2009.12.30 / 2010.1.1
【神奈川県】
映画『2001年宇宙の旅』(1968年)の小説版を執筆したアーサー・C・クラークが、その続編の時代設定としたのが『2010年宇宙の旅』になり、その年を迎えることになりました(『2001年〜』は、映画監督のスタンリー・キューブリックとの共同構想で、映画公開後に小説が発表されたため、原作の扱いではないそう。ちなみに小説の続編は「2061年」「3001年」と続きます)。
2001年を迎えた時にも増して、「はるかな未来まで来ちゃったなぁ」との感慨があります(未来は、現実になった途端に色あせてしまいますが……)。
テレビの映像で「道具を使うサル」を目にし、見上げた空には宇宙ステーションが浮かび、そこに日本人が滞在しているわけですから、あながち的はずれな話しではない印象があります(人類の努力を褒めましょう)。
しかし、ヒトが夢を見るためには、まずは食っていかねばなりません。
そんな元気をもらいに、チャイナタウンの雑踏を歩きました。
横浜中華街
いつ来ても活気に満ちた町ですから、元気を与えてくれるのは確かです。
でも元旦のニュースから「本年中には、GDP(国内総生産)で中国に抜かれる見込み」と宣言されるような、ひとつのエポックとして記憶される年になりそうです。
未来予想図も描けない島国では、大国と張り合うことなどかないません。
まずはとにかく、日本人と社会が元気を取り戻すための足がかりに、中国の元気(バブル)に便乗させてもらい、何とか「日をまた昇らせねば」なりません。
しかし、中国のバブル崩壊は未経験ですから、相当な痛手を受けるかも知れません。
資本主義の恩恵を受け、輸出産業で成長してきた小国ですから、「いつになっても自立できない」ことは、当然の帰結になります。
喜ばれるモノを作り、売り買いする関係は、目指すところなのですが……
経済の勢いだけでなく、庶民の活気でも中華圏に負けるようでは、ちょっと心細くなりますが、チャイナタウンのバイタリティから元気をもらって、新年に立ち向かおうと思っています。
夫婦共にマスク姿で訪れる「新型インフルエンザは怖いけど、おいしいものは食べたい!」という前のめりな姿勢は、この場にふさわしい食欲という「さが」の現れのようです。
でもここは、マスクするくらいなら、来ない方がいいのでは? と思われる危険地帯です。
国内外から横浜を訪れた観光客で、中華街に立ち寄らない人は少数派と考えると、国内および世界各地から集まる、雑菌等の見本市のような場所になります。
「危ないものほど美味」(この場合、食材ではない)というものに引かれるのは、世界共通(?)なのかも知れません。
人が集まるから「美味が生まれる」というのは、確かだと思うのですが……
新型インフルエンザの流行で、従来型がなりを潜めていると耳にしました。
これまでもインフルエンザの歴史では、新型が現れると旧型の活動が弱まったそうです。
その流行を判断するのはヒトであって、ウイルス側には「こっちの方がいいぞ!」というような、グローバルな横の連携があるとは思えません。
そんなウイルスの世代交代に関しては、新型が旧型を吸収 or 駆逐していく以外には、考えが浮かびません。
確からしいと思えるのは、一度感染して完治すれば免疫ができるので、かかりにくくなるということ、になるのか?
でも、毎年同じインフルエンザにかかる人もいるそうですから(免疫ができないのか?)、気をつけるしかないのでしょうね。
ファストフードがはやり始めたころ、歩きながら食べることは下品とされましたが(いまでも上品とは思いませんが)、ここでの食べ歩きについては、「中華街スタイル」のように支持されていたような気がします。
これ自分でも、判断基準のいい加減さに矛盾を感じますが、「アッツアツだよ、食べてって〜!」には、抵抗できません……
食事前に手を洗わないのはいけませんが、マスクなどつけずに食べ歩けるようになってもらわないと困りますよね。
みんな気にせず食べていますが、食材は店の管理でも、飲食時の衛生管理は各人の責任であることを、理解しているんですよね?
少し前は「世界チャンピオンの店」が人気でしたが、この日は「フカヒレまん」の店に行列ができていました。
今どきは饅頭だけでなく、何かスプーンですくうものなど、多様化してるようです。
やかましいのが「甘栗おいしいよ〜!」と、クリ一粒で客を釣る客引きです。彼らにすれば、いい販促食材なんだろうと思ったりします。
また、手相占いの店も増えたようで、呼び込みも多くなった気がします。
抜け目のない彼らの「金になる」とのかじ取りなのでしょう。人気のある店には、行列がありました。
右の二人はご夫婦と思いますが、左のオッサンは赤の他人です。
夫婦が北京ダック等が吊されたウインドウを眺めていると、突然しゃしゃり出てきたオッサンが講釈を始めました。オッサンはいい表情してますが、赤ら顔のようです。
ですが、こんな接点からも食文化が成熟してきたのだろう、とも思える光景です。
結局、誰もこのお店には入りませんでしたが……
手前に女の子が飛び込んできたので、後方が分かりづらいですが、男性が紹興酒を瓶(かめ)からビンに移し替えています。
中華系料理店で紹興酒を頼むと、ボトルに入ったお酒が「ビンごとに量が大きく違い、いい加減だなぁ」と感じたり、「ご自由に持ち帰り下さい」と店の前に並べられた空の瓶が、常に補充されていると、思ったことありませんか?
これまで「フーン」と流していましたが、実にリアルに理解できました。
また、手元のじょうろの内側に、不純物を取り除くためと思われる、網のようなものが見えます。
そこで何がこされて、何が残されるのだろうか? ちょっと怖くて聞けません……
だから、ウマイってかぁ〜?
そうじゃなくて、酒の量は適当、空いた瓶を片付けるのは面倒(廃棄料を取られるかも知れませんしね)という、アバウトさで商売になるのだから、いい商売なんじゃないか、と思ったということです。
それが「華僑のバイタリティ」であるなら、みな分かっているのに「デフレ宣言」され、堅くなった日本人の財布のひもを、どうやって緩めようとするのか、学ばせてもらいたいと思ったりします……
中華街では西暦の新年も祝っています。
中華圏では「春節(旧暦の正月)」が最も重要とされる祝祭日ですが、「郷(ごう)に入(い)っては郷に従え」(起源は中国のことわざだそう)なのでしょう、日本の新暦の正月にも、バクチクを盛大に鳴らして祝うようです。
以前元旦に訪れたとき、その残がいのすごさに驚き、それを撮りたくて来たのですが、往来の多いメインストリートなどは踏みつぶされてしまい、粉々になっていました(路上に散乱している紙くずは、バクチクの包み紙)。
ひとまわりした後、関内(かんない)にあるチェーン店のカフェ(以前、喫茶店と言ったら女性に「オッサン」呼ばわりされました)でひと息ついている時、以前は正月料金として、法外な料金設定(コーヒー1杯1,000円とか)をする店があった事を、思い出しました。
むかしは社会全体が「正月は休むモノ」という意識が定着していたので、初詣等に出かけても営業している店が少なかったため、それも仕方ないか、という意識が客にもありました。
そんな営業努力も、「24時間、年中無休」というチェーン店がしのぎを削る今どきでは、対抗すらできません。
「ご祝儀」という感覚が、サラリーマン(勤め人)が多くを占める都市部では、通用しなくなってしまったことは、ある意味当然なのかも知れません……
缶コーヒーのCMに「この星の生き物たちは働き続けている」というものがありました(他の星では、こんなに働かないのかも知れません)。
その中でも勤勉の自覚を持つ日本人ですが、労働意欲のアピール力では中華圏の人たちには勝てないかも知れない(アピール下手な日本人が悪いわけではない)、と感じさせられた年始です……
そんな印象を足がかりにして、今年も頑張らねば!
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