2010.1.17
【神奈川県】
昨冬は大阪から戻ったばかりで、「東京は暖かい」などと強がって(?)いましたが、2度目の冬となればすっかり関東人ですから、日々震えております。
でも、今年の関東は寒いですよね?!
そのくせ「三寒四温」(日本では春先の表現に使われますが、大陸では冬の一週間の表現なんだそうです)を用いる前の「大寒(最も寒いころ)」に、「暖波」のような陽気がやって来たりします。
年が開けると天気予報のコメントでは、季節外れの暖かさを春の陽気と比較(3月並の暖かさ等)するようになります。
「寒さの底は過ぎたか?」「春までもう少し」という期待感が持てるので、とてもいい表現に感じられます。
赤レンガ倉庫(Map)
この付近は散歩道として何度も歩いていますが、ここはどうもニオイが違うし誘われない気がするので、立ち入りませんでした。
イベントスペースのある1号館(短い方)には、トリエンナーレ(美術展)で入りましたが、下写真の2号館には今回初めて足を踏み入れました。
レストラン前に設けられガラス張りのたテラス席は、いつも多くの人でにぎわっている印象があります(でも一番奥の店は閉店してました)。
寒い日だったので、表を歩く人は少なめですが、ムンムンと暖かい建物から出たくないのか、買い物に夢中なのか? 館内は大盛況です。
表の寒々しい喫煙所では、団体旅行と思われるオッサンたちが、奥さんたちを「ぼやき」ながらヒマをつぶしています。
「女どものお土産タイムも、またつまらないモノ買ってるんだろ」「オッ、5分前だ。男どもが迷子になったと言われるから、いくべ!」と。
口は悪くても、ちゃんと気をつかっているようです。
でも彼女たちの目的は結局、「レトロ風なショッピングモールでのお買い物なんだろ?」と、オッサンたちだけでなく、わたしも言いたくなっちゃうわけです……
どうもお約束的に、ここを目指す人たちが多いような気がしますが、観光地ってそんなもんですよね。
はとバスを含め観光バスが次々やって来ますし、アジア系の言葉も耳に入ります。
なるほどと、横浜の観光スポットの一翼を担っていることを実感しました。
冬季には敷地内で、屋外スケートリンクが営業しており、入口には行列ができています。
ガキの時分には、冬の遊びは他に無かったこともあり、よく向ヶ丘遊園やよみうりランドのスケートリンクに行った覚えがあります(むかしは、小学校の授業でスケート教室があった気がします。希望者だけか?)。
滑る人を撮ろうと、じっとカメラを構えていると「たまに、スッゲェうまいじいさんが滑ってんのよ」の会話が耳に入ってきました。確かに一匹狼的なじいさんがいます。
このリンクは狭く混雑していますし、(いくら下手でも)親が一緒なので、見知らぬ子どもに「教えてあげよう」や「一緒に滑ろう」というアプローチもできません。
となればじいさんは、技術をひけらかして滑るしか無くなってしまいます。
ガキの時分は、知らないおじさんに教えてもらったり、一緒に滑ったりという数回のコミュニケーションで(いい子にしているのが条件)、アメリカンドッグ等をゴチになったものです。
いまどきは、そんな見知らぬ人とのコミュニケーションもままならないようで、少々過保護な社会という印象もありますが、むかしがいい加減すぎたのだろうか?(おおらかだった、ということに……)。
むかしの人の付き合い方に対し、「田舎ッペ」的な認識を持っているように思える都会人こそ、コミュニケーションで個性(素直さ)を表現できていないのではないか、とも思ってしまいます。
冬季オリンピック(バンクーバー)が始まると、写真のような人が増えそうな気がしますが、選手団の活躍で盛り上げてもらいたいと思います(彼女の転んだ絵も撮りたかったのですが、混雑してて……)。
横浜港の開港は1859年ですから、大さん橋の原型となる「鉄さん橋」等の、第1期築港工事が始まる1889年(明治22年)までは、はしけ等を経由して荷物を運んでいたようです。
のんびりしている間に、日清戦争(1894〜5年)を経て、神戸港や大阪港が急速に発展していきます。
そんなライバルに対抗するため、1899年(明治32年)から第2期工事が始まり、ここ新港ふ頭の埋め立てや、鉄道、道路などの陸上施設が整備されます(2号倉庫が1911年、1号倉庫が1913年完成)。右写真は2号倉庫から1号倉庫を撮影。
横浜の歴史にエポックとして登場するのが、関東大震災(1923年:大正12年)になります。
時代が違うので比較できませんが、横浜の震災当時の写真は、震災後の神戸のように「戦争があったのか?」という惨状に見えます。
そんな中でもこの倉庫は、レンガの間に鉄を入れて補強していたため、被害は1号倉庫の約30%程度で済みました(1号倉庫が短いのは、その部分が地震で崩れたため)。
それでもよく残ったと拍手したいところですが、当時の設計は地震ではなく、戦争を意識していたように思えてしまいます。
外観は以前のままに残したい、というコンセプトなのでしょう、上写真のオブジェのようなモノも残そうとする姿勢には、共感できます。
倉庫とされた当時から、テラスの屋根がガラス張りだったとは想像できないので、この部分は改修時に手が加えられたと思います。
結構汚れてしまい透明度も無くなっているので、現在では見上げる人などいません。
せっかくの演出が機能しなくてはもったいないので、たまには掃除しましょうよ!(3階)
結婚披露パーティなどのできるレストランがあるのでしょうか? 赤いカーペットが敷かれた先に、鐘が並んでいます(下写真)。
普段は自由に鳴らせるようで、子どもたちが何やら祈ってました(2階)。
今回初めて足を踏み入れたものの、結局店舗等については何も見ないまま、外観を撮ってきただけ、ということになります。
寒い季節に暖を取れる場所であることだけは、伝えられたかと思います……
赤レンガパークの、横浜海上保安部(海猿の訓練施設や北朝鮮工作船展示施設がある)に接する付近には、旧横浜港駅のプラットホームが現存しています。
1911年の建設当初は横浜税関の施設だったものが、1920年に横浜港駅とされ、東京駅からの汽船連絡列車が運行されます。
当時は「岸壁列車」と呼ばれたそうで、洋行(死語のひびきあり)の乗客や送迎の人たちも大勢訪れました。
ここから東京方面へと伸びる線路は、赤レンガ倉庫をかすめ、汽車道を経て桜木町付近で本線につながったようです。
いまどきの例えでは「成田エクスプレスで海外旅行へ!」(関西では「 関空特急 はるか」)というところでしょうか?
当時は「岸壁列車に乗る」なんて言ったら、近所中で大騒ぎになったんでしょうねぇ……
当時は海外移民等を含めて、洋行というひびきには「希望」というイメージがありました。
それが第二次世界大戦後に一転し、「岸壁」のひびきは『岸壁の母』(菊池章子、二葉百合子)等の、暗いイメージになってしまいました。
しかし、開港150年を迎えた大さん橋が、各国の大型客船が頻繁に訪れる場所になったことは、現代の新しい希望と言えるのかも知れません(「クルーズ船は活況」の見出しを見ました)。
ドラキュラか魔法使いが出てきそうな絵になってしまいましたが、ライトアップされた姿です。
日が暮れるとさすがに人影もまばらになりますが、スケートリンクは夜の演出で営業しています。
前回までの大さん橋までと、この場所では、人の流れがまるで違うことに気付かされます。
マリンタワーや氷川丸を従える「山下公園」には、観光バス等が立ち寄るので、ままにぎわっていますが、リニューアルしただけのタワーや船では魅力が乏しいようで、施設はガラガラでお金も落ちません(わたしも久しぶりでした)。
中華街から流れてくる人も多いと思いますが、彼らは中華街でお金を使い切ってしまいます。
一方の赤レンガ倉庫には、みなとみらい側から徒歩で来る人も多く、観光バスと合わせると大にぎわいになります。
そんな立地のレストランやショッピングモールには、お金も落ちていきます。
市民はお金の問題じゃないんだと、「憩いの場」である山下公園、「先代の横浜のシンボル」であったタワーや船の存続を希望するのでしょう。
この先の時代が変われば仕方ないでしょうが、しばらくは自治体や企業の力で支えてもらうしかないのでは、と思わされました……
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