯一馬術の練習場がある」と自慢げではあっても、わたしも仕事でのかかわりが無ければ「あっ、お馬さん!」などとは、関心の向かない施設だったことでしょう……
横浜国立大学(Map)
一度歩きたいと思っていて、地図では三ツ沢公園から近そうと向かってみると、「三ツ沢=3つの沢がある」の由来となるような急峻な地形を体感させられます。
横浜駅に近いからって、こんな急斜面に無理して住まなくてもと、感心を通り越すような住宅がひしめいています。
みなさん「健康のため」なんですよね?
本大学は4つの旧制官立教育機関を統合し、1949年に新制国立大学として設立されます。
国立大学で名称に「国立」が入るのはここだけ! と自慢する声も聞かれますが、設立当初に「横浜大学」の名称で申請するも、他校と競合するほど人気が高いため、お互いにその名は使用しないことにしたそうです。
見せてもらったくせに失礼ですが、歴史を感じさせるような建造物が無くちょっとガッカリですし、「○○学部棟」の看板が各建物にあるも「ここだけで事足りるの?」と思うような小所帯の建物が並びます。
学部を増設する規模拡大路線ではなく、少数精鋭化の大学院教育研究を目指しているようです。
上写真は建設学科棟で、日の当たるベランダには、この夏「節電効果」を発揮したと思われる植物の痕跡が見られます。

キャンパスは、旧ゴルフ場(程ヶ谷カントリー倶楽部)跡地に作られたため、起伏に富むものの緑は豊かで、森の中で研究しているようなイメージがあります。
上写真は野外音楽堂ですが、舞台奧の壁が裏側の緑に覆われてしまいそうでも、手入れをしないところに校風を感じたりします(さぼってるだけかも知れませんが……)。
建物デザインはみな機能重視のようで、右写真でテラスのように見えるパイプの並びは数少ない装飾に思えますし、カメラ反対側の建物には実験設備用のパイプ配管が並びますから、ライトアップすれば、近ごろ人気の工場やコンビナートの夜景のようになるのでは? とも思える光景です。
近ごろは少子化対策として「オシャレなキャンパス」をアピールする大学も多く目にしますが、「硬派」な印象と「手を加えない自然環境」の中で「研究」を目指す施設の印象に、応援したい気持ちにさせられました。
上述2つの施設は戦後に作られますが、平坦な市街地のほとんどを米軍に占領された当時、自治体が自由に利用できる土地はこのような丘陵地しかなかった、という状況を頭に入れて、これからの横浜を見ていくべきという気がします。
追記
元プロ野球監督の西本幸雄さんが亡くなられました。
91歳とは…… つい先日までテレビでお見かけした気がしますから、性格的には「出たがり屋」だったのでしょう。
阪急ブレーブス、近鉄バファローズ監督時代の姿が印象に残ります。
パリーグで8回の優勝経験があるも、日本シリーズで一度も優勝できず「悲運の闘将」とされた方です。
特に残るのは、1979年日本シリーズ広島との対戦で、伝説となった「江夏の21球」と語られる試合に負けた際の印象です。
「江夏にやられた」の言葉は今も残りますが、振り返ってみれば当時「江夏を打てる打者はいなかった」ように思います。
しかし西本さんは、「そんな打者を育てられなかった」ことを悔やみます。
そんなカッコイイ「男 西本」さんが好きになり近鉄ファンとなりますが、球団は2004年で消滅してしまいました。
一度、日本シリーズでの西本さんの胴上げ姿を、涙しながら見たいとの願いは叶いませんでした……
ありがとうございました。
《お知らせ》
今回で東横沿線シリーズ(渋谷〜横浜)は、みなとみらい線を歩かず終了としますが、それには12月3日に引越予定の慌ただしさがあります。
そんな理由から、来週のアップはお休みします(インターネット接続できない期間が生じるため。無くてもいいことを証明したい気もするが)。
「荷物少ないから何とかなるだろ」と、今回はどうもたるんでる気がしますが、何とかやっつけるつもりです……
知事・市長選挙で、改革派が圧勝しました。
橋下さんの言う「体質の硬直化」は、大阪人気質(良くも悪くも)「古き日本人的な考え方」に根ざしていると思われます。
新しいモノ好きではあっても、改革を進める中で遭遇する「そんなんかなわんわ〜」の壁をどう乗り越えるのか、お手並み拝見というところでしょうか。
2011.11.13
【神奈川県】
より大きな地図で 東横沿線 を表示
横浜という地名からはどうしても港や海を想起してしまい、海好きは海辺に足が向いてしまいますが、今回はその誘惑を振り切って丘陵地を目指します。
三ツ沢公園(Map)
バス停は「三ツ沢総合グランド入口」とされ、メインの施設には「ニッパツ三ツ沢球技場」(サッカースタジアム)と「三ツ沢公園陸上競技場」がある市立の運動公園になります。
横浜駅から2kmほどの距離ですが海抜40mの丘陵地にあるので、0mに近い駅(埋め立て地)からバスは坂道を一気に登っていきます。
その坂道付近で「北軽井沢」の地名を目にしますが、「軽井沢」の地名は全国のいたるところにあるようです(40以上)。
ルーツにはアイヌ語説、古代出雲語説等があるようですが、どこもきれいな清水の湧く山里に名が残るので、以前この地のわき水も有名だったことでしょう。
公園の前身は、戦前1939年創建の神奈川県護国神社外苑が、戦中の1942年に防空緑地整備事業として整備されたものになります。空襲で護国神社(国のために殉難した人の霊(英霊)を祭る)が焼失後は慰霊塔とされ、市に譲渡された土地と周辺の用地を確保して、公園整備が進められます。
以前「防空緑地整備事業」は「日本軍の基地を守るための砲台施設」と書きましたが、そのルーツは関東大震災にあると知り、ここで訂正させていただきます。
この計画は関東大震災復興の一環として、東京を火災延焼防止用のグリーンベルトで囲おうとする壮大なものでしたが、結局とん挫します。
しかし、日中戦争開戦(1937年)に伴う防空法の制定により緑地計画は「防空緑地計画」へと変容します。
それは東京の外環状に、空襲に備える広大な避難地を作る計画で、ちょうど戦意高揚のためにでっち上げられた「紀元2600年(1940年:昭和15年 神武天皇即位紀元2600年を祝う行事)記念事業」として推進されます。
砧(きぬた)公園、小金井公園等、そんな勢いで作られた施設がいくつもあったとの記憶があります。
避難所として機能した場所もあったでしょうが、あれだけの爆弾を落とされては、たどり着くまでが生死の分かれ目であったように思えてなりません。
とは言え父親の実家(世田谷区)付近では、広くはないが道路のおかげで、空襲による火災の延焼を免れたと聞きます。
津波や火災など、さまざまな危険性から身を守るための町づくりが必要なことを、切実に感じる近ごろです。
当初の「緑地整備予定地」は戦後GHQの方針で「農地解放」として民間に払い下げられますが、現在はそんな土地を売価よりはるかに高い金額で買い戻して、緑地にしようとしています。
その場しのぎ的な政策が生んだ問題を、横浜市は地域で修復しようと農地の区画整理を進めているのか、に思い至ります。
当時の農地解放(改革)には、共産主義を排除したいGHQの思惑があったようです。
国が農耕地を始めすべてを統制管理していた戦時中までの施策から、共産主義に傾くことを警戒したため、共産党支持層であった小作人を自作農=土地資本保有者(事業主)とすることで、多くが保守系に流れたとされます。
税金で養ってきたともいえる共産国的な農家保護政策ですが、TPP参加に際して大きな判断が求められています。

三ツ沢球技場(現在ニッパツの冠)といえば、以前はJリーグ「横浜マリノス」(現在もホームだが、ほとんど日産スタジアム(横浜国際総合競技場)を使用)、「横浜フリューゲルス」(1999年マリノスと合併→「横浜F・マリノス」)2チームがホームスタジアムとしていましたが、フリューゲルス解散後、サポーターたちの後押しにより設立された「横浜FC」がホームとします。
この日は湘南ベルマーレとの試合があり、神奈川県勢の闘いとあって観客が続々と集まってきます。
特段のサポーターでないわれわれの、「早く帰れそうだから、サッカー見られるかな」の関心は日本代表戦に限られますが(TV中継の有無もある)、その底辺(では失礼か?)を支えるJ2チームの応援に集まる人々の姿に、「あなた方のおかげで、FIFAランキング20位内に定着できた」と、球技場へと駆ける子どもたちの将来を応援したい気持ちになります……
ここは、東京オリンピック(1964年)のサッカー会場として使用された施設になります(最初の写真)。

運動公園に隣接して、横浜市立平沼記念体育館があります。
この日は女子ハンドボールの試合が行われていましたが、ここはバレーやバスケットに加え、フットサルにも貸し出されるそうです。
「平沼」の名称は「平沼橋」(相鉄線駅名にもある)に関係がありそう、と調べてみました。
体育館の名称は、市民スポーツの父とされる平沼亮三(実業家、政治家、アマチュアスポーツ選手、元貴族院議員、元横浜市長)に由来し、2度のオリンピック(1932年ロサンゼルス、1936年ベルリン)で選手団長を務めたそうですから、立派なスポーツ界の名士です。
また76歳で、神奈川国体(1955年)開会式の聖火最終ランナーを務め、その姿を見た昭和天皇が「松の火をかざして走る老人(おひびと)のををしき姿見まもりにけり」と詠んだ句が残されることからも、その心意気がうかがい知れます。
現在の横浜駅周辺には江戸時代中ごろまで、袖ヶ浦とされる入江が保土ケ谷付近まで広がっていましたが、18世紀ごろから埋め立て〜新田開発が始まり、19世紀には程ヶ谷宿(旧表記)の豪商平沼家と岡野家が大規模な埋め立てを行います。
その後明治時代に前回登場した高島嘉右衛門が、湾口である現在の横浜駅、高島町一帯を横浜港(桜木町方面)への鉄道建設のために埋め立てます。
埋め立て地に囲まれた水域は「平沼」と呼ばれますが、そこも平沼家によって埋め立てられ、東海道本線が通されました(現在の平沼橋付近)。
説明が長くなりましたが、上述の平沼亮三はその平沼家出身ゆえに貴族院議員(位の高さ以外にも勅選議員、多額納税者議員の資格がある)となれたとしても、生涯地元発展やスポーツ振興に取り組んだ姿勢が、地元から感謝されたようです。
人名が地名として残されるためには、その方の人徳が必要条件ではありますが、「田舎の町」という要素も必要だったのではあるまいか?
横浜はそんな田舎町だったようです……

今回初めて馬術練習場があることを知りました。
ホームページでは「横浜市で唯一馬術の練習場がある」と自慢げではあっても、わたしも仕事でのかかわりが無ければ「あっ、お馬さん!」などとは、関心の向かない施設だったことでしょう……
横浜国立大学(Map)
一度歩きたいと思っていて、地図では三ツ沢公園から近そうと向かってみると、「三ツ沢=3つの沢がある」の由来となるような急峻な地形を体感させられます。横浜駅に近いからって、こんな急斜面に無理して住まなくてもと、感心を通り越すような住宅がひしめいています。
みなさん「健康のため」なんですよね?
本大学は4つの旧制官立教育機関を統合し、1949年に新制国立大学として設立されます。
国立大学で名称に「国立」が入るのはここだけ! と自慢する声も聞かれますが、設立当初に「横浜大学」の名称で申請するも、他校と競合するほど人気が高いため、お互いにその名は使用しないことにしたそうです。
見せてもらったくせに失礼ですが、歴史を感じさせるような建造物が無くちょっとガッカリですし、「○○学部棟」の看板が各建物にあるも「ここだけで事足りるの?」と思うような小所帯の建物が並びます。
学部を増設する規模拡大路線ではなく、少数精鋭化の大学院教育研究を目指しているようです。
上写真は建設学科棟で、日の当たるベランダには、この夏「節電効果」を発揮したと思われる植物の痕跡が見られます。

キャンパスは、旧ゴルフ場(程ヶ谷カントリー倶楽部)跡地に作られたため、起伏に富むものの緑は豊かで、森の中で研究しているようなイメージがあります。
上写真は野外音楽堂ですが、舞台奧の壁が裏側の緑に覆われてしまいそうでも、手入れをしないところに校風を感じたりします(さぼってるだけかも知れませんが……)。
建物デザインはみな機能重視のようで、右写真でテラスのように見えるパイプの並びは数少ない装飾に思えますし、カメラ反対側の建物には実験設備用のパイプ配管が並びますから、ライトアップすれば、近ごろ人気の工場やコンビナートの夜景のようになるのでは? とも思える光景です。近ごろは少子化対策として「オシャレなキャンパス」をアピールする大学も多く目にしますが、「硬派」な印象と「手を加えない自然環境」の中で「研究」を目指す施設の印象に、応援したい気持ちにさせられました。
上述2つの施設は戦後に作られますが、平坦な市街地のほとんどを米軍に占領された当時、自治体が自由に利用できる土地はこのような丘陵地しかなかった、という状況を頭に入れて、これからの横浜を見ていくべきという気がします。
追記
元プロ野球監督の西本幸雄さんが亡くなられました。
91歳とは…… つい先日までテレビでお見かけした気がしますから、性格的には「出たがり屋」だったのでしょう。
阪急ブレーブス、近鉄バファローズ監督時代の姿が印象に残ります。
パリーグで8回の優勝経験があるも、日本シリーズで一度も優勝できず「悲運の闘将」とされた方です。
特に残るのは、1979年日本シリーズ広島との対戦で、伝説となった「江夏の21球」と語られる試合に負けた際の印象です。
「江夏にやられた」の言葉は今も残りますが、振り返ってみれば当時「江夏を打てる打者はいなかった」ように思います。
しかし西本さんは、「そんな打者を育てられなかった」ことを悔やみます。
そんなカッコイイ「男 西本」さんが好きになり近鉄ファンとなりますが、球団は2004年で消滅してしまいました。
一度、日本シリーズでの西本さんの胴上げ姿を、涙しながら見たいとの願いは叶いませんでした……
ありがとうございました。
《お知らせ》
今回で東横沿線シリーズ(渋谷〜横浜)は、みなとみらい線を歩かず終了としますが、それには12月3日に引越予定の慌ただしさがあります。
そんな理由から、来週のアップはお休みします(インターネット接続できない期間が生じるため。無くてもいいことを証明したい気もするが)。
「荷物少ないから何とかなるだろ」と、今回はどうもたるんでる気がしますが、何とかやっつけるつもりです……
2011/11/21
新しい道、古い道──反町(たんまち)
2011.11.5
【神奈川県】
より大きな地図で 東横沿線 を表示
反町(Map)
東横線の反町〜横浜駅間は、2004年みなとみらい線との直通運転のため地下化されます。
それまではひとつ手前の東白楽駅(下写真)から、横浜駅でJR各線と京急線をまたぐ高架軌道が桜木町まで続いていました(桜木町駅付近の高架下は落書き天国でしたが、駅はみなとみらい線乗り入れの際に廃止され、落書きも禁止となります──別に認められてはいなかった)。
今回は、地上の廃線跡に整備された「東横フラワー緑道」(東白楽〜横浜間)を歩きます。

その前に寄り道したのが、今年開業60年となる神奈川スケートリンクで、JR横須賀・東海道線の車窓から見え、反町公園に隣接します。
建物裏側の壁面(下写真)には「開国博Y150(2009年)」の際、子どもたちが描いた絵が残されています。
Y150は成功したとは思えませんが、子どもたちにはイベントに参加する経験から、行動のきっかけがつかめたらと思います。

この一帯は江戸時代に東海道「神奈川宿」として栄えますが、昭和期には青木町遊郭となります。
横浜にはその手の施設が多いと感じるも、昔から貿易の主力は船舶輸送であり、現在立ち並ぶ巨大クレーンの積み降ろし作業を人力でまかなっていたのですから、繁華街は荷役に携わる男たちでむんむんしたことでしょう。
空襲で焼失した遊郭一帯は戦後米軍に接収されますが(現在も近くの瑞穂埠頭には米軍施設が残る)、返還後に開かれた日本貿易博覧会に使用の後は、建物は横浜市役所庁舎に転用され、それから10年近く市の中心地とされます。ちなみに、現在のスケートリンクは「演芸館」(劇場?)だったそう。
1959年市庁舎が関内へ移転後には、ジェットコースターのある遊園地的施設とされる時期もありましたが、そんな夢の跡は現在、休日にフリーマーケットが開かれる庶民的な反町公園となっています。
神奈川で育った者には「歴史的スケートリンク」と感じる本施設にそんな経緯があったかと驚きますが、浅田真央ちゃんにつぐ世代が頭角を現していますから、そこに続く世代は是非ここから! とも。

上写真は反町駅が高架の時代に使用していた鉄橋で、そのまま残されて現在遊歩道とされます。
東横フラワー緑道は、東白楽と反町駅間で電車軌道が地下に入る地点から始まります。
近ごろでは車窓から目にできない懐かしい光景を期待するも、まだ10年もたってないのにピンと来る景色に出会えません。
高架上から眺めた目線とは高さが違うため、「見たかも知れない」程度で確信が持てません(2枚上の写真は現在の緑道の光景で、お姉ちゃんが夢中にスナック食べたり、その奧でガキ共が素振りしています)。
でも反町駅に近づくにつれ記憶の断片が増え始め、この橋に立った瞬間「この高さなら変わりないことが実感できる!」の懐かしさから、つり革をつかみ車窓を眺めていた当時の車内の様子までよみがえってくる気がしました。
その先にある反町〜横浜駅間のトンネルも、緑道の一部として整備されると聞き楽しみにしていました(2011年4月全通)。
右写真の遠景に、以前車窓から眺めた様子を思い出しながら足を踏み入れると、その大きさが実感でき驚かされます。
ここは「線路が2本通っていたトンネルを歩いたことあったっけ?」と思うような広さを感じさせてくれる、あまり経験できない環境かも知れません。
他の目的で利用されていたトンネルが人道とされるのは、廃線になった鉄道施設や、トンネルが新設された旧道だったりするので単線や一車線ですし、架線(パンタグラフ使用)の高さもあるので(ローカル線は未電化でその分天井が低い)、歩いてみると「デッカイ地下空間」とのインパクトがあります。
車道に併設された側道の場合でも、トンネルの真ん中を歩くことはできません(交通量の少ない場所に作られた「過剰設備:税金無駄遣い施設」では可能だが)。

ここを歩いていると、これまでなかった道ですから「ここなら歩いてみよう」とウォーキングする方、「このコースを走ろう」とジョギングルートにした方、そして「トンネルを抜けて買い物へ行こう!」という姿に見える付近の方々には、ライフスタイルを変える革命的なインパクトを与えたのでは? の印象を受けます(丘陵地を越えるには急傾斜の坂道の上り下りがあります)。
今後も「横浜への新道」の利用者は増えそうですが、そのサービス過剰の影響で、東横線反町〜横浜駅間の乗車率が落ち込んだりするかも知れません。でもそれは、沿線住民の方々の健康意識に大きく貢献するのではないでしょうか(それも沿線へのサービスです)。

「トンネルを抜けると、そこは横浜だった……」それだけの絵ですが、気に入っています。
トンネルの大きさを表現するためには、例えば高速道路の車道の真ん中に立ちたいと思うも、交通規制して撮影をできないわたしには、「初めて撮った」ほどの新鮮さがありました。
願望としてはトンネルの先に自然の風景が広がって欲しいと思いますが、そんな場所なかなか見つからないのでしょうね……
公園施設とされるため、現在通行は6時〜21時30分に限られています。ホームレスでなくとも、いかにもたまり場になりそうな場所ではあります。
とても気に入った場所なので、「大きな穴があったら入りたい」という願望をお持ちの方には是非オススメです!
高島山付近(Map)
そのトンネルは「高島山トンネル」の名があるように、高島山を貫いています(由緒は、開港期に功績があった高島嘉右衛門からで、高島町も同様)。
その丘陵地には本覺寺(ほんがくじ:曹洞宗)があり、門前からはJR各線・京急を見下ろす見晴らしのいい場所柄です(下写真)。

江戸時代の東海道神奈川宿は、この付近にあった神奈川湊を中心に発展し、横浜開港(開国)まではこの地域の中心地でした。
開港の地である横浜村は、対岸の砂州(さす:砂が堆積した地形で、元町方面から伸びていた。当時まで、ここと桜木町付近を湾口とする大きな入江があった)のため、アメリカは横浜港が一望できるこの地を領事館とすることを要求してきます。
領事館当時の山門はペンキで白く塗装されたそうですが(船からの目印は白が目立つ:攻撃するなの意味でしょう)、上写真左側の門扉はそんな仕打ちに抗議する意志表示のように「Paint It Black !」な姿です。
本堂の階段脇には見逃しそうな大きさの、十二支の石像が並んでいます。
年賀状を意識し始める時季に干支の姿を眺めると、今年は特に暗い年となった原因をウサギ(卯年)の責任にはせずとも、来年の「竜(辰年)」に願いを込めたい気持ちにさせられます。
ひとりひとりの祈りは小さくとも、それを大きな力へと高めてくれるより所は、昔も今も変わりなく求められていることを実感します。
横浜駅からほど近い場所に、旧東海道の痕跡を感じさせてくれる建物や、土地の形状が残されています。
下写真は創業148年の料亭「田中家」の側壁で、明治時代ここで坂本竜馬の妻おりょうが仲居として働いたとされます(竜馬死後)。
前身は江戸時代初めの腰掛茶屋とされるので、広重の東海道五十三次に描かれたり、白井権八(歌舞伎題目で幡随院長兵衛(ばんずいちょうべえ)の相手役)が大飯を食らったことから「権八茶屋」とされる等、さまざまなエピソードが伝わります。
江戸時代に名を残した方々は、みなここを通ったわけですから、定点観測していればTVドラマ『浮浪雲』(1978年 渡哲也、桃井かおり。古い話題でスミマセン)のラストテロップのように(例)「12月10日坂本竜馬通過」などと記録できれば、とても興味深い通行記録が残されたことでしょう。

写真のように建物の裏手は斜面で、おそらくそこが当時の海岸線だったと思われます。TV『ブラタモリ』のCG映像のように想像してみて下さい、「ほ〜ら、見えてきました!」の戸田恵子さんの声が聞こえてきませんか?
江戸時代神奈川といえばこの地になるので、葛飾北斎「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」の絵はダイナミックですが、そこに描かれる状況は約200年前としても、あり得ない想像の産物と思われます。
方角的にもこの地から富士山を望むと、手前に大きく陸地が広がります。
旧東海道沿いの保土ヶ谷側の近い場所に「関門跡」の碑が残ります。
開国直後はまだ攘夷(じょうい:外敵排除)論が渦巻く情勢ですから、開港場である横浜周辺では外国人殺傷事件が多発します。
幕府はその対策として横浜各所に関門を設け、ここには神奈川宿西側の関門があったとされます。
なかでも有名な、生麦事件(なまむぎじけん:1862年生麦村で、薩摩藩 島津久光の行列に乱入した馬上のイギリス人を殺傷した事件)の負傷者は、上述の本覺寺に逃げ込み治療を受けたそうです。
激動の時代でも異国人に対してお寺は誠意を尽くしたのかと思いきや、事件当時寺はすでにアメリカ領事館とされており、野蛮な日本人よりライバルながらも先進国を頼ります。
ちなみに、当時治療に当たったのはアメリカ人のヘボン博士で、ヘボン式ローマ字を作った方です。
右写真はトンネル付近にある「大綱金刀比羅神社 (おおつなことひらじんじゃ)」で、金比羅様と言えば「海(航海・漁の安全)の神様」ですから、神奈川湊のころからの守り神なのでしょう。
再び戸田恵子さんの「海の香りがしてきませんか〜」が聞こえる気がするも、「まったくしない!」マンションの谷間に埋もれてしまった現在の姿があります……
追記
本来ならば、福岡ダイエーホークス日本一の祝福と、これだけやってもこの試合を最後に解任される落合監督について、そして、そんな機会に思い出す、ビッグコミックオリジナルの『あぶさん』はどうしているか? なのですが……(次号を買おうと思っています)
この日、ニュースの見出し「なでしこ得点王は、川澄それとも大野?」を見て、それだけで通じる存在になったという認知度の高まりに、拍手を送りたいと思いました。
現在の消息は分かりませんが、以前澤選手と一緒にやっていた「ボンバーヘッド(アフロヘア)」の荒川選手などは、選手活動の傍ら生活のためのアルバイトで、スーパーのレジ打ちをしていたと聞きました。
「ワールドカップ優勝」で認知された今年こそ、女子サッカーアピール絶好の機会ですから、オフシーズンの澤選手には紅白歌合戦の審査員をはじめ、バンバンアピールして欲しいと思うところです!
【神奈川県】
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反町(Map)
東横線の反町〜横浜駅間は、2004年みなとみらい線との直通運転のため地下化されます。
それまではひとつ手前の東白楽駅(下写真)から、横浜駅でJR各線と京急線をまたぐ高架軌道が桜木町まで続いていました(桜木町駅付近の高架下は落書き天国でしたが、駅はみなとみらい線乗り入れの際に廃止され、落書きも禁止となります──別に認められてはいなかった)。
今回は、地上の廃線跡に整備された「東横フラワー緑道」(東白楽〜横浜間)を歩きます。

その前に寄り道したのが、今年開業60年となる神奈川スケートリンクで、JR横須賀・東海道線の車窓から見え、反町公園に隣接します。
建物裏側の壁面(下写真)には「開国博Y150(2009年)」の際、子どもたちが描いた絵が残されています。
Y150は成功したとは思えませんが、子どもたちにはイベントに参加する経験から、行動のきっかけがつかめたらと思います。

この一帯は江戸時代に東海道「神奈川宿」として栄えますが、昭和期には青木町遊郭となります。
横浜にはその手の施設が多いと感じるも、昔から貿易の主力は船舶輸送であり、現在立ち並ぶ巨大クレーンの積み降ろし作業を人力でまかなっていたのですから、繁華街は荷役に携わる男たちでむんむんしたことでしょう。
空襲で焼失した遊郭一帯は戦後米軍に接収されますが(現在も近くの瑞穂埠頭には米軍施設が残る)、返還後に開かれた日本貿易博覧会に使用の後は、建物は横浜市役所庁舎に転用され、それから10年近く市の中心地とされます。ちなみに、現在のスケートリンクは「演芸館」(劇場?)だったそう。1959年市庁舎が関内へ移転後には、ジェットコースターのある遊園地的施設とされる時期もありましたが、そんな夢の跡は現在、休日にフリーマーケットが開かれる庶民的な反町公園となっています。
神奈川で育った者には「歴史的スケートリンク」と感じる本施設にそんな経緯があったかと驚きますが、浅田真央ちゃんにつぐ世代が頭角を現していますから、そこに続く世代は是非ここから! とも。

上写真は反町駅が高架の時代に使用していた鉄橋で、そのまま残されて現在遊歩道とされます。
東横フラワー緑道は、東白楽と反町駅間で電車軌道が地下に入る地点から始まります。
近ごろでは車窓から目にできない懐かしい光景を期待するも、まだ10年もたってないのにピンと来る景色に出会えません。
高架上から眺めた目線とは高さが違うため、「見たかも知れない」程度で確信が持てません(2枚上の写真は現在の緑道の光景で、お姉ちゃんが夢中にスナック食べたり、その奧でガキ共が素振りしています)。
でも反町駅に近づくにつれ記憶の断片が増え始め、この橋に立った瞬間「この高さなら変わりないことが実感できる!」の懐かしさから、つり革をつかみ車窓を眺めていた当時の車内の様子までよみがえってくる気がしました。
その先にある反町〜横浜駅間のトンネルも、緑道の一部として整備されると聞き楽しみにしていました(2011年4月全通)。右写真の遠景に、以前車窓から眺めた様子を思い出しながら足を踏み入れると、その大きさが実感でき驚かされます。
ここは「線路が2本通っていたトンネルを歩いたことあったっけ?」と思うような広さを感じさせてくれる、あまり経験できない環境かも知れません。
他の目的で利用されていたトンネルが人道とされるのは、廃線になった鉄道施設や、トンネルが新設された旧道だったりするので単線や一車線ですし、架線(パンタグラフ使用)の高さもあるので(ローカル線は未電化でその分天井が低い)、歩いてみると「デッカイ地下空間」とのインパクトがあります。
車道に併設された側道の場合でも、トンネルの真ん中を歩くことはできません(交通量の少ない場所に作られた「過剰設備:税金無駄遣い施設」では可能だが)。

ここを歩いていると、これまでなかった道ですから「ここなら歩いてみよう」とウォーキングする方、「このコースを走ろう」とジョギングルートにした方、そして「トンネルを抜けて買い物へ行こう!」という姿に見える付近の方々には、ライフスタイルを変える革命的なインパクトを与えたのでは? の印象を受けます(丘陵地を越えるには急傾斜の坂道の上り下りがあります)。
今後も「横浜への新道」の利用者は増えそうですが、そのサービス過剰の影響で、東横線反町〜横浜駅間の乗車率が落ち込んだりするかも知れません。でもそれは、沿線住民の方々の健康意識に大きく貢献するのではないでしょうか(それも沿線へのサービスです)。

「トンネルを抜けると、そこは横浜だった……」それだけの絵ですが、気に入っています。
トンネルの大きさを表現するためには、例えば高速道路の車道の真ん中に立ちたいと思うも、交通規制して撮影をできないわたしには、「初めて撮った」ほどの新鮮さがありました。
願望としてはトンネルの先に自然の風景が広がって欲しいと思いますが、そんな場所なかなか見つからないのでしょうね……
公園施設とされるため、現在通行は6時〜21時30分に限られています。ホームレスでなくとも、いかにもたまり場になりそうな場所ではあります。
とても気に入った場所なので、「大きな穴があったら入りたい」という願望をお持ちの方には是非オススメです!
高島山付近(Map)
そのトンネルは「高島山トンネル」の名があるように、高島山を貫いています(由緒は、開港期に功績があった高島嘉右衛門からで、高島町も同様)。
その丘陵地には本覺寺(ほんがくじ:曹洞宗)があり、門前からはJR各線・京急を見下ろす見晴らしのいい場所柄です(下写真)。

江戸時代の東海道神奈川宿は、この付近にあった神奈川湊を中心に発展し、横浜開港(開国)まではこの地域の中心地でした。
開港の地である横浜村は、対岸の砂州(さす:砂が堆積した地形で、元町方面から伸びていた。当時まで、ここと桜木町付近を湾口とする大きな入江があった)のため、アメリカは横浜港が一望できるこの地を領事館とすることを要求してきます。
領事館当時の山門はペンキで白く塗装されたそうですが(船からの目印は白が目立つ:攻撃するなの意味でしょう)、上写真左側の門扉はそんな仕打ちに抗議する意志表示のように「Paint It Black !」な姿です。
本堂の階段脇には見逃しそうな大きさの、十二支の石像が並んでいます。年賀状を意識し始める時季に干支の姿を眺めると、今年は特に暗い年となった原因をウサギ(卯年)の責任にはせずとも、来年の「竜(辰年)」に願いを込めたい気持ちにさせられます。
ひとりひとりの祈りは小さくとも、それを大きな力へと高めてくれるより所は、昔も今も変わりなく求められていることを実感します。
横浜駅からほど近い場所に、旧東海道の痕跡を感じさせてくれる建物や、土地の形状が残されています。
下写真は創業148年の料亭「田中家」の側壁で、明治時代ここで坂本竜馬の妻おりょうが仲居として働いたとされます(竜馬死後)。
前身は江戸時代初めの腰掛茶屋とされるので、広重の東海道五十三次に描かれたり、白井権八(歌舞伎題目で幡随院長兵衛(ばんずいちょうべえ)の相手役)が大飯を食らったことから「権八茶屋」とされる等、さまざまなエピソードが伝わります。
江戸時代に名を残した方々は、みなここを通ったわけですから、定点観測していればTVドラマ『浮浪雲』(1978年 渡哲也、桃井かおり。古い話題でスミマセン)のラストテロップのように(例)「12月10日坂本竜馬通過」などと記録できれば、とても興味深い通行記録が残されたことでしょう。

写真のように建物の裏手は斜面で、おそらくそこが当時の海岸線だったと思われます。TV『ブラタモリ』のCG映像のように想像してみて下さい、「ほ〜ら、見えてきました!」の戸田恵子さんの声が聞こえてきませんか?
江戸時代神奈川といえばこの地になるので、葛飾北斎「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」の絵はダイナミックですが、そこに描かれる状況は約200年前としても、あり得ない想像の産物と思われます。
方角的にもこの地から富士山を望むと、手前に大きく陸地が広がります。
旧東海道沿いの保土ヶ谷側の近い場所に「関門跡」の碑が残ります。
開国直後はまだ攘夷(じょうい:外敵排除)論が渦巻く情勢ですから、開港場である横浜周辺では外国人殺傷事件が多発します。
幕府はその対策として横浜各所に関門を設け、ここには神奈川宿西側の関門があったとされます。
なかでも有名な、生麦事件(なまむぎじけん:1862年生麦村で、薩摩藩 島津久光の行列に乱入した馬上のイギリス人を殺傷した事件)の負傷者は、上述の本覺寺に逃げ込み治療を受けたそうです。激動の時代でも異国人に対してお寺は誠意を尽くしたのかと思いきや、事件当時寺はすでにアメリカ領事館とされており、野蛮な日本人よりライバルながらも先進国を頼ります。
ちなみに、当時治療に当たったのはアメリカ人のヘボン博士で、ヘボン式ローマ字を作った方です。
右写真はトンネル付近にある「大綱金刀比羅神社 (おおつなことひらじんじゃ)」で、金比羅様と言えば「海(航海・漁の安全)の神様」ですから、神奈川湊のころからの守り神なのでしょう。
再び戸田恵子さんの「海の香りがしてきませんか〜」が聞こえる気がするも、「まったくしない!」マンションの谷間に埋もれてしまった現在の姿があります……
追記
本来ならば、福岡ダイエーホークス日本一の祝福と、これだけやってもこの試合を最後に解任される落合監督について、そして、そんな機会に思い出す、ビッグコミックオリジナルの『あぶさん』はどうしているか? なのですが……(次号を買おうと思っています)
この日、ニュースの見出し「なでしこ得点王は、川澄それとも大野?」を見て、それだけで通じる存在になったという認知度の高まりに、拍手を送りたいと思いました。
現在の消息は分かりませんが、以前澤選手と一緒にやっていた「ボンバーヘッド(アフロヘア)」の荒川選手などは、選手活動の傍ら生活のためのアルバイトで、スーパーのレジ打ちをしていたと聞きました。
「ワールドカップ優勝」で認知された今年こそ、女子サッカーアピール絶好の機会ですから、オフシーズンの澤選手には紅白歌合戦の審査員をはじめ、バンバンアピールして欲しいと思うところです!
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