2011.7.23
【神奈川県】
お盆明けにこの夏の最高気温を記録した関東地方ですが、一転して秋口を思わせるひんやりとした空気に包まれました。
そんな気候変化の極端さに閉口する近ごろですから、この後に再度「猛暑日来襲!」があったのでは、心身共にうんざりさせれられ、夏の疲れが出てしまいそうです。
油断の無きよう……
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日吉(Map)
東急東横・目黒線、横浜市営地下鉄日吉駅は、駅前の慶應大学日吉キャンパスや住宅地のイメージから、好感度はあっても何か気取っているような印象もあります。
慶應の学生でも、クラブ活動帰りにはラーメン屋でガッツリ食べたいわけで、今どきの学生街にはきれいな店も増えましたが、実情は変わらないようで安心したりします。
駅西側は田園調布のような、駅を中心に放射状+円周状の道路で区画される町並みが広がります(下写真、全景撮影は無理なので、その一部)。
田園調布同様に起伏のある地域の都市計画では、格子状の町並みで生じる不都合が、放射状の区割りではごまかせるのでは、と思ったりします(直線よりも曲線の道の方が、傾斜がゆるやかに感じられる等)。
住宅地として開発されたため、建築物の高さ制限ばかりか店舗の営業制限もあり、終電後(25時以降)は真っ暗になるそうです(第二の田園調布を目指すよう)。
日吉キャンパスは教養課程的な性格(1・2年生が多い)のため、未成年者の学生が多く、学生が夜中まで騒がしいのはおかしい場所柄なのは確かです。
キャンパスとは駅の反対側にある商店街を、慶大生は「ひようら(日吉駅の裏?)」と呼ぶそうですが、教養を学ぶヒヨコが遊ぶ裏庭のようなキレイな繁華街、では言い過ぎか?
この付近に暮らしていればとりあえず「OK!」という若いおばちゃんが多そうに見えますが、横浜には都会っぽい下町という印象がありますから、同じ市内でも要求の対象が違うというか、東京へ向けられる関心の高さがとても強く感じられる町との印象を受けます。
1889年(明治22年)市町村制施行の町村合併で日吉村が誕生します。
川崎市や横浜市から合併の誘いを受けるも、分割を望まない村側との話は進展しません。
当時の日吉村は矢上川を境に、東部は二ヶ領用水を利用した稲作を行う川崎市側と結び付きが、西部は桃などの果物生産で横浜市側との結び付きがありました。
1933年(昭和8年)東京横浜電鉄(現在の東急)が慶應義塾を誘致する際、横浜市から水道を引いたことで合併問題が再燃します。
結局県知事の裁定で、1937年矢上川の東側は川崎市に、西側は横浜市に編入され、川を境に分割されることになります。
その横浜市側では、昭和初期からイチジクの栽培が盛んになり、最盛期(1960年頃)には、春のイチゴ、夏のイチジク狩りの観光地として東京からの観光人気を集める農作地域になります。
当時は、出かけるにはちょうどいい郊外という立地だったようです。
かつて日吉には「東急電鉄発祥の地」記念碑がありましたが、現在は元住吉駅の車庫に移設されています。
ここは東急電鉄の前身である東京横浜電鐡が、鉄道建設の最初に着手した日吉〜新丸子間の水田を買収した記念の地とされます。
都心側では、多摩川の砂利採取に利用された軌道は、後に都電(路面電車)や旅客鉄道に転用されますが、神奈川県側に軌道はありませんから、東京圏から鉄道網を広げようとする意欲のおかげでこの地域は開かれ、五島慶太(東急会長)は大きな富を手にすることになります。
星宿山 正福寺(Map)
以前訪れた、柿生の地名由来地とされる王禅寺と同じ山号(仏教寺院に付ける称号)「星宿山」を持つ正福寺です。
わたしはガキ時分天体観測が好きでしたが、そうでない方にも星宿山の響きには引かれるものがあるのでは?
この寺の記録は見当たらないのですが、王禅寺では創建当時に毎晩天から星が降り、その光があたり一面を照らすことから「星降山(ほしくだりやま)」と呼ばれ、それが星宿山となる話が残るので、この寺についても同様のことが推測されます。
王禅寺は757年創建の記録が残る真言宗(空海)の寺院で、正福寺の開創年代は不明ですが天台宗(最澄)の寺院になります。
何かとライバル視される空海(天才肌)と最澄(努力家)ですが、この山号の符合は、和解できない教義間の敵対心ではなく、創建時に流星群が盛んに星を降らしていただけかも知れませんし、両寺院とも「とても星空がキレイな丘陵地」とした方が、すんなりと納得できる気がします。
近しい場所ですし、それぞれに「星宿山」を守ってきたことは、「天」「空」からの恵みへの感謝の気持ちが根付いたことを示しているのではないでしょうか。
このお寺では上写真の御霊堂が重要なようで、この建物が旧小机領三十三観音霊場めぐりの霊場札所とされています。
上写真は高田(たかた)付近の切り通し。
鯛ヶ崎公園(Map)
横浜市営地下鉄グリーンライン日吉本町駅から5分ほどの場所にある鯛ヶ崎公園には、「プレイパーク:自己責任で自由に遊べる空間」があります。
プレイパークはこれまで何カ所も紹介していますが、ガキ時分に遊んだ秘密基地的要素に引かれるのかも知れません。
YPCネット(横浜にプレイパークを創ろうネットワーク:2002年発足)に賛同する方々の活動で、現在横浜市内には20のプレイパークがあります。
子どもたちに「自由さ」をアピールするためか、公衆トイレの外壁がカラフルに装飾されています。
この原色的な色合いから想起するのは、1960年代末期の「フラワームーブメント」のイメージです。
現在では多様な美意識が混在・氾らんしており、この絵はその中から選択されたことを踏まえると(作者の有名無名は関係ない)、当時一世を風靡した「カラフル主義」一辺倒の風潮は「革命なのか、新芽発芽期の幼稚さだったのか?」と、時代を振り返らせてくれるインパクトあるトイレでした。
手作りブランコに立って乗っている娘の声が聞こえてきました。
「わたしこの前もおばさんに写真撮られたけど、今日はオジサンに撮られてる……」
──ハイハイそうですよ、わたしが変なオジサン、ってか?
「本とかに載っちゃうのかなぁ? でもわたし載ってみたいんだぁ」
──本じゃなくてゴメンね……
そんな状況で、変なオジサンから声を掛けると怪しまれそうですし(左上にこちらをうかがう顔があります)、撮らせてもらって目が合えばニコッとするのが関の山というところです。
以前の地名である鯛ケ崎は現在日吉本町五丁目とされ、その地名由来はどうも見当たりません。
傾斜地の地名で丘陵地も含まれるので、以前(と言っても縄文時代)海だったころには鯛が捕れたかも知れませんが、縄文時代の伝えは残らないでしょうから、古墳・貝塚から鯛の骨が多く出土した等の理由が考えられます。
金蔵寺(こんぞうじ)(Map)
横浜市営地下鉄グリーンラインには、日吉駅の隣に日吉本町駅があります。
「本町」の響きには古くから栄えた町並みのイメージがあり、懐かしい感じの商店街に「ここが本町か!」を期待していましたが、そんな理由ではなかったようです。
傾斜地が多く大規模開発ができない日吉駅周辺から離れた、平地の広がる谷戸地に旧住宅公団が団地を建設したことで、商業地域が発展します。
現在団地はリニューアルされ、新駅も誕生したので住宅圏として発展しそうです。
近くの丘陵を背にした地に金蔵寺(天台宗)があり、その斜面の上にある「日吉権現」(不動明王:密教根本尊の大日如来の化身。お不動さん)が、日吉の地名由来とされます。そのためここが本町とされたようです(日吉権現は比叡山の日吉山王(ひえさんのう)、現在の日枝神社の分霊)。
隣駅元住吉命名の庶民的な由緒とは違い重い印象もありますが、そんな響きにも品格が感じられるところが、人気住宅地の理由のひとつかも知れません。
ここは別称「国家鎮護道場」とされますが、これは最澄が天台宗を開く際、当時の政府から命を受け(国家のための宗教)、比叡山に鎮護国家の根本道場開いた流れと思われます。
時を同じくしてライバルとされる空海も国家困窮に際し、密教の即身成仏の思想を国家と結びつけ「国家の鎮護」を目指します。
当時の宗教は「国を守るため」の手段と期待されていました。
上記写真中央の派手な色遣いの灯ろうは「キリシタン灯篭」とされますが由緒は不明です。
他の施設にも、目を引く派手な配色がみられることから、密教(天台宗・真言宗等)のルーツとされるインドを意識しているように感じられます。
でも、龍の絵があったりするので、それは中国起源か? と考えた末、折衷(せっちゅう)が得意な日本流なんでしょ!? と感じた瞬間から、和める印象に変わるところが不思議です(心理と認識のいい加減さを自覚します)。
江戸時代には徳川将軍家の菩提寺である上野寛永寺の末寺とされ、家康・秀忠父子から寄進された梵鐘が現存するので、おそらく江戸を守る役割が託された寺院なのでしょう。
NHK大河ドラマ『江』は、関ヶ原の戦いから徳川の世に向かおうとしていますが、今回の田渕久美子の脚本(『篤姫』も担当)には「思いが強すぎる」印象があります。
知識の裏付けがあるにせよ、歴史上特段に注目を集める時代に、「アレ?」という設定を持ち込まれた時の視聴者の反応は、視点の転換好きなわたしでも「これじゃマンガだよ」と思う場面の連続です。
いつ見るのをやめようかと思っていますが、徳川幕府が盤石となる三代家光の時代に至るまでの状況を知りたい気持ちで見続けています……(江は家康の息子秀忠の妻で家光の母なので、徳川の母と言えるような存在)
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