2011/11/14

歴史はしかばねの上に……──東白楽、岸根公園

2011.10.29
【神奈川県】

 このところ急に日中も冷え込み始め、薄手のコート類は出番なく冬に突入しそうな勢いです(と思えばまた暖かかったり)。
 11月となればわれわれの感覚では「冬支度」の季節感を持っていますが、温暖化時代に育つ子どもたちは、11月に「衣替え」の季節感をイメージするようになるかも知れません……


より大きな地図で 東横沿線 を表示

 東横線は渋谷から南西方向の横浜に向かいますが、その駅の並びに「白楽」の次が「東白楽」では方向が逆じゃない? の疑問を感じる区間があります。
 この場所の地図を見れば、南西に向かっていた路線はこの区間だけ南東に向かっていることが分かります。
 住所表記にも白楽の地名はないようなので、駅名決定時にその位置関係を明確に示したかったのかも知れません。


孝道山本仏殿(Map)


 東白楽駅付近の車窓から丘の上に見える寺院は「孝道山本仏殿」とされる、法華経の教えから派生した新興宗教教団の寺院です(昭和27年建立)。
 法華経は聖徳太子の時代に日本に伝えられた仏教の重要な経典で、日本では明治維新まで「護国の経典」とされます。
 聖徳太子以来、皇室で尊ばれたため、後の日本に開かれた宗派は最澄の天台宗を始め、みな法華経から派生したものと言えます(空海の真言宗は別の道を歩むも、最期の著で受け入れたそう)。


 丘陵地上の寺院へ向かう坂には、聖徳太子時代からの法華経の歴史を解説する看板が並びます。
 その案内設置には、現代の日本に広まっている仏教の教えと「ルーツは同じですよ」と、知ってもらいたいとの願望が感じられます。

 この日の境内は毎年10月31日・11月1日の2日間開催される、「大黒まつり」の準備でテントやパイプ椅子が並べられ、お寺らしからぬ慌ただしさがありました。社会福祉への貢献姿勢をアピールする新興教団の広報活動なのでしょう。
 そこでは難民支援協会(トルコ地震で亡くなられた方は難民を助ける会なので、いくつもの団体があるようです)が「タコス」の売店を構え、インドムービーダンス(インド映画で見られるダンスパフォーマンスで、マツケン・マハラジャ:松平健のPV制作に協力したBiNDU)の出し物や、もちろん震災被災地からのブースもあります(場所指定の張り紙を見ただけですが)。
 それは、仏教の「教え」を接点としたカーニバルのようで、イベンター側にとっては羽目を外さない限り無限の広がり(可能性)があるように思えます。
 機会があれば、一度のぞいてみたい催しです。


 以前から気になっていたのが、孝道山の手前で存在感を示す中央分離帯が並木(花壇)とされた、幅は広いが長さは短い坂道です。
 歴史ある並木道なら花壇にできませんから、計画倒れの高級住宅街の道のような中途半端な印象があります。
 これは想像ですが、お寺の案内図に組み込まれているので、以前はその先の急斜面に階段の参道があったのかも知れません。
 車社会への対応や、幼稚園などの事業展開による自動車道設置の要求から、別の場所に新しい急坂の車道を「無理やり」作ったのでは?(法華経の看板を読んで、休みながら登る急坂)
 そんな理由から、存在感はあるものの主を失ったような、宙ぶらりんな道が残されているのかも……


岸根公園(Map)

 最寄りに横浜市営地下鉄ブルーライン「岸根公園駅」があるので、横浜駅や港北ニュータウンからのアクセスはいいのですが、東横沿線からはどうも行きにくいので、東白楽を通るバスでアプローチしました。

 右写真の篠原池や広場がいくつも連なるので、家族や仲間で思いっきり走り回れますし、一画には県立武道館や野球場(2つ)もある広大な施設です。
 袋に入った弓を持つ方を多く見かけたので、大会があったのかも知れません。

 このサギは結構大きいので、すみ着いているのかとカメラを向けると、同じ水面にカワセミがいました(下写真は200mm望遠レンズ撮影のほぼ等倍)。
 体が小さいので肉眼ではハッキリ分かりませんが、カメラでのぞけば確かにカワセミです。
 詳しく観察できずも、カワセミと判別される「ヒスイ(翡翠)」色を身にまとうのは、目立ちすぎじゃない?
 と思うも、彼らの体は本来青くなく、光の加減で青く見える「構造色」とされるCD等の盤面やシャボン玉と同じで、自身に色は持たずも微細な構造で光が干渉するため、色づいて見えるそうです。
 確かに、角度によって色が変化するように見えるので「ガッテン!」ですが、そうなると「無色の姿」を見たくなります。
 でも、CD盤のように灰色だったらちょっと悲しい気がします。

 動きが俊敏で色の見え方が多彩ならば、さまざまな姿を撮りたい被写体として人気が高いはずも、ここにはカメラを構える人は一人もいません……


 確かに魅力的な被写体ですが、これまで歩いた多摩川を中心にした水辺では、カワセミ出没のうわさを多く耳にしましたし、プラプラ歩くわたしでも2度目の遭遇になります。
 これは多摩川周辺で目にする頻度が高まったことの現れで、環境改善(だったらいいですね)や生態変化(以前のすみかの環境悪化・天敵の増加)等が考えられますが、めずらしさは失われつつあるのかも知れません(もしくは、ここは休息地で獲物を捕らず動かないのか?)。
 いずれにしても、小さいながらもカラフルさを楽しめますから、見飽きたカラスやハトだけじゃないという状況は、とても喜ばしいことです(水辺にサギの姿も当たり前の印象となりつつあります)。


 この広大な公園には1972年まで、米軍の「岸根キャンプ」がありました。
 敗戦後の接収にはどこも理由があるもので、ここは1940年(第二次世界大戦の開戦は1941年)に始まった「防災緑地を兼ねた公園整備」とされる工事は「日本軍の高射砲基地建設」(厚木・立川飛行場を守るため?)とすれば、接収後は好き勝手に使用されてしまいます。
 当時近くに暮らした方によると、ベトナム戦争当時(1960年〜75年)に大型ヘリコプターが日々発着するのは、戦地での負傷兵が運び込まれる病院施設だからとうわさされ、「篠原池からホルマリンのにおいがした」→「死体処理施設」(報道等の「遺体」の表現ではない市民の表現)ではないか? とされていたそうです。

 わたしが育った相模大野駅前には、地元で「米軍病院」と呼ばれた「米軍医療センター(1981年返還→現在の伊勢丹周辺)」が鎮座し続け、上述同様にうわさの絶えない一画でした。
 戦前も相武台陸軍病院ですから疑いようもありませんし、隣接の中学に通った時分はヘリコプターが下りる度に「また死体が運ばれてきた」と、授業中に話していました。
 現在その地には、広々とした公園・集合住宅・高校などが作られ平和利用されていますから、過去の出来事を学びながらいい汗を流すことで、その地に新たな歴史を築いて欲しいと思う次第です……(歴史は屍の上に作られる)


 上写真2枚は、コロシアムのように中央がくぼ地となった底に立つ木で、こんな地形は子どもの目にダイナミックな印象に映るのでしょう(大人も同様ですね)、斜面を思いっきり走り回る姿を目にできますから、親としてもまた連れてきたいと思うことでしょう。

 しかし、眼前の光景とはかけ離れた現実を、福島の人々は突きつけられています。
 福島の子どもたちの成長(体重増加)が鈍ったのは、原発事故により屋外で遊べないことが考えられる、という研究結果が発表されました。
 そんなことは「人の親なら誰でも分かる」のだから、憲法にのっとり「健康で文化的な最低限度の生活」を早急に実現すべきと思えてなりません。
 除染に年単位の時間を要するならば、子どもたちの「集団疎開」も必要ではないか? と思ったりします(戦時中の子ども時代に疎開を経験した親の年代の人々は、たくましくわれらの世代を育ててくれました)。

「ガキ時分に故郷の福島で原発事故が発生したせいで……」ではなく
「原発事故で○○に疎開して大変だったけど……」と、プラス思考にとらえられるように導いてあげたい、と願ってやみません。


 以前バスを乗り間違えた(詳細は長くなるので省きます)と書きましたが、この日の帰りにはイメージしていた路線のバスに乗ることができました。
 その路線に乗ると、丘陵をひとつ越えて10分程度で妙蓮寺駅に着きます。
 ただとても本数の少ない路線で、日曜のせいか16時台に乗った便が最終となります。
 それは乗り間違えただけでなく、そのルート選定自体が間違っていたようです……

0 件のコメント: