2010.1.17
【神奈川県】
昨冬は大阪から戻ったばかりで、「東京は暖かい」などと強がって(?)いましたが、2度目の冬となればすっかり関東人ですから、日々震えております。
でも、今年の関東は寒いですよね?!
そのくせ「三寒四温」(日本では春先の表現に使われますが、大陸では冬の一週間の表現なんだそうです)を用いる前の「大寒(最も寒いころ)」に、「暖波」のような陽気がやって来たりします。
年が開けると天気予報のコメントでは、季節外れの暖かさを春の陽気と比較(3月並の暖かさ等)するようになります。
「寒さの底は過ぎたか?」「春までもう少し」という期待感が持てるので、とてもいい表現に感じられます。
赤レンガ倉庫(Map)
この付近は散歩道として何度も歩いていますが、ここはどうもニオイが違うし誘われない気がするので、立ち入りませんでした。
イベントスペースのある1号館(短い方)には、トリエンナーレ(美術展)で入りましたが、下写真の2号館には今回初めて足を踏み入れました。
レストラン前に設けられガラス張りのたテラス席は、いつも多くの人でにぎわっている印象があります(でも一番奥の店は閉店してました)。
寒い日だったので、表を歩く人は少なめですが、ムンムンと暖かい建物から出たくないのか、買い物に夢中なのか? 館内は大盛況です。
表の寒々しい喫煙所では、団体旅行と思われるオッサンたちが、奥さんたちを「ぼやき」ながらヒマをつぶしています。
「女どものお土産タイムも、またつまらないモノ買ってるんだろ」「オッ、5分前だ。男どもが迷子になったと言われるから、いくべ!」と。
口は悪くても、ちゃんと気をつかっているようです。
でも彼女たちの目的は結局、「レトロ風なショッピングモールでのお買い物なんだろ?」と、オッサンたちだけでなく、わたしも言いたくなっちゃうわけです……
どうもお約束的に、ここを目指す人たちが多いような気がしますが、観光地ってそんなもんですよね。
はとバスを含め観光バスが次々やって来ますし、アジア系の言葉も耳に入ります。
なるほどと、横浜の観光スポットの一翼を担っていることを実感しました。
冬季には敷地内で、屋外スケートリンクが営業しており、入口には行列ができています。
ガキの時分には、冬の遊びは他に無かったこともあり、よく向ヶ丘遊園やよみうりランドのスケートリンクに行った覚えがあります(むかしは、小学校の授業でスケート教室があった気がします。希望者だけか?)。
滑る人を撮ろうと、じっとカメラを構えていると「たまに、スッゲェうまいじいさんが滑ってんのよ」の会話が耳に入ってきました。確かに一匹狼的なじいさんがいます。
このリンクは狭く混雑していますし、(いくら下手でも)親が一緒なので、見知らぬ子どもに「教えてあげよう」や「一緒に滑ろう」というアプローチもできません。
となればじいさんは、技術をひけらかして滑るしか無くなってしまいます。
ガキの時分は、知らないおじさんに教えてもらったり、一緒に滑ったりという数回のコミュニケーションで(いい子にしているのが条件)、アメリカンドッグ等をゴチになったものです。
いまどきは、そんな見知らぬ人とのコミュニケーションもままならないようで、少々過保護な社会という印象もありますが、むかしがいい加減すぎたのだろうか?(おおらかだった、ということに……)。
むかしの人の付き合い方に対し、「田舎ッペ」的な認識を持っているように思える都会人こそ、コミュニケーションで個性(素直さ)を表現できていないのではないか、とも思ってしまいます。
冬季オリンピック(バンクーバー)が始まると、写真のような人が増えそうな気がしますが、選手団の活躍で盛り上げてもらいたいと思います(彼女の転んだ絵も撮りたかったのですが、混雑してて……)。
横浜港の開港は1859年ですから、大さん橋の原型となる「鉄さん橋」等の、第1期築港工事が始まる1889年(明治22年)までは、はしけ等を経由して荷物を運んでいたようです。
のんびりしている間に、日清戦争(1894〜5年)を経て、神戸港や大阪港が急速に発展していきます。
そんなライバルに対抗するため、1899年(明治32年)から第2期工事が始まり、ここ新港ふ頭の埋め立てや、鉄道、道路などの陸上施設が整備されます(2号倉庫が1911年、1号倉庫が1913年完成)。右写真は2号倉庫から1号倉庫を撮影。
横浜の歴史にエポックとして登場するのが、関東大震災(1923年:大正12年)になります。
時代が違うので比較できませんが、横浜の震災当時の写真は、震災後の神戸のように「戦争があったのか?」という惨状に見えます。
そんな中でもこの倉庫は、レンガの間に鉄を入れて補強していたため、被害は1号倉庫の約30%程度で済みました(1号倉庫が短いのは、その部分が地震で崩れたため)。
それでもよく残ったと拍手したいところですが、当時の設計は地震ではなく、戦争を意識していたように思えてしまいます。
外観は以前のままに残したい、というコンセプトなのでしょう、上写真のオブジェのようなモノも残そうとする姿勢には、共感できます。
倉庫とされた当時から、テラスの屋根がガラス張りだったとは想像できないので、この部分は改修時に手が加えられたと思います。
結構汚れてしまい透明度も無くなっているので、現在では見上げる人などいません。
せっかくの演出が機能しなくてはもったいないので、たまには掃除しましょうよ!(3階)
結婚披露パーティなどのできるレストランがあるのでしょうか? 赤いカーペットが敷かれた先に、鐘が並んでいます(下写真)。
普段は自由に鳴らせるようで、子どもたちが何やら祈ってました(2階)。
今回初めて足を踏み入れたものの、結局店舗等については何も見ないまま、外観を撮ってきただけ、ということになります。
寒い季節に暖を取れる場所であることだけは、伝えられたかと思います……
赤レンガパークの、横浜海上保安部(海猿の訓練施設や北朝鮮工作船展示施設がある)に接する付近には、旧横浜港駅のプラットホームが現存しています。
1911年の建設当初は横浜税関の施設だったものが、1920年に横浜港駅とされ、東京駅からの汽船連絡列車が運行されます。
当時は「岸壁列車」と呼ばれたそうで、洋行(死語のひびきあり)の乗客や送迎の人たちも大勢訪れました。
ここから東京方面へと伸びる線路は、赤レンガ倉庫をかすめ、汽車道を経て桜木町付近で本線につながったようです。
いまどきの例えでは「成田エクスプレスで海外旅行へ!」(関西では「 関空特急 はるか」)というところでしょうか?
当時は「岸壁列車に乗る」なんて言ったら、近所中で大騒ぎになったんでしょうねぇ……
当時は海外移民等を含めて、洋行というひびきには「希望」というイメージがありました。
それが第二次世界大戦後に一転し、「岸壁」のひびきは『岸壁の母』(菊池章子、二葉百合子)等の、暗いイメージになってしまいました。
しかし、開港150年を迎えた大さん橋が、各国の大型客船が頻繁に訪れる場所になったことは、現代の新しい希望と言えるのかも知れません(「クルーズ船は活況」の見出しを見ました)。
ドラキュラか魔法使いが出てきそうな絵になってしまいましたが、ライトアップされた姿です。
日が暮れるとさすがに人影もまばらになりますが、スケートリンクは夜の演出で営業しています。
前回までの大さん橋までと、この場所では、人の流れがまるで違うことに気付かされます。
マリンタワーや氷川丸を従える「山下公園」には、観光バス等が立ち寄るので、ままにぎわっていますが、リニューアルしただけのタワーや船では魅力が乏しいようで、施設はガラガラでお金も落ちません(わたしも久しぶりでした)。
中華街から流れてくる人も多いと思いますが、彼らは中華街でお金を使い切ってしまいます。
一方の赤レンガ倉庫には、みなとみらい側から徒歩で来る人も多く、観光バスと合わせると大にぎわいになります。
そんな立地のレストランやショッピングモールには、お金も落ちていきます。
市民はお金の問題じゃないんだと、「憩いの場」である山下公園、「先代の横浜のシンボル」であったタワーや船の存続を希望するのでしょう。
この先の時代が変われば仕方ないでしょうが、しばらくは自治体や企業の力で支えてもらうしかないのでは、と思わされました……
2010/01/25
2010/01/18
いまも変わらぬ、船旅へのあこがれ──大さん橋
2010.1.9
【神奈川県】
大さん橋(Map)
近ごろの横浜では、この場所が最も気に入っています。
さん橋は吹きっさらしなので、風が無いときに限りますが……
港の地図や航空写真を見ると、その構造は結構デコボコしています。
でも、さん橋等の凸部には港湾施設が多いので、一般人は立ち入れなかったりします(そんな港を海側から見るために遊覧船があるのですが、その話しは置いといて)。
小さな港を歩くときでも、進入可能であれば(別に悪さはしません)防波堤等の先端まで行き、そこから港を振り返りたいという願望を持っています。
横浜港でそれをかなえてくれるのが、この場所になります(前回のマリンタワーと氷川丸の夜景はここから撮りました。三脚でもブレるほどの強風で寒かった……)。
開港当時(1859年)このさん橋はありませんが、陸地に近い付近を「イギリス波止場」と呼んでいたそうです。
寄港船の増加と船の大型化等により、その沖に建設された鉄さん橋(1894年)が現在の原型になります。
その後、映画等で耳にした「メリケン波止場」と呼ばれるようになりますが、それはおそらく敗戦後のことと思われます。
マンタ(オニイトマキエイ)が口を開いているかのような、正面玄関のたたずまいは、東京湾アクアラインの海底トンネルのように、海に飲み込まれそうな印象を受けます。
ここから海底には行けませんが、海の向こうに広がる世界へと続いています。
海を渡って行く、まさしく「海外」の地は、現在でもはるかな旅という印象がありますが、「いつか!」との思いを持ち続けていきましょう。
以前「クイーン・エリザベス2」(70,327トン)「オーロラ」(76,152トン)等の大型客船が接岸している様子を見学したことがあります。
どんなお金持ちが乗っているのか? と興味津々でしたが、外出時は普通のカジュアルな服装だったので、拍子抜けしました。
何を期待していたのか考えると、それこそ時代錯誤的に着飾ったセレブが登場するか、と思っていたんでしょうね。
われわれの、クルーズ船に対するイメージこそが、時代錯誤的でトンチンカンなのかも知れません。
──旅客船「クイーン・エリザベス」の名称は英国女王の意味ではないので、この船は特別な「豪華客船」ではないんだそうです。そんなイメージが広まっているのは日本だけで、元凶は日本のマスコミにあるとのこと。もう、しっかり根づいています(耳障りがいいし、権威に弱い国民性の表れなのでしょう)。
大さん橋を側面(赤レンガ倉庫付近)から眺めると、構造物の輪郭が波打っている様子が見て取れます。
この建物の外観デザインには、波がイメージされているそうです。
露出している外壁や、人の歩くフロアは木の板で覆われ、「全身ウッドデッキ」的な装飾となっており、視覚と足裏の感触からとてもしなやかな印象を受ける建物です。
その材料には、ブラジル産のイペという木材が使用されているそうです。
近ごろでは、海辺に限らず町中でも、ボードウォークに接する機会が増えてきました。
歩いたときの足裏の感触がとても好きで、同じ道なら木の上を選んで歩いたりします。
コンクリートやアスファルトに比べたら、圧倒的に柔らかな感触を与えてくれますが、上述のような材質に言及されると、それぞれ感触が違っていたかも? なんて、急に分かった風な態度になったりして……
そんな「歩き比べ」をして、ボードウォークの素材ランキングをしても面白いかも知れません(もうやってる人いるんだろうなぁ)。
また2カ所ある波の頂上にあたる付近には、天然芝が植えられてあります。
これがエコなのかは分かりませんが、わたしには、海の上で味わう木の感触や、海の上に広がるグリーンの光景は、海との相性がとてもいいように思え、目と足の裏から全身の緊張がほぐされていくような気分にさせられます。
もちろん潮風も含まれますが、これだけは弱い日に限ります……
建物内部では、空間の広さに驚かされますし、大きなガラスが多用されていることも、印象に残ります。
1本も無いのか分かりませんが、柱を使用していないので空間の広さが実感できますし、ガラスを多用することで自然光を取り込めますから、空間の広がりを一層感じさせる効果があります。
使用されているガラスは「強化ガラスウォール」と言われ、壁の役目を果たしているようです。
また、上写真(主眼は左側のガラスに映った絵です)のような景色の変化も演出してくれます。
とは言え、木材の床ですから、多くの人が利用するロビーでは、結構ギシギシ鳴ったり、デコボコする個所があったりします(上写真では、修復後のように見える個所も)。
修繕は頻繁になるので大変かと思いますが、部分修復を繰り返しながら、木の感触に味が出てきたらとてもシックになるのでは、と期待しています。
「床は木材なので…」等の注意看板が数多くあるのは、柔らかな感触を察知した子どもたちが、普段以上にはしゃぐせいかも知れません。
極端な例えですが、小学校の「お化けが出そうな」木造校舎って、そうやって使われてきたのだと思います。
わたしも小学2年までお世話になった木造校舎での記憶が、宝物のように好きなので、ボードウォークを歩く度に、木造校舎の記憶を懐かしんでいたのかも?(これ、自分でも新たな発見です)。
「強化ガラスウォール」が張られた回廊からは、みなとみらい地区の景色が壁画のように展望できます(大きな船が停泊中は船体しか見えませんが)。
ここには、木製の長いすのようなスペースがあるので、寒い季節や風の強い日でもゆっくりと夜景見物ができます。
アベックが並んでベチャベチャ(?)お盛んなのは、ご想像の通りです。
観覧車の時計がこちらを向いているのは、アベックに「早く帰りなさい」というのはともかく、大さん橋に停泊中の船に見せるためだったのか? と思ったりしました(上写真では分かりづらい)。
大さん橋の建物は2階建てプラス屋上という構造になります(1階駐車場、2階ロビー、ホール等)。
それだけの高低差があるのに、足裏で木の感触を味わいながら何気なく歩けてしまうのは、この建物がさりげないバリアフリー構造であるおかげだと思います。
歩道はとてもなだらかなスロープになっていて、どこも必ず手すりが設置されてあります。
「バリア」という概念を忘れさせ「ゆっくり歩いてもらいたい」とのコンセプトに感じられ、いつ来てもとても素晴らしいと感じ入ってしまいます。
──3枚目の写真に階段状の構造がありましたが、イベントスペースのような場所なので、ベンチや階段の役目があるようです。その場所にも、中央にはメインの花道のようなスロープが設置されています。
近ごろ町中で青い街灯をよく見かけるようになりました。
青い光は、人の気持ちを落ち着かせる効果があるようで、犯罪防止に効果があると耳にします。
近所にも青い街灯だけの通りがありますが、どうも寒々しい印象があり、そこを避けたい気分にさせられます。
ここの青い光は「海へといざなう光」と感じ眺めていたのですが、ふと、赤色系の光は人を興奮させると聞いたことを思い出しました。
ひょっとしてこれ、アベックが変なことしないためなの?
それが今どきの『ブルー・ライト・ヨコハマ』だったりしたら、ちとロマンが無さ過ぎという気がします……
【神奈川県】
大さん橋(Map)
近ごろの横浜では、この場所が最も気に入っています。
さん橋は吹きっさらしなので、風が無いときに限りますが……
港の地図や航空写真を見ると、その構造は結構デコボコしています。
でも、さん橋等の凸部には港湾施設が多いので、一般人は立ち入れなかったりします(そんな港を海側から見るために遊覧船があるのですが、その話しは置いといて)。
小さな港を歩くときでも、進入可能であれば(別に悪さはしません)防波堤等の先端まで行き、そこから港を振り返りたいという願望を持っています。
横浜港でそれをかなえてくれるのが、この場所になります(前回のマリンタワーと氷川丸の夜景はここから撮りました。三脚でもブレるほどの強風で寒かった……)。
開港当時(1859年)このさん橋はありませんが、陸地に近い付近を「イギリス波止場」と呼んでいたそうです。
寄港船の増加と船の大型化等により、その沖に建設された鉄さん橋(1894年)が現在の原型になります。
その後、映画等で耳にした「メリケン波止場」と呼ばれるようになりますが、それはおそらく敗戦後のことと思われます。
マンタ(オニイトマキエイ)が口を開いているかのような、正面玄関のたたずまいは、東京湾アクアラインの海底トンネルのように、海に飲み込まれそうな印象を受けます。
ここから海底には行けませんが、海の向こうに広がる世界へと続いています。
海を渡って行く、まさしく「海外」の地は、現在でもはるかな旅という印象がありますが、「いつか!」との思いを持ち続けていきましょう。
以前「クイーン・エリザベス2」(70,327トン)「オーロラ」(76,152トン)等の大型客船が接岸している様子を見学したことがあります。
どんなお金持ちが乗っているのか? と興味津々でしたが、外出時は普通のカジュアルな服装だったので、拍子抜けしました。
何を期待していたのか考えると、それこそ時代錯誤的に着飾ったセレブが登場するか、と思っていたんでしょうね。
われわれの、クルーズ船に対するイメージこそが、時代錯誤的でトンチンカンなのかも知れません。
──旅客船「クイーン・エリザベス」の名称は英国女王の意味ではないので、この船は特別な「豪華客船」ではないんだそうです。そんなイメージが広まっているのは日本だけで、元凶は日本のマスコミにあるとのこと。もう、しっかり根づいています(耳障りがいいし、権威に弱い国民性の表れなのでしょう)。
大さん橋を側面(赤レンガ倉庫付近)から眺めると、構造物の輪郭が波打っている様子が見て取れます。
この建物の外観デザインには、波がイメージされているそうです。
露出している外壁や、人の歩くフロアは木の板で覆われ、「全身ウッドデッキ」的な装飾となっており、視覚と足裏の感触からとてもしなやかな印象を受ける建物です。
その材料には、ブラジル産のイペという木材が使用されているそうです。
近ごろでは、海辺に限らず町中でも、ボードウォークに接する機会が増えてきました。
歩いたときの足裏の感触がとても好きで、同じ道なら木の上を選んで歩いたりします。
コンクリートやアスファルトに比べたら、圧倒的に柔らかな感触を与えてくれますが、上述のような材質に言及されると、それぞれ感触が違っていたかも? なんて、急に分かった風な態度になったりして……
そんな「歩き比べ」をして、ボードウォークの素材ランキングをしても面白いかも知れません(もうやってる人いるんだろうなぁ)。
また2カ所ある波の頂上にあたる付近には、天然芝が植えられてあります。
これがエコなのかは分かりませんが、わたしには、海の上で味わう木の感触や、海の上に広がるグリーンの光景は、海との相性がとてもいいように思え、目と足の裏から全身の緊張がほぐされていくような気分にさせられます。
もちろん潮風も含まれますが、これだけは弱い日に限ります……
建物内部では、空間の広さに驚かされますし、大きなガラスが多用されていることも、印象に残ります。
1本も無いのか分かりませんが、柱を使用していないので空間の広さが実感できますし、ガラスを多用することで自然光を取り込めますから、空間の広がりを一層感じさせる効果があります。
使用されているガラスは「強化ガラスウォール」と言われ、壁の役目を果たしているようです。
また、上写真(主眼は左側のガラスに映った絵です)のような景色の変化も演出してくれます。
とは言え、木材の床ですから、多くの人が利用するロビーでは、結構ギシギシ鳴ったり、デコボコする個所があったりします(上写真では、修復後のように見える個所も)。
修繕は頻繁になるので大変かと思いますが、部分修復を繰り返しながら、木の感触に味が出てきたらとてもシックになるのでは、と期待しています。
「床は木材なので…」等の注意看板が数多くあるのは、柔らかな感触を察知した子どもたちが、普段以上にはしゃぐせいかも知れません。
極端な例えですが、小学校の「お化けが出そうな」木造校舎って、そうやって使われてきたのだと思います。
わたしも小学2年までお世話になった木造校舎での記憶が、宝物のように好きなので、ボードウォークを歩く度に、木造校舎の記憶を懐かしんでいたのかも?(これ、自分でも新たな発見です)。
「強化ガラスウォール」が張られた回廊からは、みなとみらい地区の景色が壁画のように展望できます(大きな船が停泊中は船体しか見えませんが)。
ここには、木製の長いすのようなスペースがあるので、寒い季節や風の強い日でもゆっくりと夜景見物ができます。
アベックが並んでベチャベチャ(?)お盛んなのは、ご想像の通りです。
観覧車の時計がこちらを向いているのは、アベックに「早く帰りなさい」というのはともかく、大さん橋に停泊中の船に見せるためだったのか? と思ったりしました(上写真では分かりづらい)。
大さん橋の建物は2階建てプラス屋上という構造になります(1階駐車場、2階ロビー、ホール等)。
それだけの高低差があるのに、足裏で木の感触を味わいながら何気なく歩けてしまうのは、この建物がさりげないバリアフリー構造であるおかげだと思います。
歩道はとてもなだらかなスロープになっていて、どこも必ず手すりが設置されてあります。
「バリア」という概念を忘れさせ「ゆっくり歩いてもらいたい」とのコンセプトに感じられ、いつ来てもとても素晴らしいと感じ入ってしまいます。
──3枚目の写真に階段状の構造がありましたが、イベントスペースのような場所なので、ベンチや階段の役目があるようです。その場所にも、中央にはメインの花道のようなスロープが設置されています。
近ごろ町中で青い街灯をよく見かけるようになりました。
青い光は、人の気持ちを落ち着かせる効果があるようで、犯罪防止に効果があると耳にします。
近所にも青い街灯だけの通りがありますが、どうも寒々しい印象があり、そこを避けたい気分にさせられます。
ここの青い光は「海へといざなう光」と感じ眺めていたのですが、ふと、赤色系の光は人を興奮させると聞いたことを思い出しました。
ひょっとしてこれ、アベックが変なことしないためなの?
それが今どきの『ブルー・ライト・ヨコハマ』だったりしたら、ちとロマンが無さ過ぎという気がします……
2010/01/12
『ブルー・ライト・ヨコハマ』を探して……
2010.1.3
【神奈川県】
また少し、横浜を歩いてみようと考えています。
前回避けていた人気スポットで立ち止まり、人をよけてみようかと……
京浜急行では少し前に、沿線のご当地ソングを駅メロにしようと、乗客からリクエストを募集したそうです。
その結果、横浜駅『ブルー・ライト・ヨコハマ』(いしだあゆみ)、横須賀中央駅『横須賀ストーリー』(山口百恵)の支持が、圧倒的に高かったそうで、とてもよく分かる気がします。
ご当地ソングがヒットすることは、町と曲にリンクした相乗効果を生み出すので、双方共とてもハッピーなのではないでしょうか。
『よこはま・たそがれ』(五木ひろし)も印象に残っていますが、「町がたそがれては困る」住民の心情があったのでは?
今回のタイトルは、横浜と出会い、この土地を初めて認識したころ(ガキの時分)の印象、という程度のものです。
マリンタワー(Map)
メタリックボディ(注:メタボリックではありません。敏感な人を刺激したかと…)にリニューアルされた、マリンタワーです。以前は紅白のカラーリングでした。
昨年の「開国博Y150」に合わせて改装されましたが、肝心のY150は惨たんたる成績だったようです。
建設は1961年で、当時は横浜港開港100周年の記念行事の一環として建設されました。
灯台のイメージでデザインされ、実際に灯台の機能を持っていたので、「最も高い灯台」としてギネスブックに掲載されたそうです。
しかし、2008年の改装工事に伴い、灯台の機能は廃止されました。
あまり役立ってなかったようですが、建設当時の写真からは、何もないところにポツンと建てられた様子が分かります。
灯台らしく、とても目立っていたでしょうから、当時の船はその明かりを目印にしたはずです。
ガキのころの横浜では、マリンタワーと氷川丸がセットで、シンボル的な存在として輝いていた記憶があります。
しかし現在では、ランドマークタワーや観覧車等がある、みなとみらい地区に人出を奪われてしまいました。
そんな時代の変遷を踏まえて、「みなとみらい」のネーミングだったのかと、初めて気付いた気がします(この地に「未来はない」と?)。
当然ながら客足も遠のき、運営会社の「氷川丸マリンタワー株式会社」は、2006年に営業を終了〜解散しました。
マリンタワーは横浜市に、氷川丸は日本郵船に譲渡され、マリンタワーは2009年5月、氷川丸(下写真)は2008年4月に、それぞれリニューアルオープンしました。
ショッピングの客足も、みなとみらい地区に吸い上げられてしまい、関内や伊勢佐木町(「ゆず」が路上ライブをしていた高島屋も閉店)の人出は、減少の一途だそうです。
そうそう『伊勢佐木町ブルース』(青江三奈)もありましたが、この曲も町のイメージアップにはつながりそうにありませんね。
付近では、高層ビルがニョキニョキ伸びているので、陸側からの姿は最初の写真のように「肩身が狭く」なってしまいました。
タワーは106mありますが、付近には肩を並べそうな高さのマンションやホテルがあり、あのビルからタワーを撮ってみたいと思わせるような近さだったりします。
となれば、見晴らしのいい場所に付き物である、コイン式の双眼鏡も撤去されてしまいます。
別にのぞきたくもありませんが、ひょんな事で子どもが「あれなぁ〜に?」と、スクープしちゃうかも知れませんしね。
この手のタワーを降りてくると、必ず土産物店を一周させられますが、ここは意外なくらいあっさりしていて、「エレベーターで昇って降りただけ?」という、とてもシンプルな施設になっていました。
別にお土産など買いませんし、「ダイヤモンドが当たりました!」(分かります?)と構って欲しいわけでもありませんが、以前は、鳥類園のバードケージで、鳥たちと触れあえる場所があったと記憶しています。
それが楽しかった訳でもないのですが、あっさりした終わり方だなぁ、と感じる自分に「既成概念で生きている」ことを自覚しました……
リニューアルに伴い、コンセプトを変更したようで、地上の建物はウエディングホールやレストランとして営業していて、用のないヤツは立ち入れなくなっています(シックな印象はあります)。
想像ですが、以前鶏小屋のあった場所で、パーティや食事をしているのかしら?
氷川丸(Map)
氷川丸の前で、海鳥に餌づけをしているオッサンに、群がる鳥たちの絵になります。
カモメとウミネコ等の違いが分からず、上では海鳥としましたが、いい機会なので調べました。
分類からは、カモメっぽく見える海鳥は「カモメ科」(総称)に含まれます(説明になってない!)。
日本で見られるカモメ科の鳥には、ユリカモメ、オオセグロカモメ、セグロカモメ、シロカモメ、ワシカモメ、ウミネコ等がいるそうです。
ウミネコ以外は冬の渡り鳥なので(オオセグロカモメは北海道で繁殖)、夏場にカモメっぽく見える海鳥はウミネコなんだそうです。
冬にもウミネコはいますが、それは名の通り「ミャーミャー」という鳴き声で見分けるそうです。
専門家は「嘴(くちばし)」「足」「羽」で区別するらしいのですが、鳴き声が違うので、この鳥はユリカモメではないか? と思っています。
確信はないので、違ったらご指摘下さい。
氷川丸は、1930年から1960年まで北太平洋航路(横浜〜シアトル)等で運航された貨客船になります。
当時でも、決して大きな船ではなかったようですが、チャップリンが乗ったり、嘉納治五郎(柔道の父)が船内で亡くなった等、エピソードには事欠かないようです。
それも、設備と接客サービスが良かったためとされますが、内部では規律の厳しさに「軍艦氷川丸」と言われていた、とありました。
昭和の初めから第二次世界大戦に向かう時代ですから、海外とじかに接する船員達の「意地」のようなものだったのかも知れません。
戦時中は病院船として徴用され、戦火の中を生き延びたそうです。
船名の「氷川」とは、さいたま市にある氷川神社に由来するそうで、船内の神棚には氷川神社の祭神が祭られてあります。
一等室を見学しているとき、以前一度だけ入らせてもらった特等室(だったと思う)の様子を思い浮かべていました(竹芝〜父島航路)。
小笠原(父島)で知り合った新婚旅行の夫婦に招かれて、小笠原丸の特等室(大奮発したらしい)に入ったことがあります。
そんな部屋でくつろいだのは、後にも先にもその時限りですが、何と船長があいさつに来ました。
そんな行事があること自体、大部屋で雑魚寝の庶民には知るよしもありません……
この船と最初に出会ったのは、おそらく小学校の社会見学だったと思いますが、細かな記憶はありません。
古い船なんかより記憶に残っているのが、港内遊覧船で見た「うわぁ、クラゲがいっぱい!」です(いまの子どもたちと一緒……)。
そんな印象が今でも残っているくらいですから、その場で「クラゲというのはね…」という解説をしてくれる先生がいたら、「クラゲ先生」として、この日も思い浮かんだかも知れません。
教育って、ひょんなきっかけが大切なのでは? と感じたので。
帰り際にすれ違った娘っ子(高校生?)たちが、「氷川きよしって芸名だと思う〜?」「本名じゃな〜い?」と話しながら、船に向かっていきました。
ひょっとして「氷川きよしの記念艦」のつもりで来たの?
調べる自分もどうかと思いますが、彼の本名は山田清志で、ビートたけしが赤坂の氷川神社から拝借して命名したそうです。
そうなると、あながち無縁とも言えない、ってどうでもいいですよね……
小学時代以降では、マリンタワーは展望がいいので何度か昇った気がしますが、氷川丸はそれ以来かも知れません。
1度ビアガーデンに来た気がしますが、記憶をたどれません……
でもこの日の印象は「思ったより楽しめた」というものでした。
第二次世界大戦へと向かう時代背景で造られた、この船の存在意義を多少なりとも理解できるようになった、ということでしょうか?
ガキの時分に、理解しろと言われてもそれは無理ですが、「もう一度、行ってみようか」という「種」をまいてもらったと思えば、感謝しないといけませんね……
やはり『ブルー・ライト・ヨコハマ』(1968年)という曲は、この辺りをイメージしていたと思われ、マリンタワーがブルーにライトアップされている姿を見て、自分の中のイメージを再確認できた気がしました。
YouTubeで再見した当時のいしだあゆみさんは、西洋人形(この表現も古いね)のように可愛らしい姿です。
でも現代の表現では、アップにした髪、前髪カール、マスカラ命(当時はつけまつげか?)ですから、元祖キャバクラ嬢スタイル、と言われてしまうかも知れません……(ファンのおじさま方には、失礼)
【神奈川県】
また少し、横浜を歩いてみようと考えています。
前回避けていた人気スポットで立ち止まり、人をよけてみようかと……
京浜急行では少し前に、沿線のご当地ソングを駅メロにしようと、乗客からリクエストを募集したそうです。
その結果、横浜駅『ブルー・ライト・ヨコハマ』(いしだあゆみ)、横須賀中央駅『横須賀ストーリー』(山口百恵)の支持が、圧倒的に高かったそうで、とてもよく分かる気がします。
ご当地ソングがヒットすることは、町と曲にリンクした相乗効果を生み出すので、双方共とてもハッピーなのではないでしょうか。
『よこはま・たそがれ』(五木ひろし)も印象に残っていますが、「町がたそがれては困る」住民の心情があったのでは?
今回のタイトルは、横浜と出会い、この土地を初めて認識したころ(ガキの時分)の印象、という程度のものです。
マリンタワー(Map)
メタリックボディ(注:メタボリックではありません。敏感な人を刺激したかと…)にリニューアルされた、マリンタワーです。以前は紅白のカラーリングでした。
昨年の「開国博Y150」に合わせて改装されましたが、肝心のY150は惨たんたる成績だったようです。
建設は1961年で、当時は横浜港開港100周年の記念行事の一環として建設されました。
灯台のイメージでデザインされ、実際に灯台の機能を持っていたので、「最も高い灯台」としてギネスブックに掲載されたそうです。
しかし、2008年の改装工事に伴い、灯台の機能は廃止されました。
あまり役立ってなかったようですが、建設当時の写真からは、何もないところにポツンと建てられた様子が分かります。
灯台らしく、とても目立っていたでしょうから、当時の船はその明かりを目印にしたはずです。
ガキのころの横浜では、マリンタワーと氷川丸がセットで、シンボル的な存在として輝いていた記憶があります。
しかし現在では、ランドマークタワーや観覧車等がある、みなとみらい地区に人出を奪われてしまいました。
そんな時代の変遷を踏まえて、「みなとみらい」のネーミングだったのかと、初めて気付いた気がします(この地に「未来はない」と?)。
当然ながら客足も遠のき、運営会社の「氷川丸マリンタワー株式会社」は、2006年に営業を終了〜解散しました。
マリンタワーは横浜市に、氷川丸は日本郵船に譲渡され、マリンタワーは2009年5月、氷川丸(下写真)は2008年4月に、それぞれリニューアルオープンしました。
ショッピングの客足も、みなとみらい地区に吸い上げられてしまい、関内や伊勢佐木町(「ゆず」が路上ライブをしていた高島屋も閉店)の人出は、減少の一途だそうです。
そうそう『伊勢佐木町ブルース』(青江三奈)もありましたが、この曲も町のイメージアップにはつながりそうにありませんね。
付近では、高層ビルがニョキニョキ伸びているので、陸側からの姿は最初の写真のように「肩身が狭く」なってしまいました。
タワーは106mありますが、付近には肩を並べそうな高さのマンションやホテルがあり、あのビルからタワーを撮ってみたいと思わせるような近さだったりします。
となれば、見晴らしのいい場所に付き物である、コイン式の双眼鏡も撤去されてしまいます。
別にのぞきたくもありませんが、ひょんな事で子どもが「あれなぁ〜に?」と、スクープしちゃうかも知れませんしね。
この手のタワーを降りてくると、必ず土産物店を一周させられますが、ここは意外なくらいあっさりしていて、「エレベーターで昇って降りただけ?」という、とてもシンプルな施設になっていました。
別にお土産など買いませんし、「ダイヤモンドが当たりました!」(分かります?)と構って欲しいわけでもありませんが、以前は、鳥類園のバードケージで、鳥たちと触れあえる場所があったと記憶しています。
それが楽しかった訳でもないのですが、あっさりした終わり方だなぁ、と感じる自分に「既成概念で生きている」ことを自覚しました……
リニューアルに伴い、コンセプトを変更したようで、地上の建物はウエディングホールやレストランとして営業していて、用のないヤツは立ち入れなくなっています(シックな印象はあります)。
想像ですが、以前鶏小屋のあった場所で、パーティや食事をしているのかしら?
氷川丸(Map)
氷川丸の前で、海鳥に餌づけをしているオッサンに、群がる鳥たちの絵になります。
カモメとウミネコ等の違いが分からず、上では海鳥としましたが、いい機会なので調べました。
分類からは、カモメっぽく見える海鳥は「カモメ科」(総称)に含まれます(説明になってない!)。
日本で見られるカモメ科の鳥には、ユリカモメ、オオセグロカモメ、セグロカモメ、シロカモメ、ワシカモメ、ウミネコ等がいるそうです。
ウミネコ以外は冬の渡り鳥なので(オオセグロカモメは北海道で繁殖)、夏場にカモメっぽく見える海鳥はウミネコなんだそうです。
冬にもウミネコはいますが、それは名の通り「ミャーミャー」という鳴き声で見分けるそうです。
専門家は「嘴(くちばし)」「足」「羽」で区別するらしいのですが、鳴き声が違うので、この鳥はユリカモメではないか? と思っています。
確信はないので、違ったらご指摘下さい。
氷川丸は、1930年から1960年まで北太平洋航路(横浜〜シアトル)等で運航された貨客船になります。
当時でも、決して大きな船ではなかったようですが、チャップリンが乗ったり、嘉納治五郎(柔道の父)が船内で亡くなった等、エピソードには事欠かないようです。
それも、設備と接客サービスが良かったためとされますが、内部では規律の厳しさに「軍艦氷川丸」と言われていた、とありました。
昭和の初めから第二次世界大戦に向かう時代ですから、海外とじかに接する船員達の「意地」のようなものだったのかも知れません。
戦時中は病院船として徴用され、戦火の中を生き延びたそうです。
船名の「氷川」とは、さいたま市にある氷川神社に由来するそうで、船内の神棚には氷川神社の祭神が祭られてあります。
一等室を見学しているとき、以前一度だけ入らせてもらった特等室(だったと思う)の様子を思い浮かべていました(竹芝〜父島航路)。
小笠原(父島)で知り合った新婚旅行の夫婦に招かれて、小笠原丸の特等室(大奮発したらしい)に入ったことがあります。
そんな部屋でくつろいだのは、後にも先にもその時限りですが、何と船長があいさつに来ました。
そんな行事があること自体、大部屋で雑魚寝の庶民には知るよしもありません……
この船と最初に出会ったのは、おそらく小学校の社会見学だったと思いますが、細かな記憶はありません。
古い船なんかより記憶に残っているのが、港内遊覧船で見た「うわぁ、クラゲがいっぱい!」です(いまの子どもたちと一緒……)。
そんな印象が今でも残っているくらいですから、その場で「クラゲというのはね…」という解説をしてくれる先生がいたら、「クラゲ先生」として、この日も思い浮かんだかも知れません。
教育って、ひょんなきっかけが大切なのでは? と感じたので。
帰り際にすれ違った娘っ子(高校生?)たちが、「氷川きよしって芸名だと思う〜?」「本名じゃな〜い?」と話しながら、船に向かっていきました。
ひょっとして「氷川きよしの記念艦」のつもりで来たの?
調べる自分もどうかと思いますが、彼の本名は山田清志で、ビートたけしが赤坂の氷川神社から拝借して命名したそうです。
そうなると、あながち無縁とも言えない、ってどうでもいいですよね……
小学時代以降では、マリンタワーは展望がいいので何度か昇った気がしますが、氷川丸はそれ以来かも知れません。
1度ビアガーデンに来た気がしますが、記憶をたどれません……
でもこの日の印象は「思ったより楽しめた」というものでした。
第二次世界大戦へと向かう時代背景で造られた、この船の存在意義を多少なりとも理解できるようになった、ということでしょうか?
ガキの時分に、理解しろと言われてもそれは無理ですが、「もう一度、行ってみようか」という「種」をまいてもらったと思えば、感謝しないといけませんね……
やはり『ブルー・ライト・ヨコハマ』(1968年)という曲は、この辺りをイメージしていたと思われ、マリンタワーがブルーにライトアップされている姿を見て、自分の中のイメージを再確認できた気がしました。
YouTubeで再見した当時のいしだあゆみさんは、西洋人形(この表現も古いね)のように可愛らしい姿です。
でも現代の表現では、アップにした髪、前髪カール、マスカラ命(当時はつけまつげか?)ですから、元祖キャバクラ嬢スタイル、と言われてしまうかも知れません……(ファンのおじさま方には、失礼)
2010/01/06
チャイナタウンで、元気をもらって!
2009.12.30 / 2010.1.1
【神奈川県】
映画『2001年宇宙の旅』(1968年)の小説版を執筆したアーサー・C・クラークが、その続編の時代設定としたのが『2010年宇宙の旅』になり、その年を迎えることになりました(『2001年〜』は、映画監督のスタンリー・キューブリックとの共同構想で、映画公開後に小説が発表されたため、原作の扱いではないそう。ちなみに小説の続編は「2061年」「3001年」と続きます)。
2001年を迎えた時にも増して、「はるかな未来まで来ちゃったなぁ」との感慨があります(未来は、現実になった途端に色あせてしまいますが……)。
テレビの映像で「道具を使うサル」を目にし、見上げた空には宇宙ステーションが浮かび、そこに日本人が滞在しているわけですから、あながち的はずれな話しではない印象があります(人類の努力を褒めましょう)。
しかし、ヒトが夢を見るためには、まずは食っていかねばなりません。
そんな元気をもらいに、チャイナタウンの雑踏を歩きました。
横浜中華街
いつ来ても活気に満ちた町ですから、元気を与えてくれるのは確かです。
でも元旦のニュースから「本年中には、GDP(国内総生産)で中国に抜かれる見込み」と宣言されるような、ひとつのエポックとして記憶される年になりそうです。
未来予想図も描けない島国では、大国と張り合うことなどかないません。
まずはとにかく、日本人と社会が元気を取り戻すための足がかりに、中国の元気(バブル)に便乗させてもらい、何とか「日をまた昇らせねば」なりません。
しかし、中国のバブル崩壊は未経験ですから、相当な痛手を受けるかも知れません。
資本主義の恩恵を受け、輸出産業で成長してきた小国ですから、「いつになっても自立できない」ことは、当然の帰結になります。
喜ばれるモノを作り、売り買いする関係は、目指すところなのですが……
経済の勢いだけでなく、庶民の活気でも中華圏に負けるようでは、ちょっと心細くなりますが、チャイナタウンのバイタリティから元気をもらって、新年に立ち向かおうと思っています。
夫婦共にマスク姿で訪れる「新型インフルエンザは怖いけど、おいしいものは食べたい!」という前のめりな姿勢は、この場にふさわしい食欲という「さが」の現れのようです。
でもここは、マスクするくらいなら、来ない方がいいのでは? と思われる危険地帯です。
国内外から横浜を訪れた観光客で、中華街に立ち寄らない人は少数派と考えると、国内および世界各地から集まる、雑菌等の見本市のような場所になります。
「危ないものほど美味」(この場合、食材ではない)というものに引かれるのは、世界共通(?)なのかも知れません。
人が集まるから「美味が生まれる」というのは、確かだと思うのですが……
新型インフルエンザの流行で、従来型がなりを潜めていると耳にしました。
これまでもインフルエンザの歴史では、新型が現れると旧型の活動が弱まったそうです。
その流行を判断するのはヒトであって、ウイルス側には「こっちの方がいいぞ!」というような、グローバルな横の連携があるとは思えません。
そんなウイルスの世代交代に関しては、新型が旧型を吸収 or 駆逐していく以外には、考えが浮かびません。
確からしいと思えるのは、一度感染して完治すれば免疫ができるので、かかりにくくなるということ、になるのか?
でも、毎年同じインフルエンザにかかる人もいるそうですから(免疫ができないのか?)、気をつけるしかないのでしょうね。
ファストフードがはやり始めたころ、歩きながら食べることは下品とされましたが(いまでも上品とは思いませんが)、ここでの食べ歩きについては、「中華街スタイル」のように支持されていたような気がします。
これ自分でも、判断基準のいい加減さに矛盾を感じますが、「アッツアツだよ、食べてって〜!」には、抵抗できません……
食事前に手を洗わないのはいけませんが、マスクなどつけずに食べ歩けるようになってもらわないと困りますよね。
みんな気にせず食べていますが、食材は店の管理でも、飲食時の衛生管理は各人の責任であることを、理解しているんですよね?
少し前は「世界チャンピオンの店」が人気でしたが、この日は「フカヒレまん」の店に行列ができていました。
今どきは饅頭だけでなく、何かスプーンですくうものなど、多様化してるようです。
やかましいのが「甘栗おいしいよ〜!」と、クリ一粒で客を釣る客引きです。彼らにすれば、いい販促食材なんだろうと思ったりします。
また、手相占いの店も増えたようで、呼び込みも多くなった気がします。
抜け目のない彼らの「金になる」とのかじ取りなのでしょう。人気のある店には、行列がありました。
右の二人はご夫婦と思いますが、左のオッサンは赤の他人です。
夫婦が北京ダック等が吊されたウインドウを眺めていると、突然しゃしゃり出てきたオッサンが講釈を始めました。オッサンはいい表情してますが、赤ら顔のようです。
ですが、こんな接点からも食文化が成熟してきたのだろう、とも思える光景です。
結局、誰もこのお店には入りませんでしたが……
手前に女の子が飛び込んできたので、後方が分かりづらいですが、男性が紹興酒を瓶(かめ)からビンに移し替えています。
中華系料理店で紹興酒を頼むと、ボトルに入ったお酒が「ビンごとに量が大きく違い、いい加減だなぁ」と感じたり、「ご自由に持ち帰り下さい」と店の前に並べられた空の瓶が、常に補充されていると、思ったことありませんか?
これまで「フーン」と流していましたが、実にリアルに理解できました。
また、手元のじょうろの内側に、不純物を取り除くためと思われる、網のようなものが見えます。
そこで何がこされて、何が残されるのだろうか? ちょっと怖くて聞けません……
だから、ウマイってかぁ〜?
そうじゃなくて、酒の量は適当、空いた瓶を片付けるのは面倒(廃棄料を取られるかも知れませんしね)という、アバウトさで商売になるのだから、いい商売なんじゃないか、と思ったということです。
それが「華僑のバイタリティ」であるなら、みな分かっているのに「デフレ宣言」され、堅くなった日本人の財布のひもを、どうやって緩めようとするのか、学ばせてもらいたいと思ったりします……
中華街では西暦の新年も祝っています。
中華圏では「春節(旧暦の正月)」が最も重要とされる祝祭日ですが、「郷(ごう)に入(い)っては郷に従え」(起源は中国のことわざだそう)なのでしょう、日本の新暦の正月にも、バクチクを盛大に鳴らして祝うようです。
以前元旦に訪れたとき、その残がいのすごさに驚き、それを撮りたくて来たのですが、往来の多いメインストリートなどは踏みつぶされてしまい、粉々になっていました(路上に散乱している紙くずは、バクチクの包み紙)。
ひとまわりした後、関内(かんない)にあるチェーン店のカフェ(以前、喫茶店と言ったら女性に「オッサン」呼ばわりされました)でひと息ついている時、以前は正月料金として、法外な料金設定(コーヒー1杯1,000円とか)をする店があった事を、思い出しました。
むかしは社会全体が「正月は休むモノ」という意識が定着していたので、初詣等に出かけても営業している店が少なかったため、それも仕方ないか、という意識が客にもありました。
そんな営業努力も、「24時間、年中無休」というチェーン店がしのぎを削る今どきでは、対抗すらできません。
「ご祝儀」という感覚が、サラリーマン(勤め人)が多くを占める都市部では、通用しなくなってしまったことは、ある意味当然なのかも知れません……
缶コーヒーのCMに「この星の生き物たちは働き続けている」というものがありました(他の星では、こんなに働かないのかも知れません)。
その中でも勤勉の自覚を持つ日本人ですが、労働意欲のアピール力では中華圏の人たちには勝てないかも知れない(アピール下手な日本人が悪いわけではない)、と感じさせられた年始です……
そんな印象を足がかりにして、今年も頑張らねば!
【神奈川県】
映画『2001年宇宙の旅』(1968年)の小説版を執筆したアーサー・C・クラークが、その続編の時代設定としたのが『2010年宇宙の旅』になり、その年を迎えることになりました(『2001年〜』は、映画監督のスタンリー・キューブリックとの共同構想で、映画公開後に小説が発表されたため、原作の扱いではないそう。ちなみに小説の続編は「2061年」「3001年」と続きます)。
2001年を迎えた時にも増して、「はるかな未来まで来ちゃったなぁ」との感慨があります(未来は、現実になった途端に色あせてしまいますが……)。
テレビの映像で「道具を使うサル」を目にし、見上げた空には宇宙ステーションが浮かび、そこに日本人が滞在しているわけですから、あながち的はずれな話しではない印象があります(人類の努力を褒めましょう)。
しかし、ヒトが夢を見るためには、まずは食っていかねばなりません。
そんな元気をもらいに、チャイナタウンの雑踏を歩きました。
横浜中華街
いつ来ても活気に満ちた町ですから、元気を与えてくれるのは確かです。
でも元旦のニュースから「本年中には、GDP(国内総生産)で中国に抜かれる見込み」と宣言されるような、ひとつのエポックとして記憶される年になりそうです。
未来予想図も描けない島国では、大国と張り合うことなどかないません。
まずはとにかく、日本人と社会が元気を取り戻すための足がかりに、中国の元気(バブル)に便乗させてもらい、何とか「日をまた昇らせねば」なりません。
しかし、中国のバブル崩壊は未経験ですから、相当な痛手を受けるかも知れません。
資本主義の恩恵を受け、輸出産業で成長してきた小国ですから、「いつになっても自立できない」ことは、当然の帰結になります。
喜ばれるモノを作り、売り買いする関係は、目指すところなのですが……
経済の勢いだけでなく、庶民の活気でも中華圏に負けるようでは、ちょっと心細くなりますが、チャイナタウンのバイタリティから元気をもらって、新年に立ち向かおうと思っています。
夫婦共にマスク姿で訪れる「新型インフルエンザは怖いけど、おいしいものは食べたい!」という前のめりな姿勢は、この場にふさわしい食欲という「さが」の現れのようです。
でもここは、マスクするくらいなら、来ない方がいいのでは? と思われる危険地帯です。
国内外から横浜を訪れた観光客で、中華街に立ち寄らない人は少数派と考えると、国内および世界各地から集まる、雑菌等の見本市のような場所になります。
「危ないものほど美味」(この場合、食材ではない)というものに引かれるのは、世界共通(?)なのかも知れません。
人が集まるから「美味が生まれる」というのは、確かだと思うのですが……
新型インフルエンザの流行で、従来型がなりを潜めていると耳にしました。
これまでもインフルエンザの歴史では、新型が現れると旧型の活動が弱まったそうです。
その流行を判断するのはヒトであって、ウイルス側には「こっちの方がいいぞ!」というような、グローバルな横の連携があるとは思えません。
そんなウイルスの世代交代に関しては、新型が旧型を吸収 or 駆逐していく以外には、考えが浮かびません。
確からしいと思えるのは、一度感染して完治すれば免疫ができるので、かかりにくくなるということ、になるのか?
でも、毎年同じインフルエンザにかかる人もいるそうですから(免疫ができないのか?)、気をつけるしかないのでしょうね。
ファストフードがはやり始めたころ、歩きながら食べることは下品とされましたが(いまでも上品とは思いませんが)、ここでの食べ歩きについては、「中華街スタイル」のように支持されていたような気がします。
これ自分でも、判断基準のいい加減さに矛盾を感じますが、「アッツアツだよ、食べてって〜!」には、抵抗できません……
食事前に手を洗わないのはいけませんが、マスクなどつけずに食べ歩けるようになってもらわないと困りますよね。
みんな気にせず食べていますが、食材は店の管理でも、飲食時の衛生管理は各人の責任であることを、理解しているんですよね?
少し前は「世界チャンピオンの店」が人気でしたが、この日は「フカヒレまん」の店に行列ができていました。
今どきは饅頭だけでなく、何かスプーンですくうものなど、多様化してるようです。
やかましいのが「甘栗おいしいよ〜!」と、クリ一粒で客を釣る客引きです。彼らにすれば、いい販促食材なんだろうと思ったりします。
また、手相占いの店も増えたようで、呼び込みも多くなった気がします。
抜け目のない彼らの「金になる」とのかじ取りなのでしょう。人気のある店には、行列がありました。
右の二人はご夫婦と思いますが、左のオッサンは赤の他人です。
夫婦が北京ダック等が吊されたウインドウを眺めていると、突然しゃしゃり出てきたオッサンが講釈を始めました。オッサンはいい表情してますが、赤ら顔のようです。
ですが、こんな接点からも食文化が成熟してきたのだろう、とも思える光景です。
結局、誰もこのお店には入りませんでしたが……
手前に女の子が飛び込んできたので、後方が分かりづらいですが、男性が紹興酒を瓶(かめ)からビンに移し替えています。
中華系料理店で紹興酒を頼むと、ボトルに入ったお酒が「ビンごとに量が大きく違い、いい加減だなぁ」と感じたり、「ご自由に持ち帰り下さい」と店の前に並べられた空の瓶が、常に補充されていると、思ったことありませんか?
これまで「フーン」と流していましたが、実にリアルに理解できました。
また、手元のじょうろの内側に、不純物を取り除くためと思われる、網のようなものが見えます。
そこで何がこされて、何が残されるのだろうか? ちょっと怖くて聞けません……
だから、ウマイってかぁ〜?
そうじゃなくて、酒の量は適当、空いた瓶を片付けるのは面倒(廃棄料を取られるかも知れませんしね)という、アバウトさで商売になるのだから、いい商売なんじゃないか、と思ったということです。
それが「華僑のバイタリティ」であるなら、みな分かっているのに「デフレ宣言」され、堅くなった日本人の財布のひもを、どうやって緩めようとするのか、学ばせてもらいたいと思ったりします……
中華街では西暦の新年も祝っています。
中華圏では「春節(旧暦の正月)」が最も重要とされる祝祭日ですが、「郷(ごう)に入(い)っては郷に従え」(起源は中国のことわざだそう)なのでしょう、日本の新暦の正月にも、バクチクを盛大に鳴らして祝うようです。
以前元旦に訪れたとき、その残がいのすごさに驚き、それを撮りたくて来たのですが、往来の多いメインストリートなどは踏みつぶされてしまい、粉々になっていました(路上に散乱している紙くずは、バクチクの包み紙)。
ひとまわりした後、関内(かんない)にあるチェーン店のカフェ(以前、喫茶店と言ったら女性に「オッサン」呼ばわりされました)でひと息ついている時、以前は正月料金として、法外な料金設定(コーヒー1杯1,000円とか)をする店があった事を、思い出しました。
むかしは社会全体が「正月は休むモノ」という意識が定着していたので、初詣等に出かけても営業している店が少なかったため、それも仕方ないか、という意識が客にもありました。
そんな営業努力も、「24時間、年中無休」というチェーン店がしのぎを削る今どきでは、対抗すらできません。
「ご祝儀」という感覚が、サラリーマン(勤め人)が多くを占める都市部では、通用しなくなってしまったことは、ある意味当然なのかも知れません……
缶コーヒーのCMに「この星の生き物たちは働き続けている」というものがありました(他の星では、こんなに働かないのかも知れません)。
その中でも勤勉の自覚を持つ日本人ですが、労働意欲のアピール力では中華圏の人たちには勝てないかも知れない(アピール下手な日本人が悪いわけではない)、と感じさせられた年始です……
そんな印象を足がかりにして、今年も頑張らねば!
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