2010/04/05

異文化を見上げる目線──山手地区

2010.3.27
【神奈川県】


山手地区(Map)

 JR根岸線の山手(やまて)駅周辺には、特に用事のある施設もなく、一度降りてみようという動機から本日のルートを決めました。
 山手駅とは言え丘陵の上に駅は作れませんから、トンネルを抜けた谷間にあるところなどは、横須賀方面のローカル駅を想起しました。
 当初は、現石川町駅を山手町駅と命名する計画が、地元の反対によりこの駅に回されたため、駅前には山手のイメージとは異なる光景が広がっています。
 根岸線の中では、駅の利用者数が最も少ないそうです。

 右写真を撮った時のイメージには、一瞬「丘の尖塔(せんとう)を眺めて暮らす町」なんて女性誌的な見出しが浮かびましたが、「そんなのカンケーねぇ」という土地柄に見えます。
 丘に教会があるイメージを持つ町には、函館、神戸、長崎等がありますが、どこも山の斜面にあるので、その裏側に町はありません。
 ここは、丘陵地帯の頂上に尖塔があるので、裏側には「関係ない町」が広がっています。
 地図を調べると、どうも横浜雙葉学園(ふたばがくえん)というカトリック系の学校法人(小学校〜高等学校まで一貫教育の進学校)のようです。
 何でもそうなんでしょうけれど、無関心であっても頭上に存在していると、見上げて暮らさねばならない憂鬱は、確かにある気がします(背後の丘陵には米軍の根岸住宅や、高級住宅が建つ)。
 横浜という場所は、映画『泥の河』のように川岸の貧民街に暮らす人々が、丘の上の立派な建物を「天国」と見上げた構図が、現在でも感じられる町と思います(何度も映画『天国と地獄』を持ち出してすみません)。

 その見上げる丘陵の上に、日本最初の洋風庭園で、日本におけるテニス発祥の地とされる山手公園があります(洋館奧がコート)。
 1859年の横浜開港後、関内(現山下町)付近に外国人居留地が作られますが、人口増加により1867年には山手居留地が増設され、1870年に居留外国人の手によりこの公園が作られます。
 当時イギリスで始まった屋外で行う「ローンテニス」が日本に伝わり、この地で始まったそうです。
 とは言え当時の評判は、「毛唐(毛色の変わった人)の女が芋ざるで毬を打っている」というものだったそうです。
 当時プレーに際し、女性のロングスカートをつり上げる用具があったり、近所にあるフェリス等、女学校に広まる様子を見ていたら、わたしも「芋ざるを振り回す」などと評した口かも知れません。
 でもいまどきは「全員修造」ですから、そんなこと言ったら大変です……

 開港時に作られた外国人居留地は、関内(現山下町)と表されますが、その名は居留地の入口に設けられた関所の内側(居留地側)を指す名称で、地名ではありません。
 そこは幕府が用意した区域で、元は砂地のため湿気が多く、江戸規格的な狭い区画が不評で(下町長屋のようだったりして?)、あの山の上を使わせろと迫られ、認めたそうです。
 関内の居留地に対して、高台を指す名称として「山手」が使われ、英語で"Yamate Bluff"(切り立った岬)と呼ばれるようになります。
 その「山手」に対して関内の居留地は「山下」(これは蔑称(べっしょう)ですね)と呼ばれるようになり、山下町になったという、住民にはあまりうれしくない経緯があります。
 ──むかしって、差別的な表現を気にせず使っていましたよね。


 この地でも関東大震災(1923年)の被害は大きく、それ以後この地域に住む外国人居留民は激減します。
 現在山手地区の観光コース周辺に並ぶ洋館は、ほとんどが観光資源として昭和期以降に、建築もしくは移築されたものだそうです。
 その遺構が元町公園に残されています(上写真、山手80番館遺跡)。

 外国人は去ったのに、教会ばかりが残っているのはなぜでしょう。
 外人墓地を守るというような使命感があったのか?(日本的な「寺町」を想起しますが)。
 どの宗教団体も「主張」をするだけですから、本質は見えませんが、「横浜に教会を持つ」という縄張り争い的な「砦(とりで)」なのかも知れません(怒られるかな?)。
 そういう意味では、世界的に名の知れた港町なわけですから、そんな教会で結婚式を挙げることにあこがれる気持ちも、分かる気がします。この日も行われていましたが、これは双方にとって満足なことなのでしょう。


 上記の外国人居留地を調べるうちに、鉄道開通に対して日本人が抱いている自負心から、メッキがはがれ落ちていくような記述を目にしました。
 新橋〜横浜間の鉄道建設に協力的だったイギリスは、当時の横浜居留地と築地居留地をつなぐ目的で協力した、という記述です(要するに、植民地化への準備とも理解できる工事を、日本から金を出させて実行した、とも受け止められます)。
 市場の門戸を開く場として、新橋に近い築地にも外国人居留地が設けられますが、横浜の外国商社は寄りつきませんでした。
 そこに入ったのは教会やミッションスクール(新天地への先兵ですね)で、青山学院や明治学院等のルーツとなったそうです。
 また、アメリカ公使館が設置され、1890年に現在の赤坂に移転するまで存続します。
 詳細は分かりませんが、ひょっとすると外国に乗っ取られていたかも? という、危ない橋を渡っていたように思えてきます。
 当時の国家(幕府。明治時代は1868年から)の方針とされる、「横浜を捨て石としても」との考えは、間違った選択ではなかったのかも知れません。


 上写真は、以前は立ち入れなかった「フランス山」に、井戸水をくみ上げるために作られた、風車のレプリカになります。
 領事官があったとされますが、フランス・イギリス軍の駐留地だったことに驚かされました。
 幕末期の下関戦争(馬関戦争:長州藩と英・仏・蘭・米との間で起きた武力衝突)の対応に、この地が利用されたとあります。
 今後の大河ドラマ『龍馬伝』に描かれるかも知れないので、その際は「やつらは横浜から来ちょるぜ」と、うんちくをボソッと口にすれば、「詳しいねぇ」と株が上がること間違いなし?
 検討をお祈りします……


 今回の横浜めぐりは、これで終了になります。
 「ダークサイド」を突ついたりしましたが、そんな経緯を知ってこそ「みなとみらいを築くんだ!」の情熱が、理解できるのではないでしょうか。
 これまで紹介した解決の難しい現実の問題を、横浜市がどんな「みらい予想図」を描いて、住民に希望を与えてくれるのか、そんな視点を含めて「横浜」という町に関心を向けてもらえればと思います。


●おまけ 根岸森林公園──2010.4.3


 「開花は早すぎ」「温暖化の影響?」「まだ寒い」等々、何だかんだ言っても、満開の時期にはお花見の陽気がやってくるもんですね。
 でもそこには、温度計の数値としてはまだちょっと寒いけど、満開の花に「ほら、春よ!」と言われると、もう抵抗できない心理も働いて「春だなぁ」と、洗脳させられてしまう面があるようにも思います。
 でも、それで「春到来の儀式」を済ませて覚醒するなら、それが日本人の季節感と胸を張りましょう。


 1866年日本初の洋式競馬場がこの地に作られました(上述のテニスコートより古い)。
 戦前は天皇賞や皐月賞が行われる、日本を代表する競馬場でした。敗戦後はアメリカ軍に接収され、米軍専用のゴルフ場とされたそうです。
 現在は、根岸競馬記念公苑とされ、JRA(日本中央競馬会)外郭団体が運営する「馬の博物館」があり、乗馬体験もできます。


 丘陵地帯を利用した競馬場跡地は公園として解放されていますが、そこを取り巻くように米軍の「根岸住宅地区」が広がっています。
 増設中の「池子住宅地区」に移転後、返還される予定だそうです。
 坂が多くて、決して暮らしやすいとは思いませんが、景色が良かったりするのでしょう。
 戦国武将のように高台を押さえれば、相手の動きを察知できる(監視される)わけですから、やはり気持ちのいいモノではありません……
 写真後方の鉄塔は米軍の施設。

0 件のコメント: