2010.10.16
【神奈川県】
右写真は前回の鶴見川との合流地点ですが、今回は支流の矢上川を歩きます(右が鶴見川、左が矢上川、正面が河口方面)。
わたしもそうでしたが「鶴見川なんて…」と、関心すら持たない人が多いと思いますが、意外な場所にその支流が流れているので、足元を流れる川を再評価してもらおうと、できるだけ支流を歩くつもりでいます。
矢上川が流れる東横線元住吉駅付近(上写真から少し上流)から多摩川方面には高台は見られないので、多摩川の氾らん原(洪水の影響を受ける地域)というイメージがありました。
以前紹介した、多摩川から取水される二ヶ領用水が元住吉付近で合流していていることにもよります(多摩川と鶴見川がつながっていることになります)。
少し上流の丘陵地から平地に流れ出る蟹ヶ谷(かにがや)辺りの地形を見るまで、本当に多摩川と別水系なのだろうか? の疑問は消えません。
これは推測ですが、多摩川が思いっきり氾らんした後に、矢上川がその氾らん原を少しずつ削り込んだようにも見えます。
江戸時代二ヶ領用水開削に際しては、多摩川と鶴見川の高低差が計算されていたのですから、大したモノです。なんて言うと「バカにするなよ!」と怒られそう……
梶が谷貨物ターミナル(Map)
近ごろではJR武蔵野線の名称も、東京駅京葉線の「武蔵野線経由」などで目につくようになりましたが、以前は車内にトンボが飛んでるようなローカル線でした。
武蔵野線は、山手貨物線の代替貨物専用線(そうそう以前は新宿や渋谷駅で、埼京線の線路に貨物車両が走るのを目にしました)として1964年に着工され、府中本町〜西船橋間で1973年に旅客営業を開始します。
しかし、周辺の宅地開発はそれ以降となるため貨物車両主体の運行が続いたので、ローカル線のイメージがとても強い路線でした。
「東京メガループ」という計画だそうで、聞いたことありませんがおそらく、都心を回避するルートのイメージのようで(高速道路「圏央道」のような構想)、そこには京葉線、南武線、横浜線も含まれるそうです(鶴見〜西船橋間の路線ですが、鶴見〜 府中本町間は貨物専用)。
前説が長くなりましたが、この貨物線は神奈川県内の半分以上がトンネルで、谷あいに顔を出した場所に貨物ターミナル駅があると地図で知り、何か秘密めいた理由でもあるのか? との興味がありました(トンネルを抜けた場所に貨物駅がありますが、その先はまたすぐトンネルになります)。
しかし対面したその貨物ターミナル周辺は、すっかり住宅に包囲されてしまい、現在では逆に「何でこんなところに貨物駅があるの?」と思われるようなありさまです。
貨物ターミナル建設の動機は、川崎内陸部の工場関連貨物、多摩地区や港北ニュータウンなどへの消費物資の需要増が見込まれたためとされます。
恵比寿駅、渋谷駅の貨物取り扱いまでこの駅に集約されるも、どうも思惑通りにはいかないようです。
貨物列車は大口の荷物では威力を発揮するものの、小分け配送が求められトラック輸送が重宝される時代では、苦戦するのも当然です。
「東京メガループ」とはJR側の勝手な主張なわけで、結局都心を目指す物流への対応が必要になってしまいます。
魔法の呪文である「エコ」は、果たして鉄道貨物の救世主になるのだろうか?
武蔵野貨物線への関心として「いったい、どこから地下に入ったんだろうねぇ?」というものがありました。
地図によると貨物線は、武蔵小杉あたりで地下に潜っています。以前から探していたのですが、先日開業した横須賀線武蔵小杉駅の横浜側に、地下に潜る線路を発見しました(これも新駅開業効果のひとつ?)。
この貨物線は都心の地下鉄とは違い、地上の建造物に気兼ねすることなく、マンションや区役所の地下を我がもの顔で通っていきます(深い場所だと制限がなくなるのだろうか)。
これまでは軍需鉄道だったのか? と思っていましたが、違うことが分かったので少しホッとしました。
馬絹(まきぬ)神社(Map)
一般的には、源頼朝が松の木に絹を掛けたことに由来するとされますが、神社側は正しい伝説(?)をこしらえたかったようです。
この神社は、伊邪那美命(イザナミのみこと:イザナギとの間に日本創成期に活躍する多数の子をもうけたとされる伝説のヒロイン)を祭ることから、女体神社と呼ばれたそうです(子孫繁栄、国家安泰の象徴なのは分かりますが、何とも直接的な表現です。以前女性に対し、不適切な発言をした議員の先生方は、そんな教育を受けていたのかも知れません)。
明治時代付近にあった、女体神社、八幡神社、三島神社、熊野神社、白山神社を併合し神明神社としますが、1986年本殿建て替えに伴い社名を馬絹神社とします。
現代受けしそうなつじつま合わせにも見えますが、氏子衆がそれで納得したのでしょうから、神道にも未来があるように思えました。
宗教界の「合祀(ごうし)」という業は、「来る者は拒まず」という寛容さのようにも見えますが、裏返すと信徒を増やせるなら何でもあり、とも受け取れたりします。
神社の裏手には、古墳時代後期(6世紀初め〜7世紀半ば)とされる「馬絹古墳」があります。
盗掘のため副葬遺物は失われますが、石室の形状や築造方法には、朝鮮半島からの影響が見られるそうです。
古代の関東で、朝鮮半島からの影響に言及する記述はめずらしい気がするので、今後注意してみます。
なんだかそれが、京の都から見た「東国の野蛮人」(都に入れなかった文化程度の劣る朝鮮半島出身者)のルーツだとすると、とてもはまりすぎてる気がしてなりません……
ここには、御神木とされる枯れ果てた「千年の松」が祭られています(右写真)。
これはホントに予想外で、馬の顔に見えることに自分でも驚いています。
日の陰った場所なので、キレイに撮れなくても「とりあえず撮っておこう」と、絵になりそうなアングルを探しただけで、この絵はまったく想像できませんでした(デジカメの威力です)。
矢上川本流と思われる流れはこの先、東急田園都市線宮前平駅付近へとさかのぼれます。
また途中で合流した流れは、鷺沼駅とたまプラーザ駅の間へと続きます。
この後坂道を上り宮崎台駅まで歩きましたが、傾斜地を無理やり開発した地域での暮らしを「健康にいい」としたい気持ちも分かりますが、それは「健康な時に思える希望」でしかないように思えた坂道でした。
これまで平地で暮らしてきたわたしには、ちょっと尻込みしてしまう環境です……
追記
NHK大河ドラマ『龍馬伝』も、中岡慎太郎と藤吉(龍馬と共に暗殺される)が登場してくれば、物語はクライマックスです。
これまでさまざまなエピソードを紹介してきた物語ですが(その豊富さにはヒーローの貫録を感じます)、1974年の『竜馬暗殺』(黒木和雄監督 原田芳雄主演)という映画を再評価したいと思うようになりました。
その映画は、さまざまなエピソードを排除して、竜馬と慎太(郎)の友情物語だけにフォーカスを当て、幕末の動乱期を描いています。
その姿勢の違いに「大河ドラマ」の存在理由と、アングラとも思える映画『竜馬暗殺』の存在価値があるように思えてきます。
時代によってさまざまな役者が演じたり、さまざまな見方をされることは、龍馬本人もよろこぶでしょうし、日本人の視野を狭めないためにもとても大切なことと思います(近ごろの中国は何だか妙なかじ取りに見えます)。
2010/10/25
2010/10/18
環境にやさしいだんだん池──三ツ池公園
2010.10.11
【神奈川県】
より大きな地図で 鶴見川&里山 を表示
三ツ池公園(Map)
この地名を耳にして「三ツ沢公園(横浜市立)」じゃないの? と思う人も多いかも知れません。
三ツ沢公園は横浜駅に近い高台にあり、Jリーグ旧横浜フリューゲルス(現在横浜F・マリノス)のホームスタジアム「三ツ沢公園球技場」(現在はJ2横浜FCのホーム)があるため知名度も高そうですし、道路情報でも「三ツ沢上町(かみちょう)」の名をよく耳にします。
ここ「三ツ池公園」は、鶴見・綱島の中間に位置し交通の便はよくないので、車や自転車で訪れる人が多いようです(わたしはバス)。
でも「三ツ沢:三つの沢があった」「三ツ池:三つの池があった」どちらの地名からも、横浜の代表的な地形である丘陵地が思い浮かびます。
ここは県立の公園で、名称通り三つの池と、スポーツ施設(多目的グランド、野球場、テニスコート、プール)が整備されています。立地条件や目的の違いもありますが、県立公園よりも市立の三ツ沢公園の方が、はるかにスポーツ施設は充実しています。
でもここの売りである「里山らしさ」には、三ツ沢もかないません。
この日は野球もサッカーも、中学生くらいのチームがプレーしていましたが、上写真のように気持ちがプレー(?)に表れてしまうことは、年齢に関係ないことがよく分かります(左の選手はパスを出した後なのに)。
先日のサッカー日本代表のアルゼンチン戦で、メッシに後ろから押されてボールをコート外に出してしまった長友選手が、振り向きざま「世界のメッシ様」に頭突きしに向かっていきました(軽やかにかわすのがメッシ様)。
それを見て「やったれ、長友!」と、フェアプレー精神は必要でも、気持ちが表に出るくらいじゃないといいプレーはできない、と応援してましたから、これからは中学生にもそんな声を掛けたいと思っています。
公園名の由来である「上の池」「中の池」「下の池」の3つの池には、段々畑のような高低差があり、水はその池をゆっくりと下っていきます。
その構造からは、できるだけ多くの水を蓄えたい、それを安定的に供給したい、はんらんを防ぎたいという要望と、「自分たちで築き、管理可能なサイズにすべき」という考え方が伝わってきますし、その目的は見事に果たされているようです(自然と共存する姿勢)。
江戸時代(1787年)に農業用水のため池が作られ、戦後(1950年)になって公園として整備されます。
付近の丘陵地には、古墳(6世紀ごろ)が点在しているそうで、詳細までは分かりませんが、鶴見川を挟んだ夢見ヶ崎(4〜7世紀)や、多摩川を挟んだ田園調布(4〜5世紀)の古墳と同じ様な環境条件だったと思われます(川や低地は海や湿地だった時代)。
右の彼らはザリガニを捕っているようですが、ほとりには「生態保護のため外来魚・ザリガニを駆除しています」の看板があります。
現在日本に見られるザリガニのほとんどはアメリカザリガニ(マッカチンの別名は方言ではないよう)で、1927年(昭和2年)の移入当時はウシガエル(食用ガエル)の餌用に持ち込まれるも、逃げ出したわずかな個体の勢力は、1960年頃には西日本を征服したそうです。
またマヌケなことに、食用とするはずのウシガエルも逃げ出し、アメリカザリガニ同様全国に広がり「ブオー、ブオー」の鳴き声が、静かだった田園の騒音公害となりました。
ガキのころ捕りにいった沼は埋めてられ宅地になったので、そこに生息していたヤツらは駆逐されたと思いますが、釣果を持ち帰った家中が臭くなり「もう捕ってくるんじゃない!」と、関心まで駆逐された記憶があります。
すぐ捕れるから楽しいのは分かるけど、捕ってもお母さんに迷惑がられるだけと言っても、聞く耳を持たないよね。
それも、これも少年期に必要な経験だとは思うのですが……
左は高圧水を噴射させ掃除をしている「虹おじさん」ですが、意外と人気ありません(関心を持っているのはわたしだけ)。
彼が掃除している石像は、狛犬のようですが普段見るものと様子が違います。韓国の狛犬のようで、やはり門前に左右対で置かれてあります。
ここは公園内の「コリア庭園」で、1990年神奈川県と韓国京畿道(キョンギド、けいきどう:特別区のソウル、仁川を除いた周辺の行政区)との友好提携記念の際に造られました。
前回訪問時を振り返っても何も印象に無いと思うと、カメラを持ってないと関心の対象範囲が狭くなっていたのかも知れません。
まだ韓流ブームは続いているのだろうか?
韓国映画やドラマ好きの方には「この戸を開けてヒーロー・ヒロインが現れそう」と感じるような障子戸ですが、日本の格子状の障子戸に比べると、とても複雑な模様を描いています。
模様の種類は多くデザインのようなので、特に意味は無さそうです。
日本の障子は室内側に桟を隠しますが、韓国では外側に桟を見せようとしています。日本では外から真っ白に見せたい、韓国では桟の模様ディスプレイしたい(目立つよう太い木材を使う)という、建物デザインのコンセプトの違いから生じたと説明されると、すんなりと納得してしまいます。
確かに日本家屋において「白」は重要な存在に感じられます。柱や壁が年々くすんでも、障子の白は毎年はり替えられるので、その建物が生きている証しのようにも見えます。
矢上川合流地点(Map)
ここは、鶴見川の支流である矢上川との合流地点になります(右が鶴見川、左が矢上川、正面が河口方面)。
河口からここまでの川岸は全部コンクリートで固められており、この付近ではじめて河川敷のような「土や植物」に出会えます。
象徴的な木が立つ河川敷のテラス(その下はコンクリートで固められている)では、親子連れが走り回っています。
河川管理の観点からはとても狭いスペースですが、家族で走り回るにはちょうどいい広さなのかも知れません。何度も行ったり来たりしているので、あまり広いとお父さん、お母さんはバテてしまいそうです……
【神奈川県】
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三ツ池公園(Map)
この地名を耳にして「三ツ沢公園(横浜市立)」じゃないの? と思う人も多いかも知れません。
三ツ沢公園は横浜駅に近い高台にあり、Jリーグ旧横浜フリューゲルス(現在横浜F・マリノス)のホームスタジアム「三ツ沢公園球技場」(現在はJ2横浜FCのホーム)があるため知名度も高そうですし、道路情報でも「三ツ沢上町(かみちょう)」の名をよく耳にします。
ここ「三ツ池公園」は、鶴見・綱島の中間に位置し交通の便はよくないので、車や自転車で訪れる人が多いようです(わたしはバス)。
でも「三ツ沢:三つの沢があった」「三ツ池:三つの池があった」どちらの地名からも、横浜の代表的な地形である丘陵地が思い浮かびます。
ここは県立の公園で、名称通り三つの池と、スポーツ施設(多目的グランド、野球場、テニスコート、プール)が整備されています。立地条件や目的の違いもありますが、県立公園よりも市立の三ツ沢公園の方が、はるかにスポーツ施設は充実しています。
でもここの売りである「里山らしさ」には、三ツ沢もかないません。
この日は野球もサッカーも、中学生くらいのチームがプレーしていましたが、上写真のように気持ちがプレー(?)に表れてしまうことは、年齢に関係ないことがよく分かります(左の選手はパスを出した後なのに)。
先日のサッカー日本代表のアルゼンチン戦で、メッシに後ろから押されてボールをコート外に出してしまった長友選手が、振り向きざま「世界のメッシ様」に頭突きしに向かっていきました(軽やかにかわすのがメッシ様)。
それを見て「やったれ、長友!」と、フェアプレー精神は必要でも、気持ちが表に出るくらいじゃないといいプレーはできない、と応援してましたから、これからは中学生にもそんな声を掛けたいと思っています。
公園名の由来である「上の池」「中の池」「下の池」の3つの池には、段々畑のような高低差があり、水はその池をゆっくりと下っていきます。
その構造からは、できるだけ多くの水を蓄えたい、それを安定的に供給したい、はんらんを防ぎたいという要望と、「自分たちで築き、管理可能なサイズにすべき」という考え方が伝わってきますし、その目的は見事に果たされているようです(自然と共存する姿勢)。
江戸時代(1787年)に農業用水のため池が作られ、戦後(1950年)になって公園として整備されます。
付近の丘陵地には、古墳(6世紀ごろ)が点在しているそうで、詳細までは分かりませんが、鶴見川を挟んだ夢見ヶ崎(4〜7世紀)や、多摩川を挟んだ田園調布(4〜5世紀)の古墳と同じ様な環境条件だったと思われます(川や低地は海や湿地だった時代)。
右の彼らはザリガニを捕っているようですが、ほとりには「生態保護のため外来魚・ザリガニを駆除しています」の看板があります。
現在日本に見られるザリガニのほとんどはアメリカザリガニ(マッカチンの別名は方言ではないよう)で、1927年(昭和2年)の移入当時はウシガエル(食用ガエル)の餌用に持ち込まれるも、逃げ出したわずかな個体の勢力は、1960年頃には西日本を征服したそうです。
またマヌケなことに、食用とするはずのウシガエルも逃げ出し、アメリカザリガニ同様全国に広がり「ブオー、ブオー」の鳴き声が、静かだった田園の騒音公害となりました。
ガキのころ捕りにいった沼は埋めてられ宅地になったので、そこに生息していたヤツらは駆逐されたと思いますが、釣果を持ち帰った家中が臭くなり「もう捕ってくるんじゃない!」と、関心まで駆逐された記憶があります。
すぐ捕れるから楽しいのは分かるけど、捕ってもお母さんに迷惑がられるだけと言っても、聞く耳を持たないよね。
それも、これも少年期に必要な経験だとは思うのですが……
左は高圧水を噴射させ掃除をしている「虹おじさん」ですが、意外と人気ありません(関心を持っているのはわたしだけ)。
彼が掃除している石像は、狛犬のようですが普段見るものと様子が違います。韓国の狛犬のようで、やはり門前に左右対で置かれてあります。
ここは公園内の「コリア庭園」で、1990年神奈川県と韓国京畿道(キョンギド、けいきどう:特別区のソウル、仁川を除いた周辺の行政区)との友好提携記念の際に造られました。
前回訪問時を振り返っても何も印象に無いと思うと、カメラを持ってないと関心の対象範囲が狭くなっていたのかも知れません。
まだ韓流ブームは続いているのだろうか?
韓国映画やドラマ好きの方には「この戸を開けてヒーロー・ヒロインが現れそう」と感じるような障子戸ですが、日本の格子状の障子戸に比べると、とても複雑な模様を描いています。
模様の種類は多くデザインのようなので、特に意味は無さそうです。
日本の障子は室内側に桟を隠しますが、韓国では外側に桟を見せようとしています。日本では外から真っ白に見せたい、韓国では桟の模様ディスプレイしたい(目立つよう太い木材を使う)という、建物デザインのコンセプトの違いから生じたと説明されると、すんなりと納得してしまいます。
確かに日本家屋において「白」は重要な存在に感じられます。柱や壁が年々くすんでも、障子の白は毎年はり替えられるので、その建物が生きている証しのようにも見えます。
矢上川合流地点(Map)
ここは、鶴見川の支流である矢上川との合流地点になります(右が鶴見川、左が矢上川、正面が河口方面)。
河口からここまでの川岸は全部コンクリートで固められており、この付近ではじめて河川敷のような「土や植物」に出会えます。
象徴的な木が立つ河川敷のテラス(その下はコンクリートで固められている)では、親子連れが走り回っています。
河川管理の観点からはとても狭いスペースですが、家族で走り回るにはちょうどいい広さなのかも知れません。何度も行ったり来たりしているので、あまり広いとお父さん、お母さんはバテてしまいそうです……
2010/10/11
ハマの埋め立て地でリフレッシュ──鶴見川河口
2010.10.2
【神奈川県】
より大きな地図で 鶴見川&里山 を表示
鶴見川河口付近 埋め立て地(Map)
青い空、白い灯台(?)、リゾートホテルにガラス張りの温室と、南国のような絵にも見えますが、ここは鶴見川河口付近の埋め立て地で、横浜市の様々なゴミ処理施設が密集する場所になります(鶴見は横浜市)。
白い構造物は焼却場の煙突、ホテルのような建物は「ふれ〜ゆ」というその余熱を利用した温浴・プール施設(温泉ではない)、右のガラス張りの建物は植物園になります。
大きな焼却場に付きもののセットメニューですが、もひとつおまけに「鶴見リサイクルプラザ:リサイクルの啓蒙推進施設」が併設されています。
この埋め立て地一帯には「下水処理場」「汚泥処理センター」「資源化センター(リサイクル)」など、横浜市の処理施設が集められ、ここなら周囲を気にせず処理ができると、かなり伸び伸びとした敷地が確保されています。
「ふれ〜ゆ」の正式名称は「横浜市高齢者保養研修施設」とあるので、高齢者をリサイクル(NG ! )→リフレッシュさせてくれます。
右写真は首都高速湾岸線の「つばさ橋」で、以前訪れたJR海芝浦駅(東芝ふ頭のような埋め立て地)からも臨めましたが、ここはそのとなりの埋め立て地になります。
この区画は「横浜市ふ頭」的な公共の場所なので、往来も自由でバスも運行しており、海側にある釣りデッキには親子で糸を垂れる姿も見られます。
ですが、管理のため「17時閉鎖」「日没後は閉鎖(監視カメラで撮影できない)」などの制限があるためか、アベックの数が極端に少ない海辺との印象を受けます。
高齢者向けの施設なので早じまいなのは分かりますが、お年寄りは夜遊びしたがらないのだろうか? って、しないよねぇ〜。
同埋め立て地には、横浜市立大学大学院(独立行政法人 理化学研究所との連携大学院)が開設されています。
八景島方面の埋め立て地にもキャンパスと付属病院がありますから、横浜市の埋め立て事業には、自由に使える土地を確保したい切実さがあったこと、改めて感じた気がします。
生麦(なまむぎ)(Map)
以前紹介したJR国道駅の、国道15号線側とは反対の出口に面した通りが、生麦魚河岸通りになります。
現在も通りの魚河岸は健在のようですが、こちらは昼過ぎに歩くもので、その様子を直接見ることはできません。
旧街道っぽい通りながらも広く感じる道幅(キチッと店の前が片付けられているため広い印象を受けるのか)、仕事ぶりが感じられる後始末の光景(上写真)には、客を大切にしている姿勢が見てとれ、昔からのにぎわいが続いている様子が目に浮かぶ気がしました。
江戸前の漁師町で、古くからの看板に「貝」の名が付く店の多さから、貝類の扱いが多い河岸のように見えます。
ここ鶴見川河口付近から西側の横浜方面は丘陵地が海まで迫っているので、埋め立て前の海岸は急深と思われますが、東の川崎側には埋め立て以前、多摩川・鶴見川双方の流れから形成された複合扇状地のような湿地が広がっていたので、遠浅の干潟で多くの貝類が採れたことと思われます。
川崎市の海岸線は短いのですが全面埋め立てられたため、古い港の有無については調べないと分かりませんが、当時から船着き場を持っていたこの地と多摩川河口の羽田の漁師は、川崎沖の埋め立て地付近(現在の工場地帯)で魚介を採っていたのではないでしょうか。
浅瀬の無くなった現在、魚河岸で扱う貝類は一体どこで採っているのでしょう。金沢八景、もしくは千葉の木更津周辺か?
上写真は地元の案内に「河口干潟」とされる一画で、水害防止が重視される河口付近の護岸はコンクリートで固めたいところを、迂回させてもこの「貝殻干潟」を保全したいと考えている、地域の「文化遺産」になります。
古くからの単なる貝殻廃棄場に過ぎませんが、その量が膨大だったため現在も水際からは、原型の貝殻が洗い出されています。
ここは教科書で学んだ貝塚(縄文〜弥生時代)とは、年代・性格的にも異なったものになります。
始まりは不明ですが、『古事記』(712年)に記述されるヤマトタケルの項(伝説)によると、現在の京浜工業地帯付近は「広大な低湿地帯で通行に適さない」場所とされ(彼は船で房総半島に渡ります)、人影も見られない土地であったとすれば、後の時代に形成されたことになります。
人が定着し貝漁が始められた後の貝殻廃棄場ではあっても、ここだけ白い砂浜か? というインパクトはありますし、残されているおかげで当時の貝漁について関心が向いたのですから、地元には大切な遺産であると納得です。
ちょうどこの辺りが河川管理上の河口にあたりますが、海側には埋め立て地が広がります。
川の延長のようにも見えるコンクリートの護岸に挟まれた流路は、海になるので運河とされるのでしょう。
父親が海の方を見ながら息子に何やら語りかけています。
息子の方は、とりたてて大きなリアクションをすることもなく、時折語り続ける父の表情を見上げている、とても素敵な光景です。
内容は分かりませんが、きっと父は「男のロマン」を語っているのだろうと思いたくなります。
だってここで、母とのなれ初めを語っても子どもには「何のこっちゃ?」ですものね。
近ごろ生麦といえば「キリンビール工場」かも知れませんが、地名をメジャーにしたのは「生麦事件」になるでしょう(写真はその碑、背後がビール工場)。
幕末の1862年この付近で薩摩藩主の父・島津久光の行列に、騎馬で乱入したイギリス人を藩士が殺傷した事件で、外交問題になります。
この手の事件発生は当然と思われるのは、まず言葉が通じない、互いの文化を知らない(日本では行列に際しては下馬が礼儀)、そして当時異国人を歓迎する日本人は皆無(攘夷:外国排斥)ですから、異国人にとって日本はデンジャラスな国だったはずです。
それでも奔放にふるまう異国人たちの姿勢には、日本(武士や刀)をなめきったおごりがあったようにも思います(というか、幕府が何も説明してなかったのでしょう)。
江戸幕府は、1853年ペリー来航〜1854年日米和親条約締結(下田、函館を開港)で開国しますが、庶民の意識は江戸時代のまま置き去りにされたのでは不安は膨らむ一方で、大政奉還(1867年)までの13年間無策とくればクーデター(明治維新)も起こるわけです。
同時代の龍馬は何をしていたか並べてみたくて調べました。
1854年 開国:江戸での剣術修行を終えて土佐へ帰国
1862年 生麦事件:土佐藩脱藩
1867年 大政奉還:亀山社中を「海援隊」に〜暗殺(大政奉還後)
一昨年の大河ドラマ『篤姫』ではその状況で「徳川慶喜に頑張ってもらわねば」と願ったものが、今年の『龍馬伝』では「慶喜の腹をくくらせる決定打は?」と、正反対の状況を提示してくれるNHKの企画力は見事と思いますが、当時の庶民は2年(番組の切り替え)で世の中の見方や考え方の修正ができたわけもなく、混沌とする情勢を不安げに見守っていたことと思います。
再度切り返す視点として、幕末の会津藩の物語を見たいと思うのですが、白虎隊はもうやっちゃいました?
最後になりましたが生麦の地名の由来とは、徳川二代将軍秀忠がこの地のぬかるみで往生した際、村人たちが付近の生麦を刈って道に敷いて行列を通したことに対し、秀忠から「生麦」という地名と、漁業権の特別な権利を与えられたとされます(羽田の漁師も幕府のお墨付きを受けていました)。
ビール工場建設の際には多少の理由にはなったかと思いますが、「生麦」にビール工場というのははまりすぎな気もします。
でもこの地で、どこから「水」を引いているのだろうか?
地下水だと多少しょっぱそうな気もしますが、そこから苦みを生み出すのであれば、お見事! という気もします……(失礼)
【神奈川県】
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鶴見川河口付近 埋め立て地(Map)
青い空、白い灯台(?)、リゾートホテルにガラス張りの温室と、南国のような絵にも見えますが、ここは鶴見川河口付近の埋め立て地で、横浜市の様々なゴミ処理施設が密集する場所になります(鶴見は横浜市)。
白い構造物は焼却場の煙突、ホテルのような建物は「ふれ〜ゆ」というその余熱を利用した温浴・プール施設(温泉ではない)、右のガラス張りの建物は植物園になります。
大きな焼却場に付きもののセットメニューですが、もひとつおまけに「鶴見リサイクルプラザ:リサイクルの啓蒙推進施設」が併設されています。
この埋め立て地一帯には「下水処理場」「汚泥処理センター」「資源化センター(リサイクル)」など、横浜市の処理施設が集められ、ここなら周囲を気にせず処理ができると、かなり伸び伸びとした敷地が確保されています。
「ふれ〜ゆ」の正式名称は「横浜市高齢者保養研修施設」とあるので、高齢者をリサイクル(NG ! )→リフレッシュさせてくれます。
右写真は首都高速湾岸線の「つばさ橋」で、以前訪れたJR海芝浦駅(東芝ふ頭のような埋め立て地)からも臨めましたが、ここはそのとなりの埋め立て地になります。
この区画は「横浜市ふ頭」的な公共の場所なので、往来も自由でバスも運行しており、海側にある釣りデッキには親子で糸を垂れる姿も見られます。
ですが、管理のため「17時閉鎖」「日没後は閉鎖(監視カメラで撮影できない)」などの制限があるためか、アベックの数が極端に少ない海辺との印象を受けます。
高齢者向けの施設なので早じまいなのは分かりますが、お年寄りは夜遊びしたがらないのだろうか? って、しないよねぇ〜。
同埋め立て地には、横浜市立大学大学院(独立行政法人 理化学研究所との連携大学院)が開設されています。
八景島方面の埋め立て地にもキャンパスと付属病院がありますから、横浜市の埋め立て事業には、自由に使える土地を確保したい切実さがあったこと、改めて感じた気がします。
生麦(なまむぎ)(Map)
以前紹介したJR国道駅の、国道15号線側とは反対の出口に面した通りが、生麦魚河岸通りになります。
現在も通りの魚河岸は健在のようですが、こちらは昼過ぎに歩くもので、その様子を直接見ることはできません。
旧街道っぽい通りながらも広く感じる道幅(キチッと店の前が片付けられているため広い印象を受けるのか)、仕事ぶりが感じられる後始末の光景(上写真)には、客を大切にしている姿勢が見てとれ、昔からのにぎわいが続いている様子が目に浮かぶ気がしました。
江戸前の漁師町で、古くからの看板に「貝」の名が付く店の多さから、貝類の扱いが多い河岸のように見えます。
ここ鶴見川河口付近から西側の横浜方面は丘陵地が海まで迫っているので、埋め立て前の海岸は急深と思われますが、東の川崎側には埋め立て以前、多摩川・鶴見川双方の流れから形成された複合扇状地のような湿地が広がっていたので、遠浅の干潟で多くの貝類が採れたことと思われます。
川崎市の海岸線は短いのですが全面埋め立てられたため、古い港の有無については調べないと分かりませんが、当時から船着き場を持っていたこの地と多摩川河口の羽田の漁師は、川崎沖の埋め立て地付近(現在の工場地帯)で魚介を採っていたのではないでしょうか。
浅瀬の無くなった現在、魚河岸で扱う貝類は一体どこで採っているのでしょう。金沢八景、もしくは千葉の木更津周辺か?
上写真は地元の案内に「河口干潟」とされる一画で、水害防止が重視される河口付近の護岸はコンクリートで固めたいところを、迂回させてもこの「貝殻干潟」を保全したいと考えている、地域の「文化遺産」になります。
古くからの単なる貝殻廃棄場に過ぎませんが、その量が膨大だったため現在も水際からは、原型の貝殻が洗い出されています。
ここは教科書で学んだ貝塚(縄文〜弥生時代)とは、年代・性格的にも異なったものになります。
始まりは不明ですが、『古事記』(712年)に記述されるヤマトタケルの項(伝説)によると、現在の京浜工業地帯付近は「広大な低湿地帯で通行に適さない」場所とされ(彼は船で房総半島に渡ります)、人影も見られない土地であったとすれば、後の時代に形成されたことになります。
人が定着し貝漁が始められた後の貝殻廃棄場ではあっても、ここだけ白い砂浜か? というインパクトはありますし、残されているおかげで当時の貝漁について関心が向いたのですから、地元には大切な遺産であると納得です。
ちょうどこの辺りが河川管理上の河口にあたりますが、海側には埋め立て地が広がります。
川の延長のようにも見えるコンクリートの護岸に挟まれた流路は、海になるので運河とされるのでしょう。
父親が海の方を見ながら息子に何やら語りかけています。
息子の方は、とりたてて大きなリアクションをすることもなく、時折語り続ける父の表情を見上げている、とても素敵な光景です。
内容は分かりませんが、きっと父は「男のロマン」を語っているのだろうと思いたくなります。
だってここで、母とのなれ初めを語っても子どもには「何のこっちゃ?」ですものね。
近ごろ生麦といえば「キリンビール工場」かも知れませんが、地名をメジャーにしたのは「生麦事件」になるでしょう(写真はその碑、背後がビール工場)。
幕末の1862年この付近で薩摩藩主の父・島津久光の行列に、騎馬で乱入したイギリス人を藩士が殺傷した事件で、外交問題になります。
この手の事件発生は当然と思われるのは、まず言葉が通じない、互いの文化を知らない(日本では行列に際しては下馬が礼儀)、そして当時異国人を歓迎する日本人は皆無(攘夷:外国排斥)ですから、異国人にとって日本はデンジャラスな国だったはずです。
それでも奔放にふるまう異国人たちの姿勢には、日本(武士や刀)をなめきったおごりがあったようにも思います(というか、幕府が何も説明してなかったのでしょう)。
江戸幕府は、1853年ペリー来航〜1854年日米和親条約締結(下田、函館を開港)で開国しますが、庶民の意識は江戸時代のまま置き去りにされたのでは不安は膨らむ一方で、大政奉還(1867年)までの13年間無策とくればクーデター(明治維新)も起こるわけです。
同時代の龍馬は何をしていたか並べてみたくて調べました。
1854年 開国:江戸での剣術修行を終えて土佐へ帰国
1862年 生麦事件:土佐藩脱藩
1867年 大政奉還:亀山社中を「海援隊」に〜暗殺(大政奉還後)
一昨年の大河ドラマ『篤姫』ではその状況で「徳川慶喜に頑張ってもらわねば」と願ったものが、今年の『龍馬伝』では「慶喜の腹をくくらせる決定打は?」と、正反対の状況を提示してくれるNHKの企画力は見事と思いますが、当時の庶民は2年(番組の切り替え)で世の中の見方や考え方の修正ができたわけもなく、混沌とする情勢を不安げに見守っていたことと思います。
再度切り返す視点として、幕末の会津藩の物語を見たいと思うのですが、白虎隊はもうやっちゃいました?
最後になりましたが生麦の地名の由来とは、徳川二代将軍秀忠がこの地のぬかるみで往生した際、村人たちが付近の生麦を刈って道に敷いて行列を通したことに対し、秀忠から「生麦」という地名と、漁業権の特別な権利を与えられたとされます(羽田の漁師も幕府のお墨付きを受けていました)。
ビール工場建設の際には多少の理由にはなったかと思いますが、「生麦」にビール工場というのははまりすぎな気もします。
でもこの地で、どこから「水」を引いているのだろうか?
地下水だと多少しょっぱそうな気もしますが、そこから苦みを生み出すのであれば、お見事! という気もします……(失礼)
2010/10/04
今年の出来は?──十日市場
2010.9.25
【神奈川県】
今回から横浜・多摩丘陵周辺の里山を、鶴見川を軸にして歩こうと考えていますが、「川シリーズ第2弾」とうたうには、ちと気が引けます。
全国的にも水質汚染でワーストに含まれる鶴見川の流域には、まだ農地や里山が残されているのに、なぜ川は汚れてしまうの? という切り口で伝えられればと思っています。
地元には「ワーストの評価方法がなっとらん」との意見もありますが、決してキレイな川ではないので、努力目標にしてもらいたいものです。
このシリーズでは、初めて訪問する場所が多くなりそうで楽しみな反面、期待外れもあるかも知れない点は、お含みおきください。
より大きな地図で 鶴見川&里山 を表示
本来は、河口付近から上流に向かいたいと考えるのですが、夏の暑さで稲刈りが早まると稲穂の絵が撮れなくなるので、今回は「今年の出来はどう?」(農業関係者のようですが)と様子見を兼ねて、昨年訪れたJR横浜線十日市場駅付近の新治(にいはる)地区をのぞいてきました。
新治市民の森(Map)
ここは農地のクリ林なので、地面に落ちているのは収穫後の殻だけです。
谷戸(やと:丘陵地が浸食されてできた谷地形)の奥まった場所なので、日当たりは決してよくありませんが、他の場所より収穫期は早いようです。
クリ栽培について調べるとどこも「日当たり第一」とありますが、付近の日当たりのいい場所の木には、まだ青いイガがついています。
ここは水に恵まれているため? もしくは未成熟で廃棄されたのか?
品種によりますが、収穫はイガが褐色に変化し外皮が割れて、実の皮が色づくころとされます。
「クリ拾い」というくらいですし、完熟して落花したイガの部分を靴裏で押さえて実を集めた記憶があります。
この日は明け方に台風がかすめて通過していったので、土にはタップリ水分が含まれています。
当日の作業なのか分かりませんが、稲干しの周囲には無数の足跡が残されています(上写真右の凹凸は足跡)。
こんなぬかるみの中を、これだけ歩き回ったら次の日は立ち上がれないのでは? と思ってしまいます(普段使わない筋肉が悲鳴をあげそう)。
日々の積み重ねで体は慣れるとしても、これは相当な重労働になります。
数時間付き合わせてもらう体験農業や、子どもたちが田植えではしゃぐ姿は、農作業の表面的な薄皮のようなもので、それとは比較にならない「重さ」が、ここには残されているように感じました。
作物を育てること+田んぼ(施設)を守る作業内容を考えると、仕事にキリのないことが分かりますし、台風の被害が心配で嵐の中でも田んぼを見に行ってしまう心情も理解できる気がします。
機械を入れられない場所だけど何とか守って欲しい、と簡単に言うけれど「その前に一度やってみろ」というのが本当の体験農業なのかも知れません……
昨年の訪問もちょうど同時期だったのでその様子と比べてみると、おおよそ実り具合や、刈り取りの様子は同程度に見えました。
刈り取り時期は、台風で稲が倒れたなどの緊急性がない限り、基本的に暦にしたがって行われることが、自分の目で確認できたような気がします。
今年の米の作柄については、5月から6月にかけて低温や日照不足の影響を受けたものの、夏場に高温が続いたことで稲の生育は回復し、作柄(収穫量)はおおむね「平年並み」が見込まれています。
ですが、夏場の高温のせいで品質はとても悪いとのこと。消費者側には暑さによる「味の低下」は避けられないと織込み済みでも、生産者側はそれを理由に値段をたたかれるのですから、たまったものではありません。
とりあえずは生産者への援助も必要ですが、根本治療(可能な限りの気候安定)なくしては同じ事の繰り返しになってしまいます。
一方、秋の花であるヒガンバナの開花は、猛暑と少雨で遅れ気味です。
この植物は毒を持ち、ネズミ、モグラ、虫など田・畑を荒らす生き物を追い払う役目を負うため、古くから田・畑のあぜ道でよく見かけられました(球根や茎も毒性を持ち、花は咲かずとも存在だけで効力がある)。
墓地にこの花が植えられるのも、死体(骨)が生き物たちに荒されるのを防ぐためとされます。
コスモスの花って、ちょっとしなやかすぎる印象があります。
群生してもそれぞれの茎は細いので、株ごとの事情で様々な揺れ方をしますし、その動きもとても気まぐれに感じられます。
じっとしてくれない姿にイライラする気の短さを、「秋の風を楽しんでますか?」となだめられているかのようです。
コスモスは日当たりと水はけのいい場所ならどこでも育つので、休耕田やスキー場などに「人寄せコスモス畑」が作られ、地域おこしに利用されています。
ですが今年は、ヒガンバナ同様秋の花のため開花が遅れ、各地で花のない「コスモス祭り」となり、バスツアーなど大勢訪れる人気スポットでは対応が大変なようです。
季節を売り物にする施設の宿命ではありますが、この先も気象庁が「異常気象」を乱発する気候が続くと、季節商売はより難しくなりそうです……
ここに横たわる材木たちは、おそらく稲干に使われる木々のようですが、この時期に放置されているところを見ると、もうこの家では稲作は行われていないのかも知れません。
カメラの反対側に農地があるのですが、近くに田んぼは見当たりません。おそらく目の前の畑は、田んぼから転換されたようです。
畑なら何とか世話はできるが、田んぼは無理との判断だとすると、小規模の稲作には苦労の多いこと(労力だけではなく、収入に関しても)が想像されます。
そこで、農地維持保全基金的なものを立ち上げて、年金暮らしを始め時間をもてあます団塊世代の「ジジ・ババ様」(敬愛を込めた表現)に向けて、「首都近郊で土をいじりしませんか?」と声を掛けてはいかがだろうか?
近ごろリタイア組が「自分で育てた作物を食したい」と、農作業に取り組む様子を見聞きするので、「勤務時間は日没まで」「残業無し」「ノルマ無し」としたら集まるような気もするのですが、って、あまりにも失礼ですかね?
でも、そんな枠組みに賛同する人が集まれば、とりあえず次の世代(ジジ・ババ様の目の届く子孫)へのバトンタッチはできるのではないだろうか。
「年寄りをこき使うなって?」
だっていまのわれわれは「何いってんだ、忙しいんだから仕方ないだろ!」のさなかにいるのですから……
今回の写真を眺めていると、秋の乾いた空気感のせいか、どれも落ち着いた絵になった気がします(撮影者の心理状態の反映ならばうれしいのですが)。
再訪する動機にはこちらの気持ちも大切ですし、相手から「手招きされている」との錯覚も重要と思います。
農耕民族であった日本人の祖先から受け継いだ根っこであり、世代を超えて共有できる「里山の記憶」というものが、自分の中にもあると実感できることがうれしくて、誘われてもいないのに足が向いてしまうのかも知れません。
【神奈川県】
今回から横浜・多摩丘陵周辺の里山を、鶴見川を軸にして歩こうと考えていますが、「川シリーズ第2弾」とうたうには、ちと気が引けます。
全国的にも水質汚染でワーストに含まれる鶴見川の流域には、まだ農地や里山が残されているのに、なぜ川は汚れてしまうの? という切り口で伝えられればと思っています。
地元には「ワーストの評価方法がなっとらん」との意見もありますが、決してキレイな川ではないので、努力目標にしてもらいたいものです。
このシリーズでは、初めて訪問する場所が多くなりそうで楽しみな反面、期待外れもあるかも知れない点は、お含みおきください。
より大きな地図で 鶴見川&里山 を表示
本来は、河口付近から上流に向かいたいと考えるのですが、夏の暑さで稲刈りが早まると稲穂の絵が撮れなくなるので、今回は「今年の出来はどう?」(農業関係者のようですが)と様子見を兼ねて、昨年訪れたJR横浜線十日市場駅付近の新治(にいはる)地区をのぞいてきました。
新治市民の森(Map)
ここは農地のクリ林なので、地面に落ちているのは収穫後の殻だけです。
谷戸(やと:丘陵地が浸食されてできた谷地形)の奥まった場所なので、日当たりは決してよくありませんが、他の場所より収穫期は早いようです。
クリ栽培について調べるとどこも「日当たり第一」とありますが、付近の日当たりのいい場所の木には、まだ青いイガがついています。
ここは水に恵まれているため? もしくは未成熟で廃棄されたのか?
品種によりますが、収穫はイガが褐色に変化し外皮が割れて、実の皮が色づくころとされます。
「クリ拾い」というくらいですし、完熟して落花したイガの部分を靴裏で押さえて実を集めた記憶があります。
この日は明け方に台風がかすめて通過していったので、土にはタップリ水分が含まれています。
当日の作業なのか分かりませんが、稲干しの周囲には無数の足跡が残されています(上写真右の凹凸は足跡)。
こんなぬかるみの中を、これだけ歩き回ったら次の日は立ち上がれないのでは? と思ってしまいます(普段使わない筋肉が悲鳴をあげそう)。
日々の積み重ねで体は慣れるとしても、これは相当な重労働になります。
数時間付き合わせてもらう体験農業や、子どもたちが田植えではしゃぐ姿は、農作業の表面的な薄皮のようなもので、それとは比較にならない「重さ」が、ここには残されているように感じました。
作物を育てること+田んぼ(施設)を守る作業内容を考えると、仕事にキリのないことが分かりますし、台風の被害が心配で嵐の中でも田んぼを見に行ってしまう心情も理解できる気がします。
機械を入れられない場所だけど何とか守って欲しい、と簡単に言うけれど「その前に一度やってみろ」というのが本当の体験農業なのかも知れません……
昨年の訪問もちょうど同時期だったのでその様子と比べてみると、おおよそ実り具合や、刈り取りの様子は同程度に見えました。
刈り取り時期は、台風で稲が倒れたなどの緊急性がない限り、基本的に暦にしたがって行われることが、自分の目で確認できたような気がします。
今年の米の作柄については、5月から6月にかけて低温や日照不足の影響を受けたものの、夏場に高温が続いたことで稲の生育は回復し、作柄(収穫量)はおおむね「平年並み」が見込まれています。
ですが、夏場の高温のせいで品質はとても悪いとのこと。消費者側には暑さによる「味の低下」は避けられないと織込み済みでも、生産者側はそれを理由に値段をたたかれるのですから、たまったものではありません。
とりあえずは生産者への援助も必要ですが、根本治療(可能な限りの気候安定)なくしては同じ事の繰り返しになってしまいます。
一方、秋の花であるヒガンバナの開花は、猛暑と少雨で遅れ気味です。
この植物は毒を持ち、ネズミ、モグラ、虫など田・畑を荒らす生き物を追い払う役目を負うため、古くから田・畑のあぜ道でよく見かけられました(球根や茎も毒性を持ち、花は咲かずとも存在だけで効力がある)。
墓地にこの花が植えられるのも、死体(骨)が生き物たちに荒されるのを防ぐためとされます。
コスモスの花って、ちょっとしなやかすぎる印象があります。
群生してもそれぞれの茎は細いので、株ごとの事情で様々な揺れ方をしますし、その動きもとても気まぐれに感じられます。
じっとしてくれない姿にイライラする気の短さを、「秋の風を楽しんでますか?」となだめられているかのようです。
コスモスは日当たりと水はけのいい場所ならどこでも育つので、休耕田やスキー場などに「人寄せコスモス畑」が作られ、地域おこしに利用されています。
ですが今年は、ヒガンバナ同様秋の花のため開花が遅れ、各地で花のない「コスモス祭り」となり、バスツアーなど大勢訪れる人気スポットでは対応が大変なようです。
季節を売り物にする施設の宿命ではありますが、この先も気象庁が「異常気象」を乱発する気候が続くと、季節商売はより難しくなりそうです……
ここに横たわる材木たちは、おそらく稲干に使われる木々のようですが、この時期に放置されているところを見ると、もうこの家では稲作は行われていないのかも知れません。
カメラの反対側に農地があるのですが、近くに田んぼは見当たりません。おそらく目の前の畑は、田んぼから転換されたようです。
畑なら何とか世話はできるが、田んぼは無理との判断だとすると、小規模の稲作には苦労の多いこと(労力だけではなく、収入に関しても)が想像されます。
そこで、農地維持保全基金的なものを立ち上げて、年金暮らしを始め時間をもてあます団塊世代の「ジジ・ババ様」(敬愛を込めた表現)に向けて、「首都近郊で土をいじりしませんか?」と声を掛けてはいかがだろうか?
近ごろリタイア組が「自分で育てた作物を食したい」と、農作業に取り組む様子を見聞きするので、「勤務時間は日没まで」「残業無し」「ノルマ無し」としたら集まるような気もするのですが、って、あまりにも失礼ですかね?
でも、そんな枠組みに賛同する人が集まれば、とりあえず次の世代(ジジ・ババ様の目の届く子孫)へのバトンタッチはできるのではないだろうか。
「年寄りをこき使うなって?」
だっていまのわれわれは「何いってんだ、忙しいんだから仕方ないだろ!」のさなかにいるのですから……
今回の写真を眺めていると、秋の乾いた空気感のせいか、どれも落ち着いた絵になった気がします(撮影者の心理状態の反映ならばうれしいのですが)。
再訪する動機にはこちらの気持ちも大切ですし、相手から「手招きされている」との錯覚も重要と思います。
農耕民族であった日本人の祖先から受け継いだ根っこであり、世代を超えて共有できる「里山の記憶」というものが、自分の中にもあると実感できることがうれしくて、誘われてもいないのに足が向いてしまうのかも知れません。
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