2010/04/26

都の門外とされた──腰越、小動(こゆるぎ)

2010.4.18
【神奈川県】

龍口寺、腰越(Map)

 龍口寺(りゅうこうじ:日蓮宗)は、江ノ電:江ノ島駅、湘南モノレール:湘南江の島駅(「ノ」「の」と表記が違います)にほど近く、ガキの時分大晦日に除夜の鐘を鳴らしたこともあり、なじみがあるくせに、通り過ぎることが多くなりました。
 刑場跡と知ってから立ち寄らなくなったのかも知れません。
 鎌倉時代のこの地には、龍口(たつのくち)刑場があり、処刑や首実検(くびじっけん:討ち取った首を提出させ、相手の氏名や経緯を確認し、戦功として承認する)が行われていました。
 この地で1271年に、日蓮宗の開祖である日蓮が処刑されそうになります(日蓮宗では処刑直前に奇跡が起き助かったと伝わる)。
 要するに血なまぐさい事は都の門外で行われ、また、京都方面からの来訪者の目につく場所ですから、見せしめ的な意味も含まれていたようです。
 その地に死者を弔う寺社が作られることは、人の気持ちとして、納得できるところです。


 龍口の地名は、この地に伝わる「五頭竜伝承」にちなんでつけられました。
 昔、鎌倉の深沢にあった大きな湖に五頭竜が住んでおり、十六人の子供が竜の犠牲になったことから、「子死越」が腰越の地名の起こりになったと言われます。
 悪事を働いていた五頭竜は、やがて江の島の女神(弁財天)に心奪われ、改心し山に姿をかえて付近の守護神となった、と伝わります。


 また、モノレール駅の反対側にある常立寺(じょうりゅうじ:真言宗→日蓮宗)には、刑場跡の名残である元使五人塚があります。
 鎌倉時代、2度目の蒙古襲来(元寇)の際に、降伏を要求する元の国使が鎌倉にやってきますが、時の執権である北条時宗は、国使5人を処刑し常立寺に埋葬します。
 この地に建てられた5基の五輪塔が、元使五人塚と呼ばれます(写真はその裏にある供養塔)。
 白鵬らモンゴル出身力士が、時折墓参りに訪れるほど有名です。

 出だしから、明るくない話題でスミマセン。でも、そんな歴史の上に現在が成り立っています。
 この日、龍口寺境内では骨董市が開かれ、にぎわっていました。

 ご存知の方も多いと思いますが、右は写真は、店舗に江ノ電の車体をはめ込んでしまった「江ノ電もなか本舗 扇屋」の店頭です。
 龍口寺の門前で、江ノ電が、江ノ島駅から腰越駅までの路面区間に出てくる目の前に位置しており、運転席付近から見ると、単線なのに対向車両が来るように見えたりします。
 この日は日曜日で、江の島方面に向かう道は渋滞しており、この道に慣れないドライバーが電車の行く手を阻んでしまい、盛んに警笛を鳴らされていました。

 運転席の窓の中は、お菓子作りの作業場になっていて、店員さんの姿を見ることができます。
 土産物店やそば屋等、表から見学できるディスプレイを備えた店もよく見かけますが、それを江ノ電の運転席から見せようとするセンスは、この土地ならではです。


 まじめそうな制服姿(これは大切!)の集団が、とてもお行儀良く見え好感を感じるのは、写真からは話し声や動作が見て取れないせいかも知れません。
 実際のGirls' Talkでは、何を話しているのやら……(見た限りは、素直そうな女の子たちに見えました)
 最近よく目にする、バッグの片側の持ち手だけを肩にかける姿ですが、中身が落ちてもファスナーを閉めて同じ持ち方をしますから、ファッションなんでしょうが、片側だけ痛みが早そうな気がしてなりません。
 オッサン、もっとほかに言うことねえのかよ?


満福寺(Map)

 腰越の満福寺と言えば、1185年源義経が兄頼朝の怒りを買い鎌倉入りを許されず、腰越の地で頼朝に心情を訴える「腰越状」を書いた寺として知られています。
 弁慶が書いた下書きとされる書状(達筆)が展示されており、下写真の本堂に飾られる彫り物が当時をイメージさせてくれます。
 いささか後付けっぽくはありますが、それがこの寺の売りですから……
 本堂内の襖絵等々は、すっかり「義経・弁慶」色に染められていて、よく見かける「ちょっとガッカリする名所」的な雰囲気を感じてしまいます。
 弁慶ゆかりのモノは各地にありますが、常人では考えられない大きなモノを弁慶に結びつけようとするのは、ネタの無さを暴露しているように思われてなりません(弁慶の手玉石、腰掛け石等があります)。


 1184年義経は、平氏追討の功績により後白河法皇から任官を命ぜられるも、「武士による政権」を作ろうとした頼朝は、朝廷との関係を断ち切ろうとしない義経に不満を抱きます。
 それ以来悪化した、頼朝との関係を修復すべく義経は鎌倉に向かいますが、鎌倉に入ることを許されず、腰越の満幅寺にとどめ置かれます。
 義経は打開策として一通の嘆願状を書き、頼朝の信望が厚い大江広元に取り次いでもらったものが「腰越状」です。
 頼朝へ届けられたものの、結局義経は鎌倉入りを許されず京都へ引き返すことになります。
 切々とした兄への思いや、これまでの平家との戦いについてつづられ、頼朝の情に訴えかけたようですが、ふたりの根底にある、育ちや考え方、そしてビジョンの相違が浮き彫りとなってしまったようです。
 その恨みを「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と発したことで、窮地に追い込まれていきます。

 関東で満福寺と言えばここになりますが、京都で同じ読みのお寺があったこと思い出しました。
 宇治近くの「萬福寺」(万福寺としていました)で、三大禅宗(臨済宗、曹洞宗)のひとつとされる「黄檗宗(おうばくしゅう)」の本山で、大陸風の建造物が印象的でした。


小動(Map)

 現在国道134号線は、緩やかな坂道として超えていきますが、鎌倉時代には都の境界とされた峠だったようです。
 付近には、上述の満幅寺、浄泉寺、小動神社等が軒を連ねます。
 当時は人が住んでなかったと思われる、七里ヶ浜から稲村ヶ崎や極楽寺あたりまでは、寺社は見当たりません。
 都の入口は稲村ヶ崎や極楽寺であっても、人の少ない七里ヶ浜を緩衝地帯としながら、この地が外郭の門とされていたように思えます。
 刑場もそうですが、都に出入りする人々でも、その内部に葬れない人たちのための寺社が密集する場所であったことが、それを示しているのだと思います。

 この地で、太宰治が女性と睡眠薬を服用し自殺を図るも、本人は助かったとのこと(それがこの地のアピールになるとは思えませんが)。


腰越漁港(Map)

 港の直売所や、町中の食堂の売り物である「シラス」等がメインかと思っていましたが、結構大きな釣り船が目立ちました(釣り人が集まりそうな立地ですものね)。
 でも、スタイルを変えられない年配の方々は、写真のように昔ながらの漁を続けてるようです。
 この港には若さの活気が感じられ、あまり見た目にはパッとしない小ぶりの海藻干し(あれが高級なのかも)にも、パキパキ対応する若者には、見ていて心地よさを感じました。

 上写真の港は、小動岬の東(七里ヶ浜)側の小さな港ですが、そこも腰越漁港の一部に含まれるそうです。


 漁港に面した神戸川(ごうどがわ)の西側には、江の島へと続く海水浴場が広がります。
 彼女たちがやっているのは「ビーチテニス」というものになります。
 ビーチバレーにテニスの要素を取り入れ、バドミントンのようにラケットで空中のボールを打ち合うもので、ブラジルで生まれ、オリンピック種目となることを目指しているようです。


●ご報告
 ようやく今週から社会復帰の見通しがつきました。
 ご心配をお掛けし、申し訳ございませんでした。
 blogは継続するつもりですが、状況との相談になると思われ「やってみなけりゃ分からない」と思っております。
 さぁ、頑張らなきゃ! です……

2010/04/19

波を見つめるまなざし──稲村ヶ崎、七里ヶ浜

2010.4.10
【神奈川県】

稲村ヶ崎、七里ヶ浜(Map)

 稲村ヶ崎の地名から連想されるのは、ちと古いですが、一般的には桑田佳祐監督の映画『稲村ジェーン』(1990年)になるのでしょうか?
 七里ヶ浜=サーフィンというイメージがありますが、現在はそれほどいい波が来る海岸ではなさそうです。
 海岸に面した道路があるので、波しぶきが飛んできたり、サーファーの群れている姿等が、強く印象に残ってしまうきらいがあります。
 上述の映画でも大波を待ってましたが、1989年に「稲村ガ崎サーフィンクラシック」を開催して以来、大波は来ないため第2回は開催されていません。
 一方、ロングボードの男子プロサーファーツアーは、毎年辻堂海岸で行われているので、辻堂の方がいい波が来る海岸のよう思えます。
 そうなると、この浜に抱くロマンとは何ぞや? となります。
 アクセスのいい場所でギャラリーも多く、目立ちたがりが集まるということなのか? もう死語となった「丘サーファー」という表現を思い出しました……(海辺の環境が変わったことも確かなようです)


 わたしとしては、新田義貞も見上げたであろう稲村の崖、というイメージの稲村ヶ崎です。
 これも古いNHK大河ドラマ「太平記」(1991年)で、根津甚八(現在病気療養中)演じる新田義貞の姿がとても記憶に残っています。
 彼は波が引くことを念じていました。
 元弘の乱(げんこうのらん:1331年〜33年、後醍醐天皇を中心とした鎌倉幕府討幕運動および、鎌倉幕府滅亡までの一連の戦乱)で反旗を翻した足利尊氏(幕府軍から天皇軍へ)に呼応して、新田義貞が挙兵し、鎌倉の北条氏に攻め込んだ「鎌倉攻め」の地と伝わります。
 一般に知られる「義貞が、潮の引くことを念じて海に剣を投じると、その後潮が引いた岬の海岸から鎌倉に攻め入った」の記述は、古典『太平記』だけに記されているため、伝説(言い伝え)とする向きもあり、研究の余地があるそうです。

 江ノ電線路脇にある店舗の門になります。
 柵が途切れている付近は、線路の枕木の間隔が少し狭くなっています。
 おそらく、踏切は作れませんが、せめてこの枕木の上を歩いて線路を渡ってください、という意思表示ではないでしょうか。
 江ノ電沿線には、このような場所が無数に存在しているので、玄関前の線路を渡るおばあさんの姿をよく見かけます。
 「若いころから歩いた」とは言っても、そこで転倒してケガでもしたら、困るのは本人になります。
 そんなことは百も承知で暮らしていたとしても、困ったときに江ノ電が補償してくれるとも思えません。
 そんなグレーゾーンは、あまり突きたくないと思いつつも、お年寄りの姿に不安を感じてしまったので……
 

 近ごろ七里ヶ浜の砂浜は、年々狭くなっている印象を受けます。
 以前は稲村ヶ崎付近に海水浴場もありましたが、監視台やトイレも設置できなくなり、現在は全面遊泳禁止となっています。
 潮の満ち引きに関係なくいつでも横断可能で、流木に腰掛け「ボケーッ」とできたのですが、現在鎌倉高校前駅付近の砂浜は、満潮時は5mにも満たないとのことです。
 湘南地域への砂の供給源は相模川とされますが、上流で行われた治水事業やダム建設の影響で、川から流れ出る土砂量が激減したと考えられています。
 砂浜を歩けず、楽しくないと感じる回数が増えたのでしょう、近ごろ七里ヶ浜に足が向かなくなったのは事実です。
 でも、何とかしてもらわないと、砂浜を歩けない島国なんて困ります……

 砂浜というのは「白砂」であるべきと、勝手な願望を押しつけがちですが、この浜の黒っぽい砂には理由があります。
 七里ヶ浜の東端付近の極楽寺川河口は、昔から砂鉄の産地とされ、昭和30年代までは「金山(かなやま)」と呼ばれる砂鉄の採集場だったそうです。
 現在でも強力な磁石で採集すると、磁石が「ウニ」のような状態になるそうですから、機会があったらお試し下さい。


 この少年は、彼が踏み台にしている石を持ち運びながら、気に入った場所に石を置いてその上に立って波を眺めています。
 彼はどんな波を待っているのだろうか。
 ひょっとして「海の向こうの異国を見てみたいのぉ〜」なら、応援します。

 七里ヶ浜という地名の由来を推測するに、われわれの認識である「1里=4km」で計算すると、7里×4km=28kmとなりますが、実際は稲村ヶ崎と小動(こゆるぎ)岬間の2.9km程度の長さになります(10分の1ってこと?)。
 鎌倉時代、関東地方では6町を1里としたそうですが、1町=約109.09mとすると、109.09m×6町×7里=4,581.78mですから、とても足りません。
 「そら、おかしいやろ!」と、諸説入り乱れているそうです。

 七里ヶ浜に面した駐車場にあるファストフード店(現在ファーストキッチン)には、海を望めるテラス席があります。
 そのテーブルにはられた「トンビに注意!」のとおり、以前何度も、トンビに襲われる様子を目にしたことがあります。
 でも、季候が良くなればロケーションはいいので、どうしたってテラスに出たくなります。
 この日は襲われませんでしたが、トンビからすれば格好のエサであると思うも、そんな脂っこいもの(ベーコンエッグバーガー?)ばかり食べてると、成人病になっちゃうよ……(トンビはカラス同様の雑食性らしい)


 交通情報等ではいつも渋滞している印象の「国道134号」は、横須賀市から大磯町までの一般国道ですが、以前は「湘南道路」とされる有料区間がありました。
 逗子区間 :逗子市新宿〜鎌倉市由比ヶ浜(1964年〜1986年)
 鎌倉区間 :鎌倉市由比ヶ浜〜藤沢市片瀬(1956年〜1975年)
 上述の七里ヶ浜に面した駐車場は、料金所跡地になります。
 鎌倉区間 は、ガキ時分の印象しかありませんが、逗子区間は実際に料金を払って通った覚えがあります。
 当時は、建設費用が回収された時点で無料化になるというシステムがあり、「まあ、しょうがないか」という意識が浸透していた気がします。
 現在そんなシステムでは、借金の金利の方がふくれあがる有料・高速道路もあるわけで、運営を国に頼らざるを得ない面もあるかと思います。
 それにしても、今回の高速道路の新料金体系案は、投げやりなどんぶり勘定で「エイ、ヤッ!」と決めたような印象を受けました。
 下げろとは申しません。便利ですから、お金で時間を有効活用させてもらっていましたが、地方ではガラガラの道がほとんどです。
 要望したのは地元民と自治体で、作っちゃったのは国になります。そんな既存の道路を作っちゃった借金は誰が払うべきなのでしょう?
 どんぶり勘定という「文化」が成り立つのであれば、「きっぷの良さ」という気性を生み出しそうですし、明るさも感じられるのですが、もうそんな時代で無いことは、国民の方がよく理解しているのかも知れません……

2010/04/12

湘南新宿ラインで、海へ!──由比ヶ浜(鎌倉)

2010.3.27
【神奈川県】

 本年の3月に、JR横須賀線武蔵小杉駅が開業しました。
 鎌倉方面へのアクセスが良くなると、楽しみにしておりました。
 JR側としては、東京駅まで17分 290円(東急利用は36分 380円)、新宿駅まで18分 380円(東急利用は24分 340円)、横浜駅まで10分 210円(東急利用は14分 同額)という、速さが売りのようです。
 横須賀線と湘南新宿ラインが路線を共用している、西大井〜戸塚間の本数は充実していますが、結局枝分かれするので(上りは東京方面と新宿方面。下りは鎌倉方面と平塚方面)、発着は頻繁でも乗りたい電車の本数は少ないことになります。
 横須賀線はかっ飛ばして走りますから、地下鉄でウネウネと走られるよりも、気分的には明るいような気がします。
 特に東京駅までは乗り換えもなく、えらく速かったし運賃がとても安い印象を受けました。
 ただ問題は、家からホームにたどり着くまで20分以上かかることです。
 でも、新駅が開業してデメリットは無いわけですから、やはり、郊外へのアクセスが良くなった、ということでしょうか……
 ──東京駅の総武・横須賀線ホームは1972年に完成しました。当時地下5階のホームはめずらしく「すごく深くて遠いホーム」という印象がありましたが、いまどきでは「並」と感じられるほど、東京の駅は「深化」しています。


材木座海岸、由比ヶ浜(Map)


 シラス漁と思われる漁船が引き揚げてきました。
 かなり波打ち際に近い場所を行き来していたので、背の立つ場所でも小魚の群れが見られるのかも知れません(透明度が問題ですが)。
 船を引き揚げるルート上に、ウインドサーフィンのボードが放置されていたのを、かなり乱暴に投げ捨てていましたから、漁師からすればかなりうっとうしい存在のようです。
 引き揚げるウインチの巻き上げ速度がとてものんびりしていて、船を見守りながら浜へ上がるおじいさんの動きが、スローモーションのようでした。
 波間でチャプチャプやってる漁師でも(失礼だなぁ)、おじいさんの存在感からは、誇りのようなものがにじみ出ていたような気がします。

 弧状に続く入江の中央部にある滑川(なめりかわ)河口を境に、東側は「材木座海岸」、西側は「由比ヶ浜」と称されます。
 材木座海岸の東端には、現存する最古の築港遺跡とされる和賀江島の跡が見られます。
 江戸時代末期まで材木等の物資を運ぶ船が使用していました。

 明治時代から別荘が増加し、「別荘族」と呼ばれる人々が海水浴を始めます。
 男はふんどしですが、女性は木綿のワンピースで海に入ったそうです。
 それを「アッパッパ」(歩くと裾がパッパと開くことに由来)と呼んだそうです。
 何という名称かと思いますが、当時の人たちが井戸端でうわさしていた様子が思い浮かぶようです。
 海水浴は西洋から入ってきた習慣で、海中に立てた棒につかまり波に打たれることが体にいいとされ(海水ジャグジーの原型?)、「七里ガ浜」「逗子海岸」が適しているとして、そこから広まっていったそうです。

 個人的には、この付近から「湘南」に含まれるイメージを持っていましたが、神奈川県の行政区域である「湘南地区」に、鎌倉市は含まれないそうです(藤沢市の江の島付近以西となるので、七里ヶ浜も含まれません)。

 なじみのある海ですが(ガキ時分〜高校時代まで泳ぎに来てました)、関心の対象が変わったせいでしょうか、漁業従事者や施設の多いことに初めて気付きました。
 網使用の有無にかかわらず、沿岸の漁ですから、大物を狙うような規模ではありません。
 下写真の洗濯ばさみは、ワカメ等を干すためのモノですが、干されているものを見ると「これで売り物になるのか?」という、小ぶりなモノが干されていました(生育状況によるでしょうが)。
 それでも、漁師小屋がいくつも連なり、テレビアンテナが立っていたりしますから、この海岸での漁は、まだ生活の糧として営まれているようです。


 首都圏から1時間程度なので人も集まってきますし、そうなれば設備も整いますから、季節を問わずウインドサーファーが絶えることはないようです(この季節は向いてないのか、サーフィンは見られません)。
 「今日の風は冷たいですねぇ」と言いながらも、お兄ちゃんたちは海に向かって行きます。
 わたしにはちょっと無理でも、そんな意欲(ロマン)にはエールを送りたくなります。
 でも、漁師のおじさんたちの邪魔はしないようにね……


鶴岡八幡宮(Map)

 タイトルのように海を目指したはずなのに、どうもこれがメインとなった、鶴岡八幡宮の大イチョウです。
 本年3月10日の強風により根元から倒れましたが、3月15日には根元から高さ4mまでが切断され、付近に移植されたました(右写真)。
 そして4月1日には「倒れた元の根元部分から青い新芽が生えた」とのニュースが報道されました。
 この神社側の対応の速さと、世間の関心の高さには驚かされました。

 経験からの推測ですが、神奈川県内で育った子どもたちのほとんどは、社会見学等で鎌倉のこの地を訪れ、大イチョウを目にしていると思うので、「えっ、あの木が!?」と、記憶に残っているのではないでしょうか。
 これだけの関心を集める「木」ですから、神社側の「神木」という表現にも納得できますし、わたしたちには、日本の古代宗教とされる自然崇拝への「素養」が、いまでも息づいているような気がしました。
 周囲から「この木を見に来たんだ」の声を耳にしながら、移植された木と対峙(たいじ)した瞬間は、寺社で仏像等と対面した時に似て、清らかな気持ちになれたことは確かです。
 以前は、大きく感じても、神聖さを感じませんでしたが、「なくなってみると分かるありがたさ」という事のようです。
 伊勢神宮で行われる「式年遷宮(定期的に行われる遷宮:20年ごとに全ての社殿を造り替え、神座を遷す)」などとは違い、言い伝えによると、鎌倉幕府が開かれて以来の世代交代になるわけですから、そんな瞬間に遭遇できたことを「縁」と感じていいのかも知れません……

 4月11日のNHKニュースでも「新芽が次々と成長している」と、その生命力を伝えるレポートがありました。
 その成長を楽しみに訪れる人が増えたなら、神社側もうれしい誤算になることでしょう。

2010/04/05

異文化を見上げる目線──山手地区

2010.3.27
【神奈川県】


山手地区(Map)

 JR根岸線の山手(やまて)駅周辺には、特に用事のある施設もなく、一度降りてみようという動機から本日のルートを決めました。
 山手駅とは言え丘陵の上に駅は作れませんから、トンネルを抜けた谷間にあるところなどは、横須賀方面のローカル駅を想起しました。
 当初は、現石川町駅を山手町駅と命名する計画が、地元の反対によりこの駅に回されたため、駅前には山手のイメージとは異なる光景が広がっています。
 根岸線の中では、駅の利用者数が最も少ないそうです。

 右写真を撮った時のイメージには、一瞬「丘の尖塔(せんとう)を眺めて暮らす町」なんて女性誌的な見出しが浮かびましたが、「そんなのカンケーねぇ」という土地柄に見えます。
 丘に教会があるイメージを持つ町には、函館、神戸、長崎等がありますが、どこも山の斜面にあるので、その裏側に町はありません。
 ここは、丘陵地帯の頂上に尖塔があるので、裏側には「関係ない町」が広がっています。
 地図を調べると、どうも横浜雙葉学園(ふたばがくえん)というカトリック系の学校法人(小学校〜高等学校まで一貫教育の進学校)のようです。
 何でもそうなんでしょうけれど、無関心であっても頭上に存在していると、見上げて暮らさねばならない憂鬱は、確かにある気がします(背後の丘陵には米軍の根岸住宅や、高級住宅が建つ)。
 横浜という場所は、映画『泥の河』のように川岸の貧民街に暮らす人々が、丘の上の立派な建物を「天国」と見上げた構図が、現在でも感じられる町と思います(何度も映画『天国と地獄』を持ち出してすみません)。

 その見上げる丘陵の上に、日本最初の洋風庭園で、日本におけるテニス発祥の地とされる山手公園があります(洋館奧がコート)。
 1859年の横浜開港後、関内(現山下町)付近に外国人居留地が作られますが、人口増加により1867年には山手居留地が増設され、1870年に居留外国人の手によりこの公園が作られます。
 当時イギリスで始まった屋外で行う「ローンテニス」が日本に伝わり、この地で始まったそうです。
 とは言え当時の評判は、「毛唐(毛色の変わった人)の女が芋ざるで毬を打っている」というものだったそうです。
 当時プレーに際し、女性のロングスカートをつり上げる用具があったり、近所にあるフェリス等、女学校に広まる様子を見ていたら、わたしも「芋ざるを振り回す」などと評した口かも知れません。
 でもいまどきは「全員修造」ですから、そんなこと言ったら大変です……

 開港時に作られた外国人居留地は、関内(現山下町)と表されますが、その名は居留地の入口に設けられた関所の内側(居留地側)を指す名称で、地名ではありません。
 そこは幕府が用意した区域で、元は砂地のため湿気が多く、江戸規格的な狭い区画が不評で(下町長屋のようだったりして?)、あの山の上を使わせろと迫られ、認めたそうです。
 関内の居留地に対して、高台を指す名称として「山手」が使われ、英語で"Yamate Bluff"(切り立った岬)と呼ばれるようになります。
 その「山手」に対して関内の居留地は「山下」(これは蔑称(べっしょう)ですね)と呼ばれるようになり、山下町になったという、住民にはあまりうれしくない経緯があります。
 ──むかしって、差別的な表現を気にせず使っていましたよね。


 この地でも関東大震災(1923年)の被害は大きく、それ以後この地域に住む外国人居留民は激減します。
 現在山手地区の観光コース周辺に並ぶ洋館は、ほとんどが観光資源として昭和期以降に、建築もしくは移築されたものだそうです。
 その遺構が元町公園に残されています(上写真、山手80番館遺跡)。

 外国人は去ったのに、教会ばかりが残っているのはなぜでしょう。
 外人墓地を守るというような使命感があったのか?(日本的な「寺町」を想起しますが)。
 どの宗教団体も「主張」をするだけですから、本質は見えませんが、「横浜に教会を持つ」という縄張り争い的な「砦(とりで)」なのかも知れません(怒られるかな?)。
 そういう意味では、世界的に名の知れた港町なわけですから、そんな教会で結婚式を挙げることにあこがれる気持ちも、分かる気がします。この日も行われていましたが、これは双方にとって満足なことなのでしょう。


 上記の外国人居留地を調べるうちに、鉄道開通に対して日本人が抱いている自負心から、メッキがはがれ落ちていくような記述を目にしました。
 新橋〜横浜間の鉄道建設に協力的だったイギリスは、当時の横浜居留地と築地居留地をつなぐ目的で協力した、という記述です(要するに、植民地化への準備とも理解できる工事を、日本から金を出させて実行した、とも受け止められます)。
 市場の門戸を開く場として、新橋に近い築地にも外国人居留地が設けられますが、横浜の外国商社は寄りつきませんでした。
 そこに入ったのは教会やミッションスクール(新天地への先兵ですね)で、青山学院や明治学院等のルーツとなったそうです。
 また、アメリカ公使館が設置され、1890年に現在の赤坂に移転するまで存続します。
 詳細は分かりませんが、ひょっとすると外国に乗っ取られていたかも? という、危ない橋を渡っていたように思えてきます。
 当時の国家(幕府。明治時代は1868年から)の方針とされる、「横浜を捨て石としても」との考えは、間違った選択ではなかったのかも知れません。


 上写真は、以前は立ち入れなかった「フランス山」に、井戸水をくみ上げるために作られた、風車のレプリカになります。
 領事官があったとされますが、フランス・イギリス軍の駐留地だったことに驚かされました。
 幕末期の下関戦争(馬関戦争:長州藩と英・仏・蘭・米との間で起きた武力衝突)の対応に、この地が利用されたとあります。
 今後の大河ドラマ『龍馬伝』に描かれるかも知れないので、その際は「やつらは横浜から来ちょるぜ」と、うんちくをボソッと口にすれば、「詳しいねぇ」と株が上がること間違いなし?
 検討をお祈りします……


 今回の横浜めぐりは、これで終了になります。
 「ダークサイド」を突ついたりしましたが、そんな経緯を知ってこそ「みなとみらいを築くんだ!」の情熱が、理解できるのではないでしょうか。
 これまで紹介した解決の難しい現実の問題を、横浜市がどんな「みらい予想図」を描いて、住民に希望を与えてくれるのか、そんな視点を含めて「横浜」という町に関心を向けてもらえればと思います。


●おまけ 根岸森林公園──2010.4.3


 「開花は早すぎ」「温暖化の影響?」「まだ寒い」等々、何だかんだ言っても、満開の時期にはお花見の陽気がやってくるもんですね。
 でもそこには、温度計の数値としてはまだちょっと寒いけど、満開の花に「ほら、春よ!」と言われると、もう抵抗できない心理も働いて「春だなぁ」と、洗脳させられてしまう面があるようにも思います。
 でも、それで「春到来の儀式」を済ませて覚醒するなら、それが日本人の季節感と胸を張りましょう。


 1866年日本初の洋式競馬場がこの地に作られました(上述のテニスコートより古い)。
 戦前は天皇賞や皐月賞が行われる、日本を代表する競馬場でした。敗戦後はアメリカ軍に接収され、米軍専用のゴルフ場とされたそうです。
 現在は、根岸競馬記念公苑とされ、JRA(日本中央競馬会)外郭団体が運営する「馬の博物館」があり、乗馬体験もできます。


 丘陵地帯を利用した競馬場跡地は公園として解放されていますが、そこを取り巻くように米軍の「根岸住宅地区」が広がっています。
 増設中の「池子住宅地区」に移転後、返還される予定だそうです。
 坂が多くて、決して暮らしやすいとは思いませんが、景色が良かったりするのでしょう。
 戦国武将のように高台を押さえれば、相手の動きを察知できる(監視される)わけですから、やはり気持ちのいいモノではありません……
 写真後方の鉄塔は米軍の施設。