2010.11.6
【神奈川県】
より大きな地図で 鶴見川&里山 を表示
港北ニュータウンから鶴見川支流の早淵川をさかのぼると、田園都市線あざみ野駅付近を通り「美しが丘」(何が美しいのか聞いてみたくなります)とされる地域を抜け、潮見台という高台に至ります。
多摩川と鶴見川の分水界(雨水が流れる先の川を分かつ境界)を、支流の水源域が接する付近で見たいと、溝の口からバスに乗りました。
王禅寺(Map)
以前夜に乗った、小田急線新百合ヶ丘駅→田園都市線あざみ野駅行きバスの車窓から、丘陵地全体に点々と明かりが広がる様子を目にし「てっぺんの方まで開発されてるんだ」と、遠くの明かりを追ったことがあります。
場所については「王禅寺○○」というバス停名だけが記憶に残ります。
その地名の由来となる王禅寺が健在であることを知り、最初の目的地としました。
王禅寺は、757年創建の真言宗(空海が開宗)の寺で、山号を「星宿山」とします。
星が宿る山とはロマンチックにも思えますが、おそらく空海の教義にある宇宙観に由来するのではないでしょうか。
中世(平安時代〜戦国時代)には、関東の高野山と呼ばれるほど栄え、周辺には多くの塔頭寺院(たっちゅう:師の塔(墓)の頭(ほとり)に建てた小院)が建てられたそうです。
本来は禅宗の習わしですが、「禅」「律」「真言」三宗兼学とされた際のなごりかも知れません。
1333年新田義貞の鎌倉攻めの戦火で焼失しますが(彼は古くからの建造物をことごとく焼き尽くしていきます)、戦国時代の小田原北条氏に領地を与えられ、境遇としては恵まれていたようです。
江戸時代初期この地域は、二代将軍秀忠に嫁入りするお江与の方の「お化粧領(持参金)」とされ、二人が他界の後は、徳川家菩提寺である芝増上寺の領地(御霊屋領)となります。
お江与の方とは、2011年NHK大河ドラマの主人公である「江(ごう)姫」のことで、徳川秀忠に嫁がされる際「江戸に与える=江与」とされたとも言われます。
政略の駒として使われた印象はぬぐえませんが、武将の娘(浅井長政の三女)として凜と生き抜いたであろう生涯については、来年のドラマで学ばせていただきましょう。
現在の境内は、ひとつの谷戸(谷間)だけの狭いものですが、その「枯れ方」がとてもシブく、思わず声を上げてしまいます。
このお寺の美しさは、草木があるがままに育っているよう見える(見せる?)程度の手入れにとどめている「自然観」(自然と人間のかかわり方のさじ加減)の見事さにあります。
秋も深まれば草木も冬支度で夏のような息吹はありませんが、その枯れかかった姿にも見るべきものがある、と語るかのようです。
ただに伸びているだけでもよし、ただ枯れているだけでも結構。
こころに響くものをめでればいい。
そんな気持ちにさせられる「ありよう」でした。
右写真は、日本最古の甘柿品種とされる「禅寺丸柿(ぜんじまるがき)」の原木で、鎌倉時代(1214年)にこの地で発見されました。
日本ではそれまで渋柿しか知られておらず、日本初の甘柿(不完全甘柿)発見になります。
カキへの関心は低いものの調べてみると…
・甘柿は、完全甘柿と渋が残ることがある不完全甘柿に分類される。
・甘柿同士の交配でも渋柿となる場合がある。
・甘柿は渋柿の突然変異種と考えられている。
・北海道と沖縄県では栽培されていない。
・「桃栗三年柿八年」とされるが、接ぎ木をすると4年で実がなる。
秋の空に映える鮮やかなだいだい色が、みな甘いと思ってはいけないようです……
明治時代には「カキが生まれた 柿生(かきお)村」とされますが、川崎市編入後その名は小田急線「柿生駅」だけとなります(地名は消失)。
王禅寺ふるさと公園(Map)
王禅寺に隣接した公園で、川﨑市制60周年を記念してつくられました(1991年)。
どうも記念事業というものは、大きなお金を動かすためのかけ声だったり、要望に応える恩着せがましさなど、後ろめたい裏事情があるのでは? と勘ぐりたくなります。
内陸の丘陵地に砲台はないでしょうが、以前は何に利用されていたのだろうか?
調べてみれば、近くの菅生には軍用地があったとの記述が目に入ってきます。
ほらぁ〜、と調べていても、戦争をしかけた国の土地はどこも軍用地みたいなものだったでしょうから、この辺でやめておきます。
それにしても朝鮮半島の騒がしさには、これまでの中東方面からの「風の便り」では済まされない身近さがあります。
砲弾を撃ち込む国が悪いのか、撃ち込まれる国が悪いのか?
世界各地の軍事政権の後ろ盾となる中国が強いのか、核放棄を訴えた(武器を放棄する)オバマのアメリカが弱くなったのか?
ブッシュ時代なら、もう攻撃を始めていたでしょうし、中国も攻める姿勢には強気であっても、調停力の無さを露呈してしまい「知恵袋」として尊敬を集めた歴史の威厳を失っています。
そんな情勢分析は二の次でいいですから、我が国はどうあるべきかの姿勢を示さないと、弾が飛んできただけで腰砕けになってしまいそうです。
戦争はしたくないと考える人がほとんどである現在、どう対処すべきなのかは、国民全員が考えるべきことでもあります。
ちなみにここは以前、王禅寺領地の山林だったそうです……
潮見台(Map)
この付近で最も高い丘の上からは、横浜の海が見えたことにより潮見台の地名が残されています(標高100m程度)。
現在は川崎市の潮見台浄水場があり、ここから市内へ水道水が送られます(川崎市の水道水源は、相模湖、津久井湖など横浜市と同じ)。
浄水場建設の際この地から縄文時代の遺跡が発見されたそうで、標高の高い土地でも昔から暮らしやすかった場所柄がうかがえます。
それは現在でもこの付近が、多摩川水系平瀬川(二ヶ領用水と立体交差する)、鶴見川水系早淵川、黒須田川、真福寺川の水源地であることからも想像ができます。
現在の水量は少なくも、多摩川と鶴見川に水を供給しているのですから、多摩丘陵の地下水脈は現在も機能していることになります。
それを題材に、丘陵地の水脈と大規模開発について考える授業などができればいいのでは、と思ったりします。
尾根付近に整備されたグラウンドでは、地域の少年サッカー大会が行われていて、作戦会議の様子が聞こえてきます。
「○○(強そうな相手)にはできるだけ失点しないように。△△(弱そうな相手)には7-0くらいで勝たなきゃだめだ」なんていう狙いで士気が上がるというのも、草サッカーの醍醐味かも知れません……(写真奧が浄水場)
追記
大河ドラマ「龍馬伝」が終わりましたが、あの暗殺シーンのお粗末さにはあきれました(ニューステロップは関係ない)。
混沌とする世間の憎しみに討たれる危険性を龍馬自身が感じていたとしても、ドタ、バタ、ドン!(暗殺なので格好のいい死にざまはありえないが)〜エピローグという演出と、「ここで死ぬんだ」というお約束の場面にたどり着いた安堵感的なものが、「画面の空気感」に漂っていた気がしてなりません。
結局、当初感じた「本気なのは香川照之だけ」の印象を思い起こしただけのエンディングでした。
「篤姫」のように余韻で終われる物語はいいにしても、「義経」や本作のような作品では、「ラスト制作委員会」的な場で知恵を絞る必要があるではないだろうか。
ところで「坂の上の雲」第二部が始まってしまいます。
もう1年経ってしまいましたが、まだ原作本に手すら触れていません。
第二部を見ながら気持ちを盛り上げていかねば、と思っています……
2010/11/29
2010/11/22
懐かしさから生み出せるもの──仲町台〜大熊町
2010.11.13
【神奈川県】
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今回もまだ港北ニュータウン付近をうろついていますが、横浜市が都市開発の目標とした「住居・職場・農業が一体となった街作り」の、職場・農業の現場を見て歩こうというのが今回のテーマです。
川和富士(かわわふじ)(Map)
港北地区に3座現存する富士塚のひとつで、規模としては最も大きく(すそ野が広い)高さは15m程度あります。
ニュータウン建設により公園に移設されますが、鶴見川方面の谷地形を見下ろす視界の広がりには開放感があります。
その先にあるはずの富士山の姿が見えれば言うこと無いのですが、雲がかかっています(黄砂のせいかも)。
最寄りの横浜市営地下鉄グリーンライン都筑ふれあいの丘駅付近からは、この富士塚頂上が舞台のように見えます。
上に立つ人影がはしゃいでいるように見え、低いながらも頂に立った時の気分の良さとその振る舞いのわけを理解できる場所です。
富士山の「砂走り」ではありませんが、上写真下の子のようにそり滑りのコースとされている場所があり、そこだけ草がはげています。草の上を滑ればもっと爽快と思ったら、多摩川土手に滑りに来てください。
時折散歩する土手沿いは雑草(花を咲かせる草もある)が伸び放題なので、年に2〜3回草刈り作業が行われます。
遊歩道のある場所が対象としてもかなりの面積があるので、かなり費用がかかると思いますが、草が伸びると歩道が歩きにくくなるので、必要と感じる行政サービスです。
そんな土手をグラスそりの遊び場にすれば、双方にメリットがあると思ったりします。
ただ、お母さんは「また草の種をいっぱい着けてきた」とため息かも知れません(あれ繊維に絡まるような構造なので、洗濯しても取れないんだよね)。
背後の鉄塔には「橋本線」のプレートがありました。ここから相模原市橋本までだと結構距離はありそうですが、橋本方面の工場がお得意様というネーミングなのかと思ったりします。
サカタのタネ 本社(Map)
港北ニュータウンが属する都筑区では、南部の鶴見川沿いは以前から工場の多い地域でしたが、ニュータウン開発と共にスタートした企業誘致により、企業本社や研究所の転入件数が増え、横浜市のもう一つの目標である「職場」が充実しつつあるようです(自治体の見解)。
都筑区に本社を構える企業には「AOKIホールディングス」「パナソニック モバイルコミュニケーションズ」などもありますが、横浜市のもう一つの目標である「農業」とベストマッチな「サカタのタネ」本社があります。
この会社は、1913(大正2)年創業「坂田農園」(横浜六角橋)に始まり、苗木の輸出入を軌道に乗せるも戦争で断念。そこから種苗業へ転換し、現在では「花と野菜の研究開発」を主業務とします。
上写真のような緑化事業(コンクリートの上で植物を育てる)も行っており、「緑の多い町でもっと植物を育てましょう」などと、いまどきは何をやっても好感度アップにつながってしまう、実にうらやましい会社です。
あこがれの職業というものは「電車の運転手」「プロ野球選手」から、年齢や社会情勢によって変化しますが、いまどきでは「グリーンのプロ」というのも、実にカッコイイ職業に思えたりします。
「緑から食物まで」を研究するのですから、人類の未来が彼らの双肩にかかっている、と言えるかも知れません。
展示温室のグリーンプラザは一般開放されていて(土日祝休館)、植物園の温室が持つ「植物図鑑」的な役割とは違い、ここはガーデニングや家庭菜園の「見本ディスプレイ園」という格段にキレイなショールーム的温室で、関心のある人が見たら思わず育てたくなるような展示なんだと思います。今度是非見学してみたい施設です。
自治体、会社、住民のいずれにとっても相乗効果を生み出す、非常に珍しい例と思います。
ド素人ですが「雇ってくれないかなぁ〜」とあこがれてしまいます。
農業専用地区(Map)
仲町台駅から横浜方面に向かう地下鉄ブルーラインが地中に潜った少し先で視界が一気に開けます。
この一帯が、横浜市の目標である「農業との共存」を実現した農業専用地区になります。
ビニールハウスなども点在する一般的な農地ですが、戦略的な「横浜ブランド農産物」として、ホウレンソウやコマツナなど軟弱野菜に力を入れているとのこと。
軟弱野菜とは耳慣れませんが「収穫から急速にいたみはじめる野菜:青物」のことで、消費地近くでの生産が必要とされる近郊農業向き作物になり、自治体では「小松菜の生産量は日本一」と鼻高々です。
横浜市の農地整備事業では、住宅地の一画にポツンと農地が残されている様な土地と、市が事前に購入しておいたこの周辺の土地と交換することで、住宅地と農地の区画整理を目指しました。
ここなら周囲に建物がないので、日当たりを心配せずにすみますし、回りも農家だけですからマイペースで精を出せると思います。
先祖代々の土地も大切ですが、大都市近郊では宅地と農地は分けられていた方が互いに落ち着けるようにも思えます。
以前は農家の家の周囲に農地があるのは当たり前でしたが、そんな形態の変化を農地の都市化(?)というものかも知れません。
上写真中央奧に鉄塔が林立していますが、その辺りが以前名称だけ登場した港北変電所になります。
そんな光景も、都市近郊の田園風景らしさと言えそうです。
大熊町(Map)
農業専用地区に沿って丘陵地を下ると、となりの支流である大熊川に至ります。
今回鶴見川を歩くに当たり、特に意識してない川だったので、ここで出会えなければ素通りするところでした。
ここには「手つかずの農村集落」が昔のままの姿で現存しており、まるでガキの時分にタイムスリップしたかのような光景に、ちょっと鳥肌が立ちました。
曲がりくねったあぜ道に沿って家の敷地を囲う生け垣が続き、その庭では飼っているニワトリが当たり前のように鳴いてますし、落ち葉たきの煙があちこちから上がっています。
右写真の火の見やぐらは現役のようで、近ごろ見かけなくなった赤く丸い電灯(消防署や交番にあった電灯。右写真で判別できるか?)に目を引かれ、畑の道でペースダウンした歩く速度が、一段とスローになりました。
横浜市の土地利用図を見ると、ここも農業専用地区に含まれるようですが、ここの場合は「農家の家並み保護地区」とすべく、あえて港北ニュータウン計画の網をかぶせ、なし崩し的な開発から守ろうとしたのではないか、とすら感じられました(ここを舞台に映画の1本も撮れそう)。
だとしたら横浜市もやるもんだと思うのですが、果たして?
忘れかけていた記憶をたどり断片をつなぎ合わせるうちに、また別の断片がよみがえるので、キリのない不毛な作業になるのですが、結局懐かしむだけでは何も生まれないと理解しているためか、とても切ない気持ちにさせられます。
表現としては「胸がキューン」で通じるのでしょうが、「締め付けられる」「ときめく」ではなく「ざわめく」あたりの表現でいきたいと思うのは、オッサンが「キューン」じゃ無いだろうと意地になるからです……
上写真は出来の悪いウリ(?)を畑のあぜに並べて、土盛りの一助としているようです。
「むかしのまま」という表現を褒め言葉に使いたい地域では、(お約束のように)無邪気な表情で駆けだしてくる若いお兄ちゃんの素朴な姿が見られ、角張った車高の低い車が大きな音を立て走ってきますから、タイムスリップでないとしたら「ここはどこの田舎?」となるのでしょう。
しかし、どっこい生きているローカルな生活感が、そんな「個性」を育てていると思える集落ですから、一杯やりながらお話をうかがいたいところです。
懐かしがるばかりではなく、現在の生活で生かせる知恵や文化を取り込めれば、また新しいモノを生み出すヒントになるかも知れません。
初めて訪れた夕暮れ時のバス停で、ひとりベンチに座る心細さは次の瞬間、旅行で初めて訪れ右も左も分からない土地で感じる「どこへ連れて行ってくれるのだろう」というワクワク感に変わります(この瞬間がたまらなく好きです)。
やってきたバスの行き先が「鶴見」(大倉山、新横浜経由)という身近な地名であることから、少し足を伸ばせば横浜市にはまだ「未踏の地が残されている」と感じ、期待感が膨らんできました。
【神奈川県】
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今回もまだ港北ニュータウン付近をうろついていますが、横浜市が都市開発の目標とした「住居・職場・農業が一体となった街作り」の、職場・農業の現場を見て歩こうというのが今回のテーマです。
川和富士(かわわふじ)(Map)
港北地区に3座現存する富士塚のひとつで、規模としては最も大きく(すそ野が広い)高さは15m程度あります。
ニュータウン建設により公園に移設されますが、鶴見川方面の谷地形を見下ろす視界の広がりには開放感があります。
その先にあるはずの富士山の姿が見えれば言うこと無いのですが、雲がかかっています(黄砂のせいかも)。
最寄りの横浜市営地下鉄グリーンライン都筑ふれあいの丘駅付近からは、この富士塚頂上が舞台のように見えます。
上に立つ人影がはしゃいでいるように見え、低いながらも頂に立った時の気分の良さとその振る舞いのわけを理解できる場所です。
富士山の「砂走り」ではありませんが、上写真下の子のようにそり滑りのコースとされている場所があり、そこだけ草がはげています。草の上を滑ればもっと爽快と思ったら、多摩川土手に滑りに来てください。
時折散歩する土手沿いは雑草(花を咲かせる草もある)が伸び放題なので、年に2〜3回草刈り作業が行われます。
遊歩道のある場所が対象としてもかなりの面積があるので、かなり費用がかかると思いますが、草が伸びると歩道が歩きにくくなるので、必要と感じる行政サービスです。
そんな土手をグラスそりの遊び場にすれば、双方にメリットがあると思ったりします。
ただ、お母さんは「また草の種をいっぱい着けてきた」とため息かも知れません(あれ繊維に絡まるような構造なので、洗濯しても取れないんだよね)。
背後の鉄塔には「橋本線」のプレートがありました。ここから相模原市橋本までだと結構距離はありそうですが、橋本方面の工場がお得意様というネーミングなのかと思ったりします。
サカタのタネ 本社(Map)
港北ニュータウンが属する都筑区では、南部の鶴見川沿いは以前から工場の多い地域でしたが、ニュータウン開発と共にスタートした企業誘致により、企業本社や研究所の転入件数が増え、横浜市のもう一つの目標である「職場」が充実しつつあるようです(自治体の見解)。
都筑区に本社を構える企業には「AOKIホールディングス」「パナソニック モバイルコミュニケーションズ」などもありますが、横浜市のもう一つの目標である「農業」とベストマッチな「サカタのタネ」本社があります。
この会社は、1913(大正2)年創業「坂田農園」(横浜六角橋)に始まり、苗木の輸出入を軌道に乗せるも戦争で断念。そこから種苗業へ転換し、現在では「花と野菜の研究開発」を主業務とします。
上写真のような緑化事業(コンクリートの上で植物を育てる)も行っており、「緑の多い町でもっと植物を育てましょう」などと、いまどきは何をやっても好感度アップにつながってしまう、実にうらやましい会社です。
あこがれの職業というものは「電車の運転手」「プロ野球選手」から、年齢や社会情勢によって変化しますが、いまどきでは「グリーンのプロ」というのも、実にカッコイイ職業に思えたりします。
「緑から食物まで」を研究するのですから、人類の未来が彼らの双肩にかかっている、と言えるかも知れません。
展示温室のグリーンプラザは一般開放されていて(土日祝休館)、植物園の温室が持つ「植物図鑑」的な役割とは違い、ここはガーデニングや家庭菜園の「見本ディスプレイ園」という格段にキレイなショールーム的温室で、関心のある人が見たら思わず育てたくなるような展示なんだと思います。今度是非見学してみたい施設です。
自治体、会社、住民のいずれにとっても相乗効果を生み出す、非常に珍しい例と思います。
ド素人ですが「雇ってくれないかなぁ〜」とあこがれてしまいます。
農業専用地区(Map)
仲町台駅から横浜方面に向かう地下鉄ブルーラインが地中に潜った少し先で視界が一気に開けます。
この一帯が、横浜市の目標である「農業との共存」を実現した農業専用地区になります。
ビニールハウスなども点在する一般的な農地ですが、戦略的な「横浜ブランド農産物」として、ホウレンソウやコマツナなど軟弱野菜に力を入れているとのこと。
軟弱野菜とは耳慣れませんが「収穫から急速にいたみはじめる野菜:青物」のことで、消費地近くでの生産が必要とされる近郊農業向き作物になり、自治体では「小松菜の生産量は日本一」と鼻高々です。
横浜市の農地整備事業では、住宅地の一画にポツンと農地が残されている様な土地と、市が事前に購入しておいたこの周辺の土地と交換することで、住宅地と農地の区画整理を目指しました。
ここなら周囲に建物がないので、日当たりを心配せずにすみますし、回りも農家だけですからマイペースで精を出せると思います。
先祖代々の土地も大切ですが、大都市近郊では宅地と農地は分けられていた方が互いに落ち着けるようにも思えます。
以前は農家の家の周囲に農地があるのは当たり前でしたが、そんな形態の変化を農地の都市化(?)というものかも知れません。
上写真中央奧に鉄塔が林立していますが、その辺りが以前名称だけ登場した港北変電所になります。
そんな光景も、都市近郊の田園風景らしさと言えそうです。
大熊町(Map)
農業専用地区に沿って丘陵地を下ると、となりの支流である大熊川に至ります。
今回鶴見川を歩くに当たり、特に意識してない川だったので、ここで出会えなければ素通りするところでした。
ここには「手つかずの農村集落」が昔のままの姿で現存しており、まるでガキの時分にタイムスリップしたかのような光景に、ちょっと鳥肌が立ちました。
曲がりくねったあぜ道に沿って家の敷地を囲う生け垣が続き、その庭では飼っているニワトリが当たり前のように鳴いてますし、落ち葉たきの煙があちこちから上がっています。
右写真の火の見やぐらは現役のようで、近ごろ見かけなくなった赤く丸い電灯(消防署や交番にあった電灯。右写真で判別できるか?)に目を引かれ、畑の道でペースダウンした歩く速度が、一段とスローになりました。
横浜市の土地利用図を見ると、ここも農業専用地区に含まれるようですが、ここの場合は「農家の家並み保護地区」とすべく、あえて港北ニュータウン計画の網をかぶせ、なし崩し的な開発から守ろうとしたのではないか、とすら感じられました(ここを舞台に映画の1本も撮れそう)。
だとしたら横浜市もやるもんだと思うのですが、果たして?
忘れかけていた記憶をたどり断片をつなぎ合わせるうちに、また別の断片がよみがえるので、キリのない不毛な作業になるのですが、結局懐かしむだけでは何も生まれないと理解しているためか、とても切ない気持ちにさせられます。
表現としては「胸がキューン」で通じるのでしょうが、「締め付けられる」「ときめく」ではなく「ざわめく」あたりの表現でいきたいと思うのは、オッサンが「キューン」じゃ無いだろうと意地になるからです……
上写真は出来の悪いウリ(?)を畑のあぜに並べて、土盛りの一助としているようです。
「むかしのまま」という表現を褒め言葉に使いたい地域では、(お約束のように)無邪気な表情で駆けだしてくる若いお兄ちゃんの素朴な姿が見られ、角張った車高の低い車が大きな音を立て走ってきますから、タイムスリップでないとしたら「ここはどこの田舎?」となるのでしょう。
しかし、どっこい生きているローカルな生活感が、そんな「個性」を育てていると思える集落ですから、一杯やりながらお話をうかがいたいところです。
懐かしがるばかりではなく、現在の生活で生かせる知恵や文化を取り込めれば、また新しいモノを生み出すヒントになるかも知れません。
初めて訪れた夕暮れ時のバス停で、ひとりベンチに座る心細さは次の瞬間、旅行で初めて訪れ右も左も分からない土地で感じる「どこへ連れて行ってくれるのだろう」というワクワク感に変わります(この瞬間がたまらなく好きです)。
やってきたバスの行き先が「鶴見」(大倉山、新横浜経由)という身近な地名であることから、少し足を伸ばせば横浜市にはまだ「未踏の地が残されている」と感じ、期待感が膨らんできました。
2010/11/15
燃料切れの景気浮揚エンジン──仲町台
2010.11.3
【神奈川県】
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今回も引き続き、港北ニュータウンに整備された散策路を歩きます。
前回は、市営地下鉄中川駅から「くさぶえのみち」「ふじやとのみち」「せきれいのみち」途中の、仲町台駅まで。
今回は仲町台駅から「せきれいのみち」「ささぶねのみち」を通り、センター南駅まで歩きました。
この2回で5時間程度歩きましたが、まだ散策路すら一周してないのですから、その広さが伝わるのではないかと思います。
せせらぎ公園(Map)
横浜市のニュータウン開発計画からは、市営地下鉄の建設で沿線沿いの住宅地が線としてつながり、道路整備により面として広がることへの期待感が伝わってきます。
今回歩いてみて「それは成功している」との印象を受けたように、世間的にも「失敗」の声は聞かれないようです。
その成功要因を転入者の心理から考えると、お手頃な価格設定だったのかも知れませんし、「横浜」という耳当たりのよさと、「新しい町」(日本人は「新しもの好き」で「周りと一緒」であることに安心します)のしがらみのない自由な雰囲気に引かれたのかも知れません。
そこに付け加えたいと思ったのが、「多少不便でも自然に触れられる場所」を求める気持ちをつかんだからではないか、ということです。
宅地開発を目的としながらも、できるだけ開発前の里山に近い姿で自然環境を残そうとした取り組みが、身近な自然としてのバランス(さじ加減)にピタッとはまったように見えました。
これがベストではなくても、「休みに散歩できる」「自然に触れながら子どもが遊べる」環境の実現が、ひとつの成功要因に思えます。
子どもの多い町という印象に加え、どこの緑地からも子どもたちの歓声が聞こえてくる様子が、その答えという気がします。
1965年横浜市の開発計画発表から準備がスタートし、1974年土地区画整理事業の認可が下り工事着手〜1996年区画整理完了。これをもって港北ニュータウン計画は完了とされます。
都市開発とは、区画整理が終われば後はその土地を売って建物を建てるだけですから、大規模なもの以外は民間にもできるということなんですね。
わたしの思考パターンからするとこの辺で、「こんな急斜面を削ちゃって…」などと批判的なことを書きたいところですが、町を歩いてみると、開発によるプラス面の方が圧倒的に多く、ケチをつけるより感心しきりだったので今回出番は無さそうです。
区画整理にあたり、前回の「山田(やまた)富士」の石像撤去に関するものなど、さまざまな場所で多様な問題が発生したと思われますが、市側にはその都度キッチリと解決していく姿勢があったようです。
(文化の理解は欠如しているが)地権者との土地取引では、遺恨を残さぬよう振る舞ったようですし、環境保護を訴える反対運動も収束し、大きな問題なく事が運んだようです。
開発を行う際に、地権者の納得を得られたということは、それだけでプラス評価と言えるのでしょう(表に見えないだけか?)。
そしてプラス面の成果と言えるのが、前回紹介した虫送りの行事です(自治体側の言葉ですからよく書かれているのは当然ですが)。
以前からの住民と、新しく転入してきたと思われる子どもたちが、地域の行事で輪になれるのですから、地元以外の出身者にもその伝統を広めることができます。
まして若い世代に愛着を持ってもらえたなら、地元側は言うこと無しのはずです。
そのような伝統を見守ってきた里山の様子が、整備された姿とはいえこれだけ確保されていれば、子どもたちの遊び場として不足はないと思われます。
そんな場所でのびのびと遊ぶ子どもの姿を見れば、「いいところだろ! お前が気に入ると思って選んだんだ」などと、お父さんも鼻高々でバリバリ働く意欲がわいてくるはずです。
でもこの仕掛けは、明るい将来を描ける時代には完ぺきに近いシナリオとして、馬力のある景気浮揚エンジンとなってきましたが、現在ではその動力源を見失いかけている印象があります。
景気低迷が続く現在にこそ、景気浮揚の原動力を作り出す仕掛けが欲しいのですが、国民全体を潤わすことができるような「大プロジェクトX」って、ちょっとやそっとじゃ思い浮かびません(テーマが大きすぎて提案も出てこない)。
開発自体は成功裏に完了し、希望を抱いて転入した住民は、景気浮揚に貢献すべくバリバリ働いているのですが、将来の明るさというエサでもぶら下げてくれないと、息切れしてしまうのではないだろうか。
実態は、青息吐息のようにも思われます……
上写真2枚は、散策路沿いに整備された茅ヶ崎公園自然生態園(Map)内に、農家や水田の様子を再現した一画になります。
狭いながらも、田んぼ、稲わら干し、かかし、柿の木、炭焼き釜、シイタケ栽培の原木等、農家の周辺にあったものは一通りそろっています。
裏には、4分の1に割られた扇形の薪(まき)が積まれてあります。近ごろ目にする機会もないので、懐かしいというか暖かみを感じたりします。
実生活では使ったことはないので、それ以外の活動経験から「薪→暖かい」を学習したことになりますから、子どもたちにもそんな経験が必要であると言えるのでしょう。
いまどきは、まずは目にすることからスタートという気がします。
先ほどの田んぼで刈られたと思われる稲が、隣接する小学校のフェンスに干されています。おそらくここの生徒たちが、稲刈り実習で刈ったのでしょう。
以前センター南・北駅周辺を歩いたときに「実際の田んぼでの実地体験へと広げるべき」と書きましたが、知らなかっただけでやはりこの付近には、実地体験の機会が数多くあるようです。
そういえば出身小学校の花壇の並びに、小さな田んぼがあったような気がしてきました(土の下にビニールが敷いてあった)。きっとあれこれやったんだと思いますが、もう覚えてません。
そんな不真面目なガキは放っといて、印象に残っている人は必ずいますから、そんな人には必要な経験だったはずです。
と、言えた義理ではありませんが……
猛暑の影響でお米の品質が悪かったせいだろうか、外食ばかりですが近ごろ「あれっ?」と感じるほど、おいしくないお米に出会う機会が増えた気がします。そんなことありませんか?
この地域は首都圏の西部地区に当たり、東名高速道路、東海道新幹線新横浜駅、羽田空港(センター南・北駅から羽田空港行き直行バスあり)に近いので、西方面からの交通の利便性が高く、関西、名古屋から関東に移住する人々に人気が高いそうです。
そう言えば、関西弁を耳にしました。
東北・上信越からの玄関口が上野であるように、西方面からの玄関口は品川・新横浜となるのでしょう。
まだ先の話ですが、2027年開業を目指すリニアモーターカー(中央新幹線)の始発駅は品川に決まったようですが、神奈川県の停車駅は相模原市の橋本駅付近が有力候補と言われています。
工場しかなかった橋本に高層ビルが林立し、相模原に関西弁があふれる日がやって来るのかも知れません。
鴨池公園こどもログハウス(Map)
建物の中からこどもたちの大騒ぎする声と、ドタバタ駆け回る足音が聞こえてきます。
ここは「鴨池公園こどもログハウス」という施設で、中にはぐるぐるすべり台、ネットの遊具、地下迷路等々、大はしゃぎしたくなる遊具満載の遊び場です。
雨の日も遊べて、騒いでも怒られないというのは、子どもにとってはたまらない場所です(横浜市の各区にひとつあるそうです)。
しっかし、中はホコリだらけなんだろうと思うも、彼らには関係ないことですわね。でも、近所でインフルエンザが流行ると閉鎖されてしまうのでしょうから、気をつけないと……
散策路を歩く視線からは、尾根をつなぐ陸橋や、谷間を越えていく歩道など、元の地形を生かそうとする町づくりや、そこから生まれる景観の変化を楽しむことができました。
ですがここは丘陵地。平坦地に育った者には「坂のある暮らし」ってのはとても想像できません。
鶴見川をテーマとして歩くにあたり、丘陵地の多いことは覚悟しましたが(確かに近ごろ坂道ばかり歩いている)、それは休日の散策時に限られていますから。
朝の出勤時に坂を登るのは、目が覚めていいとは思いますが、疲れた会社帰りに坂道を登らされたら、帰るのがイヤになってしまいそうです……
【神奈川県】
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今回も引き続き、港北ニュータウンに整備された散策路を歩きます。
前回は、市営地下鉄中川駅から「くさぶえのみち」「ふじやとのみち」「せきれいのみち」途中の、仲町台駅まで。
今回は仲町台駅から「せきれいのみち」「ささぶねのみち」を通り、センター南駅まで歩きました。
この2回で5時間程度歩きましたが、まだ散策路すら一周してないのですから、その広さが伝わるのではないかと思います。
せせらぎ公園(Map)
横浜市のニュータウン開発計画からは、市営地下鉄の建設で沿線沿いの住宅地が線としてつながり、道路整備により面として広がることへの期待感が伝わってきます。
今回歩いてみて「それは成功している」との印象を受けたように、世間的にも「失敗」の声は聞かれないようです。
その成功要因を転入者の心理から考えると、お手頃な価格設定だったのかも知れませんし、「横浜」という耳当たりのよさと、「新しい町」(日本人は「新しもの好き」で「周りと一緒」であることに安心します)のしがらみのない自由な雰囲気に引かれたのかも知れません。
そこに付け加えたいと思ったのが、「多少不便でも自然に触れられる場所」を求める気持ちをつかんだからではないか、ということです。
宅地開発を目的としながらも、できるだけ開発前の里山に近い姿で自然環境を残そうとした取り組みが、身近な自然としてのバランス(さじ加減)にピタッとはまったように見えました。
これがベストではなくても、「休みに散歩できる」「自然に触れながら子どもが遊べる」環境の実現が、ひとつの成功要因に思えます。
子どもの多い町という印象に加え、どこの緑地からも子どもたちの歓声が聞こえてくる様子が、その答えという気がします。
1965年横浜市の開発計画発表から準備がスタートし、1974年土地区画整理事業の認可が下り工事着手〜1996年区画整理完了。これをもって港北ニュータウン計画は完了とされます。
都市開発とは、区画整理が終われば後はその土地を売って建物を建てるだけですから、大規模なもの以外は民間にもできるということなんですね。
わたしの思考パターンからするとこの辺で、「こんな急斜面を削ちゃって…」などと批判的なことを書きたいところですが、町を歩いてみると、開発によるプラス面の方が圧倒的に多く、ケチをつけるより感心しきりだったので今回出番は無さそうです。
区画整理にあたり、前回の「山田(やまた)富士」の石像撤去に関するものなど、さまざまな場所で多様な問題が発生したと思われますが、市側にはその都度キッチリと解決していく姿勢があったようです。
(文化の理解は欠如しているが)地権者との土地取引では、遺恨を残さぬよう振る舞ったようですし、環境保護を訴える反対運動も収束し、大きな問題なく事が運んだようです。
開発を行う際に、地権者の納得を得られたということは、それだけでプラス評価と言えるのでしょう(表に見えないだけか?)。
そしてプラス面の成果と言えるのが、前回紹介した虫送りの行事です(自治体側の言葉ですからよく書かれているのは当然ですが)。
以前からの住民と、新しく転入してきたと思われる子どもたちが、地域の行事で輪になれるのですから、地元以外の出身者にもその伝統を広めることができます。
まして若い世代に愛着を持ってもらえたなら、地元側は言うこと無しのはずです。
そのような伝統を見守ってきた里山の様子が、整備された姿とはいえこれだけ確保されていれば、子どもたちの遊び場として不足はないと思われます。
そんな場所でのびのびと遊ぶ子どもの姿を見れば、「いいところだろ! お前が気に入ると思って選んだんだ」などと、お父さんも鼻高々でバリバリ働く意欲がわいてくるはずです。
でもこの仕掛けは、明るい将来を描ける時代には完ぺきに近いシナリオとして、馬力のある景気浮揚エンジンとなってきましたが、現在ではその動力源を見失いかけている印象があります。
景気低迷が続く現在にこそ、景気浮揚の原動力を作り出す仕掛けが欲しいのですが、国民全体を潤わすことができるような「大プロジェクトX」って、ちょっとやそっとじゃ思い浮かびません(テーマが大きすぎて提案も出てこない)。
開発自体は成功裏に完了し、希望を抱いて転入した住民は、景気浮揚に貢献すべくバリバリ働いているのですが、将来の明るさというエサでもぶら下げてくれないと、息切れしてしまうのではないだろうか。
実態は、青息吐息のようにも思われます……
上写真2枚は、散策路沿いに整備された茅ヶ崎公園自然生態園(Map)内に、農家や水田の様子を再現した一画になります。
狭いながらも、田んぼ、稲わら干し、かかし、柿の木、炭焼き釜、シイタケ栽培の原木等、農家の周辺にあったものは一通りそろっています。
裏には、4分の1に割られた扇形の薪(まき)が積まれてあります。近ごろ目にする機会もないので、懐かしいというか暖かみを感じたりします。
実生活では使ったことはないので、それ以外の活動経験から「薪→暖かい」を学習したことになりますから、子どもたちにもそんな経験が必要であると言えるのでしょう。
いまどきは、まずは目にすることからスタートという気がします。
先ほどの田んぼで刈られたと思われる稲が、隣接する小学校のフェンスに干されています。おそらくここの生徒たちが、稲刈り実習で刈ったのでしょう。
以前センター南・北駅周辺を歩いたときに「実際の田んぼでの実地体験へと広げるべき」と書きましたが、知らなかっただけでやはりこの付近には、実地体験の機会が数多くあるようです。
そういえば出身小学校の花壇の並びに、小さな田んぼがあったような気がしてきました(土の下にビニールが敷いてあった)。きっとあれこれやったんだと思いますが、もう覚えてません。
そんな不真面目なガキは放っといて、印象に残っている人は必ずいますから、そんな人には必要な経験だったはずです。
と、言えた義理ではありませんが……
猛暑の影響でお米の品質が悪かったせいだろうか、外食ばかりですが近ごろ「あれっ?」と感じるほど、おいしくないお米に出会う機会が増えた気がします。そんなことありませんか?
この地域は首都圏の西部地区に当たり、東名高速道路、東海道新幹線新横浜駅、羽田空港(センター南・北駅から羽田空港行き直行バスあり)に近いので、西方面からの交通の利便性が高く、関西、名古屋から関東に移住する人々に人気が高いそうです。
そう言えば、関西弁を耳にしました。
東北・上信越からの玄関口が上野であるように、西方面からの玄関口は品川・新横浜となるのでしょう。
まだ先の話ですが、2027年開業を目指すリニアモーターカー(中央新幹線)の始発駅は品川に決まったようですが、神奈川県の停車駅は相模原市の橋本駅付近が有力候補と言われています。
工場しかなかった橋本に高層ビルが林立し、相模原に関西弁があふれる日がやって来るのかも知れません。
鴨池公園こどもログハウス(Map)
建物の中からこどもたちの大騒ぎする声と、ドタバタ駆け回る足音が聞こえてきます。
ここは「鴨池公園こどもログハウス」という施設で、中にはぐるぐるすべり台、ネットの遊具、地下迷路等々、大はしゃぎしたくなる遊具満載の遊び場です。
雨の日も遊べて、騒いでも怒られないというのは、子どもにとってはたまらない場所です(横浜市の各区にひとつあるそうです)。
しっかし、中はホコリだらけなんだろうと思うも、彼らには関係ないことですわね。でも、近所でインフルエンザが流行ると閉鎖されてしまうのでしょうから、気をつけないと……
散策路を歩く視線からは、尾根をつなぐ陸橋や、谷間を越えていく歩道など、元の地形を生かそうとする町づくりや、そこから生まれる景観の変化を楽しむことができました。
ですがここは丘陵地。平坦地に育った者には「坂のある暮らし」ってのはとても想像できません。
鶴見川をテーマとして歩くにあたり、丘陵地の多いことは覚悟しましたが(確かに近ごろ坂道ばかり歩いている)、それは休日の散策時に限られていますから。
朝の出勤時に坂を登るのは、目が覚めていいとは思いますが、疲れた会社帰りに坂道を登らされたら、帰るのがイヤになってしまいそうです……
2010/11/08
む〜らの鎮守の神様の〜♪──中川、山田
2010.10.31
【神奈川県】
台風一過とはいかず、重々しい雲に覆われ気分の晴れない一日でしたが、なかなか楽しい出会いもありました。
前回の鉄塔山付近で鶴見川に合流する早淵川の、上流域にあたる港北ニュータウン周辺を歩きました。
より大きな地図で 鶴見川&里山 を表示
くさぶえのみち(Map)
港北ニュータウンではこれまで、センター南・北駅付近の中心部しか歩いてなかったので、周縁部に足を延ばしました。
今回の目的である早淵川を中心にこの辺りを見回してみると、谷や小川が早淵川に向かって集まっており、それをひっくるめると「早淵川谷戸(やと:丘陵地が浸食されてできた谷地形)」ともいえる地域であることに気付かされます。
早淵川を挟んでセンター南と北があるように、港北ニュータウンは早淵川を中心として両岸に広がる丘陵地を対象とした開発事業であるとも言えます。
開発計画では中核地でしたが、その範囲はジワジワと拡大を続けているようなので、横浜市のもくろみ通りに進んでいることになります。
高台に位置する横浜市営地下鉄中川駅付近から、遊歩道とせせらぎが整備された「くさぶえのみち」が始まります。
人工的ではありますが、手を加えすぎない配慮に好感が持て、山中に迷い込んだか? と錯覚する場所もあります。
南側の散策路(センター南〜仲町台)にも、同様の印象があるので、町づくりのコンセプトとされているのかも知れません。
公園には視界の開ける池が好まれますが(渡り鳥が増え始めています)、上写真のような谷戸の湿地が公園とされていることには、ちと驚きました(一般には蚊や虫の温床として嫌われる)。
写真では見えませんが、この水草の裏側でサギがエサをついばむほど、多彩な生き物が生息する場所ですから、子どもたちには垂涎(すいぜん)のスポットとなります。
わたしが育った地域は台地だったので、身近で水辺の生き物を目にした記憶はほとんどありません(ザリガニのいた沼地はちょっと遠い)。水辺といえば使われなくなった用水路ですから、いまからすれば危ない場所で遊んでたものだと思います(当時はフタもしてありません)。
こんな場所が近所にあったら、毎日泥だらけで帰るので、母に禁止されていたかも知れません。
山田富士(やまたふじ)(Map)
ここは2008年開業の横浜市営地下鉄グリーンライン(日吉〜中山)北山田(やまた)駅近くの公園になります。
グリーンラインには、北・東2つの山田駅、高田(たかた)駅のように、「田」を「た」と読む駅が複数あります。
由来が古そうと調べると(山田は不明)、高田の名は平安時代に作られた「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」という辞書に記載されているそうです(類聚:同じ種類の事柄を抜粋し編さんすること)。
この辞書は、名詞を漢語で抜粋〜分類して項目を立て、万葉仮名で日本語読みをつけて説明する、国語辞典+漢和辞典+百科事典の性格を併せ持つ辞書だそうです。
その当時から時代や、地域の勢力争いなどに巻き込まれずに生き延びた地名というか、意識されないほど小さな地名を掘り起こしたと言えるかも知れません。
ズッと気になっており、やっと調べることができてスッキリしました。
これは「山田富士」という江戸時代の記録が残る(1828年)富士塚(ふじづか)で、富士山信仰しながらも現地に足を運べない人に利用された、人工のミニ富士山です。
頂上に浅間神社を祭り、富士山の山開きの日に富士講がこの山に登り、はるかな富士山を拝みました。
富士講とは、富士山信仰の信者により組織された講社(こうしゃ:社寺に詣でる宗教団体)で、修験道の行者であった角行(かくぎょう:1541〜1646年)が、富士山麓にある「人穴:ひとあな」(何て身もふたもない表現)での修行の後、江戸にまん延した疫病から多くの人びとを救ったことにより広まったそうです。
江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほど江戸庶民の間で流行し、角行は富士信仰の開祖とされ、人穴は聖地となったそうです。
しかしその勢力が拡大することに幕府側は警戒を強め、何度となく禁止令を発したそうです。
広くはありませんが、山頂で「お鉢巡りができる富士塚」として有名なんだそうです(上写真富士山頂)。
土を盛った山とはいえ200年間健在であるというのは、地域住民の文化に対する敬意の表れと思います。
港北とされる一帯には富士塚が多くあり、「港北七富士巡り」なども行なわれたそうです。
現在では3座しか残ってない(山田:やまた、池辺:いこのべ、川和)とはいえ、ちょっと胸を張ってもいいんじゃないかと思います(田舎度自慢?)。
開発に伴い付近一帯は公園とされ、管理が横浜市に移管される際、公園には信仰対象となる石像類は置けないと撤去を求められたそうです。
確かに富士講は行われなくなっても、地域にとってみれば文化財ですから、はいそうですかと引き下がれません。
結局、その地でお祭り等は一切行わない、という誓約書を書いて落着したそうです。
高度成長期の乱開発への反省から、地域文化を保護する方針かと思いきや、地域に根付いた民俗文化から信仰を取り除こうとする姿勢には、「文化」というものへの理解が欠如しているように思えてしまいます。
神道関連なら許しが出たのだろうか?
山田富士付近から続く「ふじやとのみち」とされる散策路には、住宅地の路地を通る個所があり、その街路樹にビニール袋でも引っかかっているのかと目を止めると、果実をつける木がありました(黄色く熟した実もあります)。
そんな木に限って樹種のプレートは見当たりませんが、どうもカリンの仲間のように見えます。以前こんな季節に、小石川植物園で目にしたものと似ているような気がします。
5〜6本並ぶ周辺は戸建ての住宅街なので、その区画を販売した会社が植えたのかも知れません。
「だから何?」という程度の発見ですが、そんなことも散策の楽しみのひとつになります。
山田神社(Map)
今回のルートからだと、いきなり社殿脇に出くわしてしまう「山田神社」です。
飾りっ気のない素朴な印象の境内には、社殿(本殿は市の有形文化財)、舞台、広場、トイレと鐘楼(? この辺りでは珍しくないそうです)がこぢんまりと点在しています(神社で除夜の鐘がつけます)。
神社に釣鐘があるのを見て、寺と神社が区別できない時分の記憶がよみがえったのか、その瞬間「む〜らのちんじゅの神様の〜♪」という唱歌『村祭り』のフレーズが頭に流れてきました。
付近一帯に田畑が広がっていたころ、村の鎮守様というのは彼らにとっては「ハレの場」でしたから、「神社に鐘があってもいいじゃないか」と言い出すのを、教義を盾に持ち出して断ろうとしても、神社はにぎやかな方がいいなどと、教えに縛られるのはお門違い、とされるような訳の分からない状況だったのではあるまいか?
それほどみんな愛着を感じていたんだろうと思います。
7月の虫送り(田畑の害虫を払い豊作を願う行事)はこの境内から出発します。このリンク先は活気が伝わってくる素敵なページなので是非!
1910年(明治43年)近隣の14社と合祀された際、地名にちなみ山田神社と改称されます。
この地については、平安時代に「源義朝の臣鎌田正清の居城せし地」の記録があるそうです。
源義朝は、鎌倉幕府を開いた頼朝、歴史のスーパースター義経の父親で、鎌田正清の母が義朝、正清の乳母となり一緒に育てられた仲から、生涯を共にする主従となります。
城を構えるにふさわしい高台なので、当時の眺めは格別だったと思われます。
脇から境内に入ったので参道を歩いたのは帰り道でしたが、この参道こそ「村の鎮守様」の自慢なんだろうと、その存在感に目を見張ります。
広くはない参道の両側から木々が包み込んで俗世の雑音を遮断し、実直に延びる参道は250mほどあります。
一本道であってもその長い道のりには、途中にさまざまな恐怖や誘惑があるかも知れないが、それを振り切って歩んで来なさい。という意味にも感じられます。
視界が開ける場所は、眼下に中原街道を見下ろす見晴らしのいい斜面で、その階段を下りる時のすがすがしさは、むかしの人がお参り後に感じた晴れ晴れしさにも似ているのではないか、という気がしました。
その長い階段を下りながら、やはり「どんどんひゃらら〜 どんひゃらら〜 ♪」と、現在でも感じさせてくれる社(やしろ)を守ってきた地域の人たちの文化意識に敬意を表すると同時に、「オレたち、何もやってないじゃん」と思い知るべきと感じた次第です……
P.S. 今年の日本シリーズは、接戦なんだか、ドングリの背比べなんだか…… ともかく消耗戦お疲れ様でした。
テレビ中継を試合終了まで続けるってのはどうなんでしょうね?
やっていれば面白いので見てしまいますが、途中でやめられなくなるのは困りものです。
でも最終戦は、9回裏に同点となったところでテレビ消しました……
【神奈川県】
台風一過とはいかず、重々しい雲に覆われ気分の晴れない一日でしたが、なかなか楽しい出会いもありました。
前回の鉄塔山付近で鶴見川に合流する早淵川の、上流域にあたる港北ニュータウン周辺を歩きました。
より大きな地図で 鶴見川&里山 を表示
くさぶえのみち(Map)
港北ニュータウンではこれまで、センター南・北駅付近の中心部しか歩いてなかったので、周縁部に足を延ばしました。
今回の目的である早淵川を中心にこの辺りを見回してみると、谷や小川が早淵川に向かって集まっており、それをひっくるめると「早淵川谷戸(やと:丘陵地が浸食されてできた谷地形)」ともいえる地域であることに気付かされます。
早淵川を挟んでセンター南と北があるように、港北ニュータウンは早淵川を中心として両岸に広がる丘陵地を対象とした開発事業であるとも言えます。
開発計画では中核地でしたが、その範囲はジワジワと拡大を続けているようなので、横浜市のもくろみ通りに進んでいることになります。
高台に位置する横浜市営地下鉄中川駅付近から、遊歩道とせせらぎが整備された「くさぶえのみち」が始まります。
人工的ではありますが、手を加えすぎない配慮に好感が持て、山中に迷い込んだか? と錯覚する場所もあります。
南側の散策路(センター南〜仲町台)にも、同様の印象があるので、町づくりのコンセプトとされているのかも知れません。
公園には視界の開ける池が好まれますが(渡り鳥が増え始めています)、上写真のような谷戸の湿地が公園とされていることには、ちと驚きました(一般には蚊や虫の温床として嫌われる)。
写真では見えませんが、この水草の裏側でサギがエサをついばむほど、多彩な生き物が生息する場所ですから、子どもたちには垂涎(すいぜん)のスポットとなります。
わたしが育った地域は台地だったので、身近で水辺の生き物を目にした記憶はほとんどありません(ザリガニのいた沼地はちょっと遠い)。水辺といえば使われなくなった用水路ですから、いまからすれば危ない場所で遊んでたものだと思います(当時はフタもしてありません)。
こんな場所が近所にあったら、毎日泥だらけで帰るので、母に禁止されていたかも知れません。
山田富士(やまたふじ)(Map)
ここは2008年開業の横浜市営地下鉄グリーンライン(日吉〜中山)北山田(やまた)駅近くの公園になります。
グリーンラインには、北・東2つの山田駅、高田(たかた)駅のように、「田」を「た」と読む駅が複数あります。
由来が古そうと調べると(山田は不明)、高田の名は平安時代に作られた「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」という辞書に記載されているそうです(類聚:同じ種類の事柄を抜粋し編さんすること)。
この辞書は、名詞を漢語で抜粋〜分類して項目を立て、万葉仮名で日本語読みをつけて説明する、国語辞典+漢和辞典+百科事典の性格を併せ持つ辞書だそうです。
その当時から時代や、地域の勢力争いなどに巻き込まれずに生き延びた地名というか、意識されないほど小さな地名を掘り起こしたと言えるかも知れません。
ズッと気になっており、やっと調べることができてスッキリしました。
これは「山田富士」という江戸時代の記録が残る(1828年)富士塚(ふじづか)で、富士山信仰しながらも現地に足を運べない人に利用された、人工のミニ富士山です。
頂上に浅間神社を祭り、富士山の山開きの日に富士講がこの山に登り、はるかな富士山を拝みました。
富士講とは、富士山信仰の信者により組織された講社(こうしゃ:社寺に詣でる宗教団体)で、修験道の行者であった角行(かくぎょう:1541〜1646年)が、富士山麓にある「人穴:ひとあな」(何て身もふたもない表現)での修行の後、江戸にまん延した疫病から多くの人びとを救ったことにより広まったそうです。
江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほど江戸庶民の間で流行し、角行は富士信仰の開祖とされ、人穴は聖地となったそうです。
しかしその勢力が拡大することに幕府側は警戒を強め、何度となく禁止令を発したそうです。
広くはありませんが、山頂で「お鉢巡りができる富士塚」として有名なんだそうです(上写真富士山頂)。
土を盛った山とはいえ200年間健在であるというのは、地域住民の文化に対する敬意の表れと思います。
港北とされる一帯には富士塚が多くあり、「港北七富士巡り」なども行なわれたそうです。
現在では3座しか残ってない(山田:やまた、池辺:いこのべ、川和)とはいえ、ちょっと胸を張ってもいいんじゃないかと思います(田舎度自慢?)。
開発に伴い付近一帯は公園とされ、管理が横浜市に移管される際、公園には信仰対象となる石像類は置けないと撤去を求められたそうです。
確かに富士講は行われなくなっても、地域にとってみれば文化財ですから、はいそうですかと引き下がれません。
結局、その地でお祭り等は一切行わない、という誓約書を書いて落着したそうです。
高度成長期の乱開発への反省から、地域文化を保護する方針かと思いきや、地域に根付いた民俗文化から信仰を取り除こうとする姿勢には、「文化」というものへの理解が欠如しているように思えてしまいます。
神道関連なら許しが出たのだろうか?
山田富士付近から続く「ふじやとのみち」とされる散策路には、住宅地の路地を通る個所があり、その街路樹にビニール袋でも引っかかっているのかと目を止めると、果実をつける木がありました(黄色く熟した実もあります)。
そんな木に限って樹種のプレートは見当たりませんが、どうもカリンの仲間のように見えます。以前こんな季節に、小石川植物園で目にしたものと似ているような気がします。
5〜6本並ぶ周辺は戸建ての住宅街なので、その区画を販売した会社が植えたのかも知れません。
「だから何?」という程度の発見ですが、そんなことも散策の楽しみのひとつになります。
山田神社(Map)
今回のルートからだと、いきなり社殿脇に出くわしてしまう「山田神社」です。
飾りっ気のない素朴な印象の境内には、社殿(本殿は市の有形文化財)、舞台、広場、トイレと鐘楼(? この辺りでは珍しくないそうです)がこぢんまりと点在しています(神社で除夜の鐘がつけます)。
神社に釣鐘があるのを見て、寺と神社が区別できない時分の記憶がよみがえったのか、その瞬間「む〜らのちんじゅの神様の〜♪」という唱歌『村祭り』のフレーズが頭に流れてきました。
付近一帯に田畑が広がっていたころ、村の鎮守様というのは彼らにとっては「ハレの場」でしたから、「神社に鐘があってもいいじゃないか」と言い出すのを、教義を盾に持ち出して断ろうとしても、神社はにぎやかな方がいいなどと、教えに縛られるのはお門違い、とされるような訳の分からない状況だったのではあるまいか?
それほどみんな愛着を感じていたんだろうと思います。
7月の虫送り(田畑の害虫を払い豊作を願う行事)はこの境内から出発します。このリンク先は活気が伝わってくる素敵なページなので是非!
1910年(明治43年)近隣の14社と合祀された際、地名にちなみ山田神社と改称されます。
この地については、平安時代に「源義朝の臣鎌田正清の居城せし地」の記録があるそうです。
源義朝は、鎌倉幕府を開いた頼朝、歴史のスーパースター義経の父親で、鎌田正清の母が義朝、正清の乳母となり一緒に育てられた仲から、生涯を共にする主従となります。
城を構えるにふさわしい高台なので、当時の眺めは格別だったと思われます。
脇から境内に入ったので参道を歩いたのは帰り道でしたが、この参道こそ「村の鎮守様」の自慢なんだろうと、その存在感に目を見張ります。
広くはない参道の両側から木々が包み込んで俗世の雑音を遮断し、実直に延びる参道は250mほどあります。
一本道であってもその長い道のりには、途中にさまざまな恐怖や誘惑があるかも知れないが、それを振り切って歩んで来なさい。という意味にも感じられます。
視界が開ける場所は、眼下に中原街道を見下ろす見晴らしのいい斜面で、その階段を下りる時のすがすがしさは、むかしの人がお参り後に感じた晴れ晴れしさにも似ているのではないか、という気がしました。
その長い階段を下りながら、やはり「どんどんひゃらら〜 どんひゃらら〜 ♪」と、現在でも感じさせてくれる社(やしろ)を守ってきた地域の人たちの文化意識に敬意を表すると同時に、「オレたち、何もやってないじゃん」と思い知るべきと感じた次第です……
P.S. 今年の日本シリーズは、接戦なんだか、ドングリの背比べなんだか…… ともかく消耗戦お疲れ様でした。
テレビ中継を試合終了まで続けるってのはどうなんでしょうね?
やっていれば面白いので見てしまいますが、途中でやめられなくなるのは困りものです。
でも最終戦は、9回裏に同点となったところでテレビ消しました……
2010/11/01
鉄塔北浜線──大倉山、綱島
2010.10.23
【神奈川県】
より大きな地図で 鶴見川&里山 を表示
大倉山公園(Map)
東横線大倉山駅から5分ほど急坂を上った山の上に、梅林で有名な大倉山公園があります。
右写真はその中心にどっしりと構える大倉山記念館で、地名の由来となった「大倉精神文化研究所」(実業家大倉邦彦が設立の研究教育施設。旧大倉財閥とは別)を、横浜市が買い取り現在は公民館的な施設とされています。
蔵書が閲覧できる図書館やホールがあり、この日も音楽会の演奏が聞こえてきます。施設に駐車場は無いので、楽器を持って急坂を上ってきたのだろうか?
竣工当時(1932年:昭和7年)は田園風景が広がる丘の上に、このように大きな建造物を作ったのですから、理念が崇高なのか(怪しい存在)? 単なる変わり者か? とのうわさで持ちきりだったと思われます。
彼は同い年である東急電鉄創業者の五島慶太からこの土地を買い、「世界と日本と個人は三位一体」の考えを現実化する空間を作ろうとしたそうです。
周囲は仰天して、皆「大倉山」と指し示したことでしょう……
取っつきにくい印象はありますが、現在も継続的に発表されている論文等を読むと、まじめに取り組む文化人類学的な視点に興味を引かれるところがあります(例として「港北区の歴史と文化」など)。
先駆者というのはどんな分野でも「尖っている」と見られるようです。
建物の設計者である長野宇平治は、北海道銀行本店、日本銀行本店増築などを手がけた古典主義建築の第一人者で、この建物の様式は、ギリシャ神殿風の西洋的外観と東洋的な木組み内装を組み合わせた、クレタ・ミケーネ様式(聞いたことあるような、ないような)というそうです。上写真は吹き抜けの天井部分を見上げたところ。
部分的に切り取ると、何となくミスマッチにも思えますが、存在感には揺るぎのない落ち着きがありますし、ドア越しに聞こえてくるクラシックの演奏が、いかにもふさわしく感じられる空間です。
鉄塔山(Map)
東横線綱島〜大倉山駅間の車窓から、いったい何本鉄塔が立っているんだ、という「鉄塔山」が見えます。
一度近くで見たいと思っていましたが、これがなかなかたどり着けない……
小高い丘陵地に立つので、目標は見失わないのですが、そこまでの道が見つかりません。
横浜は丘陵の町ですから、宅地開発が可能な場所は急傾斜地でも残さず削りますし、削った土地は余すところ無くキッチリと宅地利用され、息が詰まるほどがけや隣接家屋に迫った家を建てますから、路地や抜け道がまるでありません。
そのため、行き止まりや袋小路ばかりで思った方角に進めず、何度も上り下りさせられ草臥れ儲け(くたびれもうけ:とはこんな字なのかという紹介です)ばかりで、歩いても楽しくない地域なのであきらめました(右写真は袋小路を引き返した時のもの)。
鉄塔北浜線とは、京浜変電所(相鉄線いずみ野駅付近)から港北変電所(横浜市営地下鉄仲町台駅が最寄)までをつなぐ送電路になります。
「線」ですから鉄塔を指してはいませんが、この表記は映画『鉄塔武蔵野線』(1997年)にならいました。
本件を調べていると「鉄塔・送電線ウォーク」など、関連サイトやブログがいくつもあり、ライフワークのようにしている方がいることに驚かされます。
山間地は大変ですが、市街地では道に迷っても目標を見失う心配もなく、とても歩きやすいと思うので、チャレンジしてみては?(ここはNG)
そんな専門家のサイトを読みここが、複数の送電系統が集まり分かれていく、ハブやインターチェンジのような場所であることを知りました。
そんな場所では、複数の路線が同じ鉄塔に相乗りして設備を有効活用しているので、プレートにはメインとされる路線名が記されるようです(各鉄塔には、路線名とその何番目の鉄塔に当たるかを記した看板が付けられている)。
この付近では「北浜線」がメインのようなので、プレートに名称は見られませんが「北旭線」(港北〜旭変電所間)、「大倉山線」(港北〜綱島変電所間)、「北島線」(港北〜綱島変電所間 大倉山線とは別ルート)、「浜岡線」(京浜〜旭変電所間)が鉄塔を共有しています。
もっとすごい場所はあるかも知れませんが、この過密ぶりには驚きました。また、路線の数だけ変電所があるわけで、この付近には3つあるようです。
変電所などめったに目にしないと思いますが、これだけの密度であるということは、近くに大量の電力を消費する工場や住宅密集地などがあるということなのでしょう。
綱島付近には工場も多いが(Panasonic綱島工場はまだ健在?)住宅も密集してますから、鶴見川の水質に影響を及ぼしているのは工場だ、と決めつけるのはやめておきましょう……
これだけの送電線が天かけるわけですから、電磁波が降り注いでくるのでは? と思ってしまいます。
数値としての目安は「2ミリガウス以下」とされるそうですが(研究中の仮定レベル)、そんなの庶民には分かるものではありません。
50メートル程度離れれば直接的な影響は無いようでも、送電線の高さはそれほどありません。
そのためか都心の住宅地では、巨大な電柱のような高い鉄塔に置き換わっている様子を目にします。
それが電磁波対策だとしたら、対応を急ぐ必要があります。
父親の実家近くに送電線が通っており、健康被害に対するものかは不明ですが、迷惑料的に「むかしから税金が少し安い」という話を聞いたことがあります。
そりゃ、何も無い場所と同じ待遇だったら住みたくない気もしますが、今どきは「でもその分、地価はお安くなってます」の売り文句に気持ちが動いちゃうのでしょうか?
バリケン島(Map)
ここは綱島駅近くの、東横線と綱島街道の橋の間にある「バリケン島」と呼ばれる中州です。
バリケンとはカモの仲間で、南米で家禽(かきん)とされる鳥を食用として日本に持ち込んだものの、事業化には至らなかったようです。飛ぶことができるので、逃げ出したと思われる個体が各地で見られるそうです。
この地のバリケンは2006年に死んだそうですが、2003年「タマちゃん騒動」(ここではツルちゃん?)では、東急線の橋脚がタマちゃんの休憩場になったりと、野生生物には思いのほか居心地のいい場所なのかも知れません。
おかげで川辺への関心が高まり、定期的な清掃活動〜水生生物観察会が開かれているそうですから、鶴見川をあまりバカにしていると怒られてしまいます……
この少し上流で支流の早淵川と合流するので、次回はその支流沿いを歩こうと考えています。
P.S. 綱島の「北海道ラーメン 壱源」(渋谷などにもあるチェーン店)で何度か食べたことがあり、今回も楽しみにしていたのですが店じまいしてました。こんな時の悶絶感とは、何を持っても静めることはできないものです……
【神奈川県】
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大倉山公園(Map)
東横線大倉山駅から5分ほど急坂を上った山の上に、梅林で有名な大倉山公園があります。
右写真はその中心にどっしりと構える大倉山記念館で、地名の由来となった「大倉精神文化研究所」(実業家大倉邦彦が設立の研究教育施設。旧大倉財閥とは別)を、横浜市が買い取り現在は公民館的な施設とされています。
蔵書が閲覧できる図書館やホールがあり、この日も音楽会の演奏が聞こえてきます。施設に駐車場は無いので、楽器を持って急坂を上ってきたのだろうか?
竣工当時(1932年:昭和7年)は田園風景が広がる丘の上に、このように大きな建造物を作ったのですから、理念が崇高なのか(怪しい存在)? 単なる変わり者か? とのうわさで持ちきりだったと思われます。
彼は同い年である東急電鉄創業者の五島慶太からこの土地を買い、「世界と日本と個人は三位一体」の考えを現実化する空間を作ろうとしたそうです。
周囲は仰天して、皆「大倉山」と指し示したことでしょう……
取っつきにくい印象はありますが、現在も継続的に発表されている論文等を読むと、まじめに取り組む文化人類学的な視点に興味を引かれるところがあります(例として「港北区の歴史と文化」など)。
先駆者というのはどんな分野でも「尖っている」と見られるようです。
建物の設計者である長野宇平治は、北海道銀行本店、日本銀行本店増築などを手がけた古典主義建築の第一人者で、この建物の様式は、ギリシャ神殿風の西洋的外観と東洋的な木組み内装を組み合わせた、クレタ・ミケーネ様式(聞いたことあるような、ないような)というそうです。上写真は吹き抜けの天井部分を見上げたところ。
部分的に切り取ると、何となくミスマッチにも思えますが、存在感には揺るぎのない落ち着きがありますし、ドア越しに聞こえてくるクラシックの演奏が、いかにもふさわしく感じられる空間です。
鉄塔山(Map)
東横線綱島〜大倉山駅間の車窓から、いったい何本鉄塔が立っているんだ、という「鉄塔山」が見えます。
一度近くで見たいと思っていましたが、これがなかなかたどり着けない……
小高い丘陵地に立つので、目標は見失わないのですが、そこまでの道が見つかりません。
横浜は丘陵の町ですから、宅地開発が可能な場所は急傾斜地でも残さず削りますし、削った土地は余すところ無くキッチリと宅地利用され、息が詰まるほどがけや隣接家屋に迫った家を建てますから、路地や抜け道がまるでありません。
そのため、行き止まりや袋小路ばかりで思った方角に進めず、何度も上り下りさせられ草臥れ儲け(くたびれもうけ:とはこんな字なのかという紹介です)ばかりで、歩いても楽しくない地域なのであきらめました(右写真は袋小路を引き返した時のもの)。
鉄塔北浜線とは、京浜変電所(相鉄線いずみ野駅付近)から港北変電所(横浜市営地下鉄仲町台駅が最寄)までをつなぐ送電路になります。
「線」ですから鉄塔を指してはいませんが、この表記は映画『鉄塔武蔵野線』(1997年)にならいました。
本件を調べていると「鉄塔・送電線ウォーク」など、関連サイトやブログがいくつもあり、ライフワークのようにしている方がいることに驚かされます。
山間地は大変ですが、市街地では道に迷っても目標を見失う心配もなく、とても歩きやすいと思うので、チャレンジしてみては?(ここはNG)
そんな専門家のサイトを読みここが、複数の送電系統が集まり分かれていく、ハブやインターチェンジのような場所であることを知りました。
そんな場所では、複数の路線が同じ鉄塔に相乗りして設備を有効活用しているので、プレートにはメインとされる路線名が記されるようです(各鉄塔には、路線名とその何番目の鉄塔に当たるかを記した看板が付けられている)。
この付近では「北浜線」がメインのようなので、プレートに名称は見られませんが「北旭線」(港北〜旭変電所間)、「大倉山線」(港北〜綱島変電所間)、「北島線」(港北〜綱島変電所間 大倉山線とは別ルート)、「浜岡線」(京浜〜旭変電所間)が鉄塔を共有しています。
もっとすごい場所はあるかも知れませんが、この過密ぶりには驚きました。また、路線の数だけ変電所があるわけで、この付近には3つあるようです。
変電所などめったに目にしないと思いますが、これだけの密度であるということは、近くに大量の電力を消費する工場や住宅密集地などがあるということなのでしょう。
綱島付近には工場も多いが(Panasonic綱島工場はまだ健在?)住宅も密集してますから、鶴見川の水質に影響を及ぼしているのは工場だ、と決めつけるのはやめておきましょう……
これだけの送電線が天かけるわけですから、電磁波が降り注いでくるのでは? と思ってしまいます。
数値としての目安は「2ミリガウス以下」とされるそうですが(研究中の仮定レベル)、そんなの庶民には分かるものではありません。
50メートル程度離れれば直接的な影響は無いようでも、送電線の高さはそれほどありません。
そのためか都心の住宅地では、巨大な電柱のような高い鉄塔に置き換わっている様子を目にします。
それが電磁波対策だとしたら、対応を急ぐ必要があります。
父親の実家近くに送電線が通っており、健康被害に対するものかは不明ですが、迷惑料的に「むかしから税金が少し安い」という話を聞いたことがあります。
そりゃ、何も無い場所と同じ待遇だったら住みたくない気もしますが、今どきは「でもその分、地価はお安くなってます」の売り文句に気持ちが動いちゃうのでしょうか?
バリケン島(Map)
ここは綱島駅近くの、東横線と綱島街道の橋の間にある「バリケン島」と呼ばれる中州です。
バリケンとはカモの仲間で、南米で家禽(かきん)とされる鳥を食用として日本に持ち込んだものの、事業化には至らなかったようです。飛ぶことができるので、逃げ出したと思われる個体が各地で見られるそうです。
この地のバリケンは2006年に死んだそうですが、2003年「タマちゃん騒動」(ここではツルちゃん?)では、東急線の橋脚がタマちゃんの休憩場になったりと、野生生物には思いのほか居心地のいい場所なのかも知れません。
おかげで川辺への関心が高まり、定期的な清掃活動〜水生生物観察会が開かれているそうですから、鶴見川をあまりバカにしていると怒られてしまいます……
この少し上流で支流の早淵川と合流するので、次回はその支流沿いを歩こうと考えています。
P.S. 綱島の「北海道ラーメン 壱源」(渋谷などにもあるチェーン店)で何度か食べたことがあり、今回も楽しみにしていたのですが店じまいしてました。こんな時の悶絶感とは、何を持っても静めることはできないものです……
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