これほどまで自然災害の脅威にさらされねばならないのか?(せき止め湖は満水状態、名古屋では100万人単位の非難指示等)
大震災でちょっと気の弱っている島国民族には、「いい薬だ」なんて強がれない状況に思えます。
しかしこの国の民は、数知れない水害や飢饉(ききん)を経験し、その度ごとに助け合い存続してきた民族ですし、山の土砂崩れ(山は崩れて平地を作る)を防ぐことは無理でも、土石流から堤防の決壊を防ぐバッファ(緩衝地帯)構築については、何か知恵があるように思います。
冷静に考えて、整理して可能な事から対処していけば、放射線汚染を含めて「日本沈没」しない限り、切り抜ける希望が持てるはずです。
歴史の授業で学んだ「○○の大飢饉」のように、歴史に残るであろう「平成の大災害」から、「こうして立ち直りました!」の知恵を後世に残すくらいの意気込みが無ければ、子どもたちに笑われてしまうかも知れません……
2011.9.3
【神奈川県】
菊名駅は、東急東横〜横浜線の乗り換えに利用しますが、改札を出ることはほとんど無く(一度新横浜まで歩いた覚えがありますが、理由は覚えていません)、何も浮かんでこない地なので寺社に頼ることとなります。
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菊名神社(Map)
以前各地の神社でよく目にした案内板が現役で掲示されています。
大量に配布するためイラストもプロに依頼したのでしょうし、ソックスにサクランボが飾られてたことも、記憶からよみがえって来そうな気がします……
神社の伝えでは、室町時代初期に鎌倉鶴岡八幡宮から神霊を招き社殿を建立したそうで、明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:仏教関連施設や、関連者等が受けていた特権を廃する)により格上げされます。
しかし、以前訪れた住吉神社(元住吉)は、1909年(明治42年)政府の「神社合祀政策」により生まれ変わりますが、ここは1935年(昭和10年)周辺各村の神明社・杉山神社・阿附神社・浅間神社の合祀で「菊名神社」とされたので、当時はかなりの田舎だったように思ったりします。
加えて神社自慢の、石造りの手水鉢を四方で支える鬼の石像「がまんさま」を無視して、その上の看板を撮ってしまい関係者にしかられそうです……
現在社殿を修復中の菊名神社ですが、今年の例大祭は9月17〜18日に行われたようです。
現在の境内は広くありませんが、多くの神社が合祀された経緯から氏子衆のすそ野は広く、多くの神輿が参加することで有名だそうです。
この地は昔「葛名」とされますが、菊の花で名が知られるようになり「名菊」と改名しますが、その語感が「嘆く」を想起させるのため、菊名とされました(新編武蔵風土記)。
江戸時代までは武蔵国橘樹郡菊名村と称したそうで、近隣でこれまでも橘樹郡(たちばなぐん)の字面を目にするも読めないので飛ばしていましたが、武蔵国なので東京に属していたわけです。
他人事と思っていたら、そこには川崎市の大部分と横浜駅付近までが含まれていました。
おそらく、氾らんを繰り返した多摩川両岸の東京と神奈川側に同じ地名が残る歴史同様に、川をはさんだ仲間意識があったように思われます。
ましてや、現在からは想像できないほど貧しかったであろう神奈川の農民が、東京とのつながりを求める姿勢が強かったことは、当然ではないかと思われます……
菊名駅(Map)
以前、東横線駅に停車する車両は踏切にはみ出していました。そこは活気ある駅前の生活道路だったので、「この踏切は閉鎖できないだろう」の印象がありました(現在も東急大井町線の九品仏・戸越公園駅では「ドアカット:ホームからはみ出す車両のドアを開かない」状況が続きます)。
東急電鉄にすればメイン路線の、現東京メトロ日比谷線直通運転の起点駅でもあり、何としてもホームを伸ばす必要があったでしょう。
結局は自治体の判断により、開かずの踏切に文句を言ってもらちが明かないため、踏切自体を無くす決断で「イライラ」から解放し、新たな町の発展につなげるビジョンのはずが、現在も駅前の渋滞は相変わらずです。
人や車の流れは、利用しやすい谷間の平坦地を目指しますから、この地では、鉄道や街道の集中する駅前付近の再開発だけでは解決できない、立地問題(谷間に位置する)があります……(右上写真は閉鎖の踏切跡)
JR横浜線は、1908年(明治41年)信州や八王子で生産された生糸を横浜から船で輸出するために、横浜鉄道により東神奈川駅〜八王子駅間が開業します。
当時は貨物輸送が目的のため、横浜駅ではなく海神奈川駅(現在の瑞穂埠頭)にあった横浜倉庫を目指しました。
菊名駅は、1926年(大正15年)2月に東京横浜電鉄(現東急東横線)開業、同年9月に国鉄の駅が開設されます(右写真)。
しかし、東横線開通当時の駅予定地は現在より横浜寄りで、駅を中心とした放射線状の道路を基盤に田園調布・日吉のような住宅地開発の構想がありましたが、横浜線との乗り継ぎのため駅を現在地に変更したそうです。
東横線横浜側最初の踏切付近には、その名残りのような錦が丘ロータリー(下写真)があり、そこを中心に放射状に伸びる道路に沿って住宅地が広がっています。
閑静な住宅地ではあるものの、斜面が急なので徒歩での買い物には難儀そうですし、自転車はほとんど見かけません。
駅には東横線をまたいで東口と西口があり、JRの改札は西口側にあります。
直線距離では西口から近いこのロータリーですが、上の横浜線ホーム写真の場所から、かなり急勾配の丘を越える必要があります(右写真の桜並木は丘を越えた辺り)。
写真にある桜の樹齢から推測すると、かなり以前からこの丘越えの道が生活道として利用された様子がうかがえ、わたしには無理ですが「坂のある町」に暮らす覚悟が感じられた気がします……
駅自体が谷間に位置するので、周辺ではどちらの出口も道路は非常に狭く、バスやタクシー等のターミナルを作る余地はありません。
そんな土地柄に新幹線の駅を作ろうにも(新横浜駅開設前には菊名を推す声もあった)、地形条件や将来性の観点からも無理だったこと納得できました。
そうそう、1988年から横浜線で快速列車が運行されますが、当初菊名は通過駅でした。何でも「東横線への利用客の流出防止対策」というのがJRの主張だそうです。
とても勝手な言い分に加え、駅周辺住民による市民運動も無視されます。
それが2006年快速停車駅とされた理由には、「東横線の横浜〜桜木町間が廃止(みなとみらい線接続のため)され、東横線沿線から横浜線桜木町方面への乗客を取り込むための停車」へ方針転換したとされます。
何だかよく分かりませんが、民営化後も大企業の「メンツ」が見え隠れするのは、公共性を重視すべき鉄道事業者として、どうかと思ってしまいます。
本乗寺(Map)
上述の開かずの踏切付近に設置された歩道橋を渡った東横線の反対側には、大倉山駅近くから広がる大豆戸町(まめど)に本乗寺があります。
おそらく丘陵地全体が寺の敷地だったようですが、端には八杉神社があり、縁からは住宅が迫っています。
その本堂正面に上写真のニワトリが立ちつくしています。
ニワトリって片足で立ちました? もし足が一本だけでは歩けないので、バタバタ飛ぶまねで移動するのか?
賽銭箱の裏にいて気付くのが遅れ、近い距離で互いを意識し合うも、撮影の間ばかりか帰り際に振り返っても一歩も動かない姿には、寺の主のような存在か? と思ってしまいます……
法隆寺(Map)
東神奈川方面に向かう横浜線が、尾根上を通る綱島街道をトンネルで抜ける辺りに、この寺があります。
関心としては「横浜にも法隆寺がある」というものですが、現法隆寺交差点付近には高速道路横浜環状北線のインターチェンジが建設中で、京浜急行生麦駅付近の斜面に掘られたでっかい穴から地下でつながるようです(第三京浜まで接続の予定)。
生麦付近の穴がどこに続くのか気になっており、納得できたので今夜はグッスリ眠れそうです……
ここは日蓮宗の寺で、背後の丘陵地にお墓が並びますが、その上を綱島街道が通り、その地下に穴を掘られインターチェンジが作られると、これまで以上に騒々しくなりそうです。
蓮勝寺(Map)
ここは綱島街道沿いにある寺で、帰り際に立ち寄りました。
境内に京都でよく目にした、石に縄を縛った「禁足(立入禁止)」の印があります。
アイコンとして示し、その姿から読み取れとする(?)狙いはとても粋に感じられます。
でも今どきでは「あのアイテムは何?」「お宝ゲット!」とされては困りますから、くれぐれも手にせぬように……
追記──昨日(更新予定日)に遭遇したトラブルについて
本日の時点では復旧していますが、このBlogで使用しているBlogger(Google)システムのアップデート作業に巻き込まれたようです。
近ごろ盛んに「新しいインターフェイスを使え」と勧誘されるも、使わないでいましたが(Topページはやむなく切り替えました)、本文ページにもその「押しつけ」が始まったようです。
「ここ1週間程度のデータにアクセスできなくなっています」は、アップしていない編集中ページは「下書き」となり、新しいバージョンでは「下書きを表示しない」が選択されていたようです。
それを知っていれば対処できても、編集中に切り替わってしまっては、どうしたものか? と途方に暮れてしまいました。
どのシステムでも同様ですが、「これは素晴らしいから使ってみたい!」と、アクションを起こさせる魅力のないまま「お試し下さい」と、モルモット的に強要させるのはどうかと思います……
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