2011.7.30
【神奈川県】
夏の空気と秋の空気が日本列島上でせめぎ合うせいで、連日全国各地から局地的豪雨による被害のニュースが届けられます。
かと思えば今度は台風です。夏の訪れは早かったものの、夏休み期間中は天気が安定しなかった印象があるので、子どもたちは夏休みをエンジョイできたのか心配になります。
電力不足でパンクしなかったのも、天候不順のおかげかも知れません……
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綱島駅(Map)
東急東横線は2012年度に、渋谷から東京メトロ副都心線との相互直通運転が開始される予定です。
乗り入れる路線には、地下鉄副都心線、西武池袋線、東武東上線があり、東横線側では受け入れの準備が進んでいます。
複数の鉄道会社が乗り入れるための統一規格として、東横線・みなとみらい線の優等列車(特急・通勤特急・急行をそう呼びます)の編成を、現在の8両から10両編成に変更する必要があります。
東横線って8両だったの? と驚く向き(関心のある方)には、鉄道会社側の怠慢がバレてしまいます。だから混んでたんだと……
また副都心線は、ホームドアを設置したワンマン運転なので、東横線の新型車両には運転士用ドア開閉ボタンが設置されています(目黒線は既にワンマン運転に対応済み)。
10両編成受け入れのホーム拡張工事が急行停車駅で進められますが、ここや多摩川駅等ではやりかけのまま放置された姿が現在も見られます。
計画変更を強いられる問題(事故)等があったのかも知れませんが、「いつ完成するの?」という姿がさらされています。
横浜方面と新宿・池袋を一足先に結んだJR湘南新宿ライン(2001年運行開始でもう10年になります)は、宇都宮線・高崎線が上野駅経由とは別ルートで東海道線・横須賀線と結ばれ、ビジネスや観光の足として定着しています。
JR武蔵小杉駅で湘南新宿ラインの混雑を目にすると、同路線でもすいている横須賀線を待ちたくなるほど、利用率に違いがあります。
その湘南新宿ラインは、横浜を経由して鎌倉・逗子方面や、平塚・小田原方面まで伸びている強みがありますが、これから開通する副都心線の直通運転では、横浜(元町・中華街)までとなります。
ビジネスや観光でも中途半端な印象を受けるので、その効果については経過を見る必要があります。
東横線側の利用者からすれば、確かに新宿や池袋まで乗り換えなしで行けるのはとても助かるので、反対側からも、渋谷まで乗り換え無しは助かるのでしょう(開通済み)。
しかし、利用者のビジョンはメジャーなターミナル駅までで、その先はどちら方面も急激に利用率が下がる気がします(横浜には大きな魅力があるが)。
便利になることは歓迎ですが、これまでの渋谷で1本待てば座れるという安心感が無くなるのは、ちょっと気が重くなります。
既に地下鉄と直通運転する田園都市線渋谷駅を利用する方には、「渋谷駅の憂鬱感を味わうがよい!」(ここでまた混むのよ)と言われるようです……
綱島公園(Map)
ここは丘陵地の尾根沿いに続く公園施設で、子ども用プール、子どもログハウス「ロッキー」(右写真)等の施設があり、一画には古墳が残されています。
今どきの子どもっていいよね!
雨の日でも騒いで遊べる施設が多いことを(センター南付近にも「鴨池公園こどもログハウス」があり)うらやましく感じます。
それは現在親となった世代の願望で、子ども時代に「欲しかったモノ」を自分の子どもに与えられたのかも知れません。
また、現在の子どもが「欲しい」と感じたモノを次世代への贈り物とできるような、世代間でのリレーの連鎖こそが理想ですが、社会全般からすると「少子」の部分に割り当てられる予算に限りがあることも事実です(この国の将来には大切な投資と思うのですが)。
この地で遊んだ経験があるのか、大学生くらいの若いカップルと何組もすれ違いました。
最後にすれ違ったカップルの会話から
男「アレッ、ここ前来たっけ?」
女「うん、覚えてる」
坂道を登る彼らの会話はのんびりしたもので、バックのヒグラシの鳴き声が雰囲気を演出しています。
そこから何か読み取るにしても、遊ぶ場所のない綱島でデートすること自体「?」ですし、手をつなげるような人目の少ないスポットも限られています。
でも「鶴見川があるじゃないか」と思うも、そこには外壁が色鮮やかなホテルが並んでいますから「エッ、そういうこと?」……
諏訪神社(Map)
渋谷→横浜に向かう駅手前左手の丘陵地に見える社が諏訪神社です。
神社の由緒によると、最初の記録は「綱島三郎信照の領地」(年代不明)ですが、1573年には甲州武田信玄家臣の領地とされます。
甲州武田家は信玄に従い、長野県諏訪湖周辺に構える諏訪大社(4箇所の境内を持つ)を信仰するため、その境内の桜の枝をこの地の山上に立て「武運の守護として桜を根かせ給へ」の祈りが通じ、大木に育ったとされます。
その後の、小田原北条氏攻め・関ヶ原の合戦での武運を導いたとされ、1605年頃この地に神社が創建されます。
この地が武田家とつながりがあるとは意外ですが、後の桃栽培等が盛んになるのは、甲州仕込みと考えたくなります。
諏訪神社の例大祭では、付近の各町内から多くの神輿が諏訪神社や駅周辺を練り歩きます。
それは綱島諏訪神社の神輿連合渡御(とぎょ)とされ、8月末に行われるそうです。
綱島温泉(Map)
この地は、戦前から「東京の奥座敷」と呼ばれる温泉街で、80軒程の宿泊施設があり、1926年東京横浜電鉄神奈川線(現東横線)開通時には「綱島温泉駅」とされます。
当時の駅前では、無料入湯券の配布など温泉街の様相を呈してにぎわうも、第二次世界大戦下の「旅館業廃業命令」で下火となります。
戦後は花街として再生しますが、「関東の有馬温泉」とも呼ばれ、アメリカ兵の特殊慰安所にも使用されたようです。
米軍に完全に乗っ取られた、横浜に近い場所柄のせいもあるのでしょう。
2008年最後の宿泊施設が閉店し「綱島温泉」の旅館は無くなり、現在は温泉銭湯が残るだけとなります。
現在営業中の「綱島ラジウム温泉 東京園」(上写真)は、繁華街に隣接しながらも煙突からは時折黒煙をはき出しています。
この源泉は18℃程度と低いため(黒色水で透明度はない)、ボイラーで温める必要があります。
これまで湯温の低いものを「鉱泉」と思っていましたし、「温泉法」にも「25度以上の湧水を温泉、それ未満を鉱泉(冷鉱泉)」とありますが、温泉は「鉱泉の中でも、特に治療の目的に供されるものを療養泉とする」そうなので、温泉は鉱泉に含まれると理解するところです。
しかし温泉法の成分要件には「ストロンチウムイオン(Sr++) 10mg以上(必要)」の表記があります。
原発事故の後、ストロンチウムが観測されたと耳にしましたが、近ごろアレルギー反応を示す「セシウム」とはどう違うのか? に関心が向きます。
これまで何の不安もなく立ち寄っていた「ラドン・ラジウム温泉」を調べると、ラドンはラジウムから生まれる気体で、ラドンを含むものは「放射能泉」とあります(怪獣ではない)。
Googleで「ラジウム温泉」の検索結果Topにはラジウム温泉 ラドン温泉の紹介 効能の、新潟県五頭(ごず)温泉の旅館が表示されます。
そこには、線量計の画像や温泉の放射線量の説明に「マイクロシーベルト」の表現を使用した、具体的な説明があります。
そのページを見て感じたのは、これまでの経験を振り返り自身で冷静に再評価する必要性です。
問題意識には各自の基準があります。その判断にこれまで知らなかった知識を加えることは大切ですが、その基準を決めるのはきっとこれまでの生活環境がベースとされるのでしょう。
将来というものは常に不安の嵐に包まれていますが、そのビジョンを開くのは「現在」の自分であり、日々刻々と移ろいゆくものです。
でも確かに思えるのは、原爆で「放射線汚染」を経験したこの国が、何で「オレたち何も学んでいませんでした」という経験をしなければいけないのかという「自責」です。
「キモ」であるその点には、どんな論理的な説明を受けても納得できるものではありません。
本当に、われわれが何も学んでいないならば、この国に未来を抱ける国民は一人もいないはずです。
人類は「トライ&エラー」で前へ歩むしかないならば、残酷でも礎となってくれた方々への感謝を常に抱くべきと思えてなりません……
遅くなりましたが地名由来について。
「つなしま」の平仮名「つ」は「州」「川」の草書体、「な」→「中」にある「島」とする説や、連なり島(つらなりしま)との解釈から、かつて一帯が海であった時分(縄文時代)に、現在の綱島公園等の丘陵地が複数の島であった様子から名付けられた等、の説があります。
現在鶴見川沿いには、ゴルフ練習場、ラブホテル、自動車教習所と、川沿いにありそうな施設のフルコースがそろいますが、多摩川の丸子付近も同様と考えればそのルーツとしては、鴨川に接する京都祗園界隈となるのではあるまいか。
以前は、花火大会も行われるような景気のいい場所柄(工場が多い)でしたが、周辺の宅地化により1999年で中止とされ、現在は下流の森永製菓の工場付近(JR東海道線等の鉄橋近く)で行われています。
2011/08/29
2011/08/22
背伸びしたがる──日吉
2011.7.23
【神奈川県】
お盆明けにこの夏の最高気温を記録した関東地方ですが、一転して秋口を思わせるひんやりとした空気に包まれました。
そんな気候変化の極端さに閉口する近ごろですから、この後に再度「猛暑日来襲!」があったのでは、心身共にうんざりさせれられ、夏の疲れが出てしまいそうです。
油断の無きよう……
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日吉(Map)
東急東横・目黒線、横浜市営地下鉄日吉駅は、駅前の慶應大学日吉キャンパスや住宅地のイメージから、好感度はあっても何か気取っているような印象もあります。
慶應の学生でも、クラブ活動帰りにはラーメン屋でガッツリ食べたいわけで、今どきの学生街にはきれいな店も増えましたが、実情は変わらないようで安心したりします。
駅西側は田園調布のような、駅を中心に放射状+円周状の道路で区画される町並みが広がります(下写真、全景撮影は無理なので、その一部)。
田園調布同様に起伏のある地域の都市計画では、格子状の町並みで生じる不都合が、放射状の区割りではごまかせるのでは、と思ったりします(直線よりも曲線の道の方が、傾斜がゆるやかに感じられる等)。
住宅地として開発されたため、建築物の高さ制限ばかりか店舗の営業制限もあり、終電後(25時以降)は真っ暗になるそうです(第二の田園調布を目指すよう)。
日吉キャンパスは教養課程的な性格(1・2年生が多い)のため、未成年者の学生が多く、学生が夜中まで騒がしいのはおかしい場所柄なのは確かです。
キャンパスとは駅の反対側にある商店街を、慶大生は「ひようら(日吉駅の裏?)」と呼ぶそうですが、教養を学ぶヒヨコが遊ぶ裏庭のようなキレイな繁華街、では言い過ぎか?
この付近に暮らしていればとりあえず「OK!」という若いおばちゃんが多そうに見えますが、横浜には都会っぽい下町という印象がありますから、同じ市内でも要求の対象が違うというか、東京へ向けられる関心の高さがとても強く感じられる町との印象を受けます。
1889年(明治22年)市町村制施行の町村合併で日吉村が誕生します。
川崎市や横浜市から合併の誘いを受けるも、分割を望まない村側との話は進展しません。
当時の日吉村は矢上川を境に、東部は二ヶ領用水を利用した稲作を行う川崎市側と結び付きが、西部は桃などの果物生産で横浜市側との結び付きがありました。
1933年(昭和8年)東京横浜電鉄(現在の東急)が慶應義塾を誘致する際、横浜市から水道を引いたことで合併問題が再燃します。
結局県知事の裁定で、1937年矢上川の東側は川崎市に、西側は横浜市に編入され、川を境に分割されることになります。
その横浜市側では、昭和初期からイチジクの栽培が盛んになり、最盛期(1960年頃)には、春のイチゴ、夏のイチジク狩りの観光地として東京からの観光人気を集める農作地域になります。
当時は、出かけるにはちょうどいい郊外という立地だったようです。
かつて日吉には「東急電鉄発祥の地」記念碑がありましたが、現在は元住吉駅の車庫に移設されています。
ここは東急電鉄の前身である東京横浜電鐡が、鉄道建設の最初に着手した日吉〜新丸子間の水田を買収した記念の地とされます。
都心側では、多摩川の砂利採取に利用された軌道は、後に都電(路面電車)や旅客鉄道に転用されますが、神奈川県側に軌道はありませんから、東京圏から鉄道網を広げようとする意欲のおかげでこの地域は開かれ、五島慶太(東急会長)は大きな富を手にすることになります。
星宿山 正福寺(Map)
以前訪れた、柿生の地名由来地とされる王禅寺と同じ山号(仏教寺院に付ける称号)「星宿山」を持つ正福寺です。
わたしはガキ時分天体観測が好きでしたが、そうでない方にも星宿山の響きには引かれるものがあるのでは?
この寺の記録は見当たらないのですが、王禅寺では創建当時に毎晩天から星が降り、その光があたり一面を照らすことから「星降山(ほしくだりやま)」と呼ばれ、それが星宿山となる話が残るので、この寺についても同様のことが推測されます。
王禅寺は757年創建の記録が残る真言宗(空海)の寺院で、正福寺の開創年代は不明ですが天台宗(最澄)の寺院になります。
何かとライバル視される空海(天才肌)と最澄(努力家)ですが、この山号の符合は、和解できない教義間の敵対心ではなく、創建時に流星群が盛んに星を降らしていただけかも知れませんし、両寺院とも「とても星空がキレイな丘陵地」とした方が、すんなりと納得できる気がします。
近しい場所ですし、それぞれに「星宿山」を守ってきたことは、「天」「空」からの恵みへの感謝の気持ちが根付いたことを示しているのではないでしょうか。
このお寺では上写真の御霊堂が重要なようで、この建物が旧小机領三十三観音霊場めぐりの霊場札所とされています。
上写真は高田(たかた)付近の切り通し。
鯛ヶ崎公園(Map)
横浜市営地下鉄グリーンライン日吉本町駅から5分ほどの場所にある鯛ヶ崎公園には、「プレイパーク:自己責任で自由に遊べる空間」があります。
プレイパークはこれまで何カ所も紹介していますが、ガキ時分に遊んだ秘密基地的要素に引かれるのかも知れません。
YPCネット(横浜にプレイパークを創ろうネットワーク:2002年発足)に賛同する方々の活動で、現在横浜市内には20のプレイパークがあります。
子どもたちに「自由さ」をアピールするためか、公衆トイレの外壁がカラフルに装飾されています。
この原色的な色合いから想起するのは、1960年代末期の「フラワームーブメント」のイメージです。
現在では多様な美意識が混在・氾らんしており、この絵はその中から選択されたことを踏まえると(作者の有名無名は関係ない)、当時一世を風靡した「カラフル主義」一辺倒の風潮は「革命なのか、新芽発芽期の幼稚さだったのか?」と、時代を振り返らせてくれるインパクトあるトイレでした。
手作りブランコに立って乗っている娘の声が聞こえてきました。
「わたしこの前もおばさんに写真撮られたけど、今日はオジサンに撮られてる……」
──ハイハイそうですよ、わたしが変なオジサン、ってか?
「本とかに載っちゃうのかなぁ? でもわたし載ってみたいんだぁ」
──本じゃなくてゴメンね……
そんな状況で、変なオジサンから声を掛けると怪しまれそうですし(左上にこちらをうかがう顔があります)、撮らせてもらって目が合えばニコッとするのが関の山というところです。
以前の地名である鯛ケ崎は現在日吉本町五丁目とされ、その地名由来はどうも見当たりません。
傾斜地の地名で丘陵地も含まれるので、以前(と言っても縄文時代)海だったころには鯛が捕れたかも知れませんが、縄文時代の伝えは残らないでしょうから、古墳・貝塚から鯛の骨が多く出土した等の理由が考えられます。
金蔵寺(こんぞうじ)(Map)
横浜市営地下鉄グリーンラインには、日吉駅の隣に日吉本町駅があります。
「本町」の響きには古くから栄えた町並みのイメージがあり、懐かしい感じの商店街に「ここが本町か!」を期待していましたが、そんな理由ではなかったようです。
傾斜地が多く大規模開発ができない日吉駅周辺から離れた、平地の広がる谷戸地に旧住宅公団が団地を建設したことで、商業地域が発展します。
現在団地はリニューアルされ、新駅も誕生したので住宅圏として発展しそうです。
近くの丘陵を背にした地に金蔵寺(天台宗)があり、その斜面の上にある「日吉権現」(不動明王:密教根本尊の大日如来の化身。お不動さん)が、日吉の地名由来とされます。そのためここが本町とされたようです(日吉権現は比叡山の日吉山王(ひえさんのう)、現在の日枝神社の分霊)。
隣駅元住吉命名の庶民的な由緒とは違い重い印象もありますが、そんな響きにも品格が感じられるところが、人気住宅地の理由のひとつかも知れません。
ここは別称「国家鎮護道場」とされますが、これは最澄が天台宗を開く際、当時の政府から命を受け(国家のための宗教)、比叡山に鎮護国家の根本道場開いた流れと思われます。
時を同じくしてライバルとされる空海も国家困窮に際し、密教の即身成仏の思想を国家と結びつけ「国家の鎮護」を目指します。
当時の宗教は「国を守るため」の手段と期待されていました。
上記写真中央の派手な色遣いの灯ろうは「キリシタン灯篭」とされますが由緒は不明です。
他の施設にも、目を引く派手な配色がみられることから、密教(天台宗・真言宗等)のルーツとされるインドを意識しているように感じられます。
でも、龍の絵があったりするので、それは中国起源か? と考えた末、折衷(せっちゅう)が得意な日本流なんでしょ!? と感じた瞬間から、和める印象に変わるところが不思議です(心理と認識のいい加減さを自覚します)。
江戸時代には徳川将軍家の菩提寺である上野寛永寺の末寺とされ、家康・秀忠父子から寄進された梵鐘が現存するので、おそらく江戸を守る役割が託された寺院なのでしょう。
NHK大河ドラマ『江』は、関ヶ原の戦いから徳川の世に向かおうとしていますが、今回の田渕久美子の脚本(『篤姫』も担当)には「思いが強すぎる」印象があります。
知識の裏付けがあるにせよ、歴史上特段に注目を集める時代に、「アレ?」という設定を持ち込まれた時の視聴者の反応は、視点の転換好きなわたしでも「これじゃマンガだよ」と思う場面の連続です。
いつ見るのをやめようかと思っていますが、徳川幕府が盤石となる三代家光の時代に至るまでの状況を知りたい気持ちで見続けています……(江は家康の息子秀忠の妻で家光の母なので、徳川の母と言えるような存在)
【神奈川県】
お盆明けにこの夏の最高気温を記録した関東地方ですが、一転して秋口を思わせるひんやりとした空気に包まれました。
そんな気候変化の極端さに閉口する近ごろですから、この後に再度「猛暑日来襲!」があったのでは、心身共にうんざりさせれられ、夏の疲れが出てしまいそうです。
油断の無きよう……
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日吉(Map)
東急東横・目黒線、横浜市営地下鉄日吉駅は、駅前の慶應大学日吉キャンパスや住宅地のイメージから、好感度はあっても何か気取っているような印象もあります。
慶應の学生でも、クラブ活動帰りにはラーメン屋でガッツリ食べたいわけで、今どきの学生街にはきれいな店も増えましたが、実情は変わらないようで安心したりします。
駅西側は田園調布のような、駅を中心に放射状+円周状の道路で区画される町並みが広がります(下写真、全景撮影は無理なので、その一部)。
田園調布同様に起伏のある地域の都市計画では、格子状の町並みで生じる不都合が、放射状の区割りではごまかせるのでは、と思ったりします(直線よりも曲線の道の方が、傾斜がゆるやかに感じられる等)。
住宅地として開発されたため、建築物の高さ制限ばかりか店舗の営業制限もあり、終電後(25時以降)は真っ暗になるそうです(第二の田園調布を目指すよう)。
日吉キャンパスは教養課程的な性格(1・2年生が多い)のため、未成年者の学生が多く、学生が夜中まで騒がしいのはおかしい場所柄なのは確かです。
キャンパスとは駅の反対側にある商店街を、慶大生は「ひようら(日吉駅の裏?)」と呼ぶそうですが、教養を学ぶヒヨコが遊ぶ裏庭のようなキレイな繁華街、では言い過ぎか?
この付近に暮らしていればとりあえず「OK!」という若いおばちゃんが多そうに見えますが、横浜には都会っぽい下町という印象がありますから、同じ市内でも要求の対象が違うというか、東京へ向けられる関心の高さがとても強く感じられる町との印象を受けます。
1889年(明治22年)市町村制施行の町村合併で日吉村が誕生します。
川崎市や横浜市から合併の誘いを受けるも、分割を望まない村側との話は進展しません。
当時の日吉村は矢上川を境に、東部は二ヶ領用水を利用した稲作を行う川崎市側と結び付きが、西部は桃などの果物生産で横浜市側との結び付きがありました。
1933年(昭和8年)東京横浜電鉄(現在の東急)が慶應義塾を誘致する際、横浜市から水道を引いたことで合併問題が再燃します。
結局県知事の裁定で、1937年矢上川の東側は川崎市に、西側は横浜市に編入され、川を境に分割されることになります。
その横浜市側では、昭和初期からイチジクの栽培が盛んになり、最盛期(1960年頃)には、春のイチゴ、夏のイチジク狩りの観光地として東京からの観光人気を集める農作地域になります。
当時は、出かけるにはちょうどいい郊外という立地だったようです。
かつて日吉には「東急電鉄発祥の地」記念碑がありましたが、現在は元住吉駅の車庫に移設されています。
ここは東急電鉄の前身である東京横浜電鐡が、鉄道建設の最初に着手した日吉〜新丸子間の水田を買収した記念の地とされます。
都心側では、多摩川の砂利採取に利用された軌道は、後に都電(路面電車)や旅客鉄道に転用されますが、神奈川県側に軌道はありませんから、東京圏から鉄道網を広げようとする意欲のおかげでこの地域は開かれ、五島慶太(東急会長)は大きな富を手にすることになります。
星宿山 正福寺(Map)
以前訪れた、柿生の地名由来地とされる王禅寺と同じ山号(仏教寺院に付ける称号)「星宿山」を持つ正福寺です。
わたしはガキ時分天体観測が好きでしたが、そうでない方にも星宿山の響きには引かれるものがあるのでは?
この寺の記録は見当たらないのですが、王禅寺では創建当時に毎晩天から星が降り、その光があたり一面を照らすことから「星降山(ほしくだりやま)」と呼ばれ、それが星宿山となる話が残るので、この寺についても同様のことが推測されます。
王禅寺は757年創建の記録が残る真言宗(空海)の寺院で、正福寺の開創年代は不明ですが天台宗(最澄)の寺院になります。
何かとライバル視される空海(天才肌)と最澄(努力家)ですが、この山号の符合は、和解できない教義間の敵対心ではなく、創建時に流星群が盛んに星を降らしていただけかも知れませんし、両寺院とも「とても星空がキレイな丘陵地」とした方が、すんなりと納得できる気がします。
近しい場所ですし、それぞれに「星宿山」を守ってきたことは、「天」「空」からの恵みへの感謝の気持ちが根付いたことを示しているのではないでしょうか。
このお寺では上写真の御霊堂が重要なようで、この建物が旧小机領三十三観音霊場めぐりの霊場札所とされています。
上写真は高田(たかた)付近の切り通し。
鯛ヶ崎公園(Map)
横浜市営地下鉄グリーンライン日吉本町駅から5分ほどの場所にある鯛ヶ崎公園には、「プレイパーク:自己責任で自由に遊べる空間」があります。
プレイパークはこれまで何カ所も紹介していますが、ガキ時分に遊んだ秘密基地的要素に引かれるのかも知れません。
YPCネット(横浜にプレイパークを創ろうネットワーク:2002年発足)に賛同する方々の活動で、現在横浜市内には20のプレイパークがあります。
子どもたちに「自由さ」をアピールするためか、公衆トイレの外壁がカラフルに装飾されています。
この原色的な色合いから想起するのは、1960年代末期の「フラワームーブメント」のイメージです。
現在では多様な美意識が混在・氾らんしており、この絵はその中から選択されたことを踏まえると(作者の有名無名は関係ない)、当時一世を風靡した「カラフル主義」一辺倒の風潮は「革命なのか、新芽発芽期の幼稚さだったのか?」と、時代を振り返らせてくれるインパクトあるトイレでした。
手作りブランコに立って乗っている娘の声が聞こえてきました。
「わたしこの前もおばさんに写真撮られたけど、今日はオジサンに撮られてる……」
──ハイハイそうですよ、わたしが変なオジサン、ってか?
「本とかに載っちゃうのかなぁ? でもわたし載ってみたいんだぁ」
──本じゃなくてゴメンね……
そんな状況で、変なオジサンから声を掛けると怪しまれそうですし(左上にこちらをうかがう顔があります)、撮らせてもらって目が合えばニコッとするのが関の山というところです。
以前の地名である鯛ケ崎は現在日吉本町五丁目とされ、その地名由来はどうも見当たりません。
傾斜地の地名で丘陵地も含まれるので、以前(と言っても縄文時代)海だったころには鯛が捕れたかも知れませんが、縄文時代の伝えは残らないでしょうから、古墳・貝塚から鯛の骨が多く出土した等の理由が考えられます。
金蔵寺(こんぞうじ)(Map)
横浜市営地下鉄グリーンラインには、日吉駅の隣に日吉本町駅があります。
「本町」の響きには古くから栄えた町並みのイメージがあり、懐かしい感じの商店街に「ここが本町か!」を期待していましたが、そんな理由ではなかったようです。
傾斜地が多く大規模開発ができない日吉駅周辺から離れた、平地の広がる谷戸地に旧住宅公団が団地を建設したことで、商業地域が発展します。
現在団地はリニューアルされ、新駅も誕生したので住宅圏として発展しそうです。
近くの丘陵を背にした地に金蔵寺(天台宗)があり、その斜面の上にある「日吉権現」(不動明王:密教根本尊の大日如来の化身。お不動さん)が、日吉の地名由来とされます。そのためここが本町とされたようです(日吉権現は比叡山の日吉山王(ひえさんのう)、現在の日枝神社の分霊)。
隣駅元住吉命名の庶民的な由緒とは違い重い印象もありますが、そんな響きにも品格が感じられるところが、人気住宅地の理由のひとつかも知れません。
ここは別称「国家鎮護道場」とされますが、これは最澄が天台宗を開く際、当時の政府から命を受け(国家のための宗教)、比叡山に鎮護国家の根本道場開いた流れと思われます。
時を同じくしてライバルとされる空海も国家困窮に際し、密教の即身成仏の思想を国家と結びつけ「国家の鎮護」を目指します。
当時の宗教は「国を守るため」の手段と期待されていました。
上記写真中央の派手な色遣いの灯ろうは「キリシタン灯篭」とされますが由緒は不明です。
他の施設にも、目を引く派手な配色がみられることから、密教(天台宗・真言宗等)のルーツとされるインドを意識しているように感じられます。
でも、龍の絵があったりするので、それは中国起源か? と考えた末、折衷(せっちゅう)が得意な日本流なんでしょ!? と感じた瞬間から、和める印象に変わるところが不思議です(心理と認識のいい加減さを自覚します)。
江戸時代には徳川将軍家の菩提寺である上野寛永寺の末寺とされ、家康・秀忠父子から寄進された梵鐘が現存するので、おそらく江戸を守る役割が託された寺院なのでしょう。
NHK大河ドラマ『江』は、関ヶ原の戦いから徳川の世に向かおうとしていますが、今回の田渕久美子の脚本(『篤姫』も担当)には「思いが強すぎる」印象があります。
知識の裏付けがあるにせよ、歴史上特段に注目を集める時代に、「アレ?」という設定を持ち込まれた時の視聴者の反応は、視点の転換好きなわたしでも「これじゃマンガだよ」と思う場面の連続です。
いつ見るのをやめようかと思っていますが、徳川幕府が盤石となる三代家光の時代に至るまでの状況を知りたい気持ちで見続けています……(江は家康の息子秀忠の妻で家光の母なので、徳川の母と言えるような存在)
2011/08/08
地名は大切な財産──元住吉
2011.7.17
【神奈川県】
暑さとゲリラ豪雨で迎えた8月ですが、自分の中にある「8月」に対する意識というものは、年齢を重ねるごとにその重みが増しているような印象があります。
夏の甲子園が開幕し、広島・長崎原爆の日があり、終戦(敗戦)の日があり、お盆を迎えます。
大地震被災地の思いを背負った球児が、苦悩を抱えながらも晴れの舞台で躍動する姿や、被災者の新盆なのに「今年の夏祭りは無理だろう…」の葛藤から、自身や周囲を鼓舞しながら規模は小さくとも祭りを作り上げていく姿のTVレポートに、涙が止まらなくなります……
この国の人々は、数々の苦しみや痛みを今回のように共有することから、地域〜島国全体へと絆を深めていったことが、痛いほど伝わってきますし、自分の流す涙からもその一員であるとの「自覚」をしっかりと感じることができました……
より大きな地図で 東横沿線 を表示
法政二高(Map)
東横線武蔵小杉駅〜元住吉駅間の西側に法政大学第二中・高等学校(法政二高)があります。
大学などでは目にしますが、高校に時計台があることは自慢として記憶に残るでしょうし、高い建物が増えた現在でも、東横線やJR南武線の車窓からもこの白い塔は目につくので、その存在感は健在です。
時計台や教会の尖塔(せんとう)のように、地域のシンボルとなる建造物を作る側には、その姿に恥じぬ自覚が求められますから、そこに通う生徒たちの気持ちも引き締まるのでしょう。実際生徒たちの品行はいいように見受けられます。
法政二高といえば「柴田勲(元巨人)率いる野球部の甲子園夏春連覇(1960〜61年)」と語られたのはかなり古い話ですが、当時騒ぎすぎたためか、それ以降の伝説を耳にしていない気がします。
しかし卒業名簿には、神和住純(テニス選手)、岩合光昭(写真家)、寺尾聰(中退)等々、名の知れた方々の名前が並びます。
高校2年時だったか夏の甲子園予選で、在籍校がシードの法政二高に勝利したことがありました。開校4年目の新参者としては快挙と、大いに盛り上がりましたが、ご想像の通り次戦で敗退しました。
何年たっても話のネタにできるのだから立派なものです。他のネタは思い浮かびませんが「青春してたんだろうなぁ〜」だけは、きっと確かなのでしょう……
住吉神社(Map)
上写真は、駅近くの線路沿いにある住吉神社です。
夏祭り(盆踊り)で使用されるやぐらが準備されていますが、その骨組みはどこもこんな夢のない姿なのかも知れません。
そんな準備中のやぐらでも、ガキ時分には祭りへの期待感からか、用もないのに遊び場にして怒られたことを思い出したりします。
元は矢倉神社の名が、明治42年(1909年)政府の「神社合祀政策」(神社の数を減らして経費節減し「国家の宗祀」体制を守るため)により、10の神社が合祀(ごうし)され、当時の村名から「住吉神社」となります。
同様の経緯を持つ神社をよく目にするので、「富国強兵」時代の経費節減策規模の大きさが想像されます。
しかし現在は、エネルギー政策立て直しに向け国民は節電に努力しているのですから、「余剰脂肪」だけでも削った国政運営をしてくれなければ、それに腹を立てたクーデターが起きたとしても、非難できないと思ったりします……
「住吉」の響きから、大阪住吉大社の由来と思っていたのでこの経緯には驚きました(現在は江戸っ子気質バリバリの佃島の住吉神社も、大阪に由来します)。
この「住吉」の名は、「瑞祥地名(ずいしょうちめい:めでたい言葉が由緒無く使われる地名)」とされるそうです。
「住吉」とは海の神に由来するらしいので、海辺だったと思われる縄文時代までさかのぼれば、接点が見つかるのかも知れません……
元住吉駅(Map)
ところが、1925年(大正14年)に住吉村は中原町に合併され、「住吉」の地名は消滅してしまいます。
住民が失望した翌年に開業する東京横浜電鉄(現東急)駅名決定には、地元の強い要望から「元住吉:元の住吉村」とされた経緯があるそうです。
「住吉」という全国区のメジャーな地名に「元」がついているので、歴史へのロマンが大きく膨らみますが、実に分かりやすいオチなのが、歴史の浅い関東的という気もします。
ですが、元の「住吉村」のネーミングには、関西出身者が関係していたように思えてなりません……
ここは2006年目黒線の日吉延伸(複々線化)工事により、巨大な高架駅とされました。
当駅付近には東横線最大の元住吉検車区(車両基地)があるので、土地の工面は何とかできても要件が多いため、工事に伴い自治体は振り回されることになります。
以前日吉側の尻手黒川道路は、地上を走る線路と高架で交差していましたが、今度は線路を高架にするので道路は地上にしてくれの要望。
そればかりか、武蔵小杉側の踏切は線路が高架になったのに、車両基地への進入路確保のため継続使用され、道路を地下道の交差にしろと(現在準備中)、わがまま放題です(これは自治体側の提案か?)。
結局は、駅の東西を結ぶメインストリート(商店街)の踏切は車両基地の関係でそのまま(はるかに警報の鳴る時間は短くなりましたが)ですから、川崎市は東急に頭が上がらないのだろうか? と思うも、市民交通の利便性が第一ですものね。
また車庫への入線経路が変わったため、それまでは「元住吉止まり」でそのまま車庫に入れたものが、武蔵小杉側からしか入れなくなったため、元住吉ではなく「武蔵小杉止まり」となり不便になったとのぼやきが聞こえそうです。
でも、最終電車は元住吉止まりで、車両はホームで夜を明かすそうです。列車で宿泊はできないと思いますが……
ブレーメン通り商店街(Map)
ここは元住吉駅西口を起点とする商店街で、1985年中小企業庁の「コミュニティマート構想モデル商店街」とされ、「中世ヨーロッパ風の街づくり」を目指し、1990年に「元住吉西口商店街」→「モトスミ・ブレーメン通り商店街振興組合」となります。
1991年には、ドイツ ブレーメン市の商店街と友好提携し、商店街には友好の証に贈られた「ブレーメンの音楽隊像」があります。
狙いでは音楽隊の像を撮るつもりでしたが、商店街の催しで像の存在を無視た出店のパラソルがあり断念しました(もう少し考えろよ!)。
戸越銀座ほど長くありませんが、空き店舗にもすぐ新しい店が開店するとても活気のある商店街なので、歩くだけでも楽しいストリートが実現できたのではないでしょうか。
一方、東横線を挟んだ東口にある「オズ通り商店街」(「オズの魔法使い」より)は、1992年西口の「ブレーメン」に対抗して命名されます。
どちらもファンタジックな命名ですが、それが嫌みにならないのは、店を構える方々の努力によるものと思いますし、これこそが現在の「元住吉の売り!」なのでしょう。
2駅でも歩いて行っちゃう(これ普通じゃないが、普段歩いているので30分弱と考えると歩いてしまう)「500円ランチの寿司や(名前忘れた)」「肉屋の正直食堂」等、モトスミらしい庶民的な魅力があります。
東横線元住吉駅と日吉駅の間には矢上川(鶴見川水系)が流れますが、そこから多摩川までは平坦地が広がるので、どこに分水界(雨水が流れ込む川の境界)があるのか見当もつかず調べました。
中間の武蔵小杉付近には現在も、多摩川の登戸付近にある宿河原堰(TVドラマ『岸辺のアルバム』舞台:洪水時に堰を爆破した様子が記憶に残ります)から取水された二ヶ領(にかりょう)用水が流れていますが、その流れを多摩川と鶴見川の分水界としているようです(用水建設当時も広く水を行き渡らせる目的から、付近で最も高い場所に建設した)。
その用水が武蔵小杉付近で分流し、渋川とされる流れは慶應大矢上キャンパス付近で矢上川(鶴見川)に合流しますが、そこまで考えて設計していたことに驚いてしまいます。
当時周辺には網の目のような水路が存在しており、上写真は、そんな水路の記憶をとどめた場所のひとつに見えます。
上述水路跡近くのマンションのベランダで大きなパラボラアンテナを見かけ、「何を見てるのか?」と考えながらも、いくら何でも今どきの「日よけ対策」でないだろうと……
大きなパラボラアンテナを立てる理由には、「海外の衛星放送」を無料で見られることがあるようです。
そのひとつに「ASIANSAT-3S衛星」があり、そこでは「STAR SPORTS:世界中の様々なスポーツ」「Channel[V]:中国・香港・台湾のポップス音楽」「鳳凰衛視:中国・香港・台湾のドラマ」等が見られるそうです。
しかし、いくら国際色に富んだ映像が楽しめても、字幕が無ければただのディスプレイでしかありません。
でも、外国籍の方が母国放送を見ようとするならば、その努力はとても理解できるところです。
今どきのスパイはこんな鈍くさい手は使わないでしょうし、と思うところが盲点だったりして……
追記
週明けの金融市場の動向が不安です。
これまでは関心もないので「勝手にやってくれ」くらいにしか思っていませんでしたが、日本が再生するためには希望が必要です。
現在の世界経済には3つの懸念材料あるとされます。
・アメリカの財政状況の不透明さ
・EU諸国の信用不安
・日本の財政不安と震災被害
アメリカやEUは世界の看板役者ですし、格付けでも日本より上位ですから、多少の不安材料があっても頑張ってもらわなきゃ困るのに、同じように財政赤字が莫大で、震災を受けヨレヨレの「Yen」を頼るんじゃないよ! と言いたくなります。
円はドルの後ろ盾(アメリカ国債保有額では中国に抜かれるも2位)とされるのか、この3極低迷(米・欧・日)の中で「まだマシ」とされることをこの国は、素直によろこべない状況にあります。
それを好機ととらえ行動に移すには時間が必要です。まずはこの時期を何とか耐えなければ光も見えてきません。
でも、不安払しょくに懸命なアメリカやEU諸国には協調性が感じられますが、「鉄道事故クーデター」になりかねない中国は、バブル崩壊を目前にしていますから、「ネオ チャイナシンドローム」(原発ではない)からの痛手を減らすため、進出企業には早急なシフトチェンジが課題と思えてなりません……
【神奈川県】
暑さとゲリラ豪雨で迎えた8月ですが、自分の中にある「8月」に対する意識というものは、年齢を重ねるごとにその重みが増しているような印象があります。
夏の甲子園が開幕し、広島・長崎原爆の日があり、終戦(敗戦)の日があり、お盆を迎えます。
大地震被災地の思いを背負った球児が、苦悩を抱えながらも晴れの舞台で躍動する姿や、被災者の新盆なのに「今年の夏祭りは無理だろう…」の葛藤から、自身や周囲を鼓舞しながら規模は小さくとも祭りを作り上げていく姿のTVレポートに、涙が止まらなくなります……
この国の人々は、数々の苦しみや痛みを今回のように共有することから、地域〜島国全体へと絆を深めていったことが、痛いほど伝わってきますし、自分の流す涙からもその一員であるとの「自覚」をしっかりと感じることができました……
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法政二高(Map)
東横線武蔵小杉駅〜元住吉駅間の西側に法政大学第二中・高等学校(法政二高)があります。
大学などでは目にしますが、高校に時計台があることは自慢として記憶に残るでしょうし、高い建物が増えた現在でも、東横線やJR南武線の車窓からもこの白い塔は目につくので、その存在感は健在です。
時計台や教会の尖塔(せんとう)のように、地域のシンボルとなる建造物を作る側には、その姿に恥じぬ自覚が求められますから、そこに通う生徒たちの気持ちも引き締まるのでしょう。実際生徒たちの品行はいいように見受けられます。
法政二高といえば「柴田勲(元巨人)率いる野球部の甲子園夏春連覇(1960〜61年)」と語られたのはかなり古い話ですが、当時騒ぎすぎたためか、それ以降の伝説を耳にしていない気がします。
しかし卒業名簿には、神和住純(テニス選手)、岩合光昭(写真家)、寺尾聰(中退)等々、名の知れた方々の名前が並びます。
高校2年時だったか夏の甲子園予選で、在籍校がシードの法政二高に勝利したことがありました。開校4年目の新参者としては快挙と、大いに盛り上がりましたが、ご想像の通り次戦で敗退しました。
何年たっても話のネタにできるのだから立派なものです。他のネタは思い浮かびませんが「青春してたんだろうなぁ〜」だけは、きっと確かなのでしょう……
住吉神社(Map)
上写真は、駅近くの線路沿いにある住吉神社です。
夏祭り(盆踊り)で使用されるやぐらが準備されていますが、その骨組みはどこもこんな夢のない姿なのかも知れません。
そんな準備中のやぐらでも、ガキ時分には祭りへの期待感からか、用もないのに遊び場にして怒られたことを思い出したりします。
元は矢倉神社の名が、明治42年(1909年)政府の「神社合祀政策」(神社の数を減らして経費節減し「国家の宗祀」体制を守るため)により、10の神社が合祀(ごうし)され、当時の村名から「住吉神社」となります。
同様の経緯を持つ神社をよく目にするので、「富国強兵」時代の経費節減策規模の大きさが想像されます。
しかし現在は、エネルギー政策立て直しに向け国民は節電に努力しているのですから、「余剰脂肪」だけでも削った国政運営をしてくれなければ、それに腹を立てたクーデターが起きたとしても、非難できないと思ったりします……
「住吉」の響きから、大阪住吉大社の由来と思っていたのでこの経緯には驚きました(現在は江戸っ子気質バリバリの佃島の住吉神社も、大阪に由来します)。
この「住吉」の名は、「瑞祥地名(ずいしょうちめい:めでたい言葉が由緒無く使われる地名)」とされるそうです。
「住吉」とは海の神に由来するらしいので、海辺だったと思われる縄文時代までさかのぼれば、接点が見つかるのかも知れません……
元住吉駅(Map)
ところが、1925年(大正14年)に住吉村は中原町に合併され、「住吉」の地名は消滅してしまいます。
住民が失望した翌年に開業する東京横浜電鉄(現東急)駅名決定には、地元の強い要望から「元住吉:元の住吉村」とされた経緯があるそうです。
「住吉」という全国区のメジャーな地名に「元」がついているので、歴史へのロマンが大きく膨らみますが、実に分かりやすいオチなのが、歴史の浅い関東的という気もします。
ですが、元の「住吉村」のネーミングには、関西出身者が関係していたように思えてなりません……
ここは2006年目黒線の日吉延伸(複々線化)工事により、巨大な高架駅とされました。
当駅付近には東横線最大の元住吉検車区(車両基地)があるので、土地の工面は何とかできても要件が多いため、工事に伴い自治体は振り回されることになります。
以前日吉側の尻手黒川道路は、地上を走る線路と高架で交差していましたが、今度は線路を高架にするので道路は地上にしてくれの要望。
そればかりか、武蔵小杉側の踏切は線路が高架になったのに、車両基地への進入路確保のため継続使用され、道路を地下道の交差にしろと(現在準備中)、わがまま放題です(これは自治体側の提案か?)。
結局は、駅の東西を結ぶメインストリート(商店街)の踏切は車両基地の関係でそのまま(はるかに警報の鳴る時間は短くなりましたが)ですから、川崎市は東急に頭が上がらないのだろうか? と思うも、市民交通の利便性が第一ですものね。
また車庫への入線経路が変わったため、それまでは「元住吉止まり」でそのまま車庫に入れたものが、武蔵小杉側からしか入れなくなったため、元住吉ではなく「武蔵小杉止まり」となり不便になったとのぼやきが聞こえそうです。
でも、最終電車は元住吉止まりで、車両はホームで夜を明かすそうです。列車で宿泊はできないと思いますが……
ブレーメン通り商店街(Map)
ここは元住吉駅西口を起点とする商店街で、1985年中小企業庁の「コミュニティマート構想モデル商店街」とされ、「中世ヨーロッパ風の街づくり」を目指し、1990年に「元住吉西口商店街」→「モトスミ・ブレーメン通り商店街振興組合」となります。
1991年には、ドイツ ブレーメン市の商店街と友好提携し、商店街には友好の証に贈られた「ブレーメンの音楽隊像」があります。
狙いでは音楽隊の像を撮るつもりでしたが、商店街の催しで像の存在を無視た出店のパラソルがあり断念しました(もう少し考えろよ!)。
戸越銀座ほど長くありませんが、空き店舗にもすぐ新しい店が開店するとても活気のある商店街なので、歩くだけでも楽しいストリートが実現できたのではないでしょうか。
一方、東横線を挟んだ東口にある「オズ通り商店街」(「オズの魔法使い」より)は、1992年西口の「ブレーメン」に対抗して命名されます。
どちらもファンタジックな命名ですが、それが嫌みにならないのは、店を構える方々の努力によるものと思いますし、これこそが現在の「元住吉の売り!」なのでしょう。
2駅でも歩いて行っちゃう(これ普通じゃないが、普段歩いているので30分弱と考えると歩いてしまう)「500円ランチの寿司や(名前忘れた)」「肉屋の正直食堂」等、モトスミらしい庶民的な魅力があります。
東横線元住吉駅と日吉駅の間には矢上川(鶴見川水系)が流れますが、そこから多摩川までは平坦地が広がるので、どこに分水界(雨水が流れ込む川の境界)があるのか見当もつかず調べました。
中間の武蔵小杉付近には現在も、多摩川の登戸付近にある宿河原堰(TVドラマ『岸辺のアルバム』舞台:洪水時に堰を爆破した様子が記憶に残ります)から取水された二ヶ領(にかりょう)用水が流れていますが、その流れを多摩川と鶴見川の分水界としているようです(用水建設当時も広く水を行き渡らせる目的から、付近で最も高い場所に建設した)。
その用水が武蔵小杉付近で分流し、渋川とされる流れは慶應大矢上キャンパス付近で矢上川(鶴見川)に合流しますが、そこまで考えて設計していたことに驚いてしまいます。
当時周辺には網の目のような水路が存在しており、上写真は、そんな水路の記憶をとどめた場所のひとつに見えます。
上述水路跡近くのマンションのベランダで大きなパラボラアンテナを見かけ、「何を見てるのか?」と考えながらも、いくら何でも今どきの「日よけ対策」でないだろうと……
大きなパラボラアンテナを立てる理由には、「海外の衛星放送」を無料で見られることがあるようです。
そのひとつに「ASIANSAT-3S衛星」があり、そこでは「STAR SPORTS:世界中の様々なスポーツ」「Channel[V]:中国・香港・台湾のポップス音楽」「鳳凰衛視:中国・香港・台湾のドラマ」等が見られるそうです。
しかし、いくら国際色に富んだ映像が楽しめても、字幕が無ければただのディスプレイでしかありません。
でも、外国籍の方が母国放送を見ようとするならば、その努力はとても理解できるところです。
今どきのスパイはこんな鈍くさい手は使わないでしょうし、と思うところが盲点だったりして……
追記
週明けの金融市場の動向が不安です。
これまでは関心もないので「勝手にやってくれ」くらいにしか思っていませんでしたが、日本が再生するためには希望が必要です。
現在の世界経済には3つの懸念材料あるとされます。
・アメリカの財政状況の不透明さ
・EU諸国の信用不安
・日本の財政不安と震災被害
アメリカやEUは世界の看板役者ですし、格付けでも日本より上位ですから、多少の不安材料があっても頑張ってもらわなきゃ困るのに、同じように財政赤字が莫大で、震災を受けヨレヨレの「Yen」を頼るんじゃないよ! と言いたくなります。
円はドルの後ろ盾(アメリカ国債保有額では中国に抜かれるも2位)とされるのか、この3極低迷(米・欧・日)の中で「まだマシ」とされることをこの国は、素直によろこべない状況にあります。
それを好機ととらえ行動に移すには時間が必要です。まずはこの時期を何とか耐えなければ光も見えてきません。
でも、不安払しょくに懸命なアメリカやEU諸国には協調性が感じられますが、「鉄道事故クーデター」になりかねない中国は、バブル崩壊を目前にしていますから、「ネオ チャイナシンドローム」(原発ではない)からの痛手を減らすため、進出企業には早急なシフトチェンジが課題と思えてなりません……
2011/08/01
若い汗は「サラサラ」と感じる場面──武蔵小杉
2011.7.16
【神奈川県】
台風に続き今度はゲリラ豪雨と、歯止めのきかない「極端な気候」が日常化した昨今は、気の休まる間がありません。
そんな不安定な気候の中、東京の気温だけに限れば、猛暑日も限られ「むかしの夏はこんな感じだった」と、「夏の記憶」をたどるゆとりを与えてくれます。
梅雨明け10日は猛烈に暑かったものの、台風が来てクールダウン、豪雨でまたクールダウンと、むかしの夏も台風や大雨で被害を受けたにしても、暑さはそこでひと息つけた気がします。
近ごろでは夏のプールで唇が紫になる(ガキ時分の経験)ような陽気は、まるっきりなかった印象があります。
暑さ一辺倒で「夏の間の季節感」のメリハリもありませんでしたが、この夏の気温だけには「懐かしい夏の肌ざわり」があるように思います。
とは言え、これから8月ですから、気を引き締めて……
より大きな地図で 東横沿線 を表示
西明寺(Map)
等々力緑地へ向かう途中、以前にも立ち寄った西明寺入口付近の様子が変わっていることに驚きました。
付近は江戸時代徳川将軍家の「小杉御殿」(鷹狩り等に利用された宿泊施設)があった場所で、現在もわずかながら面影が残される地区です。
付近でとても印象に残るのが、西明寺参道へと向かう中原街道が入口付近で鉤(かぎ)状に折れ曲がり続く形状です。
将軍が訪れる地への外敵進入を防ぐ作りとされますが、現在の街道を往来する車もしっかり足止めを食らう渋滞地区となっています。
渋滞は困るが、歴史の名残を感じさせてくれる場所に違いありません。
そこに、曲がり角をショートカットする方向に整地された空き地が伸びています。あらあら、町並みを壊すとは思い切ったことを……
歴史と共存する開発か、さら地の再開発かの判断は、どこかの時代で求められるにしても、その我慢できない飽和点が現代に訪れたことを(存続への意志が弱まった時代と思われる)、後の時代に伝えられる形で記録する義務があるように思います。
これで地元自慢が半減するような気がします。地名だけ残ってもねぇ……
お寺の池はとても狭く(10m四方も無い程度)こんな池でヒナが育てられるのか、という環境で子育てをするカモの家族です。
上写真は、彼らを追い回すうちに親鳥が岸に上がってしまい、ヒナの力では上がれない状況に追い込んでしまった様子です。ゴメンね……(すぐに親がくわえて引き上げていました)
でもこんな狭い場所では、カラスやネコに襲われたら親でもヒナを守れないのではあるまいか?
子育ての環境を含めて、子孫を残すために苦難を乗り越えねばならないのは、人間と同じなのでしょう。
等々力緑地(Map)
ここは川崎市営の施設で、陸上競技場、硬式野球場、テニスコート、プール、とどろきアリーナ等の施設があり、陸上競技場はJリーグ「川崎フロンターレ」のホームグラウンドになります(Jリーグ発足時の1993年から2000年まで「ヴェルディ川崎」がホーム使用)。
梅雨明け直後のあきれてしまう「日差し」「暑さ」の中で、全国高等学校野球選手権神奈川大会が行われています(その結果、横浜高校が代表に)。
大会の頂点である甲子園ではもちろんのこと、地区予選球場の現場に接すると「夏の国民的行事」のすそ野の広さを実感します。
甲子園に注がれるエネルギー量のすさまじさには毎回感心しますが、そこに至る地方大会で流された関係者・応援の汗をトータルすると、驚愕するような代謝が行われたことになります。
そんな活動を計測する目安(単位)があれば、国内大会ではギネス級になるのではあるまいか?(国際大会ではオリンピックやW杯がある)
自分の高校当時は、何かの理由で在籍校の応援に行けなかったのですが、今さらながら行っておくべきだったと……
上写真は、試合に勝利した学校のブラスバンド部(?)です。
普段町中で大きな楽器を運ぶ姿を目にし「演奏のためとはいえ大変そう」と感じる対象が、大挙して押し寄せる姿を目にすると、練習を含めた彼らのエネルギー消費量も大変なものだろうと思ってしまいます。
でもあの年代の回復力は驚異的ですから、「疲れてもうドロドロ…」も一晩寝た翌朝にはケロッとして練習に向かったものです。
汗くささしか思い浮かばない部活の思い出ですが、外野の視点から見ると野球部員を含め、何て「サラサラ」した汗なのだろうと、美しいモノを見るような気持ちにさせられます。
年齢や生活習慣から「血液ドロドロ」が避けられない身には、「輝かしき年代」と映るのでしょう。
女子も男子も懸命に立ち向かい、勝敗は別にしても成し遂げた後の無邪気な姿を「カワイイ」と感じてしまうオヤジは、また来年も立ち寄ってしまいそうです。
でも、そんな姿が人間社会の営みであり、世代の上下や横の広がりをつなぐ「マトリックス:核」を共有する大切さを、再認識する年齢になったのかも知れません……
右写真は隣接の陸上トラックで、ウォームアップしている姿です。
改修直後の競技場は、まぶしいほどのコントラスト(芝の緑、トラックの赤、外側の青)でしたが、いい感じになじんできたように見えます。
道すがら「トラック&フィールド」(解釈に細かくこだわる向きもあるようだが、陸上部でいいじゃん!)と染められたTシャツ姿の高校生を見かけたので、競技場では大会・記録会が開かれていたようです。
同敷地には川崎市民ミュージアムがあり(1988年開館の博物館&美術館の複合文化施設)、その前に「トーマス転炉」が保存・展示されています(旧日本鋼管から寄付)。
製鉄について知識のない者は「炉=溶鉱炉」となりますが、「転炉」とは、製鋼過程で使用された不純物を取り除いて鉄鋼にするための設備のようです。
これは、世界で唯一保存されているトーマス転炉だそうで、工業で発展してきた川崎市の遺産になります。
その背後には、付近に広がっていた工場の敷地を再開発し、新たな「売り」にしようともくろんでいる、武蔵小杉の高層ビル群が並びます。
現在見えるビル群を第一期工事とするならば、第二期工事では東横線の駅に面した両側の再開発が進んでいます(中原区役所周辺の再開発も始まっています)。
まだこの後も東京機械の工場跡地が控えるので、ホコリっぽさはしばらく続きそうです……
泉沢寺(せんたくじ)(Map)
これまでも等々力緑地散歩の際は、すぐ脇を流れる二ヶ領用水(にかりょうようすい)沿いをよく歩きましたが、大きな木のある寺の印象があるも立ち寄ることはありませんでした。
以前訪れた「尾山台の傳乗寺は、川崎の泉沢寺と九品仏浄真寺の中間拠点とされた」と知り、引き寄せられました。
この寺は以前、東京都世田谷区千歳烏山にあり、世田谷吉良氏の菩提寺でしたが、焼失のためこの地に移されたそうです。
その吉良氏のイメージには、広く知られる「赤穂浪士の敵役:上野介(こうずけのすけ)の家柄」から、偉ぶった印象があり調べると、室町幕府の足利氏が途絶えたとしたら、関東出身の武家から代わりの将軍を立てられる家柄は吉良氏、という名門なんだそうです。
なるほど、世田谷だけでなく多摩川の対岸にも影響力があったことから、この寺が最先鋒の要塞として水堀が作られた理由も理解できる気がします。
二ヶ領用水はこの区間で、その旧水堀を利用しているようです。
上述の学習から地図を見て思ったのは、江戸時代の小杉御殿および中原街道は現在の西明寺門前で鉤状に屈曲しますが、その延長上には以前からあったと思われる泉沢寺が存在するので、この寺の影響もあったのではないか? という想像です。
少し視野が広がったように感じましたが、その先はまたの機会にでも……
地元での明るい話題といえば、Jリーグ「川崎フロンターレ」がここ数年上位にくい込んでいることではあるまいか?
年に20回程度のホーム試合ですが、その当日はホーム・アウエー双方のユニホームを着たやからが駅前(バス待ちの列)や歩道(町中を歩く列)にあふれますから、地元の店舗は「さぁ、いらっしゃい!」と気合いが入ります。
日数は少なくとも、活気があることは張り合いにできるのではないでしょうか。
ちょうど試合があったので、そんな盛り上がる様子を何か撮れないかと三脚担いで夜間撮影に向かいました。
スタジアムを一周して撮影場所を探してみると、ホームレスがたむろする裏手からの光景がちょうどよかったりしたので……(左側は月)
【神奈川県】
台風に続き今度はゲリラ豪雨と、歯止めのきかない「極端な気候」が日常化した昨今は、気の休まる間がありません。
そんな不安定な気候の中、東京の気温だけに限れば、猛暑日も限られ「むかしの夏はこんな感じだった」と、「夏の記憶」をたどるゆとりを与えてくれます。
梅雨明け10日は猛烈に暑かったものの、台風が来てクールダウン、豪雨でまたクールダウンと、むかしの夏も台風や大雨で被害を受けたにしても、暑さはそこでひと息つけた気がします。
近ごろでは夏のプールで唇が紫になる(ガキ時分の経験)ような陽気は、まるっきりなかった印象があります。
暑さ一辺倒で「夏の間の季節感」のメリハリもありませんでしたが、この夏の気温だけには「懐かしい夏の肌ざわり」があるように思います。
とは言え、これから8月ですから、気を引き締めて……
より大きな地図で 東横沿線 を表示
西明寺(Map)
等々力緑地へ向かう途中、以前にも立ち寄った西明寺入口付近の様子が変わっていることに驚きました。
付近は江戸時代徳川将軍家の「小杉御殿」(鷹狩り等に利用された宿泊施設)があった場所で、現在もわずかながら面影が残される地区です。
付近でとても印象に残るのが、西明寺参道へと向かう中原街道が入口付近で鉤(かぎ)状に折れ曲がり続く形状です。
将軍が訪れる地への外敵進入を防ぐ作りとされますが、現在の街道を往来する車もしっかり足止めを食らう渋滞地区となっています。
渋滞は困るが、歴史の名残を感じさせてくれる場所に違いありません。
そこに、曲がり角をショートカットする方向に整地された空き地が伸びています。あらあら、町並みを壊すとは思い切ったことを……
歴史と共存する開発か、さら地の再開発かの判断は、どこかの時代で求められるにしても、その我慢できない飽和点が現代に訪れたことを(存続への意志が弱まった時代と思われる)、後の時代に伝えられる形で記録する義務があるように思います。
これで地元自慢が半減するような気がします。地名だけ残ってもねぇ……
お寺の池はとても狭く(10m四方も無い程度)こんな池でヒナが育てられるのか、という環境で子育てをするカモの家族です。
上写真は、彼らを追い回すうちに親鳥が岸に上がってしまい、ヒナの力では上がれない状況に追い込んでしまった様子です。ゴメンね……(すぐに親がくわえて引き上げていました)
でもこんな狭い場所では、カラスやネコに襲われたら親でもヒナを守れないのではあるまいか?
子育ての環境を含めて、子孫を残すために苦難を乗り越えねばならないのは、人間と同じなのでしょう。
等々力緑地(Map)
ここは川崎市営の施設で、陸上競技場、硬式野球場、テニスコート、プール、とどろきアリーナ等の施設があり、陸上競技場はJリーグ「川崎フロンターレ」のホームグラウンドになります(Jリーグ発足時の1993年から2000年まで「ヴェルディ川崎」がホーム使用)。
梅雨明け直後のあきれてしまう「日差し」「暑さ」の中で、全国高等学校野球選手権神奈川大会が行われています(その結果、横浜高校が代表に)。
大会の頂点である甲子園ではもちろんのこと、地区予選球場の現場に接すると「夏の国民的行事」のすそ野の広さを実感します。
甲子園に注がれるエネルギー量のすさまじさには毎回感心しますが、そこに至る地方大会で流された関係者・応援の汗をトータルすると、驚愕するような代謝が行われたことになります。
そんな活動を計測する目安(単位)があれば、国内大会ではギネス級になるのではあるまいか?(国際大会ではオリンピックやW杯がある)
自分の高校当時は、何かの理由で在籍校の応援に行けなかったのですが、今さらながら行っておくべきだったと……
上写真は、試合に勝利した学校のブラスバンド部(?)です。
普段町中で大きな楽器を運ぶ姿を目にし「演奏のためとはいえ大変そう」と感じる対象が、大挙して押し寄せる姿を目にすると、練習を含めた彼らのエネルギー消費量も大変なものだろうと思ってしまいます。
でもあの年代の回復力は驚異的ですから、「疲れてもうドロドロ…」も一晩寝た翌朝にはケロッとして練習に向かったものです。
汗くささしか思い浮かばない部活の思い出ですが、外野の視点から見ると野球部員を含め、何て「サラサラ」した汗なのだろうと、美しいモノを見るような気持ちにさせられます。
年齢や生活習慣から「血液ドロドロ」が避けられない身には、「輝かしき年代」と映るのでしょう。
女子も男子も懸命に立ち向かい、勝敗は別にしても成し遂げた後の無邪気な姿を「カワイイ」と感じてしまうオヤジは、また来年も立ち寄ってしまいそうです。
でも、そんな姿が人間社会の営みであり、世代の上下や横の広がりをつなぐ「マトリックス:核」を共有する大切さを、再認識する年齢になったのかも知れません……
右写真は隣接の陸上トラックで、ウォームアップしている姿です。
改修直後の競技場は、まぶしいほどのコントラスト(芝の緑、トラックの赤、外側の青)でしたが、いい感じになじんできたように見えます。
道すがら「トラック&フィールド」(解釈に細かくこだわる向きもあるようだが、陸上部でいいじゃん!)と染められたTシャツ姿の高校生を見かけたので、競技場では大会・記録会が開かれていたようです。
同敷地には川崎市民ミュージアムがあり(1988年開館の博物館&美術館の複合文化施設)、その前に「トーマス転炉」が保存・展示されています(旧日本鋼管から寄付)。
製鉄について知識のない者は「炉=溶鉱炉」となりますが、「転炉」とは、製鋼過程で使用された不純物を取り除いて鉄鋼にするための設備のようです。
これは、世界で唯一保存されているトーマス転炉だそうで、工業で発展してきた川崎市の遺産になります。
その背後には、付近に広がっていた工場の敷地を再開発し、新たな「売り」にしようともくろんでいる、武蔵小杉の高層ビル群が並びます。
現在見えるビル群を第一期工事とするならば、第二期工事では東横線の駅に面した両側の再開発が進んでいます(中原区役所周辺の再開発も始まっています)。
まだこの後も東京機械の工場跡地が控えるので、ホコリっぽさはしばらく続きそうです……
泉沢寺(せんたくじ)(Map)
これまでも等々力緑地散歩の際は、すぐ脇を流れる二ヶ領用水(にかりょうようすい)沿いをよく歩きましたが、大きな木のある寺の印象があるも立ち寄ることはありませんでした。
以前訪れた「尾山台の傳乗寺は、川崎の泉沢寺と九品仏浄真寺の中間拠点とされた」と知り、引き寄せられました。
この寺は以前、東京都世田谷区千歳烏山にあり、世田谷吉良氏の菩提寺でしたが、焼失のためこの地に移されたそうです。
その吉良氏のイメージには、広く知られる「赤穂浪士の敵役:上野介(こうずけのすけ)の家柄」から、偉ぶった印象があり調べると、室町幕府の足利氏が途絶えたとしたら、関東出身の武家から代わりの将軍を立てられる家柄は吉良氏、という名門なんだそうです。
なるほど、世田谷だけでなく多摩川の対岸にも影響力があったことから、この寺が最先鋒の要塞として水堀が作られた理由も理解できる気がします。
二ヶ領用水はこの区間で、その旧水堀を利用しているようです。
上述の学習から地図を見て思ったのは、江戸時代の小杉御殿および中原街道は現在の西明寺門前で鉤状に屈曲しますが、その延長上には以前からあったと思われる泉沢寺が存在するので、この寺の影響もあったのではないか? という想像です。
少し視野が広がったように感じましたが、その先はまたの機会にでも……
地元での明るい話題といえば、Jリーグ「川崎フロンターレ」がここ数年上位にくい込んでいることではあるまいか?
年に20回程度のホーム試合ですが、その当日はホーム・アウエー双方のユニホームを着たやからが駅前(バス待ちの列)や歩道(町中を歩く列)にあふれますから、地元の店舗は「さぁ、いらっしゃい!」と気合いが入ります。
日数は少なくとも、活気があることは張り合いにできるのではないでしょうか。
ちょうど試合があったので、そんな盛り上がる様子を何か撮れないかと三脚担いで夜間撮影に向かいました。
スタジアムを一周して撮影場所を探してみると、ホームレスがたむろする裏手からの光景がちょうどよかったりしたので……(左側は月)
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