2009.10.11
【神奈川県】
これまでは三浦半島の東海岸(東京湾側)を歩きましたが、前回の城ヶ島を境にここからは西海岸(相模湾側)を歩きます。
そのひびきの通り、東京湾側には都市や工場施設が並んでいましたが、相模湾側には鉄道が通っていないので、半島付け根にあたる逗子まで大きな町はありません。
開発から取り残されたことをよろこぶような、のどかな漁港、相模湾に繰り出す船が係留されるマリーナやヨットハーバーが点在しています。
東京湾のような大型船の通行はないので、東京近郊の「遊べる海原」として人気の高いことがよく分かります。
天気も良かったですし、絶好の行楽日和ではありましたが……
連休の最も人出の多い日に出かけてしまったようで、帰りには大変な目に遭いました。
油壺(あぶらつぼ)マリンパーク(Map)
ここ「油壺マリンパーク」のTVCMは、ガキのころから盛んに流されていました。
立地も遠くかないませんでしたが、何度か訪れた江ノ島水族館とは違った「夢があるのでは?」とのあこがれを抱かせる場所でした。
大人になって念願かない訪れたものの(これで2度目か?)、子どもたちの海生生物への関心を高めることを目的とする施設であることに(大人になってから来る所ではないと)、落胆したものです。
ガキのころとても見たかった「計算ができる魚」のパフォーマンスが、現在でも同じ施設(イメージ)で行われていることには驚きました(下写真)。
ですが何年たっても、その場で体験しないと教えてもらえない事もあります。
下写真の現場では、「魚は計算ができるのではなく、答えの場所が分かるように、魚が認識できる赤外線を出しているんです」の説明。
その説明に「へぇ〜」と思っているオレは何?
別に知らなくても困りませんが、ガキのころにそんな驚きや、種明かしを経験していたら、ひょっとして「マリンパークがきっかけでした」という学者が生まれたかも知れません……
──ハコフグの帽子をかぶる「さかなクン」のルーツは江ノ島水族館だそうです(彼の知識量はあなどれないよね)。
施設は開設当初と変わっていないのではないか、と思われるほど「旧時代的」な印象があり、いまどきの水族館と比較するとどの施設も小さく感じられます(敷地も広くないので仕方ない)。
戦隊モノの「○○ジャー」的なアクションショーは結構人気があるようでしたが、ご勘弁。
でも入念なリハーサルをやっていました。ヒーローがケガしたら困りますものね……
そうなるとメインである、イルカとアシカのショーを見ないでは帰れません。
ここだけは広さを感じさせる、劇場のような屋内の施設になっています。
暗くてよく撮れませんでしたが、4頭が同時にジャンプする演技は迫力がありました。
ここには戦前まで海軍潜水学校があり、戦後は三崎水産高校とされますが、1968年その跡地に開園されました。
初代館長には「魚博士」とされた、末広恭雄(やすお)東大教授が招かれ、魚の行動を訓練によって演出する企画が数多く披露されたので、「サーカス水族館」と呼ばれたそうです。
ガキのころは分からないながらも、漠然と「何かスゴそう!」と感じていたのですから、その感性は敏感だったのではないでしょうか。
TVCMに踊らされていただけかも知れませんが……
荒井浜(Map)
マリンパークは高台にありますが、そこから下った海辺には、狭いながらも荒井浜という海水浴場があります。
毎年この浜では、祭りの一環として「笠懸(かさがけ)」が行われるそうです。
──笠懸とは、流鏑馬(やぶさめ)同様に、疾走する馬上から弓矢で的を射るもので、流鏑馬よりも実戦的で標的も多彩なんだそうです。
源頼朝の挙兵(鎌倉幕府の礎)に従った三浦氏が治めていた三浦半島ですが、戦国時代には北条早雲(秀吉に小田原城をあけ渡した一族の祖)に攻め込まれ、この地にあった新井城の落城とともに、三浦一族は海に投身して全滅することになります。
その際、湾内が血で染まり、まるで油を流したような状態になったことが、油壺の地名の由来とされるそうです(何だか、そんな話しを聞いちゃうと、ここでは泳げなくなりそうです)。
上述のお祭りは、その最後の当主である三浦道寸義同(どうすんよしあつ)をたたえるものだそうです。
この日は「バーベキューライブ」の催しがあり、一帯に演奏が響き渡っていました。
かなりの大音響なので、オリジナル(?)等の知らない曲をやられると、結構迷惑な騒音と感じられます。
ご主人が一緒と思いますが、女性の釣り姿ってあまり見られない気がします(下写真)。
奧に見える朽ち果てた桟橋が、城ヶ島との連絡船の発着場ではなかったか?
海岸側の堤防付近も大きく崩れていたので、それが観光船廃止の理由だったかも知れません。
ここでは、レジャーと関係なさそうな古い建物も目に入ります。
右写真は東京大学の地殻変動観測所で、もう使用されてない建物に思われますが「立ち入り禁止」なので、確認できませんでした。
ここには戦時中、特殊潜行挺(潜水可能な特攻挺もしくは、人間魚雷とされる特攻兵器)の発進地とされた地下壕があり、1947年その跡地に、地殻変動の観測所が設置されました。
現在では、東方20kmにある房総半島鋸山(のこぎりやま)に設置されている同様施設と、相互間の変動比較により,地震発生に関する地殻変動の観測をしています。
わたしも大学の卒業論文で調べましたが、すぐ近くにある油壺験潮所(海の潮位の高さを観測)では、関東大地震後に1.5m近い地盤の隆起が観測されていました。
次に起こる首都圏大地震に際して、ここを調べていれば必ず前兆がつかめるとは限りませんが、しっかりと監視してもらいたい地域のひとつです。
浜諸磯(はまもろいそ)(Map)
上写真は油壺側から、浜諸磯方面を眺めた絵です。
地図で見れば直線距離は近いのですが、その間には油壺湾、諸磯湾が切れ込んでいます。
二つの入江にはそれぞれマリーナがあり、上述の「血の海」だった湾内はヨットに埋め尽くされています。
そんな皮肉を言いたくなるのは、あこがれの裏返しであると自覚しています……(ヨット乗りたいなぁ〜)
で、この岩は何なわけ? と言われそうですが、自分でもわけは分かっていません。
でも、学生のころに出会ったこの岩壁のインパクトは、まだ残っています。
「どうなっちゃってるわけ?」と……
下側の逆Zの線から下は、一般的な地層に見受けられます。
その上部、線で囲んだ部分には地層の連続性が見受けられ、ブロックとして認識することができます。
しかしそれ以外の部分には、秩序らしきものが見られません。
おそらくこの上部の岩は、半固結の状態にあるときに、海底下で起きた土砂崩れの様子が記録されているものだと思われます。
これまで紹介した、剱崎、城ヶ島と同じように地殻変動を受けてきた地域になり、「あんかけのカタ焼きそば」や「皿うどん」のように、麺のかたまりをあんかけの具が包んでいるようなイメージでしょうか(こんな表現で伝わるのか?)。
詳細については、先斗町で飲んだ彼が所属する地質関連の学会等で研究しているそうなので、いい加減な話しはこの辺にしておきます。
この地は、三崎と油壺の間にありますが、とてものんびりとした漁港なので、釣り客くらいしか訪れない場所かも知れません。
そんな不便な場所ですが、地域の老人福祉センターがあったりします。
その送迎用のマイクロバスが走っていますが、乗り遅れたおばさんもいたようで、路線バス(京急バス)を待っています。
油壺から歩いたわたしは、15時前後に停留所に着き、バスの時刻を確認し、15:46分発のバスに間に合うように行動していました。
おばさんは15:10分発のバスに乗るつもりだったようですが、そのバスが来ないばかりか、わたしが乗る予定の46分発のバスも16時を過ぎても来る気配がありません。
そのおばさんは「前もお祭りの時に待たされたけど、いつかは来るでしょ」と長期戦の構えでした。
わたしは用事は無いにしても、いかんせん腹が減っていて、近くに食堂らしきものは見あたらないので、来た道を戻りました。
利用客の多い「油壺路線」の欠便は避けたいのでしょう、回送のバスが目の前を急いで走っていきました。
結局そのバスに乗れたのですが、そこから超満員の車内で、約1時間の大渋滞にお付き合いです……
紹介と同時に注意点を一言。くれぐれも連休中には近寄らないようにして下さいね。
それにしてもバスを待ってたおばさん、どうしたかなぁ?
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