2009.9.13
【神奈川県】
事前調査として、アバウトな予定ルートは調べますが、イベントを目的とする以外は催しの予定までは調べないので、祭礼の日の当たった際には、どちらかというと「参ったなぁ…」の印象があります。
そんな時には、ガキのころによくやったボードゲーム(バンカースだったと思う)の、「祭礼」のマスに止まると「一回休み」というルールを思い出したりします(角のマスじゃなかったか?)。
ガキの頃は「お祭りなんだからラッキーな事があってもよさそう」なんて思っていましたが、実際は町の機能は止まってしまうし、思った行動が取れなくなってしまいますから、行く手を阻まれる「一回休み」ということを、実体験として納得させられます……
タイトルとした「祭礼の町」ですが、むかしの映画『サード』(1978年 監督:東陽一、脚本:寺山修二)の原作がそのようなタイトルと思い調べてみると、『九月の町』(軒上泊 著)でした。
どちらも秋祭りにちなんでいるので、かすったことにして……
浦賀ドック(Map)
前身である浦賀造船所が作られた経緯は、やはり黒船来航(1853年)に慌てて、軍艦の製造を始めたことによります。
江戸時代の鎖国政策下では、外洋に出る大型船は必要ありませんから、建造すら禁止されていました。
この地で国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」(1854年)が建造されますが、勝海舟には「外観を西洋船に似せただけの、役に立たない悪船」と酷評されたそうです。
結局、アメリカへの渡航(1860年)には、オランダ製の「咸臨丸(かんりんまる)」を使用することになります。
直前の1859年に日本初のドライドックが完成し、咸臨丸の整備はここで行われたそうです(上写真正面が水門)。
富国強兵の時代にはいると、艦艇の建造は横須賀へ移され、浦賀造船所は1876年に閉鎖されます。
その後、民間会社が同じ地で事業を始め、自衛隊艦艇の建造、米空母ミッドウェイの大規模改修や、日本丸(帆船)建造なども行われたそうです。
2003年に閉鎖されますが、世界に4カ所しか現存しないレンガ積みドライドックとのことで、跡地は野外ミュージアムとして整備されるそうです。
で、何かその形が見えるかと思っていたのですが、工場の撤去って時間がかかりそうですし、まだ先のようですが、楽しみにしております。
でも、浦賀を支えてきた大工場が閉鎖されてしまうと、地元の活気も失われてしまったのでは? と思ったのですが、祭りは元気です。
西叶(かのう)神社(Map)
叶神社例大祭に初めて遭遇しましたが、かなり気合いの入ったお祭りのようです。
クライマックスは宵に入ってからと思われ、昼間は見学者よりも担ぎ手の、はっぴに半股姿の人たちの方が多いことと、神輿(みこし)と山車の数の多さに驚かされました。
ここで用語解説(祭りには縁が無いもので、上の説明のためにあれこれ調べました)。
Q:はっぴ(法被)と半纏(はんてん)ってどこが違うのか?
A:はっぴの方が汎用的だそうですが、祭りなどの衣装では同じと考えてよい。
Q:その下にはいているバミューダパンツ(懐かしい名称)丈のパンツは何と言うのか?
A:半股 or 半股引:はんたこ or はんだこ と言うそうで「裾口をピッタリさせるのが粋です!」の宣伝文句があったりします。別業者の「パッチ」の表現が一番分かりやすかった気がします。
伝わったでしょうか?
宵の盛り上がりを見てないので分かりませんが、優劣を決めようとするものではなく、山車が接近した時にお囃子の競演があったり、各町内の神輿の担ぎ方(子ども神輿を含め)のお披露目を目的にしているように見えました。
お囃子合戦でリズムが狂った方が、道を譲る等のバトルではないようです。
平地の狭い地形条件ですから、行列になって練り歩くだけでも、人があふれてしまいそうです。
むかしから、ヤンキー兄ちゃん・姉ちゃんたちは「祭りでキメル」ことに情熱を燃やしていたのでしょう。
中でも格好良かったのは、子ども連れの元ヤンキー的なお母さんです。
様になってますし、引率ではなく、統率しているような姿には、はっぴ姿の子どもたちも、カルガモのヒナのようについて歩いてました。
わたしが見た限りのMVPは、両肩に神輿ダコがポッコリ出ている姿を見せびらかすように、上半身裸で悠々と歩いている方でした。
写真撮りたかったのですが……
ここは1181年、平家支配に不満を持っていた京都神護寺の僧侶が、源頼朝の旗揚げに際して源氏再興祈願のため、石清水八幡宮を勧請(かんじょう:分霊を他の地に移し祭る)したことから始まりました(鎌倉の鶴岡八幡宮等も同様で、石清水八幡宮を源氏の守り神としています)。
1186年の平家滅亡により、その願いが叶ったことから「叶明神」とされるようになったそうです。
本家はこの西叶神社ですが、浦賀湾の対岸にはここから勧請された東叶神社(右写真)があります。
湾の入口付近の両岸に、門となるような鎮守を構えようとするセンスは、どちらも海の守り神であったとしても、外敵を前提とした守りの形に思えてしまいます。
由緒については諸説あるようですが、鎖国時代には外敵という意識すら無かったと思われるので、後の時代と考えた方が理解しやすいと思われます。
燈明堂跡(Map)
写真の建造物は再建されたものですが、出来の悪いロボットのように思えてなりませんでした。
1648年に幕府の命で造られ、1872年に廃止されるまで菜種油で光を灯していたそうです。
その光は、海上約7.4kmを照らしたとされますが、先日の観音崎灯台の光達距離は約35kmだそうですから、外国からダークシー(Dark Sea)と言われたのも納得できます。
ここは海辺の丘という場所柄になりますが、一応は岬ですから浦賀湾内に比べれば、高い波が音を立てて押し寄せてきます。
砂浜や岩場でバーベキューをしている方もいましたが、子どもが遊ぶ岩場にしては波が高いと思うので、気をつけて下さいね。
浦賀の渡し(Map)
久里浜へ通じる峠道の入口なので、かつては街道的な性格を持つ渡しだったのかも知れません。
渡し船は、浦賀に奉行所が置かれた後の、1725年頃に始まったとされ、軍艦建造が盛んだった大正〜昭和期には、湾の内側にもう1路線渡し船があったそうです。
以前はポンポン船(焼玉船:始動時に「焼玉」を外部からバーナー等で加熱して始動させるエンジンを積んだ船)が運行しており、この地の風物とされていたそうです。
約3分程度の距離なので時刻表はありませんが、その代わりに呼び出しボタンがあるので、船が対岸にいる場合などには、ボタンで呼ぶことができるようです。
運賃は150円ですが、湾に沿って歩けば30分程度は掛かりそうですし、直通のバスもありませんから、妥当な値段になるのでしょうか。
徳田屋跡(Map)
黒船来航を期に、浦賀を訪れる人が増えたことは言うまでもありません。
しかしこの地は宿場ではなかったため、船乗り以外の旅人を宿泊させることは禁止されていたそうです。
そんな状況で幕府に許可を与えられたのが、浦賀湾東岸では徳田屋になります(石碑と案内板のみ)。
ここでは、当時の長州藩にあった「松下村塾」(山口県萩市)の塾頭である吉田松陰が、ペリ-来航時の対応策について、徳田屋主人の情報をもとに、 師の佐久間象山等と協議したとされています。
その時点で、黒船は2度目の来航になるので、松陰たちは「手の施しようのない状況をしきりに残念がり佐久間象山やその門下生たちと、 今後の日本のとるべき方向などを語った」と、横須賀市の提供ページにあります。
「井の中の蛙」であることを理解していた彼らにしても、「自分たちに何が出来るのか」についての答えが見つからずに、混乱していたことは、想像できる気がします。
それでも、アメリカ密航を行動に移した姿勢というものは、後に続く長州藩の塾生や、後世のわたしたちにも訴えるものがあると思われます。
松陰という人は、突出し過ぎていた印象があるのですが、その意志を高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)が、自制しながら受け継いだおかげで、明治維新をむかえられたと思う面もあります。
まさに「礎」と言われる人なのかも知れません。
東叶神社(Map)
以前は、湾を囲む岬の先端のような場所柄でしたから、静かな漁村だったと思われます。
今では、その先を埋め立てて、マリーナや団地などが建てられ、観音崎方面へと道路が続いています。
ここは江戸時代までは永神寺といい、真言宗醍醐寺派三宝院に属する、三浦半島において本山とされるほど格の高い修験道のお寺だったそうです。(上写真は神輿の上の飾り)
──醍醐寺三宝院の記述を目にするたび、「桜しか見てこなかったからなぁ〜」との後悔を繰り返しています……
高い山のない三浦半島にも、修験道の修行地が多くあるということは、低い山でも俗世から離れることができる、田舎だったということなのでしょう。
確かに、裏山へと続く階段があり、修行の場とされた後、戦国時代に築かれた浦賀城跡があるそうです(未見)。
その地において、咸臨丸で渡米前の勝海舟が、断食修行を行ったとされています。
しかし彼は船に弱かったそうで、航海中は病人同様のありさまだったとのことです。気合いはいれたのでしょうけれど……
近ごろの売りとしては、西叶神社の「勾玉(まがたま)」を、東叶神社の「袋」に納めることで、恋愛や、仕事・友人等の良縁に結ばれるという、お守りがはやり始めているそうです。
ちょうどいい散歩になりますし、いいアイディアだと思いました。
P.S. 政権交代してまだ日は浅いですが、庶民の政治への関心度は、前政権時に比べると非常に高まっているという印象を受けます。以前は「庶民が何を言っても変わらない」というあきらめムードがありましたが、現在は「ひょっとしたら、通じるかも知れない」と感じているように見えるところが、この国にとっての「光明」になるのかも知れません。とにかく、頑張ってもらいたいところです。
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