2009/10/26

陽光を浴びながら──ソレイユの丘、荒崎

2009.10.18
【神奈川県】

 これまで何度も訪れている三浦半島ですが、「三浦ふれあいの村」「ソレイユの丘」という場所は初めてになります。
 京浜急行の三崎口駅からバスを利用しますが、自治体やバス会社も力を入れているらしく、ソレイユの丘行きの急行バスがあり、間違ってそれに乗ってしまいました。
 北に向かうバスならどれでも途中下車すればいい、と考えていたのですが、急行バスがあるとは調査不足でした……


 三浦ふれあいの村(Map)

 この日海岸では、おじさんたちの「シーカヤック釣り大会?」的な催しがあったようで、オレンジの旗をつけたボートが並んでいます。
 でもこの日は海からの風が強かったので、午後は続けられたのだろうか?


 「神奈川県立三浦ふれあいの村」は、青少年の体験・研修・宿泊施設になります。
 運営・管理は神奈川県の財団法人とされていますが、そこかしこに「横浜YMCA」の表記が見られます。
 おそらく施設を立ち上げたのが横浜YMCAということなのでしょう。
 いい機会と思い調べてみれば、YMCAとは「Young Men's Christian Association」の略とのこと(キリスト教青年会)。
 古い人間が想起したのは、西城秀樹の曲『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』(1979年)で、そのタイトルには、ちゃんと理由があったんだと、今さらながら納得した次第です。
 原曲はヴィレッジ・ピープル(Village People)の『Y.M.C.A.』で、ユースホステルのように相部屋のある宿泊施設のスラングとして、「ゲイの巣窟」との意味があるそうです(歌う彼らの風体もそんな印象がありました)。
 それではまずいと、西城秀樹のY.M.C.A.は「Young Man Can do Anything」の略なんだそうです。
 そんな古い話、どうでもいいよね……

 結構古そうな施設ですがこの日も、少年サッカーチームや、調理実習(?)の団体が利用していました(用もないのにズケズケ中まで入り込んで見学させてもらいました)。
 キャンプで利用するような、屋外炊事場の設備に「窯焼きピザ」用の窯があるのには驚きました。
 いまどきはキャンプでピザか? と思ったものの、屋外炊事場の施設を考えてみれば、レンガやブロックで作られていますから、少しの工夫でピザを焼く窯などはできるだろうと、納得させられました。
 キャンプでは、飯ごうで炊いたご飯とカレーの思い出しかありませんが、時代と共に楽める要素が増えているようです。

 右写真は隣接する畑で施設には関係ありませんが、大根はスクスクと育っているようで「あぁ、おでん食いてぇ!」です。


 ソレイユの丘(Map)

 ここは、南フランス・プロバンス地方をイメージした、農業等の体験学習を目指す公共の施設で、2005年にオープンしました。
 PFI方式(民間資金・技術を活用した公共施設の整備方法)で整備されたとあります。
 なので、入場は無料ですが、各施設の利用は有料になります。
 ソレイユとは、フランス語で「太陽」を意味します。
 天気が良かったこともあり、その場に立った瞬間に、「恵みの丘」にふさわしい立地であると、表情がゆるんでいることに気付かされます。

 戦前までは日本軍の飛行場として使用され、戦後は米軍住宅とされますが、返還後は通信施設として使用されていました。
 現在でも、この敷地を挟むようにレーダー施設が現存しています。
 その北側には自衛隊の駐屯地がありますし、行政区分では「ここも横須賀」になります。
 そんな視点で見直してみると、重要な軍事施設のあった場所を囲んだ線の内側を、「横須賀市」としているようにも思えてきます。


 園内には結構広めの牧場(まきば)があり、馬の飼育に力を入れていることをアピールしています。
 多くの馬を飼育するには、広い土地と手間と費用がかかりますから、好きなだけでは続けられないと思ってしまいます。
 馬事公苑にはかないませんが、近場ではそれに次ぐくらいの数ではないでしょうか。
 ちょうどショーの最中でしたが、馬のショーなので広い場所で行われているため(サッカーコート程度の広さ)、アナウンスで解説をしているのですが、どうも散漫な印象を受けます。
 結構腐心しているようには見えるのですが、観る側もアクロバットは求めていませんから、ほのぼのとした馬のショーってどうやって見せたらいいものか、工夫のしどころという印象です。

 上写真は、西部劇のような柵のセンスが気に入りましたし、その上に腰掛けている関係者と思われる方の姿が、とてもカッコよく見えました。


 この柵の板は、頭が挟まらない程度の間隔に配置されていると思われ、羊たちは鼻先だけを出してエサをねだっています。
 ねだるときは写真のようですが、食べるときは、口を開けると柵につっかえてしまうので、顔を横にして食べています。
 つわものには柵の上部に足をかけ、来園者が差し出すエサを遠慮無くムシャムシャやっているヤツもいました。


 子どもたちはこの斜面を、喜々として駆け上がっていきます。
 「走らないの!」と声を掛ける親たちですが、自分が駆け上れないことの言い訳のように感じられます。
 芝そりを担いで登り、人工芝をそりで滑り降りてきます。
 専用のゲレンデ(?)なので、滑りもいいようですし、ちゃんと受け止めてくれる係員の方がいてくれるので、思いっきり滑れそうです。

 子どもたちには楽園のようですが、ベンチであお向けに寝ているお父さんの姿がとても目につきました。横になれるベンチが多いのも事実です。
 子どもは遊具を目にすると「どうやって遊ぼうか」あれこれ考えますが、お父さんはベンチを目にすると「居眠りすることだけ」を考える存在かも知れません。
 でも、無事目的地に到着し(車では渋滞もあったでしょう)、子どもたちが遊び始めたところで急に気がゆるむというのは、とても分かる気がします。
 陽気に誘われて「頼む、15分だけ眠らせてくれ!」と、子どもにせがんでいたのかも知れません。
 大丈夫、ひと眠りして復活したお父さんはきっと遊んでくれるし、キミたちが帰りの車でスヤスヤ眠っていても、家まで連れて帰ってくれますから。

 ここには温浴施設もあるので(600円)、わたしの場合は「風呂入ってるから」と、そこで居眠りしていそうです……


 畑ではこの季節、落花生やサツマイモの収穫体験が、屋内では、パン・バター・ソーセージ作りなどを体験できます。
 そういった実体験というものが記憶に残り、三浦半島に対する好感度が大人になっても残っていれば、地域おこしの主旨としては狙いどおりと思われますが、それには継続が必要ですから、今後にも期待というところでしょうか。

 上写真はコスモス畑だったようですが、すでに刈り取られてしまったので紹介もできない状況ですが、雰囲気だけでも(写真奧がメーンゲート)。

 天気が良かったこともあり、名前の通り「太陽の恵み」が最も印象に残っています。
 何よりも、海を望める開けたロケーションというものが、気持ちをのびのびとさせてくれることを、再確認させてくれる場所です。


 荒崎(Map)

 本来ならば、上述のソレイユの丘や三浦ふれあいの村まで、磯伝いに歩けるハイキングコースがあるのですが、崩落のため通行禁止とされていました。
 おかげで写真すら撮れませんでした。
 以前の遊歩道は、下写真の洞穴を通り抜けるルートでしたが、現在は立ち入り禁止になっています。
 名前通りの荒い波が打ち寄せ、その影響を受けやすい場所なのかも知れません。
 確かに、危険な場所への立ち入りを禁止する姿勢は理解できるところですが、そんなことしていたら日本の海岸の岩場は、ほとんどが立ち入れなくなってしまいそうな気がします……


 基本的なことですが、海底などに堆積してできる堆積岩(砂岩や泥岩)は、一般的に平坦な海底に平らに積もるので、規則正しい模様を描く岩石として残されます。
 それを踏まえると、元は水平であるはずの地層が、これだけ傾いているのですから、そこには相当な力が加えられたわけで、巨大地震もたびたび起きていたのかも知れません。
 でもその時期は、人類が生まれる以前の時代ですし、その発生間隔の時間の単位も、人間の一生よりもはるかに長い間隔だったと思われます。


 厚みのある黒い地層を白線で示し、そのズレの境界と思われる断層を赤線で示しました。
 三浦半島には、このような地層の様子を観察できる場所が無数にあります。
 そんな視線で、波打ち際の岩場を歩いてみるのも、ひとつの楽しみ方ではないかと思います。


 この人たちは(他にも数人います)、もう夢中になっちゃって危険察知ができない状況に見えました。
 写真では分かりませんが、こちらまでしぶきが飛んでくるような強風の中、足元まで波がかぶっているにもかかわらず、釣りに熱中しています。
 「フィッシャーマンズ・ハイ」とでも言うのでしょうか? 動作は非常にキビキビしています。
 笑いが止まらないほど釣れているのかも知れません……


 この絵を見て「コハダ食いてぇ!」と思ったのは、わたしだけでしょうね(近ごろ食べてないもので)。
 何だか、寿司屋のネタケースに並ぶ「ひかりもの」(サバやイワシ)を想起してしまいました。

 一帯は「荒崎公園」として整備されており、「夕日の丘」とされる、相模湾越しに富士山を眺められる展望の開けた丘があります(この日は富士山を望めませんでした)。
 その展望台に三脚を据えたおばさんが陣取っていました。
 何を撮っているのかと思いながら、帰りのバスを待つこと40分(この地からの代替ルートは思い浮かばないので、覚悟して待ちました)。
 ようやく到着したバスからは、カメラバッグと三脚を担いだ熟年層男女が、グループで降りてきます。
 それを見てようやく「みんな夕日を撮りに来るんだ」と、先ほどのおばさんの気合いを理解できた気がしました。
 渋滞は夜まで続くので、何時に帰れるか分からんぞと思いながらも、自分は「気合いが足りないのか?」と、思わされたりもします……

2009/10/19

「いつかは来るでしょ」──油壺、浜諸磯

2009.10.11
【神奈川県】

 これまでは三浦半島の東海岸(東京湾側)を歩きましたが、前回の城ヶ島を境にここからは西海岸(相模湾側)を歩きます。
 そのひびきの通り、東京湾側には都市や工場施設が並んでいましたが、相模湾側には鉄道が通っていないので、半島付け根にあたる逗子まで大きな町はありません。
 開発から取り残されたことをよろこぶような、のどかな漁港、相模湾に繰り出す船が係留されるマリーナやヨットハーバーが点在しています。
 東京湾のような大型船の通行はないので、東京近郊の「遊べる海原」として人気の高いことがよく分かります。

 天気も良かったですし、絶好の行楽日和ではありましたが……
 連休の最も人出の多い日に出かけてしまったようで、帰りには大変な目に遭いました。


 油壺(あぶらつぼ)マリンパーク(Map)

 ここ「油壺マリンパーク」のTVCMは、ガキのころから盛んに流されていました。
 立地も遠くかないませんでしたが、何度か訪れた江ノ島水族館とは違った「夢があるのでは?」とのあこがれを抱かせる場所でした。
 大人になって念願かない訪れたものの(これで2度目か?)、子どもたちの海生生物への関心を高めることを目的とする施設であることに(大人になってから来る所ではないと)、落胆したものです。
 ガキのころとても見たかった「計算ができる魚」のパフォーマンスが、現在でも同じ施設(イメージ)で行われていることには驚きました(下写真)。
 ですが何年たっても、その場で体験しないと教えてもらえない事もあります。
 下写真の現場では、「魚は計算ができるのではなく、答えの場所が分かるように、魚が認識できる赤外線を出しているんです」の説明。
 その説明に「へぇ〜」と思っているオレは何?
 別に知らなくても困りませんが、ガキのころにそんな驚きや、種明かしを経験していたら、ひょっとして「マリンパークがきっかけでした」という学者が生まれたかも知れません……
 ──ハコフグの帽子をかぶる「さかなクン」のルーツは江ノ島水族館だそうです(彼の知識量はあなどれないよね)。


 施設は開設当初と変わっていないのではないか、と思われるほど「旧時代的」な印象があり、いまどきの水族館と比較するとどの施設も小さく感じられます(敷地も広くないので仕方ない)。
 戦隊モノの「○○ジャー」的なアクションショーは結構人気があるようでしたが、ご勘弁。
 でも入念なリハーサルをやっていました。ヒーローがケガしたら困りますものね……
 そうなるとメインである、イルカとアシカのショーを見ないでは帰れません。
 ここだけは広さを感じさせる、劇場のような屋内の施設になっています。
 暗くてよく撮れませんでしたが、4頭が同時にジャンプする演技は迫力がありました。


 ここには戦前まで海軍潜水学校があり、戦後は三崎水産高校とされますが、1968年その跡地に開園されました。
 初代館長には「魚博士」とされた、末広恭雄(やすお)東大教授が招かれ、魚の行動を訓練によって演出する企画が数多く披露されたので、「サーカス水族館」と呼ばれたそうです。
 ガキのころは分からないながらも、漠然と「何かスゴそう!」と感じていたのですから、その感性は敏感だったのではないでしょうか。
 TVCMに踊らされていただけかも知れませんが……


 荒井浜(Map)

 マリンパークは高台にありますが、そこから下った海辺には、狭いながらも荒井浜という海水浴場があります。
 毎年この浜では、祭りの一環として「笠懸(かさがけ)」が行われるそうです。
 ──笠懸とは、流鏑馬(やぶさめ)同様に、疾走する馬上から弓矢で的を射るもので、流鏑馬よりも実戦的で標的も多彩なんだそうです。

 源頼朝の挙兵(鎌倉幕府の礎)に従った三浦氏が治めていた三浦半島ですが、戦国時代には北条早雲(秀吉に小田原城をあけ渡した一族の祖)に攻め込まれ、この地にあった新井城の落城とともに、三浦一族は海に投身して全滅することになります。
 その際、湾内が血で染まり、まるで油を流したような状態になったことが、油壺の地名の由来とされるそうです(何だか、そんな話しを聞いちゃうと、ここでは泳げなくなりそうです)。
 上述のお祭りは、その最後の当主である三浦道寸義同(どうすんよしあつ)をたたえるものだそうです。


 この日は「バーベキューライブ」の催しがあり、一帯に演奏が響き渡っていました。
 かなりの大音響なので、オリジナル(?)等の知らない曲をやられると、結構迷惑な騒音と感じられます。
 
 ご主人が一緒と思いますが、女性の釣り姿ってあまり見られない気がします(下写真)。
 奧に見える朽ち果てた桟橋が、城ヶ島との連絡船の発着場ではなかったか?
 海岸側の堤防付近も大きく崩れていたので、それが観光船廃止の理由だったかも知れません。


 ここでは、レジャーと関係なさそうな古い建物も目に入ります。
 右写真は東京大学の地殻変動観測所で、もう使用されてない建物に思われますが「立ち入り禁止」なので、確認できませんでした。
 ここには戦時中、特殊潜行挺(潜水可能な特攻挺もしくは、人間魚雷とされる特攻兵器)の発進地とされた地下壕があり、1947年その跡地に、地殻変動の観測所が設置されました。
 現在では、東方20kmにある房総半島鋸山(のこぎりやま)に設置されている同様施設と、相互間の変動比較により,地震発生に関する地殻変動の観測をしています。
 わたしも大学の卒業論文で調べましたが、すぐ近くにある油壺験潮所(海の潮位の高さを観測)では、関東大地震後に1.5m近い地盤の隆起が観測されていました。
 次に起こる首都圏大地震に際して、ここを調べていれば必ず前兆がつかめるとは限りませんが、しっかりと監視してもらいたい地域のひとつです。


 浜諸磯(はまもろいそ)(Map)


 上写真は油壺側から、浜諸磯方面を眺めた絵です。
 地図で見れば直線距離は近いのですが、その間には油壺湾、諸磯湾が切れ込んでいます。
 二つの入江にはそれぞれマリーナがあり、上述の「血の海」だった湾内はヨットに埋め尽くされています。
 そんな皮肉を言いたくなるのは、あこがれの裏返しであると自覚しています……(ヨット乗りたいなぁ〜)


 で、この岩は何なわけ? と言われそうですが、自分でもわけは分かっていません。
 でも、学生のころに出会ったこの岩壁のインパクトは、まだ残っています。
 「どうなっちゃってるわけ?」と……


 下側の逆Zの線から下は、一般的な地層に見受けられます。
 その上部、線で囲んだ部分には地層の連続性が見受けられ、ブロックとして認識することができます。
 しかしそれ以外の部分には、秩序らしきものが見られません。
 おそらくこの上部の岩は、半固結の状態にあるときに、海底下で起きた土砂崩れの様子が記録されているものだと思われます。
 これまで紹介した、剱崎、城ヶ島と同じように地殻変動を受けてきた地域になり、「あんかけのカタ焼きそば」や「皿うどん」のように、麺のかたまりをあんかけの具が包んでいるようなイメージでしょうか(こんな表現で伝わるのか?)。
 詳細については、先斗町で飲んだ彼が所属する地質関連の学会等で研究しているそうなので、いい加減な話しはこの辺にしておきます。


 この地は、三崎と油壺の間にありますが、とてものんびりとした漁港なので、釣り客くらいしか訪れない場所かも知れません。
 そんな不便な場所ですが、地域の老人福祉センターがあったりします。
 その送迎用のマイクロバスが走っていますが、乗り遅れたおばさんもいたようで、路線バス(京急バス)を待っています。
 油壺から歩いたわたしは、15時前後に停留所に着き、バスの時刻を確認し、15:46分発のバスに間に合うように行動していました。
 おばさんは15:10分発のバスに乗るつもりだったようですが、そのバスが来ないばかりか、わたしが乗る予定の46分発のバスも16時を過ぎても来る気配がありません。
 そのおばさんは「前もお祭りの時に待たされたけど、いつかは来るでしょ」と長期戦の構えでした。
 わたしは用事は無いにしても、いかんせん腹が減っていて、近くに食堂らしきものは見あたらないので、来た道を戻りました。
 利用客の多い「油壺路線」の欠便は避けたいのでしょう、回送のバスが目の前を急いで走っていきました。
 結局そのバスに乗れたのですが、そこから超満員の車内で、約1時間の大渋滞にお付き合いです……

 紹介と同時に注意点を一言。くれぐれも連休中には近寄らないようにして下さいね。
 それにしてもバスを待ってたおばさん、どうしたかなぁ?

2009/10/12

家族で来たかった海──三崎漁港、城ヶ島

2009.10.04
【神奈川県】

 しばらくぶりに降り立った京浜急行終点の三崎口駅。
 三崎港方面に向かうバスの車窓には、右も左も展望の開けた大根畑が広がり、右手奥は海まで見渡せます。
 この光景が「三浦半島のイメージ」と言いますか、そんな景色が好きで何度となく訪れていたころを思い出しますし、満足と同時に気持ちのモードも切り替わっていきます。
 以前と印象は変わっておらず「この田舎っぽさがいい」と、改めて感じ入ったりして、スタートからいい感じです。


 三崎漁港(Map)

 三崎漁港と言えば、遠洋マグロ(はえなわ)漁の陸揚げ港として有名です。
 マグロの陸揚げでは、焼津漁港(静岡県)に次ぐ国内第二位だそうです。
 ちなみに生マグロは、勝浦漁港(和歌山県)が最も多いそうです(種類は不明)。
 ──小学校の社会見学で訪れた記憶があり、カチンカチンの冷凍マグロがゴロゴロ転がっていたことを覚えています。

 冷凍施設〜市場〜加工施設〜流通システム等が整備されていますが、それは三崎漁港に所属する船の専用システムではなく、遠洋漁業の陸揚げ基地として各地に整備されている施設のひとつになります。
 近ごろ耳にする、船を丸ごと買い付けられた漁獲量については、市場の集計数値が推定とされていました。
 「三崎のマグロ」と言われますが、冷凍物ですから捕獲地は同じ海域でも、陸揚げされた港によって名称が変わってしまいます。
 現在では冷凍技術が発達したので、陸揚げ港と消費地の距離は関係ないように思われますし、陸揚げNo.1の焼津ブランド人気が高まっているのかも知れません。
 冷凍マグロに旬はないでしょうが、入荷が増える季節があります。
 暮れから正月にかけては、需要が増えて価格も上がるので、その季節に陸揚げする船が増えるそうです。

 港周辺の裏路地を歩き始めると、昔ながらの港町風情を感じられる光景が次々と目に入ってくるので、ついつい誘われてしまい、なかなかマグロにありつけません。
 大根畑などが広がる丘陵地は、海岸近くで急峻(きゅうしゅん)なガケとなって海に接しています。
 この港も、振り返れば目前にガケが迫っており、平坦な土地は広くありません。
 そんな土地柄にもかかわらず、港として栄えたわけですから、狭い路地や斜面に建つ家、高台へと続く坂道や階段が、昔のままと思われる姿で残されていて、同じように整備のしようもない尾道の町並みを想起したりしました。
 

 ここは海南(かいなん)神社で、海上安全の鎮守様と思われますが、下げられている綱が、船をつなぐロープに見えてしまいましたが、そんな訳ないですよね?
 狭い町ながらも、参道がそのまま残されているところに、神社と住民の一体感が感じられます。
 先日の剱崎で紹介した、海に剣を投げ入れ嵐をおさめた神社の神主さんは、ここの方なんだそうです。

 しかし、むかしからの商店街は他の地方都市と同様に、シャッターが閉まっています。
 営業中の店の主人にもお年寄りが多く、新たな展開ができないと言うか「やれるうちはこのままやりたい」と思われているようで、後継者はいないが家を手放すわけにもいかない、という状況に思われました。
 ですが近ごろは、高速道路も延伸され「東京から気軽に訪れることのできる日帰り観光地」とされていますから、ビジネスチャンスはあると思います(渋滞は覚悟して下さいね)。
 古くからの方も、新規参入の人たちも、さまざまなやり方で町のリニューアルに取り組んでいて、昼時の飲食店のにぎわいは、まさしく観光地と感じられました(関西だと明石のイメージでしょうか)。

 町おこしの姿勢は伝わってきましたが、中身はどうなの? と、事前に何も調べず店に飛び込み、昼食にマグロ丼を食べてみましたが……
 冷凍物であればどこで食べても同じである、という認識を再確認するだけで、三崎だから安い・量がスゴイ等のサプライズが何もありませんでした。
 特徴と言うならば「特製のタレがかかっていますので、そのままお召し上がり下さい」ということでしょうか(右下写真の老舗の姉妹店でした)。
 ──以前、漁港から離れた三浦海岸方面の国道沿いに、安価でたらふくマグロを食べさせてくれるお店があり、値段と量に満足した記憶があります。港から離れたお店の方が狙い目なのかも……

 そんな状況に、関西での「マグロは東京にもっていかれちゃう」の言葉を思い出し、魚の食文化に関しては関西の方が格段に「美食」であると感じたことを思い出しました。
 東京圏での需要の規模は大きいですから、安定的に供給できる冷凍物が重宝されるのは理解できる気もします。
 しかし、冷凍マグロが主役にならない関西ですが、魚売場のいろどりは豊かです。
 瀬戸内海という魚介の宝庫が近くにありますから、スーパーに並ぶ魚の種類が季節や漁獲の状況によってコロコロ変わります。
 それが「旬を大切にする」ように思え、見ているだけでも楽しかったですし、それぞれがとてもおいしかったことが印象に残っています。

 先日「養殖マグロの生産が2倍」というニュースを目にしました。
 ある程度の条件をクリアしてくれれば、とても素晴らしい努力だと思います。
 タイと比べるのはおかしいかも知れませんが、瀬戸内の料理人の方々は「養殖の方がサイズがそろっていて、味が一定している」と褒めていましたし、とてもおいしかった印象があります。
 マグロも計画生産ができるようになれば、海外からのバッシングも弱まるかも知れません(日本としては全面禁漁は避けたいので)。
 遠洋漁師の方々の新たな職場として、養殖業に携わってもらえるような、採算の取れる産業となるよう期待したいと思います。


 城ヶ島(Map)

 ペリーの黒船来航(1853年)を、最初に目撃したのは城ヶ島の漁師であったと伝えられています。
 三浦半島の最先端の地で、東京湾の入口に当たりますから、それ以降は東京湾要塞とされ砲台が存在しましたが、戦後は城ヶ島公園とされます。

 以前運行されていた、城ヶ島~油壺間の観光船(船から投げるエサにカモメ等が群れている宣伝ポスター、覚えていません?)は2007年に廃止され、島を周遊する遊覧船に衣替えしたようです。
 城ヶ島や油壺より、三崎漁港周辺をベースにした観光の人気が高まっていることの表れかも知れません。
 三崎漁港から城ヶ島への渡し船に初めて乗りました(城ヶ島大橋の架橋で廃止され、2008年に約50年ぶりの復活)。
 船名は「白秋」(北原白秋の詩『城ヶ島の雨』にちなみます)で、燃料に食用廃油を再生したバイオディーゼルを使用していることを、盛んにアピールしていました。


 地学ファンの皆さまお待たせしました。城ヶ島の地質構造の紹介です。
 上写真は、城ヶ島灯台から見下ろす事ができる、褶曲(しゅうきょく)の様子になります(写真は付近から)。
 白っぽく見えるシルト(砂と粘土との中間サイズ粒子の堆積物)と、黒っぽく見えるスコリア(火山噴出物で黒い軽石のようなもので、富士山表面の小石と同類)の筋が、円を描くように見えると思います。
 そんな視点で初めて灯台から光景を目にした時、「おわん」のような立体的なイメージを頭の中で描けたことが、とてもうれしく感じられた記憶があります。
 ──下写真矢印の方向のおわんの底に、地層が傾斜しているイメージになります。


 三浦半島の先端にある島として、古くから観光地とされたそうで、鎌倉時代には源頼朝が度々訪れ、頼朝由来の地名がいくつも残されると伝わるそうです。
 明治時代には、三崎~東京間に汽船が就航し、城ヶ島には避暑客でにぎわう海水浴場もあったそうです。
 大正時代には、北原白秋の詩に梁田貞(やなだてい)が曲をつけた歌謡曲『城ヶ島の雨』の流行により、若い男女が憧れるロマンの島としてその名が広まったそうです。
 ──白秋は、不倫相手と暮らす場所をこの地に求めますが、当時の不倫は「姦通罪」の対象ですから、訴えられた白秋は監獄に入ったそうです。

 しかし、関東大地震(1923年:大正12年)によってこの地では地盤の隆起が起こり、砂に埋もれていた岩礁が露出して砂浜が狭まってしまい、現在のように海水浴には適さない海岸となりました。
 ──地震発生後の数日間は、三崎漁港から歩いて城ヶ島に渡ることができた、との言い伝えもあります。


 ここは、赤羽根崎の突端にある馬ノ背洞門です。
 海水に浸食された岩(海食洞門)で、関東大地震前にはその中を小船で通り抜けられたそうです。
 ──むかし、上を渡ったような記憶もありますが、現在は立ち入り禁止。

 この辺りは、東側の安房崎一帯の城ヶ島公園と、西側の城ヶ崎灯台の中間に当たるので、多少の距離を歩かなければなりません。
 磯遊びなら、どこでもできると思うのですが、この景観があるためでしょうか、多くはありませんが何となくたまり場となっています。
 親子で磯遊びに興じている姿では、お父さんの方が夢中になっているようにも見えます。
 ──下写真の出来はよくないと思うのですが、逆光でも親子の表情が伝わって来る気がして、好きです。


 写真とは別の家族ですがその付近で、日差しから乳児を守るように、海に背を向けてずっとダッコしているお母さんがいました(近くに日陰はないので仕方ない)。
 子守も大変そうだし、こんなところまで乳児を連れてくることないのに、と思って見ていました。
 お守りの交代時間が来たのでしょうか、お父さんが幼児のお姉ちゃんと海から戻って乳児を受け取ります。
 その交代してもらった瞬間です。
 お母さんは、お姉ちゃんに声を掛けることもなく、出足鋭く海に向かってダッシュで駆けていきました(母が獣にひょう変したようで驚きました)。
 その姿には周囲の他人にも「家族で来たかった海」の理由が伝わってくる気がしました。
 親とすればまず第一に「子ども」であると思われますが、「お母さんも発散したーい!」と、はじけてしまった内面が、他人にまで伝わってきましたし、これで満足してくれることを祈っております……

 家に戻ってから思ったのですが、パパ・ママの思い出の地なのかしら? いろいろあったりしたのかも……
 デートに最適な場所であることは確かです。

2009/10/05

新米入荷しました!──十日市場

2009.9.26
【神奈川県】


 わたしは、商店街の「新米入荷」の張り紙を目にした瞬間に、条件反射でだ液の分泌が促進される方なので、「米食系」などと言われるかも知れません。
 新米をおいしくいただいた後ですが、刈り取られた稲穂が干される光景を見たくなり、「稲刈りに間に合うか?」と調べてみました。
 横浜には、以前紹介した「寺家(じけ)ふるさと村」以外にも、稲刈りの光景を見られる場所があるようなので、トライしてみました。


 新治(にいはる)市民の森

 ここは、横浜市の新治市民の森といい、JR横浜線の十日市場駅から徒歩20分ほどの場所にあります。
 横浜の原風景とも言える「谷戸(やと:丘陵が浸食されてできた谷状の地形)」の連なる地域が、現在もその地で農業を営まれている方々の協力によって、散策可能な市民の森として維持されています。


 市民の森の入口付近にある「新治里山交流センター(旧奥津邸)」の門をくぐった目の前に「頭上注意」の看板があります。
 何かと思えば「完熟柿が落ちてきます」とのこと。
 わたしは柿をほとんど食べないので、そのありがたみを理解していませんが、地元の人たちは十分な量を確保したということなのだろうか(鳥に食べられた跡は見られません)。
 その先を歩いてみると、そこらじゅうに落ちた実が散乱している実態に遭遇し、その理由が理解できます。
 害虫を駆除してくれた鳥たちへのご褒美のようで、彼らはおいしい部分だけしか食べないのかも知れません(それは贅沢なのか、本能なのか……)。


 「黄金色」とはまさしくこのことで、育ててきた農家でなくとも、この光景には日本人として喜びを感じてしまいます。
 稲穂を観察してみると、どの籾(もみ)も均等に成熟しているわけではないように見られます。
 今年の国内の作柄は「やや不良」とされるそうです(冷夏というか、天候不順であったことは確かです)。

 食欲の秋、と言われますが、お米のおいしいことが第一の条件ではないでしょうか。
 畑や山の幸、海の恵みが続々と店頭に並んで、舌鼓を打ちますが、やはり最後は「これで、飯食いてぇ!」と思ったりします。
 確かに、パンやめん類(そば・うどん・パスタ等)を食べる機会は増えています。
 ですが、どれも「うまい米」にはかなわないと思っているにもかかわらず、米食の割合を考えてみると、その機会は思いの外少ないのかも知れません。
 それを指摘されると「日本の米作りを守らねば!」の声も、小さくなってしまいそうです。
 おいしいお米は食べたいけれど、そんなにいっぱい食べられない。
 って、勝手すぎる要望であることを、認識しました……


 干されたばかりのようで、右写真ではまだ茎に青い部分が見られます。
 これを稲木干し、もしくは、稲架掛け(はさかけ)と呼ぶそうです。
 いまどきはコンバインによって、稲刈り〜脱穀を一気に行い、脱穀された籾は、穀物乾燥機で乾燥させます。
 ちなみに、コンバインで稲刈りをしている方々が、よくタオルや手ぬぐいを顔に巻いているのは、機械から排出される藁くずが皮膚に炎症起こす恐れがあるための、予防策なんだそうです。
 いまどきでは、操縦席が密閉されているものや、エアコン付きのコンバインなども出回っているそうです。
 農業やってみます?


 谷戸を囲む丘陵地には、とてもいい雑木林が残されており、ガキの頃近所に住んでいたら、毎日駆け回って秘密基地を作ったことでしょう。
 そんなガキの時分には、遊びに夢中で気にも止めなかった虫さされですが、ここ数週間連続でやられています(夏の高尾山でも刺されなかったのに)。
 連続でやられたもので、かゆみが治まった個所も、別の個所を刺されると連動して(?)かゆみがぶり返すこともありました。
 脳にはかゆみに反応する部位があると、最近のニュースで知りましたが、忘れていたかゆみまで思い出させるのだろうか?
 年齢と共にそんな神経だけ過敏になるとしたら、困りモンだなぁ〜。

 右写真の彼岸花(曼珠沙華:マンジュシャゲ)は、田んぼのあぜには当たり前にあると思っていましたが、土地改良などをした場所では見られないようです。
 花の盛りもそれほど長くないようで、元気な株はこれくらいしか見あたりませんでした。
 日本の彼岸花は、稲作の伝来時に中国から土と共に、鱗茎(りんけい:球根の一種)が混入してきて広まった帰化植物なんだそうです。
 それが広まったため、日本の彼岸花はすべて遺伝子的に同一とされているそうです(中国からの1株から日本各地に広まったと考えられるそうです)。
 雌雄についても雌株だけになるので、受粉による繁殖はできないんですって。
 とても信じられませんが、これを研究テーマにしたら論文書けそう、と思ったりもしました。


 こちらの籾は、乾燥していておいしいのでしょうか、スズメが大挙して群れていました。
 その数を目にすると「お米がなくなっちゃう」と思ったのですが、あれは防げないでしょうし、秋の実りのおすそ分けとして、許容しているようです。
 でも、スズメは稲の害虫を食べてくれるわけですから、わたしたちが容易に口にしがちな「共存」の身近な例を、目にできた気がします。
 小学校の社会見学のようですが、自分の目で再確認できたことは、大切な見聞と思います……


 ここは、駅に戻る丘の峠付近になります。
 そんな丘を越えて、駅側にあるらしい中学や高校から下校してくる制服姿が目につく時間帯です。
 現在の彼や彼女たちには、こんな環境に囲まれた地域の中を毎日通っているなんてことには、関心のかけらもないのだろうと思われます(田舎だし〜、程度が関の山でしょう)。
 自分が育った町を振り返っても、通学路にあったイチョウ並木の「ギンナンが臭かった!」という程度の印象しか残っていません。
 ですが現在、駅前の再開発でゴーストタウンのような姿を見せられると、さみしい気持ちにさせられるのも確かです。
 彼らが大人になる時分に、この地はどうなっているのでしょうか? 


 追記
 ポニョの浦(広島県福山市鞆の浦:とものうら)の、港の埋め立て・架橋事業中止を求めていた訴訟の判決で、広島県に計画の中止が命じられました。
 景観保護を理由とした公共事業の中止を命じた判決は初めてだそうです。
 これまでは、住民がいくら異議を申し立てても、行政側に押し切られてきましたが、正当性が判断される時代がやって来たと言えるかも知れません。
 そんなの、当たり前のことだと思うのですが……
 工事が中止になったからといって、過疎化や高齢化に歯止めがかかるとは思えません。
 しかし、文化的遺産が残されていれば、その有効活用に知恵を絞ることは可能になります。
 これからが、地域振興の正念場になるわけですから、暮らしやすく、魅力を生かした町作りを目指してもらいたいと思います。
 また機会があれば是非訪れます!

 追記2
 沖縄県沖縄市の泡瀬(あわせ)干潟の埋め立て事業を、中止する旨の発言がありました。
 沖縄の公共事業については、前政権は何を勘違いしていたのか「沖縄の地域振興のため」と、恩着せがましく投資効果が大きく見える事業を、住民の意思などおかまいなしに進めてきました。
 わたしも正直、これは止められないと思っていました。
 新政権にとっては「公共事業の見直し」「歳出削減」の旗印による一連の行動に過ぎませんが、地元住民は「世(ゆー)が変わる」というような、大変革の兆しを感じているのではないでしょうか。
 沖縄の人々は、米国統治下時代を「アメリカ世(ゆー)」と呼び、日本に返還されてからを「日本世(やまとゆー)」(琉球の自治は戻っていないの意味)と表現したりします。
 今度は「鳩ぬ(の)ゆー」とか言ったりするかも知れません。
 響きは平和的ですが、さて、お手並み拝見というか、ホーム側で見守らせていただきます。
 普天間基地の移設問題は、そう簡単にはひっくり返らないと思われますが、「なせばなる」の姿勢で取り組んでいただくことを、期待しております。