2009.9.20
【神奈川県】
社会機能が停止している連休中に、じっとしているのもシャクなので、2日連続で出かけましたが、これで結構気が晴れました。
これまでも三浦半島を歩いてきましたが、ここからは意識的にも時間的にも、ちと遠い印象のある地域に入っていきます。
バスの運転手さんによると、三崎や城ヶ島方面は渋滞していたそうですが、この辺りは混雑しないという読みは正解でした。
剱崎(Map)
剱崎は、「つるぎざき」(旧)もしくは「けんざき」(新)と呼ばれています。
城ヶ島に近いのですが、訪れた方は多くないのではないでしょうか。
駐車場にはまま車が並んでいますが、利用者の多くは釣り客と思われます。
地名の由来としては、徳川幕府の木材船がこの沖で難破し木材共々沈んでしまい、神社の神主が海に剣を投じて祈ったことで、嵐は収まり、木材が浮び上がったことによるそうです。
でも、船や乗組員はどうなったのでしょう?
1872年(明治5年)に剱埼灯台が、1919年に房総半島の洲崎(すのさき:館山市)灯台が造られ、三浦半島のこの地と洲崎を結ぶ線を浦賀水道とし、東京湾の南限としたそうです。
映画等のカット割り的に写真を並べると、海岸からの坂道を登ると(右写真)、灯台の姿が見えてくる(下写真)、という具合でしょうか(実際につながっています)。
映画で観たような気がしますが(『ツィゴイネルワイゼン』だったか?)、詳細は思い出せません。
近ごろの海辺の写真では、トンビがよく写り込んでいますが、数が多いことは確かです。
食べ物を奪われる観光客もいるらしいいので「トンビに注意」の看板をよく目にします。
雑食性のようで、実態はカラスのようなゴミあさり等をしているようにも思われます(付近にはカラスもいます)。
ここでも「ピー、ピー」鳴いていましたが(空中ではピーヒョロロ)、聞き慣れない分「カァー」よりは新鮮に感じられます。
この地をよく訪れている理由ですが、剱崎から城ヶ島方面に向けて、「剱崎背斜」と言われる地質構造の様子が観察できることによります。
──地層の側方から大きな力が掛かった際、地層がわん曲して変形することを褶曲(しゅうきょく)と言い、その谷の部分を向斜(こうしゃ)、山の部分を背斜(はいしゃ)と言います。
地学を専攻した学生時代には、そんな変化に富んだ地質構造にとても興味を引かれ、足しげく通ったことが思い出されます。
当時、下写真の場所で「バキッと折れた地層」を目にした時には、全身に鳥肌が立っていました。
ですが今回は、太陽光が強すぎるのと、崖に木が生い茂っているため(左側の崖をフレーム切っちゃったし)、「何だかなぁ……」という写真になってしまったので、説明用の線を入れました。
盛り上がっている山の部分が、板粘土等に両側から力を加えた時に盛り上がる部分に当たります。
下側の平らな地層が折れて、山の傾斜の角度で天を仰ぎ、その頂上でまた折れて、逆の角度に折れていく(—/\_)イメージなのですが、伝わるだろうか……
わたしの観察眼も衰えたために、こんな写真しか撮れなかったと言われると、さみしい気がしてきます……
付近一帯は三浦大根畑(現在はほとんど青首大根だそう)で、冬場は一面に「緑の大地」が広がります。
多少は緑があるかと思っていたのですが、ほとんどが褐色の大地でした。
ちょうど今ごろから苗の作付けが始まったようで、所々に苗の保護用シートが張られていました。
冬の景色は壮観です!
以前はかなり起伏のある土地だったと思われる場所を、可能な限り平坦な農地に整備したおかげで、見通しがとてもいい丘陵地という印象があります。
北海道には対抗できませんが、一面に緑の葉が広がる光景を目にすると、「ワーッ」と両手を広げたくなったりします。
そんな光景が頭に浮かんでくると、「冬にまた来なければ」と思い始めてきました……
三浦海岸(Map)
高校時代の印象と思いますが、それまでは江の島・鎌倉の海しか知らなかったもので、「この海、キレイだなぁ」と感じた事がありました。
神奈川県内では三浦半島の先端付近の海が、もっともキレイな海(砂浜の白さを含め)かも知れません。
それは、最も外洋に突き出た地形によるもので、その分、湘南に比べると遠いこともあり、(湘南との比較ですが)人出も落ち着いているように思われます(道路は現在でも渋滞だらけのようですが)。
休日の交通情報で、渋滞個所としてよく耳にする湘南海沿いの「国道134号」は、ここまで続いています(横須賀〜大磯を結ぶ国道)。
都心から離れているからキレイで、遠いから人も少ない、というバランスがちょうどいい地域なのではないか、という気がしています。
また、大地や海を糧に生活している方々(専業では無いかも知れません)が多く暮らしているので、整備も行き届いていて地域には活気があります。
上写真は、カメラを構えているのに、マイペースで歩いて絵に入って来ちゃったおばあさんなので、撮らせてもらいました。
冬の海岸では「大根干し」が風物詩となっています。
特に撮影場所の西側の浜辺には多く、寒風の中砂浜を歩いていると、風にさらされる大根のように身が縮こまってきます……
以前、中学時代の幼なじみがこの辺りで暮らしていて(奥さんの実家)、海でタコを突いたり、浜辺でバーベキューしたりという話しを耳にしていました。
中でも、夏に食べるスイカ(三浦スイカとして知られる)の話しがとても印象に残っています。
自給自足ではないにしても、身近で採れた食材を近所で分け合って楽しむ文化というものが、神奈川県内で存続しているということが、何よりの驚きでした。
訪れてみれば理解できると思いますが、飾りっ気がないと言うのか、結構ストレートでも暖かい印象を受ける人々が多い海辺の町なので、気軽に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
2009/09/30
2009/09/28
黒船に背負わされた運命──久里浜
2009.9.19
【神奈川県】
黒船来航の地である浦賀と共に久里浜の地名は、ペリー一行が上陸した場所として記憶されていると思います。
ペリー来航の際、浦賀には日米双方の多くの関係者が会するための広い土地が無かったため、浜辺も広い久里浜が上陸の地に選ばれたそうです。
しかし、そんな歴史的出来事があったために、この横須賀の地は、国や軍隊の力によって翻弄(ほんろう)されていくことになります。
もともとは沼地で人も住めない土地でしたが、1660年頃の新田開発によって開かれたそうです。
新田開発を事業としていた砂村新左衛門によるそうで、彼は東京都江東区砂町の開発も行い、「砂町」の地名は彼の名前が由来とされるそうです。
平作川(ひらさくがわ)に沿って伸びる平坦地は、三浦半島においては広く、現在では工場も立ち並んでいます。
2008年8月、その工場団地にある原発燃料製造会社「グローバル・ニュークリア・フュエル・ジャパン」で放射能漏れがあったと、ニュースで知りました(そこに放射性物質を扱っている工場があったとは、知りませんでした)。
茨城県東海村で臨界事故を起こした工場もそうですが、素知らぬふりをして住宅地に隣接していたりします。
放射性物質は目に見えませんから、近隣住民の方々はまさしく「不安と隣り合わせ」と思われます。
そのような物質を取り扱う工場の立地を制限できないものか、と思ってしまいます。
前段からいきなり文句で始まってしまいスミマセン。
くりはま花の国(Map)
秋めいてきたと思ったら、もう「コスモスまつり」が始まっていました。
9月5日から10月25日まで行われているそうですが、まだ見頃は先のようです(この日は風が強く、コスモスの花が風になびいて撮れない……)。
わたしは、コスモスの季節にしか来たことはありませんが、春にはポピー園となるそうです。
よくもこんな傾斜地に公園を作ったもので、整備や手入れも大変だろうにと、ゼイゼイと坂を登りつつ感じるような立地になります。
三浦半島には、田浦梅林等の花の名所があっても、みな坂道の上にある印象があります。
比較的平地という印象のある衣笠の菖蒲園も、バスで行ったのでそんな印象があるのか? 土地柄ですから、仕方ありませんね……
それでもここは、公園施設化されていて、園内を運行するバス(フラワートレイン)や、ハーブ園には足湯があったりするので、計画を立てていれば楽しめる施設と言えます。
最も高い場所にある「冒険ランド」には、2代目「ゴジラ滑り台」があります(上写真)。
初代は、足跡のあった観音崎のたたら浜にあったそうです。ゆえに地元では「復活!」としています。
この「滑り台」かなり本気で作られていますが、市民からの募金を集め、映画を制作した東宝に作ってもらったそうです。
サイズも初代(1954年)の大きさだそうで、背後にある現代の送電線の高さには到底及ばない大きさになっています(ゴジラは、日本の高度成長に合わせて巨大化していきます)。
しかし、調べてみると初代ゴジラの体長は50mだったそうですが、この滑り台はそんなには大きくないと思います(シッポまでの長さなの?)。
久里浜火力発電所(Map)
1957年に建設が始まり、1960年の運転開始当時は、発電所の総出力が世界最大だったようで、地元の商店街では「発電もなか」という発電機形の最中がお土産として販売されたそうです。
やっとの思いで整備した農地を政府(幕府)に占領され、いつの間にか軍隊の駐屯地とされてしまい、庶民はほそぼそと漁猟等を続けるしかなかった地域にとって、発電所の建設はお祭りのようなものだったのではないでしょうか。
京浜急行久里浜駅(JRの駅もすぐ近くにあります)から海に向かうと、学校施設や公団住宅が整然と区画されている一帯があります。
その光景というか、ニオイというか、以前は米軍基地に使用されていたような印象を受けます。
第二次世界大戦まで軍隊が使用していた施設は、米軍に接収されたことは理解できますが、返還された現在でも、自衛隊の施設が点在しています。
それは、地元による自治のコントロールが、現在でも不能であり続けていることの表れと思われます。
土地を奪われ自立することがかなわなかった町とすれば、産業も育たないわけで、発電所建設に異を唱えることもできずに、現在に至っているように思えました。
外見も中身も同じには思えないかも知れませんが(本質的にはそう違わないのではと)、原発銀座と言われる福井県の若狭湾周辺を想起しておりました……
右写真は、公園と発電所に隣接する、ゴミ焼却施設の煙突になります。
上述の「花の国」は、この焼却施設建設の見返りなのでしょう……
東京湾フェリー(Map)
三浦半島の久里浜と、房総半島の金谷を結ぶフェリー航路になります。
わたしは三浦半島側の住人になるので、金谷近くにある鋸山(のこぎりやま)や南房総を目指す場合には「便利だよねぇ〜」という交通機関でした。
それが今では、東京湾アクアラインや、富津館山道路が開通しただけでなく、高速道路料金値下げの影響をモロに受ける交通機関となっています。
この先、高速料金が無料になったとしたら、おそらくやっていけないのではないでしょうか?
ここでも、時代の流れに翻弄されている様子が見て取れます。
しかし世論調査では、高速道路料金の無料化に反対する意見が、6割を超えていると耳にします。
道路建設費の返済に税金が使われることや、排気ガス増大を懸念する背景があると言われています。
「休日は1,000円で乗り放題」に、狂喜して連休には渋滞を生み出した、ちょっと単純なわたしたちですが、この調査結果には、国民の冷静さがうかがわれると思います。
国民をなめていた前政権の策に踊らされながらも、その上を示唆した現政権に「待った!」をかける世論に対して、どのような修正をしていくのでしょうか?
フェリー会社の関係者でなくても、とても関心のある問題です。
ペリー公園(Map)
黒船船団を率いた、マシュー・カルブレイス・ペリーは、1853年浦賀沖に停泊し、幕府が指定したこの地に上陸したとされます(右写真は公園に立てられた記念碑の裏面)。
──脱線しますが、ペリーのフルネームをここで知り、以前深夜番組で藤井隆がやっていた「マシュー」のモデルは、ペリーなのでは? と思った次第です(カツラは金髪でしたが)。
最初の来日では、米大統領の親書を渡すことが目的とされますが、翌1854年には現在の横浜市において、日米和親条約の調印を実現させます。
それは、徳川家光以来200年以上続いた鎖国が解かれた事を意味します。
伝えによるとペリーは、高圧的な態度を取る人物だったそうで、声が熊のような大声だったこともあり、船員の間では「熊おやじ」呼ばれていたそうです。
それ以来、この地域の軍事都市化が推進され、横須賀全域で軍事施設の建設が進められることになります。
1938年に、現在の久里浜駐屯地の前身である海軍通信学校が開校、1942年に現在の京急久里浜駅が開業し、1944年に軍事目的とされるJR横須賀線久里浜駅が開業します(JRの駅はローカルな風情があってとても好きです)。
米軍から返還後は、一部が学校や、工業団地等に転用されますが、依然として法務省、国土交通省、自衛隊など国の施設(火力発電所等)や、研究所に使用されています。
この地でも、再開発〜マンションやショッピングセンターが作られていますが、どうも土地のプライド的なものを感じることができません。
浦賀のような地元神社の祭りではなく、観光向けと思われるような「ペリー祭り」の宣伝を目にしました……
土地独自の歴史を重ねられなかった経緯というものは、取り返せないかも知れませんが、これからのビジョンが大切なのではないでしょうか。
前述の平作川河口に伸びる堤防になります。
以前は、左の電柱(簡易的航路標識)が木製でとても風情があったのですが、さすがに取り替えられたようです。
電柱まで歩いて行けたのですが、この日は潮の影響でしょうか波をかぶっています。この地の地盤が沈降していなければいいのですが……
──関東大地震前に三浦半島では地盤が沈下していたという記録を目にしたことがあります。
何だか文句ばかり書いてきましたが、銭湯に入ったこともあるし、「あの店は無くなった」等、印象としてはあれこれ残っているので、結構な回数訪れているのだと思います。
好きだから苦言ばかり言ってるのだろうか……
P.S. 日本の新しいファーストレディはアメリカで、「ここがわたしの舞台よ!」のようなパフォーマンスを見せてくれました。実に頼もしい限りです。
あれくらいのアピールをして、ようやく海外に認められることは、ご本人が一番理解しているのだと思われます。
それを「宇宙人」などと表現する日本人の、「大和撫子」信奉(わたしにもあります)は、完全に過去の遺物と化しているようです……
「タカラジェンヌ」という経歴を英語で何と表現するのでしょうか?
「ダンサー」とか言われたら、どうしましょう……
【神奈川県】
黒船来航の地である浦賀と共に久里浜の地名は、ペリー一行が上陸した場所として記憶されていると思います。
ペリー来航の際、浦賀には日米双方の多くの関係者が会するための広い土地が無かったため、浜辺も広い久里浜が上陸の地に選ばれたそうです。
しかし、そんな歴史的出来事があったために、この横須賀の地は、国や軍隊の力によって翻弄(ほんろう)されていくことになります。
もともとは沼地で人も住めない土地でしたが、1660年頃の新田開発によって開かれたそうです。
新田開発を事業としていた砂村新左衛門によるそうで、彼は東京都江東区砂町の開発も行い、「砂町」の地名は彼の名前が由来とされるそうです。
平作川(ひらさくがわ)に沿って伸びる平坦地は、三浦半島においては広く、現在では工場も立ち並んでいます。
2008年8月、その工場団地にある原発燃料製造会社「グローバル・ニュークリア・フュエル・ジャパン」で放射能漏れがあったと、ニュースで知りました(そこに放射性物質を扱っている工場があったとは、知りませんでした)。
茨城県東海村で臨界事故を起こした工場もそうですが、素知らぬふりをして住宅地に隣接していたりします。
放射性物質は目に見えませんから、近隣住民の方々はまさしく「不安と隣り合わせ」と思われます。
そのような物質を取り扱う工場の立地を制限できないものか、と思ってしまいます。
前段からいきなり文句で始まってしまいスミマセン。
くりはま花の国(Map)
秋めいてきたと思ったら、もう「コスモスまつり」が始まっていました。
9月5日から10月25日まで行われているそうですが、まだ見頃は先のようです(この日は風が強く、コスモスの花が風になびいて撮れない……)。
わたしは、コスモスの季節にしか来たことはありませんが、春にはポピー園となるそうです。
よくもこんな傾斜地に公園を作ったもので、整備や手入れも大変だろうにと、ゼイゼイと坂を登りつつ感じるような立地になります。
三浦半島には、田浦梅林等の花の名所があっても、みな坂道の上にある印象があります。
比較的平地という印象のある衣笠の菖蒲園も、バスで行ったのでそんな印象があるのか? 土地柄ですから、仕方ありませんね……
それでもここは、公園施設化されていて、園内を運行するバス(フラワートレイン)や、ハーブ園には足湯があったりするので、計画を立てていれば楽しめる施設と言えます。
最も高い場所にある「冒険ランド」には、2代目「ゴジラ滑り台」があります(上写真)。
初代は、足跡のあった観音崎のたたら浜にあったそうです。ゆえに地元では「復活!」としています。
この「滑り台」かなり本気で作られていますが、市民からの募金を集め、映画を制作した東宝に作ってもらったそうです。
サイズも初代(1954年)の大きさだそうで、背後にある現代の送電線の高さには到底及ばない大きさになっています(ゴジラは、日本の高度成長に合わせて巨大化していきます)。
しかし、調べてみると初代ゴジラの体長は50mだったそうですが、この滑り台はそんなには大きくないと思います(シッポまでの長さなの?)。
久里浜火力発電所(Map)
1957年に建設が始まり、1960年の運転開始当時は、発電所の総出力が世界最大だったようで、地元の商店街では「発電もなか」という発電機形の最中がお土産として販売されたそうです。
やっとの思いで整備した農地を政府(幕府)に占領され、いつの間にか軍隊の駐屯地とされてしまい、庶民はほそぼそと漁猟等を続けるしかなかった地域にとって、発電所の建設はお祭りのようなものだったのではないでしょうか。
京浜急行久里浜駅(JRの駅もすぐ近くにあります)から海に向かうと、学校施設や公団住宅が整然と区画されている一帯があります。
その光景というか、ニオイというか、以前は米軍基地に使用されていたような印象を受けます。
第二次世界大戦まで軍隊が使用していた施設は、米軍に接収されたことは理解できますが、返還された現在でも、自衛隊の施設が点在しています。
それは、地元による自治のコントロールが、現在でも不能であり続けていることの表れと思われます。
土地を奪われ自立することがかなわなかった町とすれば、産業も育たないわけで、発電所建設に異を唱えることもできずに、現在に至っているように思えました。
外見も中身も同じには思えないかも知れませんが(本質的にはそう違わないのではと)、原発銀座と言われる福井県の若狭湾周辺を想起しておりました……
右写真は、公園と発電所に隣接する、ゴミ焼却施設の煙突になります。
上述の「花の国」は、この焼却施設建設の見返りなのでしょう……
東京湾フェリー(Map)
三浦半島の久里浜と、房総半島の金谷を結ぶフェリー航路になります。
わたしは三浦半島側の住人になるので、金谷近くにある鋸山(のこぎりやま)や南房総を目指す場合には「便利だよねぇ〜」という交通機関でした。
それが今では、東京湾アクアラインや、富津館山道路が開通しただけでなく、高速道路料金値下げの影響をモロに受ける交通機関となっています。
この先、高速料金が無料になったとしたら、おそらくやっていけないのではないでしょうか?
ここでも、時代の流れに翻弄されている様子が見て取れます。
しかし世論調査では、高速道路料金の無料化に反対する意見が、6割を超えていると耳にします。
道路建設費の返済に税金が使われることや、排気ガス増大を懸念する背景があると言われています。
「休日は1,000円で乗り放題」に、狂喜して連休には渋滞を生み出した、ちょっと単純なわたしたちですが、この調査結果には、国民の冷静さがうかがわれると思います。
国民をなめていた前政権の策に踊らされながらも、その上を示唆した現政権に「待った!」をかける世論に対して、どのような修正をしていくのでしょうか?
フェリー会社の関係者でなくても、とても関心のある問題です。
ペリー公園(Map)
黒船船団を率いた、マシュー・カルブレイス・ペリーは、1853年浦賀沖に停泊し、幕府が指定したこの地に上陸したとされます(右写真は公園に立てられた記念碑の裏面)。
──脱線しますが、ペリーのフルネームをここで知り、以前深夜番組で藤井隆がやっていた「マシュー」のモデルは、ペリーなのでは? と思った次第です(カツラは金髪でしたが)。
最初の来日では、米大統領の親書を渡すことが目的とされますが、翌1854年には現在の横浜市において、日米和親条約の調印を実現させます。
それは、徳川家光以来200年以上続いた鎖国が解かれた事を意味します。
伝えによるとペリーは、高圧的な態度を取る人物だったそうで、声が熊のような大声だったこともあり、船員の間では「熊おやじ」呼ばれていたそうです。
それ以来、この地域の軍事都市化が推進され、横須賀全域で軍事施設の建設が進められることになります。
1938年に、現在の久里浜駐屯地の前身である海軍通信学校が開校、1942年に現在の京急久里浜駅が開業し、1944年に軍事目的とされるJR横須賀線久里浜駅が開業します(JRの駅はローカルな風情があってとても好きです)。
米軍から返還後は、一部が学校や、工業団地等に転用されますが、依然として法務省、国土交通省、自衛隊など国の施設(火力発電所等)や、研究所に使用されています。
この地でも、再開発〜マンションやショッピングセンターが作られていますが、どうも土地のプライド的なものを感じることができません。
浦賀のような地元神社の祭りではなく、観光向けと思われるような「ペリー祭り」の宣伝を目にしました……
土地独自の歴史を重ねられなかった経緯というものは、取り返せないかも知れませんが、これからのビジョンが大切なのではないでしょうか。
前述の平作川河口に伸びる堤防になります。
以前は、左の電柱(簡易的航路標識)が木製でとても風情があったのですが、さすがに取り替えられたようです。
電柱まで歩いて行けたのですが、この日は潮の影響でしょうか波をかぶっています。この地の地盤が沈降していなければいいのですが……
──関東大地震前に三浦半島では地盤が沈下していたという記録を目にしたことがあります。
何だか文句ばかり書いてきましたが、銭湯に入ったこともあるし、「あの店は無くなった」等、印象としてはあれこれ残っているので、結構な回数訪れているのだと思います。
好きだから苦言ばかり言ってるのだろうか……
P.S. 日本の新しいファーストレディはアメリカで、「ここがわたしの舞台よ!」のようなパフォーマンスを見せてくれました。実に頼もしい限りです。
あれくらいのアピールをして、ようやく海外に認められることは、ご本人が一番理解しているのだと思われます。
それを「宇宙人」などと表現する日本人の、「大和撫子」信奉(わたしにもあります)は、完全に過去の遺物と化しているようです……
「タカラジェンヌ」という経歴を英語で何と表現するのでしょうか?
「ダンサー」とか言われたら、どうしましょう……
2009/09/22
祭礼の町──浦賀
2009.9.13
【神奈川県】
事前調査として、アバウトな予定ルートは調べますが、イベントを目的とする以外は催しの予定までは調べないので、祭礼の日の当たった際には、どちらかというと「参ったなぁ…」の印象があります。
そんな時には、ガキのころによくやったボードゲーム(バンカースだったと思う)の、「祭礼」のマスに止まると「一回休み」というルールを思い出したりします(角のマスじゃなかったか?)。
ガキの頃は「お祭りなんだからラッキーな事があってもよさそう」なんて思っていましたが、実際は町の機能は止まってしまうし、思った行動が取れなくなってしまいますから、行く手を阻まれる「一回休み」ということを、実体験として納得させられます……
タイトルとした「祭礼の町」ですが、むかしの映画『サード』(1978年 監督:東陽一、脚本:寺山修二)の原作がそのようなタイトルと思い調べてみると、『九月の町』(軒上泊 著)でした。
どちらも秋祭りにちなんでいるので、かすったことにして……
浦賀ドック(Map)
前身である浦賀造船所が作られた経緯は、やはり黒船来航(1853年)に慌てて、軍艦の製造を始めたことによります。
江戸時代の鎖国政策下では、外洋に出る大型船は必要ありませんから、建造すら禁止されていました。
この地で国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」(1854年)が建造されますが、勝海舟には「外観を西洋船に似せただけの、役に立たない悪船」と酷評されたそうです。
結局、アメリカへの渡航(1860年)には、オランダ製の「咸臨丸(かんりんまる)」を使用することになります。
直前の1859年に日本初のドライドックが完成し、咸臨丸の整備はここで行われたそうです(上写真正面が水門)。
富国強兵の時代にはいると、艦艇の建造は横須賀へ移され、浦賀造船所は1876年に閉鎖されます。
その後、民間会社が同じ地で事業を始め、自衛隊艦艇の建造、米空母ミッドウェイの大規模改修や、日本丸(帆船)建造なども行われたそうです。
2003年に閉鎖されますが、世界に4カ所しか現存しないレンガ積みドライドックとのことで、跡地は野外ミュージアムとして整備されるそうです。
で、何かその形が見えるかと思っていたのですが、工場の撤去って時間がかかりそうですし、まだ先のようですが、楽しみにしております。
でも、浦賀を支えてきた大工場が閉鎖されてしまうと、地元の活気も失われてしまったのでは? と思ったのですが、祭りは元気です。
西叶(かのう)神社(Map)
叶神社例大祭に初めて遭遇しましたが、かなり気合いの入ったお祭りのようです。
クライマックスは宵に入ってからと思われ、昼間は見学者よりも担ぎ手の、はっぴに半股姿の人たちの方が多いことと、神輿(みこし)と山車の数の多さに驚かされました。
ここで用語解説(祭りには縁が無いもので、上の説明のためにあれこれ調べました)。
Q:はっぴ(法被)と半纏(はんてん)ってどこが違うのか?
A:はっぴの方が汎用的だそうですが、祭りなどの衣装では同じと考えてよい。
Q:その下にはいているバミューダパンツ(懐かしい名称)丈のパンツは何と言うのか?
A:半股 or 半股引:はんたこ or はんだこ と言うそうで「裾口をピッタリさせるのが粋です!」の宣伝文句があったりします。別業者の「パッチ」の表現が一番分かりやすかった気がします。
伝わったでしょうか?
宵の盛り上がりを見てないので分かりませんが、優劣を決めようとするものではなく、山車が接近した時にお囃子の競演があったり、各町内の神輿の担ぎ方(子ども神輿を含め)のお披露目を目的にしているように見えました。
お囃子合戦でリズムが狂った方が、道を譲る等のバトルではないようです。
平地の狭い地形条件ですから、行列になって練り歩くだけでも、人があふれてしまいそうです。
むかしから、ヤンキー兄ちゃん・姉ちゃんたちは「祭りでキメル」ことに情熱を燃やしていたのでしょう。
中でも格好良かったのは、子ども連れの元ヤンキー的なお母さんです。
様になってますし、引率ではなく、統率しているような姿には、はっぴ姿の子どもたちも、カルガモのヒナのようについて歩いてました。
わたしが見た限りのMVPは、両肩に神輿ダコがポッコリ出ている姿を見せびらかすように、上半身裸で悠々と歩いている方でした。
写真撮りたかったのですが……
ここは1181年、平家支配に不満を持っていた京都神護寺の僧侶が、源頼朝の旗揚げに際して源氏再興祈願のため、石清水八幡宮を勧請(かんじょう:分霊を他の地に移し祭る)したことから始まりました(鎌倉の鶴岡八幡宮等も同様で、石清水八幡宮を源氏の守り神としています)。
1186年の平家滅亡により、その願いが叶ったことから「叶明神」とされるようになったそうです。
本家はこの西叶神社ですが、浦賀湾の対岸にはここから勧請された東叶神社(右写真)があります。
湾の入口付近の両岸に、門となるような鎮守を構えようとするセンスは、どちらも海の守り神であったとしても、外敵を前提とした守りの形に思えてしまいます。
由緒については諸説あるようですが、鎖国時代には外敵という意識すら無かったと思われるので、後の時代と考えた方が理解しやすいと思われます。
燈明堂跡(Map)
写真の建造物は再建されたものですが、出来の悪いロボットのように思えてなりませんでした。
1648年に幕府の命で造られ、1872年に廃止されるまで菜種油で光を灯していたそうです。
その光は、海上約7.4kmを照らしたとされますが、先日の観音崎灯台の光達距離は約35kmだそうですから、外国からダークシー(Dark Sea)と言われたのも納得できます。
ここは海辺の丘という場所柄になりますが、一応は岬ですから浦賀湾内に比べれば、高い波が音を立てて押し寄せてきます。
砂浜や岩場でバーベキューをしている方もいましたが、子どもが遊ぶ岩場にしては波が高いと思うので、気をつけて下さいね。
浦賀の渡し(Map)
久里浜へ通じる峠道の入口なので、かつては街道的な性格を持つ渡しだったのかも知れません。
渡し船は、浦賀に奉行所が置かれた後の、1725年頃に始まったとされ、軍艦建造が盛んだった大正〜昭和期には、湾の内側にもう1路線渡し船があったそうです。
以前はポンポン船(焼玉船:始動時に「焼玉」を外部からバーナー等で加熱して始動させるエンジンを積んだ船)が運行しており、この地の風物とされていたそうです。
約3分程度の距離なので時刻表はありませんが、その代わりに呼び出しボタンがあるので、船が対岸にいる場合などには、ボタンで呼ぶことができるようです。
運賃は150円ですが、湾に沿って歩けば30分程度は掛かりそうですし、直通のバスもありませんから、妥当な値段になるのでしょうか。
徳田屋跡(Map)
黒船来航を期に、浦賀を訪れる人が増えたことは言うまでもありません。
しかしこの地は宿場ではなかったため、船乗り以外の旅人を宿泊させることは禁止されていたそうです。
そんな状況で幕府に許可を与えられたのが、浦賀湾東岸では徳田屋になります(石碑と案内板のみ)。
ここでは、当時の長州藩にあった「松下村塾」(山口県萩市)の塾頭である吉田松陰が、ペリ-来航時の対応策について、徳田屋主人の情報をもとに、 師の佐久間象山等と協議したとされています。
その時点で、黒船は2度目の来航になるので、松陰たちは「手の施しようのない状況をしきりに残念がり佐久間象山やその門下生たちと、 今後の日本のとるべき方向などを語った」と、横須賀市の提供ページにあります。
「井の中の蛙」であることを理解していた彼らにしても、「自分たちに何が出来るのか」についての答えが見つからずに、混乱していたことは、想像できる気がします。
それでも、アメリカ密航を行動に移した姿勢というものは、後に続く長州藩の塾生や、後世のわたしたちにも訴えるものがあると思われます。
松陰という人は、突出し過ぎていた印象があるのですが、その意志を高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)が、自制しながら受け継いだおかげで、明治維新をむかえられたと思う面もあります。
まさに「礎」と言われる人なのかも知れません。
東叶神社(Map)
以前は、湾を囲む岬の先端のような場所柄でしたから、静かな漁村だったと思われます。
今では、その先を埋め立てて、マリーナや団地などが建てられ、観音崎方面へと道路が続いています。
ここは江戸時代までは永神寺といい、真言宗醍醐寺派三宝院に属する、三浦半島において本山とされるほど格の高い修験道のお寺だったそうです。(上写真は神輿の上の飾り)
──醍醐寺三宝院の記述を目にするたび、「桜しか見てこなかったからなぁ〜」との後悔を繰り返しています……
高い山のない三浦半島にも、修験道の修行地が多くあるということは、低い山でも俗世から離れることができる、田舎だったということなのでしょう。
確かに、裏山へと続く階段があり、修行の場とされた後、戦国時代に築かれた浦賀城跡があるそうです(未見)。
その地において、咸臨丸で渡米前の勝海舟が、断食修行を行ったとされています。
しかし彼は船に弱かったそうで、航海中は病人同様のありさまだったとのことです。気合いはいれたのでしょうけれど……
近ごろの売りとしては、西叶神社の「勾玉(まがたま)」を、東叶神社の「袋」に納めることで、恋愛や、仕事・友人等の良縁に結ばれるという、お守りがはやり始めているそうです。
ちょうどいい散歩になりますし、いいアイディアだと思いました。
P.S. 政権交代してまだ日は浅いですが、庶民の政治への関心度は、前政権時に比べると非常に高まっているという印象を受けます。以前は「庶民が何を言っても変わらない」というあきらめムードがありましたが、現在は「ひょっとしたら、通じるかも知れない」と感じているように見えるところが、この国にとっての「光明」になるのかも知れません。とにかく、頑張ってもらいたいところです。
【神奈川県】
事前調査として、アバウトな予定ルートは調べますが、イベントを目的とする以外は催しの予定までは調べないので、祭礼の日の当たった際には、どちらかというと「参ったなぁ…」の印象があります。
そんな時には、ガキのころによくやったボードゲーム(バンカースだったと思う)の、「祭礼」のマスに止まると「一回休み」というルールを思い出したりします(角のマスじゃなかったか?)。
ガキの頃は「お祭りなんだからラッキーな事があってもよさそう」なんて思っていましたが、実際は町の機能は止まってしまうし、思った行動が取れなくなってしまいますから、行く手を阻まれる「一回休み」ということを、実体験として納得させられます……
タイトルとした「祭礼の町」ですが、むかしの映画『サード』(1978年 監督:東陽一、脚本:寺山修二)の原作がそのようなタイトルと思い調べてみると、『九月の町』(軒上泊 著)でした。
どちらも秋祭りにちなんでいるので、かすったことにして……
浦賀ドック(Map)
前身である浦賀造船所が作られた経緯は、やはり黒船来航(1853年)に慌てて、軍艦の製造を始めたことによります。
江戸時代の鎖国政策下では、外洋に出る大型船は必要ありませんから、建造すら禁止されていました。
この地で国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」(1854年)が建造されますが、勝海舟には「外観を西洋船に似せただけの、役に立たない悪船」と酷評されたそうです。
結局、アメリカへの渡航(1860年)には、オランダ製の「咸臨丸(かんりんまる)」を使用することになります。
直前の1859年に日本初のドライドックが完成し、咸臨丸の整備はここで行われたそうです(上写真正面が水門)。
富国強兵の時代にはいると、艦艇の建造は横須賀へ移され、浦賀造船所は1876年に閉鎖されます。
その後、民間会社が同じ地で事業を始め、自衛隊艦艇の建造、米空母ミッドウェイの大規模改修や、日本丸(帆船)建造なども行われたそうです。
2003年に閉鎖されますが、世界に4カ所しか現存しないレンガ積みドライドックとのことで、跡地は野外ミュージアムとして整備されるそうです。
で、何かその形が見えるかと思っていたのですが、工場の撤去って時間がかかりそうですし、まだ先のようですが、楽しみにしております。
でも、浦賀を支えてきた大工場が閉鎖されてしまうと、地元の活気も失われてしまったのでは? と思ったのですが、祭りは元気です。
西叶(かのう)神社(Map)
叶神社例大祭に初めて遭遇しましたが、かなり気合いの入ったお祭りのようです。
クライマックスは宵に入ってからと思われ、昼間は見学者よりも担ぎ手の、はっぴに半股姿の人たちの方が多いことと、神輿(みこし)と山車の数の多さに驚かされました。
ここで用語解説(祭りには縁が無いもので、上の説明のためにあれこれ調べました)。
Q:はっぴ(法被)と半纏(はんてん)ってどこが違うのか?
A:はっぴの方が汎用的だそうですが、祭りなどの衣装では同じと考えてよい。
Q:その下にはいているバミューダパンツ(懐かしい名称)丈のパンツは何と言うのか?
A:半股 or 半股引:はんたこ or はんだこ と言うそうで「裾口をピッタリさせるのが粋です!」の宣伝文句があったりします。別業者の「パッチ」の表現が一番分かりやすかった気がします。
伝わったでしょうか?
宵の盛り上がりを見てないので分かりませんが、優劣を決めようとするものではなく、山車が接近した時にお囃子の競演があったり、各町内の神輿の担ぎ方(子ども神輿を含め)のお披露目を目的にしているように見えました。
お囃子合戦でリズムが狂った方が、道を譲る等のバトルではないようです。
平地の狭い地形条件ですから、行列になって練り歩くだけでも、人があふれてしまいそうです。
むかしから、ヤンキー兄ちゃん・姉ちゃんたちは「祭りでキメル」ことに情熱を燃やしていたのでしょう。
中でも格好良かったのは、子ども連れの元ヤンキー的なお母さんです。
様になってますし、引率ではなく、統率しているような姿には、はっぴ姿の子どもたちも、カルガモのヒナのようについて歩いてました。
わたしが見た限りのMVPは、両肩に神輿ダコがポッコリ出ている姿を見せびらかすように、上半身裸で悠々と歩いている方でした。
写真撮りたかったのですが……
ここは1181年、平家支配に不満を持っていた京都神護寺の僧侶が、源頼朝の旗揚げに際して源氏再興祈願のため、石清水八幡宮を勧請(かんじょう:分霊を他の地に移し祭る)したことから始まりました(鎌倉の鶴岡八幡宮等も同様で、石清水八幡宮を源氏の守り神としています)。
1186年の平家滅亡により、その願いが叶ったことから「叶明神」とされるようになったそうです。
本家はこの西叶神社ですが、浦賀湾の対岸にはここから勧請された東叶神社(右写真)があります。
湾の入口付近の両岸に、門となるような鎮守を構えようとするセンスは、どちらも海の守り神であったとしても、外敵を前提とした守りの形に思えてしまいます。
由緒については諸説あるようですが、鎖国時代には外敵という意識すら無かったと思われるので、後の時代と考えた方が理解しやすいと思われます。
燈明堂跡(Map)
写真の建造物は再建されたものですが、出来の悪いロボットのように思えてなりませんでした。
1648年に幕府の命で造られ、1872年に廃止されるまで菜種油で光を灯していたそうです。
その光は、海上約7.4kmを照らしたとされますが、先日の観音崎灯台の光達距離は約35kmだそうですから、外国からダークシー(Dark Sea)と言われたのも納得できます。
ここは海辺の丘という場所柄になりますが、一応は岬ですから浦賀湾内に比べれば、高い波が音を立てて押し寄せてきます。
砂浜や岩場でバーベキューをしている方もいましたが、子どもが遊ぶ岩場にしては波が高いと思うので、気をつけて下さいね。
浦賀の渡し(Map)
久里浜へ通じる峠道の入口なので、かつては街道的な性格を持つ渡しだったのかも知れません。
渡し船は、浦賀に奉行所が置かれた後の、1725年頃に始まったとされ、軍艦建造が盛んだった大正〜昭和期には、湾の内側にもう1路線渡し船があったそうです。
以前はポンポン船(焼玉船:始動時に「焼玉」を外部からバーナー等で加熱して始動させるエンジンを積んだ船)が運行しており、この地の風物とされていたそうです。
約3分程度の距離なので時刻表はありませんが、その代わりに呼び出しボタンがあるので、船が対岸にいる場合などには、ボタンで呼ぶことができるようです。
運賃は150円ですが、湾に沿って歩けば30分程度は掛かりそうですし、直通のバスもありませんから、妥当な値段になるのでしょうか。
徳田屋跡(Map)
黒船来航を期に、浦賀を訪れる人が増えたことは言うまでもありません。
しかしこの地は宿場ではなかったため、船乗り以外の旅人を宿泊させることは禁止されていたそうです。
そんな状況で幕府に許可を与えられたのが、浦賀湾東岸では徳田屋になります(石碑と案内板のみ)。
ここでは、当時の長州藩にあった「松下村塾」(山口県萩市)の塾頭である吉田松陰が、ペリ-来航時の対応策について、徳田屋主人の情報をもとに、 師の佐久間象山等と協議したとされています。
その時点で、黒船は2度目の来航になるので、松陰たちは「手の施しようのない状況をしきりに残念がり佐久間象山やその門下生たちと、 今後の日本のとるべき方向などを語った」と、横須賀市の提供ページにあります。
「井の中の蛙」であることを理解していた彼らにしても、「自分たちに何が出来るのか」についての答えが見つからずに、混乱していたことは、想像できる気がします。
それでも、アメリカ密航を行動に移した姿勢というものは、後に続く長州藩の塾生や、後世のわたしたちにも訴えるものがあると思われます。
松陰という人は、突出し過ぎていた印象があるのですが、その意志を高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)が、自制しながら受け継いだおかげで、明治維新をむかえられたと思う面もあります。
まさに「礎」と言われる人なのかも知れません。
東叶神社(Map)
以前は、湾を囲む岬の先端のような場所柄でしたから、静かな漁村だったと思われます。
今では、その先を埋め立てて、マリーナや団地などが建てられ、観音崎方面へと道路が続いています。
ここは江戸時代までは永神寺といい、真言宗醍醐寺派三宝院に属する、三浦半島において本山とされるほど格の高い修験道のお寺だったそうです。(上写真は神輿の上の飾り)
──醍醐寺三宝院の記述を目にするたび、「桜しか見てこなかったからなぁ〜」との後悔を繰り返しています……
高い山のない三浦半島にも、修験道の修行地が多くあるということは、低い山でも俗世から離れることができる、田舎だったということなのでしょう。
確かに、裏山へと続く階段があり、修行の場とされた後、戦国時代に築かれた浦賀城跡があるそうです(未見)。
その地において、咸臨丸で渡米前の勝海舟が、断食修行を行ったとされています。
しかし彼は船に弱かったそうで、航海中は病人同様のありさまだったとのことです。気合いはいれたのでしょうけれど……
近ごろの売りとしては、西叶神社の「勾玉(まがたま)」を、東叶神社の「袋」に納めることで、恋愛や、仕事・友人等の良縁に結ばれるという、お守りがはやり始めているそうです。
ちょうどいい散歩になりますし、いいアイディアだと思いました。
P.S. 政権交代してまだ日は浅いですが、庶民の政治への関心度は、前政権時に比べると非常に高まっているという印象を受けます。以前は「庶民が何を言っても変わらない」というあきらめムードがありましたが、現在は「ひょっとしたら、通じるかも知れない」と感じているように見えるところが、この国にとっての「光明」になるのかも知れません。とにかく、頑張ってもらいたいところです。
2009/09/14
祈りではなく、実弾で守る──観音崎
2009.9.5
【神奈川県】
観音崎大橋(Map)
ここも東京湾ですが、ここまでくると海水もキレイになりますし、砂浜も白くなってきます(サンゴによるものではありません)。
下写真は観音崎大橋になりますが、神奈川県にしてはいい感じでしょ?
三浦半島の観音崎は、東京湾の入口となる浦賀水道に突き出た岬で、房総半島の富津(ふっつ)岬とは7km程度しか離れておらず、観音崎側は急深ですが富津側は遠浅なので、水路としてはとても狭いものになります。
地名の由来としては、741年に行基(ぎょうき or ぎょうぎ:東大寺大仏造営に寄与し、745年に日本最初の大僧正を与えられた僧侶)が、洞窟にいる大蛇を退治し、十一面観音(船守観音)を祭ったとの伝えによるそうです。
行基が開いたと伝わるお寺は全国に多数存在していますが、彼は東国を訪れていないと思われるので、その威光を利用させてもらったのだと思われます。
その観音寺は1880年(明治13年)、戦争準備の砲台建造に伴い移転の後、その地で火災により焼失してしまったそうです。
1899年(明治32年)には「要塞地帯法」という、要塞施設の周囲一帯を軍の管理下に置くという法律が公布されます。
それにより、土地の開墾、家屋の増改築等や漁までも制限されたようですから、房総半島の東京湾側と三浦半島の全域は、まさに軍によって占領された状態だったと思われます(日清戦争:1894年(明治27年)〜1895年、日露戦争:1904年(明治37年)〜1905年)。
たたら浜(Map)
まだ観音寺が存在した時代の観音様のお導きでしょうか、ガリヴァー(小説『ガリヴァー旅行記』(1726年)の主人公)が日本に上陸した場所とされるそうです。
観音崎に上陸し、日本の「皇帝(将軍)」に江戸で拝謁し、オランダ人に対する「踏絵」を免除して欲しいと願い出たそうです。
その後、長崎まで護送され、帰国の途(イギリス)についたとのこと。
次に訪れた黒船のペリー(1853年)は、この地からも見えたであろう浦賀沖に停泊し、久里浜に上陸します(本件については、次回以降にレポートします)。
そして、右写真の足跡(縮小レプリカ)を残した、初代ゴジラ(映画『ゴジラ』1954年)がこの地に上陸することになります。
その背景に、お上の都合で信仰の地から観音様が移されてしまった無念さを重ねると、どことなく映画『大魔神』(1966年)にも通じる土着性が感じられ、日本的な物語として納得できるようにも思えますが、ゴジラはもっと大きな問題提起のために東京を目指します(ゴジラは水爆実験の落とし子的存在として登場しています)。
この地に上陸した2例ともフィクションではありますが、(ペリーを含め)海外からも、ここが首都にとって重要な場所と考えられていたことには、なるほどと納得してしまいます。
上記の理由からも、歴史ある観音様を移転させてまでも、砲台を築きたい場所であったことは、立地的には理解できるところです。
しかし、日本人の感性としては「そんなことをすると、後で悪いことが起こるのでは?」と思いますし、後年味わった辛酸な結果(第二次世界大戦)を「観音様のおしかり」と言われると、納得してしまう気分を持ち合わせているように思われます。
観音崎公園 海の見晴らし台(Map)
右写真は、見晴らし台下の砲台跡へと続くトンネルで100m程度はあるでしょうか、坑内に照明はあるものの、入ることをためらう方が多いようです。
その先に残された過去の遺産の上に、海を見晴らせるテラスがあります。
訪れる人も少ない場所なので、ここからの眺めがひとつの楽しみでもありました。
しかし! 一番のお気に入りであった「海の見晴らし台」が、施設の老朽化のため立ち入り禁止となっていました。
それでもズンズンと入って行きましたが、庭園や周囲の木々の手入れがまったく施されずに見晴らしが失われてしまい、これではちょっと足が遠のいちゃうなぁ、という印象です。
また、あの場所からの光景が早く見られることを、期待しております。
掘ったトンネルにレンガをはめ込んでいったのでしょうが、中途半端な姿のまま残された理由には、何かドラマが隠されているようにも思えます……
観音埼灯台(Map) ※灯台名は「埼」の字を使用するようです。
日本初の洋式灯台で1869年(明治2年)に点灯を始め、この灯台建設の着工日である11月1日が灯台記念日とされるそうです。
現在の灯台は3代目(関東大震災等で崩壊のため)ですが、初代の設計はレオンス・ヴェルニー(横須賀港にあるヴェルニー公園名由来の人物)等が担当したそうです。
ここは、映画『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)のファーストシーンに登場した灯台なんだそうです。
登場したことは覚えていますが、どこに出てきたかは忘れているので、再見の機会があれば注目してみます。
江戸時代に鎖国していたこの国では、地元出身の土地勘を持った船頭が船を操ればよかったため、灯台の明かるさ(光の到達距離)はそれほど重要視されていなかったのかも知れません。
しかし1854年の開国後、この地に不慣れな諸外国からの船が訪れるようになると、灯台(航路標識)整備の未熟さに「ダークシー(Dark Sea)」と呼ばれたそうです。
そのため、外国との条約の中に灯台の整備が盛り込まれたとのことです。
上述の映画のように、以前は灯台守が常駐していましたが、2006年に女島灯台(長崎県五島市)の自動化により、国内すべての灯台が無人化されたそうです。
海上保安庁の役割と言ってしまえばそれまでですが、それは大変な仕事であったと思われます。
右手の鮮やかな緑地は、海上自衛隊・観音埼警備所になり、立ち入りができません。
いまどきは、敵軍阻止というものではなく、緊急時のヘリコプター発着所等に使用されるのではないでしょうか。
そんな岬の突端にある構造物は、海軍時代の検潮所跡(海面の高さを観測する場所)とされています。
灯台に登ったのですが、上では身動きの取れない状態でした。
それは下写真の、原子力空母 ジョージワシントンを撮影するために陣取っているカメラマン(プロなのかなぁ?)たちのせいです。
空撮できない場合のカメラポジションとしてはベストかと思われますが、人がすれ違うのがやっとの場所に三脚を立てるとは、神経を疑います(下写真は灯台の下で撮影)。
しかし、それを知らなかったのはわたしだけ?
見物の外国人は「マイフレンドの船が帰ってきた」と、日本人の彼女と見学に来ていたりして、ちょうどそんなタイミングだったようです。
対向して行き交う船の距離の間隔が分かると思いますが、ここからも浦賀水道の航路の狭さが実感できるのではないでしょうか。
そのため航路内では12ノット(時速約22キロ)の制限速度が定められ、オートパイロット(自動航行)は禁止されています。
航路にはセンターブイが設置され、入り(北航路)と出(南航路)のそれぞれが、700m幅に設定されているそうです。
──写真左が北で入り、右が南で出の方向。
砲台が実存していれば、撃てば当たる距離だ、などと思ったりもしました……
ボードウォーク(Map)
観音崎公園に隣接する観音崎京急ホテルの海沿いには、ボードウォークが設置されているので、しぶきのかかるような海辺を歩くことができますし、上写真のように岩場に渡ることも可能です。
砂浜や岩場がある海岸なのですが、そこに降りずに海辺を歩きたいという方でも、海をとても身近に感じられる散歩道と思われます。
海辺のバリアフリー散策路を目指しているようで、そんな素晴らしい取り組みの裏側には、提案と実現に尽力されたロマンチストがいたのだと思われます(管理は大変かも知れません)。
でも、入口にある柵は外せるんですよね?
というのも、入口にはオートバイ進入防止の柵があります。
ハッキリ言ってそんな柵を作ること自体、野暮なのですが、それを防ぐことは教育では無理なのかも知れません。
これは道徳観なので、教育ではなく自ら経験によって学ぶしかないのかなぁ……
走水(はしりみず)港(Map)
ここ走水港の名前は何度となく耳にしていて、訪れてみたいと思っていました。
最も目を引くのは、防衛大学校の港湾設備になります(防衛大学校とは、幹部自衛官を教育訓練する防衛省の施設で、外国の士官学校に相当します)。
一般の漁船が利用できる区域(一般的な漁港のような施設)はあまり広くなく、多くを占めているのは、地元船主が経営する釣り船関連の施設になります。
ですから、各家の海辺にそれぞれの船着き場があり、釣り客を囲い込むような(響きは悪いですが、地方の漁村的な)構造になっていて、船着き場を横断的に歩くことはできませんでした。
そんな印象からするとこの港はまだ、各船主が独立した漁や釣り船で生計が立てられるように見え、保守的な姿勢で各自のテリトリーを守れば生きていけるような、恵まれた状況のように思われました(右写真はガラクタばかりですが)。
走水神社(Map)
この神社の歴史は古く、「古事記」「日本書紀」にも登場するそうです(古くは馳水と書いたそう)。
箱根の足柄峠(金時山、仙石原方面)経由で相模の国(神奈川県)に至った古東海道は、鎌倉を経て走水から海路で上総の国(房総方面)へ通じていたとされます。
火災等により神社の起源等については不明だそうですが、古事記によると「父である景行天皇から東征を命ぜられた日本武尊(ヤマトタケル)は、110年、走水から上総へ向かう途中の海上で暴風雨に遭い、后である弟橘媛命(オトタチバナヒメ)が海に身を投じてその難を救った」と伝えられるそうです。
それらの経緯により、父である景行天皇が、この地に日本武尊を祭ったことが始まりと伝わるそうです(もちろん弟橘媛命もここに祭られています)。
また以前、弟橘媛の像が都内芝公園に建てられていたそうです(関東大地震で崩壊)。
帰りはここから横須賀行きのバスに乗りましたが、途中旧道と思われる道幅の狭いトンネルを抜けて行きました。
海側に道を通せずにトンネルを掘る必要性があったと思われる、この辺りが以前の海岸線と考えると、かなりの埋め立てをしたことになります。
以前は、京浜急行の馬堀海岸駅の名前の通り、目の前に海辺が広がっていたのかも知れません。
平地の少ない横須賀市としては、念願だったのではないでしょうか(付近の埋め立て地にある、大学時代の同級生の実家を訪れた記憶があります)。
横浜からこの地域にかけての宅地事情は、傾斜地が続く土地柄ゆえ厳しいものと思われますが、そんな斜面に挑むかのように開発された住宅地が、目につき「地震が来たら大変なことになるのでは?」と、心配で仕方ありません。
訪れる度にそんなことを思うのは、わたしだけでしょうか……
【神奈川県】
観音崎大橋(Map)
ここも東京湾ですが、ここまでくると海水もキレイになりますし、砂浜も白くなってきます(サンゴによるものではありません)。
下写真は観音崎大橋になりますが、神奈川県にしてはいい感じでしょ?
三浦半島の観音崎は、東京湾の入口となる浦賀水道に突き出た岬で、房総半島の富津(ふっつ)岬とは7km程度しか離れておらず、観音崎側は急深ですが富津側は遠浅なので、水路としてはとても狭いものになります。
地名の由来としては、741年に行基(ぎょうき or ぎょうぎ:東大寺大仏造営に寄与し、745年に日本最初の大僧正を与えられた僧侶)が、洞窟にいる大蛇を退治し、十一面観音(船守観音)を祭ったとの伝えによるそうです。
行基が開いたと伝わるお寺は全国に多数存在していますが、彼は東国を訪れていないと思われるので、その威光を利用させてもらったのだと思われます。
その観音寺は1880年(明治13年)、戦争準備の砲台建造に伴い移転の後、その地で火災により焼失してしまったそうです。
1899年(明治32年)には「要塞地帯法」という、要塞施設の周囲一帯を軍の管理下に置くという法律が公布されます。
それにより、土地の開墾、家屋の増改築等や漁までも制限されたようですから、房総半島の東京湾側と三浦半島の全域は、まさに軍によって占領された状態だったと思われます(日清戦争:1894年(明治27年)〜1895年、日露戦争:1904年(明治37年)〜1905年)。
たたら浜(Map)
まだ観音寺が存在した時代の観音様のお導きでしょうか、ガリヴァー(小説『ガリヴァー旅行記』(1726年)の主人公)が日本に上陸した場所とされるそうです。
観音崎に上陸し、日本の「皇帝(将軍)」に江戸で拝謁し、オランダ人に対する「踏絵」を免除して欲しいと願い出たそうです。
その後、長崎まで護送され、帰国の途(イギリス)についたとのこと。
次に訪れた黒船のペリー(1853年)は、この地からも見えたであろう浦賀沖に停泊し、久里浜に上陸します(本件については、次回以降にレポートします)。
そして、右写真の足跡(縮小レプリカ)を残した、初代ゴジラ(映画『ゴジラ』1954年)がこの地に上陸することになります。
その背景に、お上の都合で信仰の地から観音様が移されてしまった無念さを重ねると、どことなく映画『大魔神』(1966年)にも通じる土着性が感じられ、日本的な物語として納得できるようにも思えますが、ゴジラはもっと大きな問題提起のために東京を目指します(ゴジラは水爆実験の落とし子的存在として登場しています)。
この地に上陸した2例ともフィクションではありますが、(ペリーを含め)海外からも、ここが首都にとって重要な場所と考えられていたことには、なるほどと納得してしまいます。
上記の理由からも、歴史ある観音様を移転させてまでも、砲台を築きたい場所であったことは、立地的には理解できるところです。
しかし、日本人の感性としては「そんなことをすると、後で悪いことが起こるのでは?」と思いますし、後年味わった辛酸な結果(第二次世界大戦)を「観音様のおしかり」と言われると、納得してしまう気分を持ち合わせているように思われます。
観音崎公園 海の見晴らし台(Map)
右写真は、見晴らし台下の砲台跡へと続くトンネルで100m程度はあるでしょうか、坑内に照明はあるものの、入ることをためらう方が多いようです。
その先に残された過去の遺産の上に、海を見晴らせるテラスがあります。
訪れる人も少ない場所なので、ここからの眺めがひとつの楽しみでもありました。
しかし! 一番のお気に入りであった「海の見晴らし台」が、施設の老朽化のため立ち入り禁止となっていました。
それでもズンズンと入って行きましたが、庭園や周囲の木々の手入れがまったく施されずに見晴らしが失われてしまい、これではちょっと足が遠のいちゃうなぁ、という印象です。
また、あの場所からの光景が早く見られることを、期待しております。
掘ったトンネルにレンガをはめ込んでいったのでしょうが、中途半端な姿のまま残された理由には、何かドラマが隠されているようにも思えます……
観音埼灯台(Map) ※灯台名は「埼」の字を使用するようです。
日本初の洋式灯台で1869年(明治2年)に点灯を始め、この灯台建設の着工日である11月1日が灯台記念日とされるそうです。
現在の灯台は3代目(関東大震災等で崩壊のため)ですが、初代の設計はレオンス・ヴェルニー(横須賀港にあるヴェルニー公園名由来の人物)等が担当したそうです。
ここは、映画『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)のファーストシーンに登場した灯台なんだそうです。
登場したことは覚えていますが、どこに出てきたかは忘れているので、再見の機会があれば注目してみます。
江戸時代に鎖国していたこの国では、地元出身の土地勘を持った船頭が船を操ればよかったため、灯台の明かるさ(光の到達距離)はそれほど重要視されていなかったのかも知れません。
しかし1854年の開国後、この地に不慣れな諸外国からの船が訪れるようになると、灯台(航路標識)整備の未熟さに「ダークシー(Dark Sea)」と呼ばれたそうです。
そのため、外国との条約の中に灯台の整備が盛り込まれたとのことです。
上述の映画のように、以前は灯台守が常駐していましたが、2006年に女島灯台(長崎県五島市)の自動化により、国内すべての灯台が無人化されたそうです。
海上保安庁の役割と言ってしまえばそれまでですが、それは大変な仕事であったと思われます。
右手の鮮やかな緑地は、海上自衛隊・観音埼警備所になり、立ち入りができません。
いまどきは、敵軍阻止というものではなく、緊急時のヘリコプター発着所等に使用されるのではないでしょうか。
そんな岬の突端にある構造物は、海軍時代の検潮所跡(海面の高さを観測する場所)とされています。
灯台に登ったのですが、上では身動きの取れない状態でした。
それは下写真の、原子力空母 ジョージワシントンを撮影するために陣取っているカメラマン(プロなのかなぁ?)たちのせいです。
空撮できない場合のカメラポジションとしてはベストかと思われますが、人がすれ違うのがやっとの場所に三脚を立てるとは、神経を疑います(下写真は灯台の下で撮影)。
しかし、それを知らなかったのはわたしだけ?
見物の外国人は「マイフレンドの船が帰ってきた」と、日本人の彼女と見学に来ていたりして、ちょうどそんなタイミングだったようです。
対向して行き交う船の距離の間隔が分かると思いますが、ここからも浦賀水道の航路の狭さが実感できるのではないでしょうか。
そのため航路内では12ノット(時速約22キロ)の制限速度が定められ、オートパイロット(自動航行)は禁止されています。
航路にはセンターブイが設置され、入り(北航路)と出(南航路)のそれぞれが、700m幅に設定されているそうです。
──写真左が北で入り、右が南で出の方向。
砲台が実存していれば、撃てば当たる距離だ、などと思ったりもしました……
ボードウォーク(Map)
観音崎公園に隣接する観音崎京急ホテルの海沿いには、ボードウォークが設置されているので、しぶきのかかるような海辺を歩くことができますし、上写真のように岩場に渡ることも可能です。
砂浜や岩場がある海岸なのですが、そこに降りずに海辺を歩きたいという方でも、海をとても身近に感じられる散歩道と思われます。
海辺のバリアフリー散策路を目指しているようで、そんな素晴らしい取り組みの裏側には、提案と実現に尽力されたロマンチストがいたのだと思われます(管理は大変かも知れません)。
でも、入口にある柵は外せるんですよね?
というのも、入口にはオートバイ進入防止の柵があります。
ハッキリ言ってそんな柵を作ること自体、野暮なのですが、それを防ぐことは教育では無理なのかも知れません。
これは道徳観なので、教育ではなく自ら経験によって学ぶしかないのかなぁ……
走水(はしりみず)港(Map)
ここ走水港の名前は何度となく耳にしていて、訪れてみたいと思っていました。
最も目を引くのは、防衛大学校の港湾設備になります(防衛大学校とは、幹部自衛官を教育訓練する防衛省の施設で、外国の士官学校に相当します)。
一般の漁船が利用できる区域(一般的な漁港のような施設)はあまり広くなく、多くを占めているのは、地元船主が経営する釣り船関連の施設になります。
ですから、各家の海辺にそれぞれの船着き場があり、釣り客を囲い込むような(響きは悪いですが、地方の漁村的な)構造になっていて、船着き場を横断的に歩くことはできませんでした。
そんな印象からするとこの港はまだ、各船主が独立した漁や釣り船で生計が立てられるように見え、保守的な姿勢で各自のテリトリーを守れば生きていけるような、恵まれた状況のように思われました(右写真はガラクタばかりですが)。
走水神社(Map)
この神社の歴史は古く、「古事記」「日本書紀」にも登場するそうです(古くは馳水と書いたそう)。
箱根の足柄峠(金時山、仙石原方面)経由で相模の国(神奈川県)に至った古東海道は、鎌倉を経て走水から海路で上総の国(房総方面)へ通じていたとされます。
火災等により神社の起源等については不明だそうですが、古事記によると「父である景行天皇から東征を命ぜられた日本武尊(ヤマトタケル)は、110年、走水から上総へ向かう途中の海上で暴風雨に遭い、后である弟橘媛命(オトタチバナヒメ)が海に身を投じてその難を救った」と伝えられるそうです。
それらの経緯により、父である景行天皇が、この地に日本武尊を祭ったことが始まりと伝わるそうです(もちろん弟橘媛命もここに祭られています)。
また以前、弟橘媛の像が都内芝公園に建てられていたそうです(関東大地震で崩壊)。
帰りはここから横須賀行きのバスに乗りましたが、途中旧道と思われる道幅の狭いトンネルを抜けて行きました。
海側に道を通せずにトンネルを掘る必要性があったと思われる、この辺りが以前の海岸線と考えると、かなりの埋め立てをしたことになります。
以前は、京浜急行の馬堀海岸駅の名前の通り、目の前に海辺が広がっていたのかも知れません。
平地の少ない横須賀市としては、念願だったのではないでしょうか(付近の埋め立て地にある、大学時代の同級生の実家を訪れた記憶があります)。
横浜からこの地域にかけての宅地事情は、傾斜地が続く土地柄ゆえ厳しいものと思われますが、そんな斜面に挑むかのように開発された住宅地が、目につき「地震が来たら大変なことになるのでは?」と、心配で仕方ありません。
訪れる度にそんなことを思うのは、わたしだけでしょうか……
2009/09/07
ここは横須賀
2009.8.29
【神奈川県】
横須賀を題材とした楽曲は多いと思い調べてみたのですが、それほどではないようです。
宇崎竜童にはダウン・タウン・ブギウギ・バンドの『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』(1975年)、山口百恵の『横須賀ストーリー』(1976年)(タイトル引用元)があるのと、地元出身渡辺真知子の『かもめが翔んだ日』(1978年)から連想される程度のようです。
多感な年頃に耳にしたので、印象が強いのでしょうか?
近ごろでは、クレイジーケンバンドの『タイガー&ドラゴン』(俺の話を聞け~!)が耳に残ります。
三笠公園(Map)
上述『タイガー&ドラゴン』にある
「トンネル抜ければ 海が見えるから そのまま ドン突きの三笠公園で」(どこのトンネルか分かりませんが、雰囲気は伝わる)の公園になります。
この公園は、軍事都市横須賀らしいと言っていいのか、いにしえの日本軍の功績を賛美するような施設です。
入口正面には東郷平八郎(1904〜05年の日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破り、世界的に注目を集め国民的英雄とされた人物)の銅像があったり、その海戦で活躍したとされる「戦艦 三笠」が保存展示される公園になります。
その戦争に直接関わった方は、現在ではほとんどおられないと思われますが、家族や遺族の方にとっては祈念の地であるのかも知れません。
──第二次世界大戦を後世に伝えようとする施設においても、将来はこのような受け止め方をされるようになるのだと思われます。
上写真の本意としては、三笠の船体とこれから訪れる予定の猿島(奧の島影)を撮れれば、と思ったのですが、船首には「菊の紋章」が輝いており(曲げてもいいの?)、軍の賛美に加担してしまったような気もします……
この船首は、皇居の方角を向いているそうです。
三笠は、1926年(大正15年)に保存されたそうですから、時代の空気が感じられる施設と言えるのかも知れません。
──幕末に訪れた黒船に度肝を抜かれたちょんまげ姿の日本人が、数十年後に「欧米列強」としたロシアとの戦いに勝ったわけですから、浮かれる気分も理解できますが、浮かれすぎることになってしまいます……
第二次世界大戦後この施設に対して、米国には文句がないので放置されたそうですが、ロシアからは当然のように抗議があったようです。
ここには小学校時代、社会見学に訪れた記憶があります。
この現場での事だったと思われますが、先生方が言い争っていたという印象が、記憶の片隅の方に残っているような気がします。
担任の若い女先生は、それまでの指導方針に対して異議を唱えていたのかも知れず、現在までそんな意志が、自分の中で息づいていると感じられることに、感謝する次第です(古い話なので勘違いかも知れませんが、この地で記憶がよみがえりました……)。
いまから振り返ると、この「戦艦 三笠」は小学校の社会見学で訪れるべき施設なのかと、疑問に思ったりします。
現代ではそう考えられるとしても、当時はちょうど疑問視され始めた時代だったのかも知れません。
猿島(Map)
猿島は、横須賀新港の沖2km弱に位置する島で、連絡船桟橋は三笠公園の隣にあります。
これまで何度かチャレンジしたものの、人の少ない冬場は営業していなかったりで、今回初めての上陸になります。
この島は東京湾内唯一の自然島で、古い時代(縄文・弥生時代)には人が暮らしていたそうです(現在無人島)。
その立地が湾の入口に近いため首都防衛拠点とされ、明治以降は軍隊の要塞島とされます。
幕末、明治、(大正期の関東大地震で被害を受けたため)昭和と、3度にわたり砲台が築かれたそうです。
その気持ちは察しますが、結局東京湾には幕末の黒船以降、国を脅かすような海外の船は訪れてないと思われます(上空から攻撃されました)。
まあ、当時の島国の住人たちが講ずる国土防衛策としては、入江の中に敵を入らせないようにすべき、との考え方は納得できるところです。
無人島ですがレジャー設備は整っており、この時期には海水浴、バーベキュー、釣りに訪れる人たちでにぎわっています。
1995年に大蔵省から管理委託を受けた横須賀市が、散策路等の整備、航路および海水浴場を再開し、2003年に国から横須賀市が無償譲与を受けたそうです。
横須賀市の運営もしくは委託事業と思われますが、この辺りでは珍しい「10分で渡れる無人島」というイメージが受けているようで、成功している行政サービスと言えると思います。
どぶ板通り(Map)
心から胸を張っていたのかは分かりませんが、横須賀の代名詞的な基地前の商店街であることは確かです。
現在では「DOBUITA STREET」なる看板や旗が並ぶ、いまどきの通りになりつつあります(訪れる度にキレイになっていく)。
下写真は、付近の諏訪神社にある「Off Limits(立ち入り禁止)」の看板ですが、以前は比較にならないほど多くの看板が見られた記憶があります。
おそらく、日本人であれば即刻刑務所行きというような、犯罪行為が頻発した頃の「日本語が理解できなかった」という言い訳に対する防衛策なのだと思われます。
横須賀でも少し前に米兵による犯罪がありましたが、沖縄で米兵が起こす犯罪の数に比べれば非常に少ないように思われます。
その違いは、基地依存に対する地元住民の意識の差なのではないか? とも思えます。
基地にベッタリな沖縄とは違い、横須賀には軍需産業や、首都圏に近いため他にも働き口等の選択肢があります。
そんな比較から、産業なくして「基地サービス」だけを押しつけられても、身動きが取れないのは当たり前、と思える沖縄の応援をしたくなってしまいます。
基地が無くなるのが一番であると思いますが、その途端に彼らは途方に暮れてしまいます。
産業を振興しつつ、基地の縮小へと結びつくような妙案ってないのでしょうか?
明治時代から第二次世界大戦まで続いた、海軍横須賀鎮守府(ちんじゅふ:海軍の根拠地で艦隊の後方を統轄した機関。通称 横鎮:よこちん)の門前町として栄えたのが始まりだそうです。
以前は通りにどぶ川が流れていたため、海軍から厚い鉄板を提供してもらいどぶ川に蓋をしたことから「どぶ板通り」と呼ばれるようになったそうです。
戦後はアメリカ軍向けの土産物店、飲食店等が軒を連ねたそうですが、年々そんな面影も薄れているように思われます。
むかしは、肖像画店(あった、あった!)、ワッペン屋やミリタリーショップが、もっと多く並んでいた印象があります。
ここはご存知「スカジャン」の発祥の地になります。
はじまりは、米軍兵士が自分のジャケットに派手な、鷲・虎・龍等のオリエンタルテイストの柄や、所属部隊・基地等のエンブレムをデザインした刺繍を入れて、お土産にしたことによるそうです(それが『タイガー&ドラゴン』の元ネタなのかも知れません)。
またその名称は、土産物のジャケットの意味である「スーベニールジャケット」から「スカジャン」と略されたとする説が本筋のようです。
わたしは「ヨコスカのジャンパー」が略されたとばかり思っていました……
横須賀の町はそれほど大きくありませんから、兵士たちの遊び場も限られているように思われます(横浜辺りまで行くのだろうか?)。
ですが、「ジョージ・ワシントン」(原子力空母)が出航中は、町も静かになってしまうと思われます(現在は不在も、先日まで「ニミッツ」(原子力空母)が寄港していたそうです)。
基地の縮小を訴えるわたしも、空母一隻の出入りで町の景気が左右されては、商売にならないのでは? と思ったりします。
──「今度、ニミッツが来るよ」「いつ? 今年の夏休みなしだね」なんて会話は、ドラマでは使えると思われますが……
基地依存からの脱却を目指そうと考える人たちは着実に増えているようで、その結果「いまどきの商売」に切り替える人が増えているため、「どぶ板通り」という個性が失われているようにも思われました。
ファッションには詳しくないのですが、横田基地の門前町である福生はプチ・ブランド化しているように思えたので、横須賀も若い女性をターゲットにして、「ハマトラ」(ノスタルジーです…)ならぬ「スカトラ」(ネイビー感覚で少し活発なイメージ、とか)あたりを狙ってはどうか? と思ったりしました……
横須賀港(Map)
JR横須賀駅近くの岸壁には「ヴェルニー公園」のウッドデッキが広がっています。
──レオンス・ヴェルニー:横須賀海軍工廠(よこすかかいぐんこうしょう)等、日本の近代建設を指導したフランス人技術者。
ウッドデッキの足裏の感触はとても好きですし、写真のような電灯やベンチなどが配されていて、夕暮れ時などにはとてもいい雰囲気を演出してくれます。
しかし、海の向こうは米軍基地と自衛隊基地ですから、それをムーディーと受け止めていいものか? とも思ってしまいます。
これまでも「横須賀の基盤は軍需産業」を改善することなく、地元出身の元首相が支持されてきたわけですから、この町からは基地を切り離すこと、もしくは、軍需産業依存から脱却することは、非常に困難な事と思われます。
タイトルに込めた意味が、「ここは横須賀 軍事都市」と伝わればと思います……
P.S. 先日電車で、遠足と思われる小学生たちの団体と乗り合わせました。
いつもなら「ピーチク、パーチク」とやかましいはずの車内が静かなので、見回してみると、全員が新型インフルエンザ予防のマスクをしています。
確かに静かでいいのですが、「おしゃべりをするな」と、口をふさがれているようにも思えましたし、元気が無いようにも見えてしまいます。
普段の姿には「やかましいー!」と言いたいところですが、ボソボソしゃべる子どもたちの姿には、ゾッとさせられました(未来が暗くなりそう)……
可能な限り早い時期に、以前の「やかましさ」が見られることを願うばかりです。
【神奈川県】
横須賀を題材とした楽曲は多いと思い調べてみたのですが、それほどではないようです。
宇崎竜童にはダウン・タウン・ブギウギ・バンドの『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』(1975年)、山口百恵の『横須賀ストーリー』(1976年)(タイトル引用元)があるのと、地元出身渡辺真知子の『かもめが翔んだ日』(1978年)から連想される程度のようです。
多感な年頃に耳にしたので、印象が強いのでしょうか?
近ごろでは、クレイジーケンバンドの『タイガー&ドラゴン』(俺の話を聞け~!)が耳に残ります。
三笠公園(Map)
上述『タイガー&ドラゴン』にある
「トンネル抜ければ 海が見えるから そのまま ドン突きの三笠公園で」(どこのトンネルか分かりませんが、雰囲気は伝わる)の公園になります。
この公園は、軍事都市横須賀らしいと言っていいのか、いにしえの日本軍の功績を賛美するような施設です。
入口正面には東郷平八郎(1904〜05年の日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破り、世界的に注目を集め国民的英雄とされた人物)の銅像があったり、その海戦で活躍したとされる「戦艦 三笠」が保存展示される公園になります。
その戦争に直接関わった方は、現在ではほとんどおられないと思われますが、家族や遺族の方にとっては祈念の地であるのかも知れません。
──第二次世界大戦を後世に伝えようとする施設においても、将来はこのような受け止め方をされるようになるのだと思われます。
上写真の本意としては、三笠の船体とこれから訪れる予定の猿島(奧の島影)を撮れれば、と思ったのですが、船首には「菊の紋章」が輝いており(曲げてもいいの?)、軍の賛美に加担してしまったような気もします……
この船首は、皇居の方角を向いているそうです。
三笠は、1926年(大正15年)に保存されたそうですから、時代の空気が感じられる施設と言えるのかも知れません。
──幕末に訪れた黒船に度肝を抜かれたちょんまげ姿の日本人が、数十年後に「欧米列強」としたロシアとの戦いに勝ったわけですから、浮かれる気分も理解できますが、浮かれすぎることになってしまいます……
第二次世界大戦後この施設に対して、米国には文句がないので放置されたそうですが、ロシアからは当然のように抗議があったようです。
ここには小学校時代、社会見学に訪れた記憶があります。
この現場での事だったと思われますが、先生方が言い争っていたという印象が、記憶の片隅の方に残っているような気がします。
担任の若い女先生は、それまでの指導方針に対して異議を唱えていたのかも知れず、現在までそんな意志が、自分の中で息づいていると感じられることに、感謝する次第です(古い話なので勘違いかも知れませんが、この地で記憶がよみがえりました……)。
いまから振り返ると、この「戦艦 三笠」は小学校の社会見学で訪れるべき施設なのかと、疑問に思ったりします。
現代ではそう考えられるとしても、当時はちょうど疑問視され始めた時代だったのかも知れません。
猿島(Map)
猿島は、横須賀新港の沖2km弱に位置する島で、連絡船桟橋は三笠公園の隣にあります。
これまで何度かチャレンジしたものの、人の少ない冬場は営業していなかったりで、今回初めての上陸になります。
この島は東京湾内唯一の自然島で、古い時代(縄文・弥生時代)には人が暮らしていたそうです(現在無人島)。
その立地が湾の入口に近いため首都防衛拠点とされ、明治以降は軍隊の要塞島とされます。
幕末、明治、(大正期の関東大地震で被害を受けたため)昭和と、3度にわたり砲台が築かれたそうです。
その気持ちは察しますが、結局東京湾には幕末の黒船以降、国を脅かすような海外の船は訪れてないと思われます(上空から攻撃されました)。
まあ、当時の島国の住人たちが講ずる国土防衛策としては、入江の中に敵を入らせないようにすべき、との考え方は納得できるところです。
無人島ですがレジャー設備は整っており、この時期には海水浴、バーベキュー、釣りに訪れる人たちでにぎわっています。
1995年に大蔵省から管理委託を受けた横須賀市が、散策路等の整備、航路および海水浴場を再開し、2003年に国から横須賀市が無償譲与を受けたそうです。
横須賀市の運営もしくは委託事業と思われますが、この辺りでは珍しい「10分で渡れる無人島」というイメージが受けているようで、成功している行政サービスと言えると思います。
どぶ板通り(Map)
心から胸を張っていたのかは分かりませんが、横須賀の代名詞的な基地前の商店街であることは確かです。
現在では「DOBUITA STREET」なる看板や旗が並ぶ、いまどきの通りになりつつあります(訪れる度にキレイになっていく)。
下写真は、付近の諏訪神社にある「Off Limits(立ち入り禁止)」の看板ですが、以前は比較にならないほど多くの看板が見られた記憶があります。
おそらく、日本人であれば即刻刑務所行きというような、犯罪行為が頻発した頃の「日本語が理解できなかった」という言い訳に対する防衛策なのだと思われます。
横須賀でも少し前に米兵による犯罪がありましたが、沖縄で米兵が起こす犯罪の数に比べれば非常に少ないように思われます。
その違いは、基地依存に対する地元住民の意識の差なのではないか? とも思えます。
基地にベッタリな沖縄とは違い、横須賀には軍需産業や、首都圏に近いため他にも働き口等の選択肢があります。
そんな比較から、産業なくして「基地サービス」だけを押しつけられても、身動きが取れないのは当たり前、と思える沖縄の応援をしたくなってしまいます。
基地が無くなるのが一番であると思いますが、その途端に彼らは途方に暮れてしまいます。
産業を振興しつつ、基地の縮小へと結びつくような妙案ってないのでしょうか?
明治時代から第二次世界大戦まで続いた、海軍横須賀鎮守府(ちんじゅふ:海軍の根拠地で艦隊の後方を統轄した機関。通称 横鎮:よこちん)の門前町として栄えたのが始まりだそうです。
以前は通りにどぶ川が流れていたため、海軍から厚い鉄板を提供してもらいどぶ川に蓋をしたことから「どぶ板通り」と呼ばれるようになったそうです。
戦後はアメリカ軍向けの土産物店、飲食店等が軒を連ねたそうですが、年々そんな面影も薄れているように思われます。
むかしは、肖像画店(あった、あった!)、ワッペン屋やミリタリーショップが、もっと多く並んでいた印象があります。
ここはご存知「スカジャン」の発祥の地になります。
はじまりは、米軍兵士が自分のジャケットに派手な、鷲・虎・龍等のオリエンタルテイストの柄や、所属部隊・基地等のエンブレムをデザインした刺繍を入れて、お土産にしたことによるそうです(それが『タイガー&ドラゴン』の元ネタなのかも知れません)。
またその名称は、土産物のジャケットの意味である「スーベニールジャケット」から「スカジャン」と略されたとする説が本筋のようです。
わたしは「ヨコスカのジャンパー」が略されたとばかり思っていました……
横須賀の町はそれほど大きくありませんから、兵士たちの遊び場も限られているように思われます(横浜辺りまで行くのだろうか?)。
ですが、「ジョージ・ワシントン」(原子力空母)が出航中は、町も静かになってしまうと思われます(現在は不在も、先日まで「ニミッツ」(原子力空母)が寄港していたそうです)。
基地の縮小を訴えるわたしも、空母一隻の出入りで町の景気が左右されては、商売にならないのでは? と思ったりします。
──「今度、ニミッツが来るよ」「いつ? 今年の夏休みなしだね」なんて会話は、ドラマでは使えると思われますが……
基地依存からの脱却を目指そうと考える人たちは着実に増えているようで、その結果「いまどきの商売」に切り替える人が増えているため、「どぶ板通り」という個性が失われているようにも思われました。
ファッションには詳しくないのですが、横田基地の門前町である福生はプチ・ブランド化しているように思えたので、横須賀も若い女性をターゲットにして、「ハマトラ」(ノスタルジーです…)ならぬ「スカトラ」(ネイビー感覚で少し活発なイメージ、とか)あたりを狙ってはどうか? と思ったりしました……
横須賀港(Map)
JR横須賀駅近くの岸壁には「ヴェルニー公園」のウッドデッキが広がっています。
──レオンス・ヴェルニー:横須賀海軍工廠(よこすかかいぐんこうしょう)等、日本の近代建設を指導したフランス人技術者。
ウッドデッキの足裏の感触はとても好きですし、写真のような電灯やベンチなどが配されていて、夕暮れ時などにはとてもいい雰囲気を演出してくれます。
しかし、海の向こうは米軍基地と自衛隊基地ですから、それをムーディーと受け止めていいものか? とも思ってしまいます。
これまでも「横須賀の基盤は軍需産業」を改善することなく、地元出身の元首相が支持されてきたわけですから、この町からは基地を切り離すこと、もしくは、軍需産業依存から脱却することは、非常に困難な事と思われます。
タイトルに込めた意味が、「ここは横須賀 軍事都市」と伝わればと思います……
P.S. 先日電車で、遠足と思われる小学生たちの団体と乗り合わせました。
いつもなら「ピーチク、パーチク」とやかましいはずの車内が静かなので、見回してみると、全員が新型インフルエンザ予防のマスクをしています。
確かに静かでいいのですが、「おしゃべりをするな」と、口をふさがれているようにも思えましたし、元気が無いようにも見えてしまいます。
普段の姿には「やかましいー!」と言いたいところですが、ボソボソしゃべる子どもたちの姿には、ゾッとさせられました(未来が暗くなりそう)……
可能な限り早い時期に、以前の「やかましさ」が見られることを願うばかりです。
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