2009.8.23
【神奈川県】
夏休みを終え、早くも新学期をむかえた学校においての、新型インフルエンザ感染予防の取り組みについて、テレビで目にしました。
庶民にできる予防対策は、うがい、手洗い、マスク着用であり、感染が疑われる場合には隔離治療を受けるという対処法が、効果的との認識を持っています。
そこに「大勢が同じ場所に集まることを取りやめる」(全校集会の中止等)という予防策が加えられました(甲子園でも感染があったとなると仕方ないのか?)。
その対策の意図は理解できるところですが、コミュニケーションによって歩んできた人類が、自らその連携を弱めようとしている面には、不安の種が潜んでいるように思えてしまいます。
しかしそれを怖れず、ワクチン製造までの緊急対応として「人命第一」の対策であると理解できる人類は、進歩してきたと評価すべきなのかも知れません……
しかし、生体内(人・鳥・ブタ等)で繁殖し、それを感染させることで、勢力を広めようとするウイルスたちにとって、ひとつの「変異の成果」が現れようとしている「エポック」であるかも知れないと思うと、不気味に思えてなりません。
自然界で生活する限り、その戦いに終わりは無い、と思われます……
米軍池子(いけご)住宅(池子弾薬庫跡)(Map)
旧池子弾薬庫という、インパクトの強い名称が耳に残っており、見てみたいと思っていましたが、その場所を知らないでいました。
ここは、京浜急行逗子線の沿線になり、横浜・鎌倉・逗子の境界付近(多くが逗子市に含まれる)の丘陵地帯になります。
車窓の風景からも敷地がかなり広いことが見て取れますし、開発の手が入っていないので周囲のフェンスがなければ、自然豊かな丘陵地帯という印象を受けます。
地元では「池子の森」と呼ばれており、敷地内の開発計画への反対運動が現在も続いています。
京浜急行の神武寺(じんむじ)駅は池子住宅に面していて、住宅利用者専用の改札口があったりします。
大きな工場に隣接している駅などに見られる、社員専用改札口と同じです。
改札手前の足元に見える線路は、車両工場からの搬送用だそうですが、「池子弾薬庫」時代には施設内へと続く線路が、現在のJR横須賀線逗子駅から伸びていたそうです。
鉄道を使って弾薬庫に運ぶモノとは? と考えるだけでも、近隣住民の不安を共有できる思いがします……(下写真は池子住宅へのゲート。一般客の改札口からは徒歩5分以上かかります)
明治以降の横須賀は、基地、軍事施設、軍需工場が集中する軍事都市だったため(以前この地は、横須賀市に属していました。現在逗子市)、1937年に日本海軍が弾薬庫としての使用を始め、戦後はアメリカ軍に接収され、 朝鮮戦争やベトナム戦争で使用された弾薬なども保管されていたそうです。
1978年に弾薬庫としての役目を終えますが、1980年に公表された米海軍家族住宅建設計画には、地元住民たちの反対運動が長く続いたそうですが、結局1996年に池子米海軍家族住宅がオープンし、約3,400人の米軍家族が暮らしているそうです。
以前紹介した、横須賀を母港とする原子力空母「ジョージ・ワシントン」の乗組員だけでもおよそ6,250人だそうですから、家族を含めるとなると、相当数の住居が必要になります。
国を守るために必要な「思いやり予算」(本件を調べて久しぶりに目にしましたが、いまでも何という表現? と疑問に思います)は、極力抑えたいところです。
しかしそのためには、北朝鮮を筆頭に「ミサイルを撃ち込まれたらどうする?」という状況下で、不戦を含めた、自立の道を考える必要があると思われます。
神武寺(Map)
ここは、724年に聖武天皇の勅願によって開かれた天台宗のお寺になりますが、時折ハイキングコースを歩く人が訪れる程度の、とても静かなお寺という印象です。
薬師堂に続く奥の院は、かつて「茂林鬱々たり、天狗腰掛松と云あり。魔所なりとて、里人恐る処なり。時々奇怪の事あり」と伝えられるそうです。
このストーリーには聞き覚えがあると思えば、高尾山のいいつたえにとても似ています。
高尾山は、同じ聖武天皇の命によりますが、744年創建の真言宗のお寺で、後に天狗の山と言われるようになります。
そんないいつたえからの推測ですが、当時の中央政権への影響力としては、天台宗(最澄:伝教大師)の方が強かったようですが、地方の民衆への浸透力は真言宗(空海:弘法大師)の方が大きかった、と言えるかも知れません。
「奥の院」(山頂付近)とされる一帯に、建造物は現存していません。
天狗が棲むとされる場所ですから、修験道の修行場という性格だったと思われます(女人禁制と刻まれた石柱が現存しています)。
山上には上写真のような大きな岩が露出した場所が多数あり、修験者もそんな岩の上で経典を唱えたのではないでしょうか。
かつて修行場だった山ですが、聖域と言ってられない場所も存在します。
次回以降でふれる機会があるかも知れませんが、久里浜にある火力発電所からの送電線を張る必要に迫られ、そんな岩山の上に鉄塔が作られています。
山頂の鉄塔なので低い構造物で、高圧線も目の前に見えたりします。
以前訪れたのが真夏の猛暑日の昼下がりで、電力消費のピークと思われ、高圧線から「ブーン」というもの凄い音が響いており「電磁波の影響があるかも」と、急いで離れたことを思い出しました。
手前の鉄塔には「貝山線」の看板がありました。
その貝山という場所は、追浜(おっぱま)の東にある、海沿いの工場地帯のようです。
映画『鉄塔武蔵野線』(1997年)を観て以来、鉄塔の前を通る時には、その看板を確認することが習慣になりました。
ちなみに自宅近くにある鉄塔には「南武線」とあります(電車と一緒じゃん!)。
ですが、この高圧線の先はどこにつながっているのだろう? という関心も、散歩の一興と思われます。
鷹取山(Map)
地名の由来としては、太田道灌(おおたどうかん:江戸城築城で有名ですが、室町時代の武将なので、江戸幕府以前の話しになります)が鷹狩りをした場所、高い場所を「タカットー」と呼んだこと等、とされているそうです。
ここは明治時代から、石材の切り出し場とされたため、切り立った壁が多く残されることになります。
山の原型はおそらく、上述の神武寺周辺と同じように思われますが、聖域を外れたこの地では盛んに石材の採取が行われたようです。
この山の地質は、鎌倉や三浦半島に見られる新しい時代の凝灰岩(火山噴出物が水底や地上に堆積して固まった岩石)で、柔らかく加工しやすいので、鷹取石として塀や石段などによく使われていたそうです。
神武寺から鷹取山までハイキングコースがありますが、途中には歩道部分が崩れたと思われる鎖場(危険個所等で安全確保のため鎖が固定されている場所)もある、大きな岩がむき出しのデコボコしたルートになっています。
上写真のオッサン、頑張っているのに触れなくてゴメンナサイ!
1960年代前後から、放置された石切場の壁でロッククライミングをする人たちが増え、写真のような穴だらけの壁になったようです。
上述のようにここの岩は柔らかいため、ハーケンが抜けやすく事故が多発したため、ハーケンを使用するロッククライミングは禁止されたそうです。
写真の状況は、頂上に固定された支点を経由したロープを、背後の地面からサポートしていて、登る人はロープだけを命綱に壁を登っていきます。
でも、無数にあるハーケンの穴が浸食されて、フックになっているようですから、登りやすいんじゃないの!? なんて、素人としては思ってしまいます……
そんなクライマーが集まる場所の少し奧に、右写真の摩崖仏(まがいぶつ)があります。
これは昭和期に、逗子市在住の個人が彫刻家に依頼して作成してもらったとあるので、歴史的な信仰対象物ではないようです。
この裏手にもまだ壁は存在していて、上からの物音に見上げると、頭の上では単独でチャレンジしている人がいたりします。
考えてみれば、ロッククライミングの練習をひとりでするのは危ないように思えます。
何かのトラブルで、翌朝、壁にぶら下がっている姿を発見した人は、横溝正史の世界(古いね!)のようなリアクションになってしまいます……
鷹取山はたかだか139mですが、わたしの登坂能力では、途中で何度も息を整えてしまいます。
修験者たちが高みを目指したのは、俗世を脱するためと理解できますし、クライマーたちは「クライマーズ・ハイ(極限の興奮に恐怖感が麻痺する状態)」は求めないにしても、チャレンジによって自己確認しているようにも思われます。
志のないわたしですが、それにしても「なぜ、夏に来るのか?」と考えてみると、きっと「ビールをおいしく飲みたいから」なんて答えになるのでしょうね。
そのための汗を、タップリとかきました……
P.S. ふたを開けるまでもなく、結果は分かっていた衆議院選挙ですが、「もう少しまともな国になって欲しい」という庶民のため息ですから、お願いしますよ〜。
2009/08/31
2009/08/24
夏休みのミカタ──金沢文庫、八景島
2009.8.15
【神奈川県】
関東地方では、お盆休みの週にようやく「夏らしさ」が訪れた、という印象があります。
しかしそれは、北の高気圧がもたらす気候の安定であり、「高い空や雲」と表現される、秋の気配が感じられる晴天です。
お盆前までは、蒸し暑い日が続くも「日照不足」を実感する天候でした。
農作物の生育には「もっと日差しを!」となりますが、そのためには「猛暑日を覚悟せよ」ということになるのでしょうか……
「夏の太平洋高気圧」はどこへ行ってしまったのでしょう?
エルニーニョ等、地球規模での気候変動の一端を体感した夏だったような気がします。
今回から神奈川県に戻り、三浦半島方面を攻めようと考えています。
現在の金沢八景付近は、かつて六浦(むつうら or むつら)として名が通る、東京湾の港町として栄えたそうです。
古くは六浦荘と呼ばれる京都仁和寺の荘園とされていて、おそらく製塩業がそのメインと思われ、塩田は明治時代まで続いたそうです。
鎌倉時代に、鎌倉とこの地を結ぶ六浦道の開削が行われ朝比奈切通しが開通し、鎌倉の水運の要とされました(鎌倉の和賀江島にも桟橋が作られましたが、良港とは言えなかったようです)。
称名寺(Map)
このお寺は、現在の金沢文庫に隣接しています。
鎌倉時代の北条氏(幕府の執権職)一族である金沢(かねさわ)北条氏が開き、一族の菩提寺とされますが、幕府滅亡とともに金沢北条氏も滅び、寺も衰退してしまいます。
真言律宗のお寺で、以前紹介した極楽寺を起源とするそうですが、極楽寺もこの寺も鎌倉を囲む山の外側に造られています。
奈良・平安時代の、朝廷や貴族に取り込まれてしまった宗教活動から逃れ、鎌倉仏教といわれる新しい教義を広めるために訪れたこの地でしたが、国の定めに反して戒律(仏教で守るべき道徳規範や規則)を授けるなどの行為をとがめられた過去があるために、鎌倉の山の内側には入れてもらえなかった、という思いが強くなりました(関心のある方は極楽寺の項をご覧下さい)。
上写真手前が「反橋」、奧に「平橋」が続きますが、その掛け替え工事が2009年4月に完了し、完成後の姿を初めて目にしました。
歴史的建造物の修復・復元工事を目にしていつも感心するのは、歴史の中で何度となく繰り返されてきた工事の度に、造られた時点の「匠の技」を学習・研究しながら、その技術を再現することで「技術が継承され」「伝統が重ねられていく」という行為の素晴らしさに、頭が下がると思うからです。
そこに、工夫を加えることから「新たな技」というものが生み出され、それを形として残すことで、未来に託していくことができます。
そんな現場では、どの時代でも職人が腕をふるっていると思われ、「いい仕事してますねぇ〜」と後の時代の職人が感服し、職人魂に火がついたりするのだと思われます……
金沢文庫(Map)
本施設の設立時期は不明のようですが、金沢北条氏である北条実時(ほうじょうさねとき)により収集された、和書・漢書を保管する書庫とされたのが始まりで、私設図書館としては日本では初期のものになるそうです。
鎌倉幕府の滅亡後は、上述の称名寺が管理を引き継いだそうです。
明治時代、伊藤博文等の力により「金沢文庫」として称名寺に再建されるも、関東大震災の被害に遭い、1930年に神奈川県の文化施設として再建されたそうです。
展示スペースは広くありませんが、地元・鎌倉・横浜・三浦等に関するローカルな展示を、積極的に企画してくれる施設になります。
歴史的には「かねさわぶんこ」と読まれたそうですが、現在では自治体や最寄りとなる京浜急行の駅名も「かなざわぶんこ」とされています。
ちなみに、ガキの頃遊びで、口の両脇に指を入れて横に広げて「かなざわぶんこ」(「ぶ」が発音できないことを笑う)と言ったりしていました(そんな遊びって、各地にあったのではないでしょうか? やってみれば、その理由が分かると思います)。
上写真(奧)が正面になると思うのですが、わたしはいつも右写真の、称名寺からつながっているトンネルから入ってしまいます。
上述のように、以前は称名寺が主だったと思われますし、風情もこちらの方が好きです。
海の公園(Map)
かつては「金沢八景」(景勝地が八つある)と称され、浮世絵などにも描かれる風光明媚な地でしたが、埋め立てによってそんな情景も失われてしまいました。
それでも、住民の要望なのでしょう、横浜市内唯一の人工砂浜が造られ、多くの人が集まる場所になりました。
付近一帯の埋め立て(かなり広大な面積)には、市内の開発で山を削った土を使用したそうです。
その「転用」(有効活用)が横浜市の自慢だったりするようです。
近ごろ砂浜では、潮干狩りができるようになり、入漁料を取らないため商業的な漁が増えてしまい、問題視されているそうです。
東京湾ですから、特に水がキレイなわけではありませんが、埋め立て以前(ガキの頃)には、ハゼ釣りや、潮干狩りに来た記憶がありますから、魚介類が生息しやすい環境であることは、むかしから変わらないのかも知れません。
横浜フィッシャーマンズマリーナ(Map)
予定としては、もっと奥まった場所にある、柴(しば)漁港を歩くつもりだったのですが、砂浜に目を向けている間に通り過ぎてしまいました……
大きめの網を使った漁や、釣り船などの基地になっているそうです。
ここは、港の出口付近にあるマリーナです。
夏休みなのに、ほとんどの船は出ていないように見えます。夏場は昼間ではなく、涼しくなってから出かけるのかも知れません。
夕刻から日没にかけての海って気持ちいいですものね……
このすぐ隣に温浴施設があり、立ち寄ったことがありますが、広くないせいか、とても混雑していた記憶があります。
施設の中に、腰掛けたイスの下から、ウォシュレットのように温水が吹き上がるものがあり、その刺激に思わず、あられもない声を上げてしまったことを、思い出しました……
八景島シーパラダイス(Map)
ここは、水族館やアトラクション等の施設を利用しなければ入園料等は取られません。
なので、混雑している入口の前で引き返すこともできたのですが、ここまで来てイルカたちにあいさつもしないで帰るわけにはいかないと、覚悟して足を踏み入れました。
しかし、水族館なのに「人間観察館」(魚たちが人の多さに驚くのでは?)のような状況には閉口させられました……
もう、中に入ったら引き返せないほどの人の群れに、「早く出してくれ!」という状況です。お盆休みの土曜日では、仕方ないでしょうねぇ(イルカたちのショーはパスしました)。
次回は京都同様、人出の少ない寒い季節にしようと思います。
初めからここだけを見れば良かったんですね。
下写真は「ドルフィン ファンタジー」という、イルカやベルーガ(シロイルカ)の水槽がある独立した施設で、混雑するもまだ身動きが取れます。
これまでの動物写真を振り返るまでもなく、イルカの写真が圧倒的に多いことは自覚しています。
写真を撮るにはまず、動物園や水族館で多く見ることが出来る動物であること(ペンギン、イルカ)が上げられます。
また、比較的自然光での撮影が可能な場所で飼育されていることも、重要になります。
しかし結局は、会わずには帰れない存在なのですから、好きなのでしょうし、正直「イルカにのりたいオヤジ」と、言えると思います……
むかしの海外TV番組「わんぱくフリッパー」ってご存知でしょうか?
ガキの時分は現在とは違って、イルカを目にできても(ショーのイルカだけ)触れあえる機会は皆無だったことから、次第に関心が薄れていきました。
ですが近ごろ、イルカと近くで接する機会が増えたおかげで、とてもフレンドリーな存在に思えるようになり、フリッパーの姿がよみがえってくるようになりました。
あの目を見ると、こちらからは決して裏切れない、などと勝手に思い込んでしまうのかも知れません……
この晩は八景島で、8月22日には海の公園で花火大会が行われるそうです。
日差しのあるうちから場所取りをする方々が大勢いました。
「金沢八景」と親しまれた景勝地を埋め立て大規模な造成を行った事は、反対の声も多かったでしょうし、財政の負担も大きかったと思われます。
それでも近場に、水族館・遊園地、ビーチバレーのできる砂浜、バーベキュー施設のある海浜公園があることは、利用者には魅力的であることを、この日の盛況ぶりから理解できた気がします。
ここが「安・近・短 夏休みのミカタ」であることは確かなようです……
●多摩川「の」花火大会──8月22日(おまけ)
撮れるのだろうかとチャレンジのつもりでしたが、良くはありませんが何となく撮ることができました。
二子玉川付近の多摩川を挟んだ東京都側では「たまがわ花火大会(世田谷区)」、神奈川県側では「多摩川花火大会(川崎市)」が、同日の同時刻に行われます。
これまで「共催」と思っていたのですが、そうではないようで、あくまでも自分たちの「主催」をアピールし合いたいようです。
打ち上げ地点も600m程度しか離れていませんし、だったら競演もしくは両岸の対抗戦のようなスタイルにしたら、もっと盛り上がるようにも思われるのですが……
──自宅近くの丸子橋付近で見たので、細かい様子などは分かりません。
花火見物に向かう人々の流れというものには(皆さんウキウキ歩いています)、むかしと変わらない風情があると感じられました。
一瞬ですが「ボクの夏休み気分」に浸れると言うか、ガキの頃にタイムスリップしたような印象がよみがえったような気がして、とてもほのぼのとした気分にさせてもらいました……
【神奈川県】
関東地方では、お盆休みの週にようやく「夏らしさ」が訪れた、という印象があります。
しかしそれは、北の高気圧がもたらす気候の安定であり、「高い空や雲」と表現される、秋の気配が感じられる晴天です。
お盆前までは、蒸し暑い日が続くも「日照不足」を実感する天候でした。
農作物の生育には「もっと日差しを!」となりますが、そのためには「猛暑日を覚悟せよ」ということになるのでしょうか……
「夏の太平洋高気圧」はどこへ行ってしまったのでしょう?
エルニーニョ等、地球規模での気候変動の一端を体感した夏だったような気がします。
今回から神奈川県に戻り、三浦半島方面を攻めようと考えています。
現在の金沢八景付近は、かつて六浦(むつうら or むつら)として名が通る、東京湾の港町として栄えたそうです。
古くは六浦荘と呼ばれる京都仁和寺の荘園とされていて、おそらく製塩業がそのメインと思われ、塩田は明治時代まで続いたそうです。
鎌倉時代に、鎌倉とこの地を結ぶ六浦道の開削が行われ朝比奈切通しが開通し、鎌倉の水運の要とされました(鎌倉の和賀江島にも桟橋が作られましたが、良港とは言えなかったようです)。
称名寺(Map)
このお寺は、現在の金沢文庫に隣接しています。
鎌倉時代の北条氏(幕府の執権職)一族である金沢(かねさわ)北条氏が開き、一族の菩提寺とされますが、幕府滅亡とともに金沢北条氏も滅び、寺も衰退してしまいます。
真言律宗のお寺で、以前紹介した極楽寺を起源とするそうですが、極楽寺もこの寺も鎌倉を囲む山の外側に造られています。
奈良・平安時代の、朝廷や貴族に取り込まれてしまった宗教活動から逃れ、鎌倉仏教といわれる新しい教義を広めるために訪れたこの地でしたが、国の定めに反して戒律(仏教で守るべき道徳規範や規則)を授けるなどの行為をとがめられた過去があるために、鎌倉の山の内側には入れてもらえなかった、という思いが強くなりました(関心のある方は極楽寺の項をご覧下さい)。
上写真手前が「反橋」、奧に「平橋」が続きますが、その掛け替え工事が2009年4月に完了し、完成後の姿を初めて目にしました。
歴史的建造物の修復・復元工事を目にしていつも感心するのは、歴史の中で何度となく繰り返されてきた工事の度に、造られた時点の「匠の技」を学習・研究しながら、その技術を再現することで「技術が継承され」「伝統が重ねられていく」という行為の素晴らしさに、頭が下がると思うからです。
そこに、工夫を加えることから「新たな技」というものが生み出され、それを形として残すことで、未来に託していくことができます。
そんな現場では、どの時代でも職人が腕をふるっていると思われ、「いい仕事してますねぇ〜」と後の時代の職人が感服し、職人魂に火がついたりするのだと思われます……
金沢文庫(Map)
本施設の設立時期は不明のようですが、金沢北条氏である北条実時(ほうじょうさねとき)により収集された、和書・漢書を保管する書庫とされたのが始まりで、私設図書館としては日本では初期のものになるそうです。
鎌倉幕府の滅亡後は、上述の称名寺が管理を引き継いだそうです。
明治時代、伊藤博文等の力により「金沢文庫」として称名寺に再建されるも、関東大震災の被害に遭い、1930年に神奈川県の文化施設として再建されたそうです。
展示スペースは広くありませんが、地元・鎌倉・横浜・三浦等に関するローカルな展示を、積極的に企画してくれる施設になります。
歴史的には「かねさわぶんこ」と読まれたそうですが、現在では自治体や最寄りとなる京浜急行の駅名も「かなざわぶんこ」とされています。
ちなみに、ガキの頃遊びで、口の両脇に指を入れて横に広げて「かなざわぶんこ」(「ぶ」が発音できないことを笑う)と言ったりしていました(そんな遊びって、各地にあったのではないでしょうか? やってみれば、その理由が分かると思います)。
上写真(奧)が正面になると思うのですが、わたしはいつも右写真の、称名寺からつながっているトンネルから入ってしまいます。
上述のように、以前は称名寺が主だったと思われますし、風情もこちらの方が好きです。
海の公園(Map)
かつては「金沢八景」(景勝地が八つある)と称され、浮世絵などにも描かれる風光明媚な地でしたが、埋め立てによってそんな情景も失われてしまいました。
それでも、住民の要望なのでしょう、横浜市内唯一の人工砂浜が造られ、多くの人が集まる場所になりました。
付近一帯の埋め立て(かなり広大な面積)には、市内の開発で山を削った土を使用したそうです。
その「転用」(有効活用)が横浜市の自慢だったりするようです。
近ごろ砂浜では、潮干狩りができるようになり、入漁料を取らないため商業的な漁が増えてしまい、問題視されているそうです。
東京湾ですから、特に水がキレイなわけではありませんが、埋め立て以前(ガキの頃)には、ハゼ釣りや、潮干狩りに来た記憶がありますから、魚介類が生息しやすい環境であることは、むかしから変わらないのかも知れません。
横浜フィッシャーマンズマリーナ(Map)
予定としては、もっと奥まった場所にある、柴(しば)漁港を歩くつもりだったのですが、砂浜に目を向けている間に通り過ぎてしまいました……
大きめの網を使った漁や、釣り船などの基地になっているそうです。
ここは、港の出口付近にあるマリーナです。
夏休みなのに、ほとんどの船は出ていないように見えます。夏場は昼間ではなく、涼しくなってから出かけるのかも知れません。
夕刻から日没にかけての海って気持ちいいですものね……
このすぐ隣に温浴施設があり、立ち寄ったことがありますが、広くないせいか、とても混雑していた記憶があります。
施設の中に、腰掛けたイスの下から、ウォシュレットのように温水が吹き上がるものがあり、その刺激に思わず、あられもない声を上げてしまったことを、思い出しました……
八景島シーパラダイス(Map)
ここは、水族館やアトラクション等の施設を利用しなければ入園料等は取られません。
なので、混雑している入口の前で引き返すこともできたのですが、ここまで来てイルカたちにあいさつもしないで帰るわけにはいかないと、覚悟して足を踏み入れました。
しかし、水族館なのに「人間観察館」(魚たちが人の多さに驚くのでは?)のような状況には閉口させられました……
もう、中に入ったら引き返せないほどの人の群れに、「早く出してくれ!」という状況です。お盆休みの土曜日では、仕方ないでしょうねぇ(イルカたちのショーはパスしました)。
次回は京都同様、人出の少ない寒い季節にしようと思います。
初めからここだけを見れば良かったんですね。
下写真は「ドルフィン ファンタジー」という、イルカやベルーガ(シロイルカ)の水槽がある独立した施設で、混雑するもまだ身動きが取れます。
これまでの動物写真を振り返るまでもなく、イルカの写真が圧倒的に多いことは自覚しています。
写真を撮るにはまず、動物園や水族館で多く見ることが出来る動物であること(ペンギン、イルカ)が上げられます。
また、比較的自然光での撮影が可能な場所で飼育されていることも、重要になります。
しかし結局は、会わずには帰れない存在なのですから、好きなのでしょうし、正直「イルカにのりたいオヤジ」と、言えると思います……
むかしの海外TV番組「わんぱくフリッパー」ってご存知でしょうか?
ガキの時分は現在とは違って、イルカを目にできても(ショーのイルカだけ)触れあえる機会は皆無だったことから、次第に関心が薄れていきました。
ですが近ごろ、イルカと近くで接する機会が増えたおかげで、とてもフレンドリーな存在に思えるようになり、フリッパーの姿がよみがえってくるようになりました。
あの目を見ると、こちらからは決して裏切れない、などと勝手に思い込んでしまうのかも知れません……
この晩は八景島で、8月22日には海の公園で花火大会が行われるそうです。
日差しのあるうちから場所取りをする方々が大勢いました。
「金沢八景」と親しまれた景勝地を埋め立て大規模な造成を行った事は、反対の声も多かったでしょうし、財政の負担も大きかったと思われます。
それでも近場に、水族館・遊園地、ビーチバレーのできる砂浜、バーベキュー施設のある海浜公園があることは、利用者には魅力的であることを、この日の盛況ぶりから理解できた気がします。
ここが「安・近・短 夏休みのミカタ」であることは確かなようです……
●多摩川「の」花火大会──8月22日(おまけ)
撮れるのだろうかとチャレンジのつもりでしたが、良くはありませんが何となく撮ることができました。
二子玉川付近の多摩川を挟んだ東京都側では「たまがわ花火大会(世田谷区)」、神奈川県側では「多摩川花火大会(川崎市)」が、同日の同時刻に行われます。
これまで「共催」と思っていたのですが、そうではないようで、あくまでも自分たちの「主催」をアピールし合いたいようです。
打ち上げ地点も600m程度しか離れていませんし、だったら競演もしくは両岸の対抗戦のようなスタイルにしたら、もっと盛り上がるようにも思われるのですが……
──自宅近くの丸子橋付近で見たので、細かい様子などは分かりません。
花火見物に向かう人々の流れというものには(皆さんウキウキ歩いています)、むかしと変わらない風情があると感じられました。
一瞬ですが「ボクの夏休み気分」に浸れると言うか、ガキの頃にタイムスリップしたような印象がよみがえったような気がして、とてもほのぼのとした気分にさせてもらいました……
2009/08/03
国境が見えてくる──海フェスタよこはま
2009.7.25
【神奈川県】
横浜港では現在「開国博Y150」が開かれており、関連イベントの「海フェスタよこはま」において、この日は南極観測船「しらせ」等の一般公開があったので、足を運びました(前週は帆船が集まったそうです)。
一般公開という催しは広報活動の一環ですから、乗船員の方々がガイドしてくれます(コンパニオンはいません)。
慣れない説明はたどたどしくもありますが、実直に接してくれるので、気が散ることもありません(?)。
開国博Y150会場(Map)
横浜港開港150周年を記念した博覧会には別会場もありますが、港付近では、おおよそこんな程度の敷地で開かれています(上写真の真ん中右の高い木の下に機械じかけの巨大クモが見えます)。
150年というものがどんな区切りなのかは分かりませんが、江戸末期の開港からわずか150年で現在の姿となったことには、驚かざるを得ません。
この先も、もちろん変化していくのでしょうが、周辺一帯が全部みなとみらい地区のようになってしまうのは、見たくないと思います。
測量船 拓洋──海上保安部ふ頭(Map)
この船は、海底の測量(深さや地形探査)、海底の地質調査(海底下の地質探査)、海洋調査(海水調査)等を行う、海上保安庁に所属する測量船になります。
大学卒業後、最初に就いた仕事が海洋測量・調査の仕事だったので、当時は「こんな船が使えたら楽なのに」と思ったものでした。
でも、この船は外洋向けに造られた船ですから、一度出航すると何ヶ月も大海原の中を、行ったり来たりすることになると思われます。
──海洋調査は、調査対象海域の全域にわたって計画された、行もしくは列状の測線沿いに船を走らせて、データを収集します。
わたしが携わった沿岸の測量では、海が荒れれば休めますが、外洋でそんなことは言ってられないので、交代制で連日24時間続けられることでしょう。
そう言えば、国連に提出する大陸棚延長申請(日本が主権を主張できる水域の拡張)のための調査任務があるわけで、こんなところでこびを売ってる場合じゃないはず……
と思ったら、その提出期限は今年の5月だったそうです。だから骨休めができるんですね。
大陸棚とは(細則が多々ありますが)基本的に、海に面した沿岸国の領海の基線から200カイリ(約370km)までの管轄権を認めるとした「国際連合海洋法条約(1994年発効)」によるもので、この場合は地形学上の分類ではありません。
それは、よく耳にする「排他的経済水域」と表現され、その水域における開発等の権利をその国が有することになります。
──中国による東シナ海の油田開発は、両国が主張する排他的経済水域の境界付近で行われているため、問題視されています。
これまで設定された水域の外側でも、条約にある条件をクリアすれば、管轄水域の拡張が可能であることが示されたので、そのデータ収集のために、この船は懸命に走り回ったことと思われます。
日本が申請した拡張水域の面積は、国土の2倍の面積に当たるそうですから、しっかりやってもらいたいと思っていました。
これもある意味、科学技術の社会(国家)貢献ですから、そんな仕事をやってみたかった気もします(今さらねぇ……)。
右写真奧のオレンジ色のケーブルはストリーマーケーブルと言って、海底下の地層探査に使用されるエアガン(圧縮した空気を水中で瞬時に放出することで音波を発生させ、海底下からの反射音により地質の違いを調べる装置)の受信装置で、船尾から金魚のフンのように曳航するものです。
この船のようにウインチがあればいいのですが、手で扱うと重いのよ!
そんな懐かしさから撮って来ました。
海上保安庁 横浜海上防災基地(Map)
ここは、赤レンガパークに隣接しており、以前紹介した北朝鮮工作船展示館がある場所になります。
普段は入ることの出来ない建物に、人々が足を運ぶのでつられて入ってみると、「海猿」(海難救助の潜水士)たちの訓練施設(プール)がいくつもあり、ここで訓練しているのか!? と食いつきました。
ここでの訓練内容や、使命についてはTV・映画の「海猿」を観た方は理解されていると思いますが、そんな画面の中の光景が、目の前で公開訓練として繰り広げられていました。
本当にあの職務は「使命感」以外の何ものでもないと、頭が下がる思いです……
使用していないプールの水面には、訓練中に出たと思われるゴミが浮いてたりしましたが、ここはスイミングプールではないので、それも訓練の一部なのかと思ったりします。
でもここに勤務する隊員たちは、東京湾が管轄ですから最も多忙でしょうけれど、中華街まで歩いて行けるのだから、職場環境としてはとても恵まれているように思われます。
これから本格的な夏を迎えますので、海辺のレジャーに出かける際には、海の「もしも」は118番(海上保安庁)をお忘れなく。
南極観測船 しらせ──大桟橋(Map)
一般的な名称として「南極観測船」と呼ばれていますが、運行管理をしている海上自衛隊では「砕氷艦」と呼ばれています。
主に、南極地域観測隊の輸送に使用されますが、船自体は研究目的ではなく、南極への部隊派遣のために保有されているようです。
極地での自衛隊活動のために造られた船ですから、さしずめ極地向け「サンダーバードX号」という性格でしょうか?(ネタ元自体が古くてスミマセン)
ちなみに英語表記は「Icebreaker SHIRASE」です。
これまで南極観測隊を輸送した船には、宗谷(1956~1965)、ふじ(1965~1983)、初代しらせ(1983~2008)がありますが、予算措置の遅れから2代目しらせは、2009年の5月に完成しました(船内を歩くとまだペンキのにおいがプンプンしてきます)。
その空白期間となった2008年度は、オーストラリアの民間砕氷船をチャーターしたそうです。
借りて事が済むのであれば、それでいい気もしますが、国際貢献や将来の南極開発において、砕氷船を持たない国に権利は与えられない、ことも考えられますから、やはり国家の事業として続けるべきと思われます。
ですがこの先、温暖化が進んだ時代には、氷の溶け方やそのスピードの監視任務が重要になったりするかも知れません。
当初の研究目的とは違うものの、それも国際貢献とされる時代を想像すると、ちょっと悲しい気がしますが、それも極地研究に違いありません……
上写真は、雪上車を降ろすために使われるクレーンだそうで、そんな説明を聞いただけでも気持ちは南極に飛んでいくのですが、それだけでは汗は引きませんよね。
引退した初代しらせの保存展示等の公募には、維持費用がかかる理由などから応募がなく、スクラップにされることが決定しましたが、鉄くず価格の下落から先送りされ、海上自衛隊横須賀基地内に係留されているそうです。
現代では当然かも知れませんが、広告・宣伝用の予算がなくては、夢も伝えられない時代であると、実感してしまいます……
この船にもさまざまな設備があるようですが、調整中なのか船内にはほとんど入ることも出来ず、ちょっとガッカリです。
もう一つの関心事である砕氷用設備ですが、船首付近にある「融雪用散水装置」から水をまくことで、氷の上に積もった雪による抵抗を軽減するもの、だけのようです。
●砕氷のしくみ(配布パンフレットより)
1 連続砕氷
氷厚約1.5mまでの氷は、強力な推進力で連続的に砕氷して前進します。
2 ラミング(チャージング)砕氷
氷厚約1.5m以上の氷は、いったん艦を200〜300m後進させ、最大馬力で前進し、氷に乗り上げ、艦の自重で氷を砕きます。
とあります。
説明内容はよく理解できますが、何とも素っ気ない表現なので、何だか夢がしぼんでいく気がしました。
この船にまつわる事柄には飾り立てるものはないが、任務はキッチリ遂行します、という意志の表れであると理解しましょう。
部外者は勝手な想像から、夢やロマンを描いてしまうようです……
護衛艦 きりしま──大桟橋(Map)
順番待ちから、「しらせ」→「きりしま」と、見学のルートが決められていたので、そんな人の流れのままに見せてもらいました。
護衛艦という響きには、主(あるじ)を守る役割という印象がありますが、空母(主)を持たない日本においては、主力の軍艦になるそうです(主は米軍になるのでしょう)。
この艦(かん:軍艦に使う名称)は、2009年4月北朝鮮からのテポドン発射に備えて太平洋に展開した「イージス艦」になります。
──イージス艦とはイージスシステムを搭載した艦艇で、同時に多数の空中目標を捕捉し、これらと交戦できる装備を搭載している艦になります。
となれば、米軍との連携のために当然、ミサイル迎撃用の「トマホークミサイル」を積んでいます。
下写真が発射口になります。数えませんでしたが、この後部甲板だけでなく、前方の甲板にも同様の発射口がありました。
一体、何発ミサイルを積んでいるんだ? という印象ですが、実際の迎撃の場面で失敗は許されないでしょうから、多いに越したことはないのかも知れません。
何十発発射しようが、ひとつでも当たれば「perfect」と評価されるのでしょうから……
これまで、米軍基地を巡り歩いて文句を並べてきたくせに、テポドンが発射されると聞いた途端に「打ち落としてやれ!」と、急変して軍隊を応援する自分がいます。
また、排他的経済水域の件に触れた途端に、急にナショナリスト(愛国主義者)的な思考を始めたりします。
アジア以外の海外の国からの「軍隊を持たぬ平和主義国家」という認識は、島国に住むわたしたちの「鈍感さ」ゆえに生まれた誤解ではないかと思ったりします。
自分の意識の中で「平和主義」を訴えていながらも、明確な敵を認識した瞬間に、羊の皮を脱ぎ捨てて豹変する民族なのかも知れないことを、否定できない気がしました(防衛本能は生き物として当然の行為ですが……)。
わたしたちは、他国を侵略したり脅威を与えるようなオオカミにはなりませんが、必要に迫られたら、いくら「鈍感な日本人」でも、自国を守るためには立ち上がると思われます。
その時、どのように国民感情をコントロールすることが出来るのか? ということが、わたしたちの課題であると思われます。
余談ですが、長期の遠洋航海等においては、乗員に曜日感覚を持たせるために、毎週金曜日には海軍カレーが出されるのだそうです。
休みの前日を知らせる意味もあるそうですが、洋上では休める人も半分以下と思われます……
【神奈川県】
横浜港では現在「開国博Y150」が開かれており、関連イベントの「海フェスタよこはま」において、この日は南極観測船「しらせ」等の一般公開があったので、足を運びました(前週は帆船が集まったそうです)。
一般公開という催しは広報活動の一環ですから、乗船員の方々がガイドしてくれます(コンパニオンはいません)。
慣れない説明はたどたどしくもありますが、実直に接してくれるので、気が散ることもありません(?)。
開国博Y150会場(Map)
横浜港開港150周年を記念した博覧会には別会場もありますが、港付近では、おおよそこんな程度の敷地で開かれています(上写真の真ん中右の高い木の下に機械じかけの巨大クモが見えます)。
150年というものがどんな区切りなのかは分かりませんが、江戸末期の開港からわずか150年で現在の姿となったことには、驚かざるを得ません。
この先も、もちろん変化していくのでしょうが、周辺一帯が全部みなとみらい地区のようになってしまうのは、見たくないと思います。
測量船 拓洋──海上保安部ふ頭(Map)
この船は、海底の測量(深さや地形探査)、海底の地質調査(海底下の地質探査)、海洋調査(海水調査)等を行う、海上保安庁に所属する測量船になります。
大学卒業後、最初に就いた仕事が海洋測量・調査の仕事だったので、当時は「こんな船が使えたら楽なのに」と思ったものでした。
でも、この船は外洋向けに造られた船ですから、一度出航すると何ヶ月も大海原の中を、行ったり来たりすることになると思われます。
──海洋調査は、調査対象海域の全域にわたって計画された、行もしくは列状の測線沿いに船を走らせて、データを収集します。
わたしが携わった沿岸の測量では、海が荒れれば休めますが、外洋でそんなことは言ってられないので、交代制で連日24時間続けられることでしょう。
そう言えば、国連に提出する大陸棚延長申請(日本が主権を主張できる水域の拡張)のための調査任務があるわけで、こんなところでこびを売ってる場合じゃないはず……
と思ったら、その提出期限は今年の5月だったそうです。だから骨休めができるんですね。
大陸棚とは(細則が多々ありますが)基本的に、海に面した沿岸国の領海の基線から200カイリ(約370km)までの管轄権を認めるとした「国際連合海洋法条約(1994年発効)」によるもので、この場合は地形学上の分類ではありません。
それは、よく耳にする「排他的経済水域」と表現され、その水域における開発等の権利をその国が有することになります。
──中国による東シナ海の油田開発は、両国が主張する排他的経済水域の境界付近で行われているため、問題視されています。
これまで設定された水域の外側でも、条約にある条件をクリアすれば、管轄水域の拡張が可能であることが示されたので、そのデータ収集のために、この船は懸命に走り回ったことと思われます。
日本が申請した拡張水域の面積は、国土の2倍の面積に当たるそうですから、しっかりやってもらいたいと思っていました。
これもある意味、科学技術の社会(国家)貢献ですから、そんな仕事をやってみたかった気もします(今さらねぇ……)。
右写真奧のオレンジ色のケーブルはストリーマーケーブルと言って、海底下の地層探査に使用されるエアガン(圧縮した空気を水中で瞬時に放出することで音波を発生させ、海底下からの反射音により地質の違いを調べる装置)の受信装置で、船尾から金魚のフンのように曳航するものです。
この船のようにウインチがあればいいのですが、手で扱うと重いのよ!
そんな懐かしさから撮って来ました。
海上保安庁 横浜海上防災基地(Map)
ここは、赤レンガパークに隣接しており、以前紹介した北朝鮮工作船展示館がある場所になります。
普段は入ることの出来ない建物に、人々が足を運ぶのでつられて入ってみると、「海猿」(海難救助の潜水士)たちの訓練施設(プール)がいくつもあり、ここで訓練しているのか!? と食いつきました。
ここでの訓練内容や、使命についてはTV・映画の「海猿」を観た方は理解されていると思いますが、そんな画面の中の光景が、目の前で公開訓練として繰り広げられていました。
本当にあの職務は「使命感」以外の何ものでもないと、頭が下がる思いです……
使用していないプールの水面には、訓練中に出たと思われるゴミが浮いてたりしましたが、ここはスイミングプールではないので、それも訓練の一部なのかと思ったりします。
でもここに勤務する隊員たちは、東京湾が管轄ですから最も多忙でしょうけれど、中華街まで歩いて行けるのだから、職場環境としてはとても恵まれているように思われます。
これから本格的な夏を迎えますので、海辺のレジャーに出かける際には、海の「もしも」は118番(海上保安庁)をお忘れなく。
南極観測船 しらせ──大桟橋(Map)
一般的な名称として「南極観測船」と呼ばれていますが、運行管理をしている海上自衛隊では「砕氷艦」と呼ばれています。
主に、南極地域観測隊の輸送に使用されますが、船自体は研究目的ではなく、南極への部隊派遣のために保有されているようです。
極地での自衛隊活動のために造られた船ですから、さしずめ極地向け「サンダーバードX号」という性格でしょうか?(ネタ元自体が古くてスミマセン)
ちなみに英語表記は「Icebreaker SHIRASE」です。
これまで南極観測隊を輸送した船には、宗谷(1956~1965)、ふじ(1965~1983)、初代しらせ(1983~2008)がありますが、予算措置の遅れから2代目しらせは、2009年の5月に完成しました(船内を歩くとまだペンキのにおいがプンプンしてきます)。
その空白期間となった2008年度は、オーストラリアの民間砕氷船をチャーターしたそうです。
借りて事が済むのであれば、それでいい気もしますが、国際貢献や将来の南極開発において、砕氷船を持たない国に権利は与えられない、ことも考えられますから、やはり国家の事業として続けるべきと思われます。
ですがこの先、温暖化が進んだ時代には、氷の溶け方やそのスピードの監視任務が重要になったりするかも知れません。
当初の研究目的とは違うものの、それも国際貢献とされる時代を想像すると、ちょっと悲しい気がしますが、それも極地研究に違いありません……
上写真は、雪上車を降ろすために使われるクレーンだそうで、そんな説明を聞いただけでも気持ちは南極に飛んでいくのですが、それだけでは汗は引きませんよね。
引退した初代しらせの保存展示等の公募には、維持費用がかかる理由などから応募がなく、スクラップにされることが決定しましたが、鉄くず価格の下落から先送りされ、海上自衛隊横須賀基地内に係留されているそうです。
現代では当然かも知れませんが、広告・宣伝用の予算がなくては、夢も伝えられない時代であると、実感してしまいます……
この船にもさまざまな設備があるようですが、調整中なのか船内にはほとんど入ることも出来ず、ちょっとガッカリです。
もう一つの関心事である砕氷用設備ですが、船首付近にある「融雪用散水装置」から水をまくことで、氷の上に積もった雪による抵抗を軽減するもの、だけのようです。
●砕氷のしくみ(配布パンフレットより)
1 連続砕氷
氷厚約1.5mまでの氷は、強力な推進力で連続的に砕氷して前進します。
2 ラミング(チャージング)砕氷
氷厚約1.5m以上の氷は、いったん艦を200〜300m後進させ、最大馬力で前進し、氷に乗り上げ、艦の自重で氷を砕きます。
とあります。
説明内容はよく理解できますが、何とも素っ気ない表現なので、何だか夢がしぼんでいく気がしました。
この船にまつわる事柄には飾り立てるものはないが、任務はキッチリ遂行します、という意志の表れであると理解しましょう。
部外者は勝手な想像から、夢やロマンを描いてしまうようです……
護衛艦 きりしま──大桟橋(Map)
順番待ちから、「しらせ」→「きりしま」と、見学のルートが決められていたので、そんな人の流れのままに見せてもらいました。
護衛艦という響きには、主(あるじ)を守る役割という印象がありますが、空母(主)を持たない日本においては、主力の軍艦になるそうです(主は米軍になるのでしょう)。
この艦(かん:軍艦に使う名称)は、2009年4月北朝鮮からのテポドン発射に備えて太平洋に展開した「イージス艦」になります。
──イージス艦とはイージスシステムを搭載した艦艇で、同時に多数の空中目標を捕捉し、これらと交戦できる装備を搭載している艦になります。
となれば、米軍との連携のために当然、ミサイル迎撃用の「トマホークミサイル」を積んでいます。
下写真が発射口になります。数えませんでしたが、この後部甲板だけでなく、前方の甲板にも同様の発射口がありました。
一体、何発ミサイルを積んでいるんだ? という印象ですが、実際の迎撃の場面で失敗は許されないでしょうから、多いに越したことはないのかも知れません。
何十発発射しようが、ひとつでも当たれば「perfect」と評価されるのでしょうから……
これまで、米軍基地を巡り歩いて文句を並べてきたくせに、テポドンが発射されると聞いた途端に「打ち落としてやれ!」と、急変して軍隊を応援する自分がいます。
また、排他的経済水域の件に触れた途端に、急にナショナリスト(愛国主義者)的な思考を始めたりします。
アジア以外の海外の国からの「軍隊を持たぬ平和主義国家」という認識は、島国に住むわたしたちの「鈍感さ」ゆえに生まれた誤解ではないかと思ったりします。
自分の意識の中で「平和主義」を訴えていながらも、明確な敵を認識した瞬間に、羊の皮を脱ぎ捨てて豹変する民族なのかも知れないことを、否定できない気がしました(防衛本能は生き物として当然の行為ですが……)。
わたしたちは、他国を侵略したり脅威を与えるようなオオカミにはなりませんが、必要に迫られたら、いくら「鈍感な日本人」でも、自国を守るためには立ち上がると思われます。
その時、どのように国民感情をコントロールすることが出来るのか? ということが、わたしたちの課題であると思われます。
余談ですが、長期の遠洋航海等においては、乗員に曜日感覚を持たせるために、毎週金曜日には海軍カレーが出されるのだそうです。
休みの前日を知らせる意味もあるそうですが、洋上では休める人も半分以下と思われます……
登録:
投稿 (Atom)