2009/08/31

高みを目指す精神──神武寺、鷹取山

2009.8.23
【神奈川県】

 夏休みを終え、早くも新学期をむかえた学校においての、新型インフルエンザ感染予防の取り組みについて、テレビで目にしました。
 庶民にできる予防対策は、うがい、手洗い、マスク着用であり、感染が疑われる場合には隔離治療を受けるという対処法が、効果的との認識を持っています。
 そこに「大勢が同じ場所に集まることを取りやめる」(全校集会の中止等)という予防策が加えられました(甲子園でも感染があったとなると仕方ないのか?)。 
 その対策の意図は理解できるところですが、コミュニケーションによって歩んできた人類が、自らその連携を弱めようとしている面には、不安の種が潜んでいるように思えてしまいます。
 しかしそれを怖れず、ワクチン製造までの緊急対応として「人命第一」の対策であると理解できる人類は、進歩してきたと評価すべきなのかも知れません……

 しかし、生体内(人・鳥・ブタ等)で繁殖し、それを感染させることで、勢力を広めようとするウイルスたちにとって、ひとつの「変異の成果」が現れようとしている「エポック」であるかも知れないと思うと、不気味に思えてなりません。
 自然界で生活する限り、その戦いに終わりは無い、と思われます……


 米軍池子(いけご)住宅(池子弾薬庫跡)(Map)

 旧池子弾薬庫という、インパクトの強い名称が耳に残っており、見てみたいと思っていましたが、その場所を知らないでいました。
 ここは、京浜急行逗子線の沿線になり、横浜・鎌倉・逗子の境界付近(多くが逗子市に含まれる)の丘陵地帯になります。
 車窓の風景からも敷地がかなり広いことが見て取れますし、開発の手が入っていないので周囲のフェンスがなければ、自然豊かな丘陵地帯という印象を受けます。
 地元では「池子の森」と呼ばれており、敷地内の開発計画への反対運動が現在も続いています。


 京浜急行の神武寺(じんむじ)駅は池子住宅に面していて、住宅利用者専用の改札口があったりします。
 大きな工場に隣接している駅などに見られる、社員専用改札口と同じです。
 改札手前の足元に見える線路は、車両工場からの搬送用だそうですが、「池子弾薬庫」時代には施設内へと続く線路が、現在のJR横須賀線逗子駅から伸びていたそうです。
 鉄道を使って弾薬庫に運ぶモノとは? と考えるだけでも、近隣住民の不安を共有できる思いがします……(下写真は池子住宅へのゲート。一般客の改札口からは徒歩5分以上かかります)


 明治以降の横須賀は、基地、軍事施設、軍需工場が集中する軍事都市だったため(以前この地は、横須賀市に属していました。現在逗子市)、1937年に日本海軍が弾薬庫としての使用を始め、戦後はアメリカ軍に接収され、 朝鮮戦争やベトナム戦争で使用された弾薬なども保管されていたそうです。
 1978年に弾薬庫としての役目を終えますが、1980年に公表された米海軍家族住宅建設計画には、地元住民たちの反対運動が長く続いたそうですが、結局1996年に池子米海軍家族住宅がオープンし、約3,400人の米軍家族が暮らしているそうです。
 以前紹介した、横須賀を母港とする原子力空母「ジョージ・ワシントン」の乗組員だけでもおよそ6,250人だそうですから、家族を含めるとなると、相当数の住居が必要になります。

 国を守るために必要な「思いやり予算」(本件を調べて久しぶりに目にしましたが、いまでも何という表現? と疑問に思います)は、極力抑えたいところです。
 しかしそのためには、北朝鮮を筆頭に「ミサイルを撃ち込まれたらどうする?」という状況下で、不戦を含めた、自立の道を考える必要があると思われます。


 神武寺(Map)

 ここは、724年に聖武天皇の勅願によって開かれた天台宗のお寺になりますが、時折ハイキングコースを歩く人が訪れる程度の、とても静かなお寺という印象です。
 薬師堂に続く奥の院は、かつて「茂林鬱々たり、天狗腰掛松と云あり。魔所なりとて、里人恐る処なり。時々奇怪の事あり」と伝えられるそうです。
 このストーリーには聞き覚えがあると思えば、高尾山のいいつたえにとても似ています。
 高尾山は、同じ聖武天皇の命によりますが、744年創建の真言宗のお寺で、後に天狗の山と言われるようになります。
 そんないいつたえからの推測ですが、当時の中央政権への影響力としては、天台宗(最澄:伝教大師)の方が強かったようですが、地方の民衆への浸透力は真言宗(空海:弘法大師)の方が大きかった、と言えるかも知れません。


 「奥の院」(山頂付近)とされる一帯に、建造物は現存していません。
 天狗が棲むとされる場所ですから、修験道の修行場という性格だったと思われます(女人禁制と刻まれた石柱が現存しています)。
 山上には上写真のような大きな岩が露出した場所が多数あり、修験者もそんな岩の上で経典を唱えたのではないでしょうか。

 かつて修行場だった山ですが、聖域と言ってられない場所も存在します。
 次回以降でふれる機会があるかも知れませんが、久里浜にある火力発電所からの送電線を張る必要に迫られ、そんな岩山の上に鉄塔が作られています。
 山頂の鉄塔なので低い構造物で、高圧線も目の前に見えたりします。
 以前訪れたのが真夏の猛暑日の昼下がりで、電力消費のピークと思われ、高圧線から「ブーン」というもの凄い音が響いており「電磁波の影響があるかも」と、急いで離れたことを思い出しました。


 手前の鉄塔には「貝山線」の看板がありました。
 その貝山という場所は、追浜(おっぱま)の東にある、海沿いの工場地帯のようです。
 映画『鉄塔武蔵野線』(1997年)を観て以来、鉄塔の前を通る時には、その看板を確認することが習慣になりました。
 ちなみに自宅近くにある鉄塔には「南武線」とあります(電車と一緒じゃん!)。
 ですが、この高圧線の先はどこにつながっているのだろう? という関心も、散歩の一興と思われます。


 鷹取山(Map)

 地名の由来としては、太田道灌(おおたどうかん:江戸城築城で有名ですが、室町時代の武将なので、江戸幕府以前の話しになります)が鷹狩りをした場所、高い場所を「タカットー」と呼んだこと等、とされているそうです。
 ここは明治時代から、石材の切り出し場とされたため、切り立った壁が多く残されることになります。
 山の原型はおそらく、上述の神武寺周辺と同じように思われますが、聖域を外れたこの地では盛んに石材の採取が行われたようです。
 この山の地質は、鎌倉や三浦半島に見られる新しい時代の凝灰岩(火山噴出物が水底や地上に堆積して固まった岩石)で、柔らかく加工しやすいので、鷹取石として塀や石段などによく使われていたそうです。
 神武寺から鷹取山までハイキングコースがありますが、途中には歩道部分が崩れたと思われる鎖場(危険個所等で安全確保のため鎖が固定されている場所)もある、大きな岩がむき出しのデコボコしたルートになっています。

 上写真のオッサン、頑張っているのに触れなくてゴメンナサイ!
 1960年代前後から、放置された石切場の壁でロッククライミングをする人たちが増え、写真のような穴だらけの壁になったようです。
 上述のようにここの岩は柔らかいため、ハーケンが抜けやすく事故が多発したため、ハーケンを使用するロッククライミングは禁止されたそうです。
 写真の状況は、頂上に固定された支点を経由したロープを、背後の地面からサポートしていて、登る人はロープだけを命綱に壁を登っていきます。
 でも、無数にあるハーケンの穴が浸食されて、フックになっているようですから、登りやすいんじゃないの!? なんて、素人としては思ってしまいます……

 そんなクライマーが集まる場所の少し奧に、右写真の摩崖仏(まがいぶつ)があります。
 これは昭和期に、逗子市在住の個人が彫刻家に依頼して作成してもらったとあるので、歴史的な信仰対象物ではないようです。

 この裏手にもまだ壁は存在していて、上からの物音に見上げると、頭の上では単独でチャレンジしている人がいたりします。
 考えてみれば、ロッククライミングの練習をひとりでするのは危ないように思えます。
 何かのトラブルで、翌朝、壁にぶら下がっている姿を発見した人は、横溝正史の世界(古いね!)のようなリアクションになってしまいます……

 鷹取山はたかだか139mですが、わたしの登坂能力では、途中で何度も息を整えてしまいます。
 修験者たちが高みを目指したのは、俗世を脱するためと理解できますし、クライマーたちは「クライマーズ・ハイ(極限の興奮に恐怖感が麻痺する状態)」は求めないにしても、チャレンジによって自己確認しているようにも思われます。
 志のないわたしですが、それにしても「なぜ、夏に来るのか?」と考えてみると、きっと「ビールをおいしく飲みたいから」なんて答えになるのでしょうね。
 そのための汗を、タップリとかきました……


P.S. ふたを開けるまでもなく、結果は分かっていた衆議院選挙ですが、「もう少しまともな国になって欲しい」という庶民のため息ですから、お願いしますよ〜。

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