2010/11/15

燃料切れの景気浮揚エンジン──仲町台

2010.11.3
【神奈川県】


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 今回も引き続き、港北ニュータウンに整備された散策路を歩きます。
 前回は、市営地下鉄中川駅から「くさぶえのみち」「ふじやとのみち」「せきれいのみち」途中の、仲町台駅まで。
 今回は仲町台駅から「せきれいのみち」「ささぶねのみち」を通り、センター南駅まで歩きました。
 この2回で5時間程度歩きましたが、まだ散策路すら一周してないのですから、その広さが伝わるのではないかと思います。


せせらぎ公園(Map)

 横浜市のニュータウン開発計画からは、市営地下鉄の建設で沿線沿いの住宅地が線としてつながり、道路整備により面として広がることへの期待感が伝わってきます。
 今回歩いてみて「それは成功している」との印象を受けたように、世間的にも「失敗」の声は聞かれないようです。
 その成功要因を転入者の心理から考えると、お手頃な価格設定だったのかも知れませんし、「横浜」という耳当たりのよさと、「新しい町」(日本人は「新しもの好き」で「周りと一緒」であることに安心します)のしがらみのない自由な雰囲気に引かれたのかも知れません。

 そこに付け加えたいと思ったのが、「多少不便でも自然に触れられる場所」を求める気持ちをつかんだからではないか、ということです。
 宅地開発を目的としながらも、できるだけ開発前の里山に近い姿で自然環境を残そうとした取り組みが、身近な自然としてのバランス(さじ加減)にピタッとはまったように見えました。
 これがベストではなくても、「休みに散歩できる」「自然に触れながら子どもが遊べる」環境の実現が、ひとつの成功要因に思えます。
 子どもの多い町という印象に加え、どこの緑地からも子どもたちの歓声が聞こえてくる様子が、その答えという気がします。


 1965年横浜市の開発計画発表から準備がスタートし、1974年土地区画整理事業の認可が下り工事着手〜1996年区画整理完了。これをもって港北ニュータウン計画は完了とされます。
 都市開発とは、区画整理が終われば後はその土地を売って建物を建てるだけですから、大規模なもの以外は民間にもできるということなんですね。
 わたしの思考パターンからするとこの辺で、「こんな急斜面を削ちゃって…」などと批判的なことを書きたいところですが、町を歩いてみると、開発によるプラス面の方が圧倒的に多く、ケチをつけるより感心しきりだったので今回出番は無さそうです。

 区画整理にあたり、前回の「山田(やまた)富士」の石像撤去に関するものなど、さまざまな場所で多様な問題が発生したと思われますが、市側にはその都度キッチリと解決していく姿勢があったようです。
 (文化の理解は欠如しているが)地権者との土地取引では、遺恨を残さぬよう振る舞ったようですし、環境保護を訴える反対運動も収束し、大きな問題なく事が運んだようです。
 開発を行う際に、地権者の納得を得られたということは、それだけでプラス評価と言えるのでしょう(表に見えないだけか?)。
 そしてプラス面の成果と言えるのが、前回紹介した虫送りの行事です(自治体側の言葉ですからよく書かれているのは当然ですが)。
 以前からの住民と、新しく転入してきたと思われる子どもたちが、地域の行事で輪になれるのですから、地元以外の出身者にもその伝統を広めることができます。
 まして若い世代に愛着を持ってもらえたなら、地元側は言うこと無しのはずです。

 そのような伝統を見守ってきた里山の様子が、整備された姿とはいえこれだけ確保されていれば、子どもたちの遊び場として不足はないと思われます。
 そんな場所でのびのびと遊ぶ子どもの姿を見れば、「いいところだろ! お前が気に入ると思って選んだんだ」などと、お父さんも鼻高々でバリバリ働く意欲がわいてくるはずです。

 でもこの仕掛けは、明るい将来を描ける時代には完ぺきに近いシナリオとして、馬力のある景気浮揚エンジンとなってきましたが、現在ではその動力源を見失いかけている印象があります。
 景気低迷が続く現在にこそ、景気浮揚の原動力を作り出す仕掛けが欲しいのですが、国民全体を潤わすことができるような「大プロジェクトX」って、ちょっとやそっとじゃ思い浮かびません(テーマが大きすぎて提案も出てこない)。
 開発自体は成功裏に完了し、希望を抱いて転入した住民は、景気浮揚に貢献すべくバリバリ働いているのですが、将来の明るさというエサでもぶら下げてくれないと、息切れしてしまうのではないだろうか。
 実態は、青息吐息のようにも思われます……


 上写真2枚は、散策路沿いに整備された茅ヶ崎公園自然生態園(Map)内に、農家や水田の様子を再現した一画になります。
 狭いながらも、田んぼ、稲わら干し、かかし、柿の木、炭焼き釜、シイタケ栽培の原木等、農家の周辺にあったものは一通りそろっています。
 裏には、4分の1に割られた扇形の薪(まき)が積まれてあります。近ごろ目にする機会もないので、懐かしいというか暖かみを感じたりします。
 実生活では使ったことはないので、それ以外の活動経験から「薪→暖かい」を学習したことになりますから、子どもたちにもそんな経験が必要であると言えるのでしょう。
 いまどきは、まずは目にすることからスタートという気がします。


 先ほどの田んぼで刈られたと思われる稲が、隣接する小学校のフェンスに干されています。おそらくここの生徒たちが、稲刈り実習で刈ったのでしょう。
 以前センター南・北駅周辺を歩いたときに「実際の田んぼでの実地体験へと広げるべき」と書きましたが、知らなかっただけでやはりこの付近には、実地体験の機会が数多くあるようです。

 そういえば出身小学校の花壇の並びに、小さな田んぼがあったような気がしてきました(土の下にビニールが敷いてあった)。きっとあれこれやったんだと思いますが、もう覚えてません。
 そんな不真面目なガキは放っといて、印象に残っている人は必ずいますから、そんな人には必要な経験だったはずです。
 と、言えた義理ではありませんが……

 猛暑の影響でお米の品質が悪かったせいだろうか、外食ばかりですが近ごろ「あれっ?」と感じるほど、おいしくないお米に出会う機会が増えた気がします。そんなことありませんか?

 この地域は首都圏の西部地区に当たり、東名高速道路、東海道新幹線新横浜駅、羽田空港(センター南・北駅から羽田空港行き直行バスあり)に近いので、西方面からの交通の利便性が高く、関西、名古屋から関東に移住する人々に人気が高いそうです。
 そう言えば、関西弁を耳にしました。

 東北・上信越からの玄関口が上野であるように、西方面からの玄関口は品川・新横浜となるのでしょう。
 まだ先の話ですが、2027年開業を目指すリニアモーターカー(中央新幹線)の始発駅は品川に決まったようですが、神奈川県の停車駅は相模原市の橋本駅付近が有力候補と言われています。
 工場しかなかった橋本に高層ビルが林立し、相模原に関西弁があふれる日がやって来るのかも知れません。


鴨池公園こどもログハウス(Map)

 建物の中からこどもたちの大騒ぎする声と、ドタバタ駆け回る足音が聞こえてきます。
 ここは「鴨池公園こどもログハウス」という施設で、中にはぐるぐるすべり台、ネットの遊具、地下迷路等々、大はしゃぎしたくなる遊具満載の遊び場です。
 雨の日も遊べて、騒いでも怒られないというのは、子どもにとってはたまらない場所です(横浜市の各区にひとつあるそうです)。
 しっかし、中はホコリだらけなんだろうと思うも、彼らには関係ないことですわね。でも、近所でインフルエンザが流行ると閉鎖されてしまうのでしょうから、気をつけないと……

 散策路を歩く視線からは、尾根をつなぐ陸橋や、谷間を越えていく歩道など、元の地形を生かそうとする町づくりや、そこから生まれる景観の変化を楽しむことができました。
 ですがここは丘陵地。平坦地に育った者には「坂のある暮らし」ってのはとても想像できません。
 鶴見川をテーマとして歩くにあたり、丘陵地の多いことは覚悟しましたが(確かに近ごろ坂道ばかり歩いている)、それは休日の散策時に限られていますから。
 朝の出勤時に坂を登るのは、目が覚めていいとは思いますが、疲れた会社帰りに坂道を登らされたら、帰るのがイヤになってしまいそうです……

2010/11/08

む〜らの鎮守の神様の〜♪──中川、山田

2010.10.31
【神奈川県】

 台風一過とはいかず、重々しい雲に覆われ気分の晴れない一日でしたが、なかなか楽しい出会いもありました。
 前回の鉄塔山付近で鶴見川に合流する早淵川の、上流域にあたる港北ニュータウン周辺を歩きました。


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くさぶえのみち(Map)

 港北ニュータウンではこれまで、センター南・北駅付近の中心部しか歩いてなかったので、周縁部に足を延ばしました。
 今回の目的である早淵川を中心にこの辺りを見回してみると、谷や小川が早淵川に向かって集まっており、それをひっくるめると「早淵川谷戸(やと:丘陵地が浸食されてできた谷地形)」ともいえる地域であることに気付かされます。
 早淵川を挟んでセンター南と北があるように、港北ニュータウンは早淵川を中心として両岸に広がる丘陵地を対象とした開発事業であるとも言えます。
 開発計画では中核地でしたが、その範囲はジワジワと拡大を続けているようなので、横浜市のもくろみ通りに進んでいることになります。

 高台に位置する横浜市営地下鉄中川駅付近から、遊歩道とせせらぎが整備された「くさぶえのみち」が始まります。
 人工的ではありますが、手を加えすぎない配慮に好感が持て、山中に迷い込んだか? と錯覚する場所もあります。
 南側の散策路(センター南〜仲町台)にも、同様の印象があるので、町づくりのコンセプトとされているのかも知れません。


 公園には視界の開ける池が好まれますが(渡り鳥が増え始めています)、上写真のような谷戸の湿地が公園とされていることには、ちと驚きました(一般には蚊や虫の温床として嫌われる)。
 写真では見えませんが、この水草の裏側でサギがエサをついばむほど、多彩な生き物が生息する場所ですから、子どもたちには垂涎(すいぜん)のスポットとなります。
 わたしが育った地域は台地だったので、身近で水辺の生き物を目にした記憶はほとんどありません(ザリガニのいた沼地はちょっと遠い)。水辺といえば使われなくなった用水路ですから、いまからすれば危ない場所で遊んでたものだと思います(当時はフタもしてありません)。
 こんな場所が近所にあったら、毎日泥だらけで帰るので、母に禁止されていたかも知れません。


山田富士(やまたふじ)(Map)

 ここは2008年開業の横浜市営地下鉄グリーンライン(日吉〜中山)北山田(やまた)駅近くの公園になります。
 グリーンラインには、北・東2つの山田駅、高田(たかた)駅のように、「田」を「た」と読む駅が複数あります。
 由来が古そうと調べると(山田は不明)、高田の名は平安時代に作られた「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」という辞書に記載されているそうです(類聚:同じ種類の事柄を抜粋し編さんすること)。
 この辞書は、名詞を漢語で抜粋〜分類して項目を立て、万葉仮名で日本語読みをつけて説明する、国語辞典+漢和辞典+百科事典の性格を併せ持つ辞書だそうです。
 その当時から時代や、地域の勢力争いなどに巻き込まれずに生き延びた地名というか、意識されないほど小さな地名を掘り起こしたと言えるかも知れません。
 ズッと気になっており、やっと調べることができてスッキリしました。


 これは「山田富士」という江戸時代の記録が残る(1828年)富士塚(ふじづか)で、富士山信仰しながらも現地に足を運べない人に利用された、人工のミニ富士山です。
 頂上に浅間神社を祭り、富士山の山開きの日に富士講がこの山に登り、はるかな富士山を拝みました。
 富士講とは、富士山信仰の信者により組織された講社(こうしゃ:社寺に詣でる宗教団体)で、修験道の行者であった角行(かくぎょう:1541〜1646年)が、富士山麓にある「人穴:ひとあな」(何て身もふたもない表現)での修行の後、江戸にまん延した疫病から多くの人びとを救ったことにより広まったそうです。
 江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほど江戸庶民の間で流行し、角行は富士信仰の開祖とされ、人穴は聖地となったそうです。
 しかしその勢力が拡大することに幕府側は警戒を強め、何度となく禁止令を発したそうです。


 広くはありませんが、山頂で「お鉢巡りができる富士塚」として有名なんだそうです(上写真富士山頂)。
 土を盛った山とはいえ200年間健在であるというのは、地域住民の文化に対する敬意の表れと思います。
 港北とされる一帯には富士塚が多くあり、「港北七富士巡り」なども行なわれたそうです。
 現在では3座しか残ってない(山田:やまた、池辺:いこのべ、川和)とはいえ、ちょっと胸を張ってもいいんじゃないかと思います(田舎度自慢?)。

 開発に伴い付近一帯は公園とされ、管理が横浜市に移管される際、公園には信仰対象となる石像類は置けないと撤去を求められたそうです。
 確かに富士講は行われなくなっても、地域にとってみれば文化財ですから、はいそうですかと引き下がれません。
 結局、その地でお祭り等は一切行わない、という誓約書を書いて落着したそうです。
 高度成長期の乱開発への反省から、地域文化を保護する方針かと思いきや、地域に根付いた民俗文化から信仰を取り除こうとする姿勢には、「文化」というものへの理解が欠如しているように思えてしまいます。
 神道関連なら許しが出たのだろうか?


 山田富士付近から続く「ふじやとのみち」とされる散策路には、住宅地の路地を通る個所があり、その街路樹にビニール袋でも引っかかっているのかと目を止めると、果実をつける木がありました(黄色く熟した実もあります)。
 そんな木に限って樹種のプレートは見当たりませんが、どうもカリンの仲間のように見えます。以前こんな季節に、小石川植物園で目にしたものと似ているような気がします。
 5〜6本並ぶ周辺は戸建ての住宅街なので、その区画を販売した会社が植えたのかも知れません。
 「だから何?」という程度の発見ですが、そんなことも散策の楽しみのひとつになります。


山田神社(Map)

 今回のルートからだと、いきなり社殿脇に出くわしてしまう「山田神社」です。
 飾りっ気のない素朴な印象の境内には、社殿(本殿は市の有形文化財)、舞台、広場、トイレと鐘楼(? この辺りでは珍しくないそうです)がこぢんまりと点在しています(神社で除夜の鐘がつけます)。
 神社に釣鐘があるのを見て、寺と神社が区別できない時分の記憶がよみがえったのか、その瞬間「む〜らのちんじゅの神様の〜♪」という唱歌『村祭り』のフレーズが頭に流れてきました。
 付近一帯に田畑が広がっていたころ、村の鎮守様というのは彼らにとっては「ハレの場」でしたから、「神社に鐘があってもいいじゃないか」と言い出すのを、教義を盾に持ち出して断ろうとしても、神社はにぎやかな方がいいなどと、教えに縛られるのはお門違い、とされるような訳の分からない状況だったのではあるまいか?
 それほどみんな愛着を感じていたんだろうと思います。
 7月の虫送り(田畑の害虫を払い豊作を願う行事)はこの境内から出発します。このリンク先は活気が伝わってくる素敵なページなので是非!

 1910年(明治43年)近隣の14社と合祀された際、地名にちなみ山田神社と改称されます。
 この地については、平安時代に「源義朝の臣鎌田正清の居城せし地」の記録があるそうです。
 源義朝は、鎌倉幕府を開いた頼朝、歴史のスーパースター義経の父親で、鎌田正清の母が義朝、正清の乳母となり一緒に育てられた仲から、生涯を共にする主従となります。
 城を構えるにふさわしい高台なので、当時の眺めは格別だったと思われます。

 脇から境内に入ったので参道を歩いたのは帰り道でしたが、この参道こそ「村の鎮守様」の自慢なんだろうと、その存在感に目を見張ります。
 広くはない参道の両側から木々が包み込んで俗世の雑音を遮断し、実直に延びる参道は250mほどあります。
 一本道であってもその長い道のりには、途中にさまざまな恐怖や誘惑があるかも知れないが、それを振り切って歩んで来なさい。という意味にも感じられます。
 視界が開ける場所は、眼下に中原街道を見下ろす見晴らしのいい斜面で、その階段を下りる時のすがすがしさは、むかしの人がお参り後に感じた晴れ晴れしさにも似ているのではないか、という気がしました。

 その長い階段を下りながら、やはり「どんどんひゃらら〜 どんひゃらら〜 ♪」と、現在でも感じさせてくれる社(やしろ)を守ってきた地域の人たちの文化意識に敬意を表すると同時に、「オレたち、何もやってないじゃん」と思い知るべきと感じた次第です……


P.S. 今年の日本シリーズは、接戦なんだか、ドングリの背比べなんだか…… ともかく消耗戦お疲れ様でした。
 テレビ中継を試合終了まで続けるってのはどうなんでしょうね?
 やっていれば面白いので見てしまいますが、途中でやめられなくなるのは困りものです。
 でも最終戦は、9回裏に同点となったところでテレビ消しました……

2010/11/01

鉄塔北浜線──大倉山、綱島

2010.10.23
【神奈川県】


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大倉山公園(Map)

 東横線大倉山駅から5分ほど急坂を上った山の上に、梅林で有名な大倉山公園があります。
 右写真はその中心にどっしりと構える大倉山記念館で、地名の由来となった「大倉精神文化研究所」(実業家大倉邦彦が設立の研究教育施設。旧大倉財閥とは別)を、横浜市が買い取り現在は公民館的な施設とされています。
 蔵書が閲覧できる図書館やホールがあり、この日も音楽会の演奏が聞こえてきます。施設に駐車場は無いので、楽器を持って急坂を上ってきたのだろうか?

 竣工当時(1932年:昭和7年)は田園風景が広がる丘の上に、このように大きな建造物を作ったのですから、理念が崇高なのか(怪しい存在)? 単なる変わり者か? とのうわさで持ちきりだったと思われます。
 彼は同い年である東急電鉄創業者の五島慶太からこの土地を買い、「世界と日本と個人は三位一体」の考えを現実化する空間を作ろうとしたそうです。
 周囲は仰天して、皆「大倉山」と指し示したことでしょう……

 取っつきにくい印象はありますが、現在も継続的に発表されている論文等を読むと、まじめに取り組む文化人類学的な視点に興味を引かれるところがあります(例として「港北区の歴史と文化」など)。
 先駆者というのはどんな分野でも「尖っている」と見られるようです。


 建物の設計者である長野宇平治は、北海道銀行本店、日本銀行本店増築などを手がけた古典主義建築の第一人者で、この建物の様式は、ギリシャ神殿風の西洋的外観と東洋的な木組み内装を組み合わせた、クレタ・ミケーネ様式(聞いたことあるような、ないような)というそうです。上写真は吹き抜けの天井部分を見上げたところ。
 部分的に切り取ると、何となくミスマッチにも思えますが、存在感には揺るぎのない落ち着きがありますし、ドア越しに聞こえてくるクラシックの演奏が、いかにもふさわしく感じられる空間です。


鉄塔山(Map)

 東横線綱島〜大倉山駅間の車窓から、いったい何本鉄塔が立っているんだ、という「鉄塔山」が見えます。
 一度近くで見たいと思っていましたが、これがなかなかたどり着けない……
 小高い丘陵地に立つので、目標は見失わないのですが、そこまでの道が見つかりません。
 横浜は丘陵の町ですから、宅地開発が可能な場所は急傾斜地でも残さず削りますし、削った土地は余すところ無くキッチリと宅地利用され、息が詰まるほどがけや隣接家屋に迫った家を建てますから、路地や抜け道がまるでありません。
 そのため、行き止まりや袋小路ばかりで思った方角に進めず、何度も上り下りさせられ草臥れ儲け(くたびれもうけ:とはこんな字なのかという紹介です)ばかりで、歩いても楽しくない地域なのであきらめました(右写真は袋小路を引き返した時のもの)。

 鉄塔北浜線とは、京浜変電所(相鉄線いずみ野駅付近)から港北変電所(横浜市営地下鉄仲町台駅が最寄)までをつなぐ送電路になります。
 「線」ですから鉄塔を指してはいませんが、この表記は映画『鉄塔武蔵野線』(1997年)にならいました。
 本件を調べていると「鉄塔・送電線ウォーク」など、関連サイトやブログがいくつもあり、ライフワークのようにしている方がいることに驚かされます。
 山間地は大変ですが、市街地では道に迷っても目標を見失う心配もなく、とても歩きやすいと思うので、チャレンジしてみては?(ここはNG)


 そんな専門家のサイトを読みここが、複数の送電系統が集まり分かれていく、ハブやインターチェンジのような場所であることを知りました。
 そんな場所では、複数の路線が同じ鉄塔に相乗りして設備を有効活用しているので、プレートにはメインとされる路線名が記されるようです(各鉄塔には、路線名とその何番目の鉄塔に当たるかを記した看板が付けられている)。
 この付近では「北浜線」がメインのようなので、プレートに名称は見られませんが「北旭線」(港北〜旭変電所間)、「大倉山線」(港北〜綱島変電所間)、「北島線」(港北〜綱島変電所間 大倉山線とは別ルート)、「浜岡線」(京浜〜旭変電所間)が鉄塔を共有しています。
 もっとすごい場所はあるかも知れませんが、この過密ぶりには驚きました。また、路線の数だけ変電所があるわけで、この付近には3つあるようです。

 変電所などめったに目にしないと思いますが、これだけの密度であるということは、近くに大量の電力を消費する工場や住宅密集地などがあるということなのでしょう。
 綱島付近には工場も多いが(Panasonic綱島工場はまだ健在?)住宅も密集してますから、鶴見川の水質に影響を及ぼしているのは工場だ、と決めつけるのはやめておきましょう……

 これだけの送電線が天かけるわけですから、電磁波が降り注いでくるのでは? と思ってしまいます。
 数値としての目安は「2ミリガウス以下」とされるそうですが(研究中の仮定レベル)、そんなの庶民には分かるものではありません。
 50メートル程度離れれば直接的な影響は無いようでも、送電線の高さはそれほどありません。
 そのためか都心の住宅地では、巨大な電柱のような高い鉄塔に置き換わっている様子を目にします。
 それが電磁波対策だとしたら、対応を急ぐ必要があります。

 父親の実家近くに送電線が通っており、健康被害に対するものかは不明ですが、迷惑料的に「むかしから税金が少し安い」という話を聞いたことがあります。
 そりゃ、何も無い場所と同じ待遇だったら住みたくない気もしますが、今どきは「でもその分、地価はお安くなってます」の売り文句に気持ちが動いちゃうのでしょうか?


バリケン島(Map)

 ここは綱島駅近くの、東横線と綱島街道の橋の間にある「バリケン島」と呼ばれる中州です。
 バリケンとはカモの仲間で、南米で家禽(かきん)とされる鳥を食用として日本に持ち込んだものの、事業化には至らなかったようです。飛ぶことができるので、逃げ出したと思われる個体が各地で見られるそうです。
 この地のバリケンは2006年に死んだそうですが、2003年「タマちゃん騒動」(ここではツルちゃん?)では、東急線の橋脚がタマちゃんの休憩場になったりと、野生生物には思いのほか居心地のいい場所なのかも知れません。
 おかげで川辺への関心が高まり、定期的な清掃活動〜水生生物観察会が開かれているそうですから、鶴見川をあまりバカにしていると怒られてしまいます……

 この少し上流で支流の早淵川と合流するので、次回はその支流沿いを歩こうと考えています。

P.S. 綱島の「北海道ラーメン 壱源」(渋谷などにもあるチェーン店)で何度か食べたことがあり、今回も楽しみにしていたのですが店じまいしてました。こんな時の悶絶感とは、何を持っても静めることはできないものです……

2010/10/25

谷あいの貨物基地──梶が谷貨物ターミナル

2010.10.16
【神奈川県】

 右写真は前回の鶴見川との合流地点ですが、今回は支流の矢上川を歩きます(右が鶴見川、左が矢上川、正面が河口方面)。
 わたしもそうでしたが「鶴見川なんて…」と、関心すら持たない人が多いと思いますが、意外な場所にその支流が流れているので、足元を流れる川を再評価してもらおうと、できるだけ支流を歩くつもりでいます。

 矢上川が流れる東横線元住吉駅付近(上写真から少し上流)から多摩川方面には高台は見られないので、多摩川の氾らん原(洪水の影響を受ける地域)というイメージがありました。
 以前紹介した、多摩川から取水される二ヶ領用水が元住吉付近で合流していていることにもよります(多摩川と鶴見川がつながっていることになります)。
 少し上流の丘陵地から平地に流れ出る蟹ヶ谷(かにがや)辺りの地形を見るまで、本当に多摩川と別水系なのだろうか? の疑問は消えません。
 これは推測ですが、多摩川が思いっきり氾らんした後に、矢上川がその氾らん原を少しずつ削り込んだようにも見えます。
 江戸時代二ヶ領用水開削に際しては、多摩川と鶴見川の高低差が計算されていたのですから、大したモノです。なんて言うと「バカにするなよ!」と怒られそう……


梶が谷貨物ターミナル(Map)


 近ごろではJR武蔵野線の名称も、東京駅京葉線の「武蔵野線経由」などで目につくようになりましたが、以前は車内にトンボが飛んでるようなローカル線でした。
 武蔵野線は、山手貨物線の代替貨物専用線(そうそう以前は新宿や渋谷駅で、埼京線の線路に貨物車両が走るのを目にしました)として1964年に着工され、府中本町〜西船橋間で1973年に旅客営業を開始します。
 しかし、周辺の宅地開発はそれ以降となるため貨物車両主体の運行が続いたので、ローカル線のイメージがとても強い路線でした。
 「東京メガループ」という計画だそうで、聞いたことありませんがおそらく、都心を回避するルートのイメージのようで(高速道路「圏央道」のような構想)、そこには京葉線、南武線、横浜線も含まれるそうです(鶴見〜西船橋間の路線ですが、鶴見〜 府中本町間は貨物専用)。

 前説が長くなりましたが、この貨物線は神奈川県内の半分以上がトンネルで、谷あいに顔を出した場所に貨物ターミナル駅があると地図で知り、何か秘密めいた理由でもあるのか? との興味がありました(トンネルを抜けた場所に貨物駅がありますが、その先はまたすぐトンネルになります)。
 しかし対面したその貨物ターミナル周辺は、すっかり住宅に包囲されてしまい、現在では逆に「何でこんなところに貨物駅があるの?」と思われるようなありさまです。


 貨物ターミナル建設の動機は、川崎内陸部の工場関連貨物、多摩地区や港北ニュータウンなどへの消費物資の需要増が見込まれたためとされます。
 恵比寿駅、渋谷駅の貨物取り扱いまでこの駅に集約されるも、どうも思惑通りにはいかないようです。
 貨物列車は大口の荷物では威力を発揮するものの、小分け配送が求められトラック輸送が重宝される時代では、苦戦するのも当然です。
 「東京メガループ」とはJR側の勝手な主張なわけで、結局都心を目指す物流への対応が必要になってしまいます。
 魔法の呪文である「エコ」は、果たして鉄道貨物の救世主になるのだろうか?


 武蔵野貨物線への関心として「いったい、どこから地下に入ったんだろうねぇ?」というものがありました。
 地図によると貨物線は、武蔵小杉あたりで地下に潜っています。以前から探していたのですが、先日開業した横須賀線武蔵小杉駅の横浜側に、地下に潜る線路を発見しました(これも新駅開業効果のひとつ?)。
 この貨物線は都心の地下鉄とは違い、地上の建造物に気兼ねすることなく、マンションや区役所の地下を我がもの顔で通っていきます(深い場所だと制限がなくなるのだろうか)。
 これまでは軍需鉄道だったのか? と思っていましたが、違うことが分かったので少しホッとしました。


馬絹(まきぬ)神社(Map)

 一般的には、源頼朝が松の木に絹を掛けたことに由来するとされますが、神社側は正しい伝説(?)をこしらえたかったようです。
 この神社は、伊邪那美命(イザナミのみこと:イザナギとの間に日本創成期に活躍する多数の子をもうけたとされる伝説のヒロイン)を祭ることから、女体神社と呼ばれたそうです(子孫繁栄、国家安泰の象徴なのは分かりますが、何とも直接的な表現です。以前女性に対し、不適切な発言をした議員の先生方は、そんな教育を受けていたのかも知れません)。
 明治時代付近にあった、女体神社、八幡神社、三島神社、熊野神社、白山神社を併合し神明神社としますが、1986年本殿建て替えに伴い社名を馬絹神社とします。
 現代受けしそうなつじつま合わせにも見えますが、氏子衆がそれで納得したのでしょうから、神道にも未来があるように思えました。
 宗教界の「合祀(ごうし)」という業は、「来る者は拒まず」という寛容さのようにも見えますが、裏返すと信徒を増やせるなら何でもあり、とも受け取れたりします。

 神社の裏手には、古墳時代後期(6世紀初め〜7世紀半ば)とされる「馬絹古墳」があります。
 盗掘のため副葬遺物は失われますが、石室の形状や築造方法には、朝鮮半島からの影響が見られるそうです。
 古代の関東で、朝鮮半島からの影響に言及する記述はめずらしい気がするので、今後注意してみます。
 なんだかそれが、京の都から見た「東国の野蛮人」(都に入れなかった文化程度の劣る朝鮮半島出身者)のルーツだとすると、とてもはまりすぎてる気がしてなりません……

 ここには、御神木とされる枯れ果てた「千年の松」が祭られています(右写真)。
 これはホントに予想外で、馬の顔に見えることに自分でも驚いています。
 日の陰った場所なので、キレイに撮れなくても「とりあえず撮っておこう」と、絵になりそうなアングルを探しただけで、この絵はまったく想像できませんでした(デジカメの威力です)。

 矢上川本流と思われる流れはこの先、東急田園都市線宮前平駅付近へとさかのぼれます。
 また途中で合流した流れは、鷺沼駅とたまプラーザ駅の間へと続きます。
 この後坂道を上り宮崎台駅まで歩きましたが、傾斜地を無理やり開発した地域での暮らしを「健康にいい」としたい気持ちも分かりますが、それは「健康な時に思える希望」でしかないように思えた坂道でした。
 これまで平地で暮らしてきたわたしには、ちょっと尻込みしてしまう環境です……


 追記
 NHK大河ドラマ『龍馬伝』も、中岡慎太郎と藤吉(龍馬と共に暗殺される)が登場してくれば、物語はクライマックスです。
 これまでさまざまなエピソードを紹介してきた物語ですが(その豊富さにはヒーローの貫録を感じます)、1974年の『竜馬暗殺』(黒木和雄監督 原田芳雄主演)という映画を再評価したいと思うようになりました。
 その映画は、さまざまなエピソードを排除して、竜馬と慎太(郎)の友情物語だけにフォーカスを当て、幕末の動乱期を描いています。
 その姿勢の違いに「大河ドラマ」の存在理由と、アングラとも思える映画『竜馬暗殺』の存在価値があるように思えてきます。
 時代によってさまざまな役者が演じたり、さまざまな見方をされることは、龍馬本人もよろこぶでしょうし、日本人の視野を狭めないためにもとても大切なことと思います(近ごろの中国は何だか妙なかじ取りに見えます)。

2010/10/18

環境にやさしいだんだん池──三ツ池公園

2010.10.11
【神奈川県】


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三ツ池公園(Map)

 この地名を耳にして「三ツ沢公園(横浜市立)」じゃないの? と思う人も多いかも知れません。
 三ツ沢公園は横浜駅に近い高台にあり、Jリーグ旧横浜フリューゲルス(現在横浜F・マリノス)のホームスタジアム「三ツ沢公園球技場」(現在はJ2横浜FCのホーム)があるため知名度も高そうですし、道路情報でも「三ツ沢上町(かみちょう)」の名をよく耳にします。
 ここ「三ツ池公園」は、鶴見・綱島の中間に位置し交通の便はよくないので、車や自転車で訪れる人が多いようです(わたしはバス)。
 でも「三ツ沢:三つの沢があった」「三ツ池:三つの池があった」どちらの地名からも、横浜の代表的な地形である丘陵地が思い浮かびます。

 ここは県立の公園で、名称通り三つの池と、スポーツ施設(多目的グランド、野球場、テニスコート、プール)が整備されています。立地条件や目的の違いもありますが、県立公園よりも市立の三ツ沢公園の方が、はるかにスポーツ施設は充実しています。
 でもここの売りである「里山らしさ」には、三ツ沢もかないません。


 この日は野球もサッカーも、中学生くらいのチームがプレーしていましたが、上写真のように気持ちがプレー(?)に表れてしまうことは、年齢に関係ないことがよく分かります(左の選手はパスを出した後なのに)。
 先日のサッカー日本代表のアルゼンチン戦で、メッシに後ろから押されてボールをコート外に出してしまった長友選手が、振り向きざま「世界のメッシ様」に頭突きしに向かっていきました(軽やかにかわすのがメッシ様)。
 それを見て「やったれ、長友!」と、フェアプレー精神は必要でも、気持ちが表に出るくらいじゃないといいプレーはできない、と応援してましたから、これからは中学生にもそんな声を掛けたいと思っています。


 公園名の由来である「上の池」「中の池」「下の池」の3つの池には、段々畑のような高低差があり、水はその池をゆっくりと下っていきます。
 その構造からは、できるだけ多くの水を蓄えたい、それを安定的に供給したい、はんらんを防ぎたいという要望と、「自分たちで築き、管理可能なサイズにすべき」という考え方が伝わってきますし、その目的は見事に果たされているようです(自然と共存する姿勢)。
 江戸時代(1787年)に農業用水のため池が作られ、戦後(1950年)になって公園として整備されます。
 付近の丘陵地には、古墳(6世紀ごろ)が点在しているそうで、詳細までは分かりませんが、鶴見川を挟んだ夢見ヶ崎(4〜7世紀)や、多摩川を挟んだ田園調布(4〜5世紀)の古墳と同じ様な環境条件だったと思われます(川や低地は海や湿地だった時代)。

 右の彼らはザリガニを捕っているようですが、ほとりには「生態保護のため外来魚・ザリガニを駆除しています」の看板があります。
 現在日本に見られるザリガニのほとんどはアメリカザリガニ(マッカチンの別名は方言ではないよう)で、1927年(昭和2年)の移入当時はウシガエル(食用ガエル)の餌用に持ち込まれるも、逃げ出したわずかな個体の勢力は、1960年頃には西日本を征服したそうです。
 またマヌケなことに、食用とするはずのウシガエルも逃げ出し、アメリカザリガニ同様全国に広がり「ブオー、ブオー」の鳴き声が、静かだった田園の騒音公害となりました。
 ガキのころ捕りにいった沼は埋めてられ宅地になったので、そこに生息していたヤツらは駆逐されたと思いますが、釣果を持ち帰った家中が臭くなり「もう捕ってくるんじゃない!」と、関心まで駆逐された記憶があります。
 すぐ捕れるから楽しいのは分かるけど、捕ってもお母さんに迷惑がられるだけと言っても、聞く耳を持たないよね。
 それも、これも少年期に必要な経験だとは思うのですが……


 左は高圧水を噴射させ掃除をしている「虹おじさん」ですが、意外と人気ありません(関心を持っているのはわたしだけ)。
 彼が掃除している石像は、狛犬のようですが普段見るものと様子が違います。韓国の狛犬のようで、やはり門前に左右対で置かれてあります。
 ここは公園内の「コリア庭園」で、1990年神奈川県と韓国京畿道(キョンギド、けいきどう:特別区のソウル、仁川を除いた周辺の行政区)との友好提携記念の際に造られました。
 前回訪問時を振り返っても何も印象に無いと思うと、カメラを持ってないと関心の対象範囲が狭くなっていたのかも知れません。


 まだ韓流ブームは続いているのだろうか?
 韓国映画やドラマ好きの方には「この戸を開けてヒーロー・ヒロインが現れそう」と感じるような障子戸ですが、日本の格子状の障子戸に比べると、とても複雑な模様を描いています。
 模様の種類は多くデザインのようなので、特に意味は無さそうです。
 日本の障子は室内側に桟を隠しますが、韓国では外側に桟を見せようとしています。日本では外から真っ白に見せたい、韓国では桟の模様ディスプレイしたい(目立つよう太い木材を使う)という、建物デザインのコンセプトの違いから生じたと説明されると、すんなりと納得してしまいます。
 確かに日本家屋において「白」は重要な存在に感じられます。柱や壁が年々くすんでも、障子の白は毎年はり替えられるので、その建物が生きている証しのようにも見えます。


矢上川合流地点(Map)


 ここは、鶴見川の支流である矢上川との合流地点になります(右が鶴見川、左が矢上川、正面が河口方面)。
 河口からここまでの川岸は全部コンクリートで固められており、この付近ではじめて河川敷のような「土や植物」に出会えます。
 象徴的な木が立つ河川敷のテラス(その下はコンクリートで固められている)では、親子連れが走り回っています。
 河川管理の観点からはとても狭いスペースですが、家族で走り回るにはちょうどいい広さなのかも知れません。何度も行ったり来たりしているので、あまり広いとお父さん、お母さんはバテてしまいそうです……

2010/10/11

ハマの埋め立て地でリフレッシュ──鶴見川河口

2010.10.2
【神奈川県】


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鶴見川河口付近 埋め立て地(Map)


 青い空、白い灯台(?)、リゾートホテルにガラス張りの温室と、南国のような絵にも見えますが、ここは鶴見川河口付近の埋め立て地で、横浜市の様々なゴミ処理施設が密集する場所になります(鶴見は横浜市)。
 白い構造物は焼却場の煙突、ホテルのような建物は「ふれ〜ゆ」というその余熱を利用した温浴・プール施設(温泉ではない)、右のガラス張りの建物は植物園になります。
 大きな焼却場に付きもののセットメニューですが、もひとつおまけに「鶴見リサイクルプラザ:リサイクルの啓蒙推進施設」が併設されています。
 この埋め立て地一帯には「下水処理場」「汚泥処理センター」「資源化センター(リサイクル)」など、横浜市の処理施設が集められ、ここなら周囲を気にせず処理ができると、かなり伸び伸びとした敷地が確保されています。
 「ふれ〜ゆ」の正式名称は「横浜市高齢者保養研修施設」とあるので、高齢者をリサイクル(NG ! )→リフレッシュさせてくれます。

 右写真は首都高速湾岸線の「つばさ橋」で、以前訪れたJR海芝浦駅(東芝ふ頭のような埋め立て地)からも臨めましたが、ここはそのとなりの埋め立て地になります。
 この区画は「横浜市ふ頭」的な公共の場所なので、往来も自由でバスも運行しており、海側にある釣りデッキには親子で糸を垂れる姿も見られます。
 ですが、管理のため「17時閉鎖」「日没後は閉鎖(監視カメラで撮影できない)」などの制限があるためか、アベックの数が極端に少ない海辺との印象を受けます。
 高齢者向けの施設なので早じまいなのは分かりますが、お年寄りは夜遊びしたがらないのだろうか? って、しないよねぇ〜。

 同埋め立て地には、横浜市立大学大学院(独立行政法人 理化学研究所との連携大学院)が開設されています。
 八景島方面の埋め立て地にもキャンパスと付属病院がありますから、横浜市の埋め立て事業には、自由に使える土地を確保したい切実さがあったこと、改めて感じた気がします。


生麦(なまむぎ)(Map)


 以前紹介したJR国道駅の、国道15号線側とは反対の出口に面した通りが、生麦魚河岸通りになります。
 現在も通りの魚河岸は健在のようですが、こちらは昼過ぎに歩くもので、その様子を直接見ることはできません。
 旧街道っぽい通りながらも広く感じる道幅(キチッと店の前が片付けられているため広い印象を受けるのか)、仕事ぶりが感じられる後始末の光景(上写真)には、客を大切にしている姿勢が見てとれ、昔からのにぎわいが続いている様子が目に浮かぶ気がしました。

 江戸前の漁師町で、古くからの看板に「貝」の名が付く店の多さから、貝類の扱いが多い河岸のように見えます。
 ここ鶴見川河口付近から西側の横浜方面は丘陵地が海まで迫っているので、埋め立て前の海岸は急深と思われますが、東の川崎側には埋め立て以前、多摩川・鶴見川双方の流れから形成された複合扇状地のような湿地が広がっていたので、遠浅の干潟で多くの貝類が採れたことと思われます。
 川崎市の海岸線は短いのですが全面埋め立てられたため、古い港の有無については調べないと分かりませんが、当時から船着き場を持っていたこの地と多摩川河口の羽田の漁師は、川崎沖の埋め立て地付近(現在の工場地帯)で魚介を採っていたのではないでしょうか。
 浅瀬の無くなった現在、魚河岸で扱う貝類は一体どこで採っているのでしょう。金沢八景、もしくは千葉の木更津周辺か?


 上写真は地元の案内に「河口干潟」とされる一画で、水害防止が重視される河口付近の護岸はコンクリートで固めたいところを、迂回させてもこの「貝殻干潟」を保全したいと考えている、地域の「文化遺産」になります。
 古くからの単なる貝殻廃棄場に過ぎませんが、その量が膨大だったため現在も水際からは、原型の貝殻が洗い出されています。
 ここは教科書で学んだ貝塚(縄文〜弥生時代)とは、年代・性格的にも異なったものになります。
 始まりは不明ですが、『古事記』(712年)に記述されるヤマトタケルの項(伝説)によると、現在の京浜工業地帯付近は「広大な低湿地帯で通行に適さない」場所とされ(彼は船で房総半島に渡ります)、人影も見られない土地であったとすれば、後の時代に形成されたことになります。
 人が定着し貝漁が始められた後の貝殻廃棄場ではあっても、ここだけ白い砂浜か? というインパクトはありますし、残されているおかげで当時の貝漁について関心が向いたのですから、地元には大切な遺産であると納得です。

 ちょうどこの辺りが河川管理上の河口にあたりますが、海側には埋め立て地が広がります。
 川の延長のようにも見えるコンクリートの護岸に挟まれた流路は、海になるので運河とされるのでしょう。


 父親が海の方を見ながら息子に何やら語りかけています。
 息子の方は、とりたてて大きなリアクションをすることもなく、時折語り続ける父の表情を見上げている、とても素敵な光景です。
 内容は分かりませんが、きっと父は「男のロマン」を語っているのだろうと思いたくなります。
 だってここで、母とのなれ初めを語っても子どもには「何のこっちゃ?」ですものね。

 近ごろ生麦といえば「キリンビール工場」かも知れませんが、地名をメジャーにしたのは「生麦事件」になるでしょう(写真はその碑、背後がビール工場)。
 幕末の1862年この付近で薩摩藩主の父・島津久光の行列に、騎馬で乱入したイギリス人を藩士が殺傷した事件で、外交問題になります。
 この手の事件発生は当然と思われるのは、まず言葉が通じない、互いの文化を知らない(日本では行列に際しては下馬が礼儀)、そして当時異国人を歓迎する日本人は皆無(攘夷:外国排斥)ですから、異国人にとって日本はデンジャラスな国だったはずです。
 それでも奔放にふるまう異国人たちの姿勢には、日本(武士や刀)をなめきったおごりがあったようにも思います(というか、幕府が何も説明してなかったのでしょう)。
 江戸幕府は、1853年ペリー来航〜1854年日米和親条約締結(下田、函館を開港)で開国しますが、庶民の意識は江戸時代のまま置き去りにされたのでは不安は膨らむ一方で、大政奉還(1867年)までの13年間無策とくればクーデター(明治維新)も起こるわけです。

 同時代の龍馬は何をしていたか並べてみたくて調べました。
 1854年 開国:江戸での剣術修行を終えて土佐へ帰国
 1862年 生麦事件:土佐藩脱藩
 1867年 大政奉還:亀山社中を「海援隊」に〜暗殺(大政奉還後)

 一昨年の大河ドラマ『篤姫』ではその状況で「徳川慶喜に頑張ってもらわねば」と願ったものが、今年の『龍馬伝』では「慶喜の腹をくくらせる決定打は?」と、正反対の状況を提示してくれるNHKの企画力は見事と思いますが、当時の庶民は2年(番組の切り替え)で世の中の見方や考え方の修正ができたわけもなく、混沌とする情勢を不安げに見守っていたことと思います。
 再度切り返す視点として、幕末の会津藩の物語を見たいと思うのですが、白虎隊はもうやっちゃいました?

 最後になりましたが生麦の地名の由来とは、徳川二代将軍秀忠がこの地のぬかるみで往生した際、村人たちが付近の生麦を刈って道に敷いて行列を通したことに対し、秀忠から「生麦」という地名と、漁業権の特別な権利を与えられたとされます(羽田の漁師も幕府のお墨付きを受けていました)。
 ビール工場建設の際には多少の理由にはなったかと思いますが、「生麦」にビール工場というのははまりすぎな気もします。
 でもこの地で、どこから「水」を引いているのだろうか?
 地下水だと多少しょっぱそうな気もしますが、そこから苦みを生み出すのであれば、お見事! という気もします……(失礼)

2010/10/04

今年の出来は?──十日市場

2010.9.25
【神奈川県】

 今回から横浜・多摩丘陵周辺の里山を、鶴見川を軸にして歩こうと考えていますが、「川シリーズ第2弾」とうたうには、ちと気が引けます。
 全国的にも水質汚染でワーストに含まれる鶴見川の流域には、まだ農地や里山が残されているのに、なぜ川は汚れてしまうの? という切り口で伝えられればと思っています。
 地元には「ワーストの評価方法がなっとらん」との意見もありますが、決してキレイな川ではないので、努力目標にしてもらいたいものです。
 このシリーズでは、初めて訪問する場所が多くなりそうで楽しみな反面、期待外れもあるかも知れない点は、お含みおきください。


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 本来は、河口付近から上流に向かいたいと考えるのですが、夏の暑さで稲刈りが早まると稲穂の絵が撮れなくなるので、今回は「今年の出来はどう?」(農業関係者のようですが)と様子見を兼ねて、昨年訪れたJR横浜線十日市場駅付近の新治(にいはる)地区をのぞいてきました。


新治市民の森(Map)


 ここは農地のクリ林なので、地面に落ちているのは収穫後の殻だけです。
 谷戸(やと:丘陵地が浸食されてできた谷地形)の奥まった場所なので、日当たりは決してよくありませんが、他の場所より収穫期は早いようです。
 クリ栽培について調べるとどこも「日当たり第一」とありますが、付近の日当たりのいい場所の木には、まだ青いイガがついています。
 ここは水に恵まれているため? もしくは未成熟で廃棄されたのか?
 品種によりますが、収穫はイガが褐色に変化し外皮が割れて、実の皮が色づくころとされます。
 「クリ拾い」というくらいですし、完熟して落花したイガの部分を靴裏で押さえて実を集めた記憶があります。


 この日は明け方に台風がかすめて通過していったので、土にはタップリ水分が含まれています。
 当日の作業なのか分かりませんが、稲干しの周囲には無数の足跡が残されています(上写真右の凹凸は足跡)。
 こんなぬかるみの中を、これだけ歩き回ったら次の日は立ち上がれないのでは? と思ってしまいます(普段使わない筋肉が悲鳴をあげそう)。
 日々の積み重ねで体は慣れるとしても、これは相当な重労働になります。
 数時間付き合わせてもらう体験農業や、子どもたちが田植えではしゃぐ姿は、農作業の表面的な薄皮のようなもので、それとは比較にならない「重さ」が、ここには残されているように感じました。
 作物を育てること+田んぼ(施設)を守る作業内容を考えると、仕事にキリのないことが分かりますし、台風の被害が心配で嵐の中でも田んぼを見に行ってしまう心情も理解できる気がします。

 機械を入れられない場所だけど何とか守って欲しい、と簡単に言うけれど「その前に一度やってみろ」というのが本当の体験農業なのかも知れません……


 昨年の訪問もちょうど同時期だったのでその様子と比べてみると、おおよそ実り具合や、刈り取りの様子は同程度に見えました。
 刈り取り時期は、台風で稲が倒れたなどの緊急性がない限り、基本的に暦にしたがって行われることが、自分の目で確認できたような気がします。
 今年の米の作柄については、5月から6月にかけて低温や日照不足の影響を受けたものの、夏場に高温が続いたことで稲の生育は回復し、作柄(収穫量)はおおむね「平年並み」が見込まれています。
 ですが、夏場の高温のせいで品質はとても悪いとのこと。消費者側には暑さによる「味の低下」は避けられないと織込み済みでも、生産者側はそれを理由に値段をたたかれるのですから、たまったものではありません。
 とりあえずは生産者への援助も必要ですが、根本治療(可能な限りの気候安定)なくしては同じ事の繰り返しになってしまいます。
 
 一方、秋の花であるヒガンバナの開花は、猛暑と少雨で遅れ気味です。
 この植物は毒を持ち、ネズミ、モグラ、虫など田・畑を荒らす生き物を追い払う役目を負うため、古くから田・畑のあぜ道でよく見かけられました(球根や茎も毒性を持ち、花は咲かずとも存在だけで効力がある)。
 墓地にこの花が植えられるのも、死体(骨)が生き物たちに荒されるのを防ぐためとされます。

 コスモスの花って、ちょっとしなやかすぎる印象があります。
 群生してもそれぞれの茎は細いので、株ごとの事情で様々な揺れ方をしますし、その動きもとても気まぐれに感じられます。
 じっとしてくれない姿にイライラする気の短さを、「秋の風を楽しんでますか?」となだめられているかのようです。

 コスモスは日当たりと水はけのいい場所ならどこでも育つので、休耕田やスキー場などに「人寄せコスモス畑」が作られ、地域おこしに利用されています。
 ですが今年は、ヒガンバナ同様秋の花のため開花が遅れ、各地で花のない「コスモス祭り」となり、バスツアーなど大勢訪れる人気スポットでは対応が大変なようです。
 季節を売り物にする施設の宿命ではありますが、この先も気象庁が「異常気象」を乱発する気候が続くと、季節商売はより難しくなりそうです……

 ここに横たわる材木たちは、おそらく稲干に使われる木々のようですが、この時期に放置されているところを見ると、もうこの家では稲作は行われていないのかも知れません。
 カメラの反対側に農地があるのですが、近くに田んぼは見当たりません。おそらく目の前の畑は、田んぼから転換されたようです。
 畑なら何とか世話はできるが、田んぼは無理との判断だとすると、小規模の稲作には苦労の多いこと(労力だけではなく、収入に関しても)が想像されます。

 そこで、農地維持保全基金的なものを立ち上げて、年金暮らしを始め時間をもてあます団塊世代の「ジジ・ババ様」(敬愛を込めた表現)に向けて、「首都近郊で土をいじりしませんか?」と声を掛けてはいかがだろうか?
 近ごろリタイア組が「自分で育てた作物を食したい」と、農作業に取り組む様子を見聞きするので、「勤務時間は日没まで」「残業無し」「ノルマ無し」としたら集まるような気もするのですが、って、あまりにも失礼ですかね?
 でも、そんな枠組みに賛同する人が集まれば、とりあえず次の世代(ジジ・ババ様の目の届く子孫)へのバトンタッチはできるのではないだろうか。
 「年寄りをこき使うなって?」
 だっていまのわれわれは「何いってんだ、忙しいんだから仕方ないだろ!」のさなかにいるのですから……


 今回の写真を眺めていると、秋の乾いた空気感のせいか、どれも落ち着いた絵になった気がします(撮影者の心理状態の反映ならばうれしいのですが)。
 再訪する動機にはこちらの気持ちも大切ですし、相手から「手招きされている」との錯覚も重要と思います。
 農耕民族であった日本人の祖先から受け継いだ根っこであり、世代を超えて共有できる「里山の記憶」というものが、自分の中にもあると実感できることがうれしくて、誘われてもいないのに足が向いてしまうのかも知れません。