2011/04/11

被爆国が自爆する自己矛盾──震災後四週間

2011.4.11

 近ごろ若者が連呼する「ありえな〜い」は、すっかり軽薄語(そんな言葉はないにせよ)と化していますが、本来使われる状況に遭遇してみると、そんな言葉すら出てこないことに驚きます。
 この国が歩んできた歴史を「義務教育」で学んだ者ならば、誰でも許されざる行為と認識することが「国の自己都合」で行われました。

 「自爆」という物騒な表現をしましたが、現在の福島第一原発における状況は「放射線物質に汚染された水を自らの意志で海に放出」しているわけで、「止めようとしても流出してしまう」とは意味が違います。
 海と共に生きてきたこの国が海を廃棄場に選択したことは、これまでの国の生い立ちと未来を放棄する行為であり、原爆による放射線被害を被った国の選択として「あり得ない自己矛盾」に陥っています(その行為は、核兵器同様の環境汚染と健康被害を拡大させます)。
 近ごろよく耳にする言い訳「放射線は海水中では拡散しますから濃度は薄まります」の意味を理解して発しているのか、一国の官房長官が軽々しく繰り返せる言葉で無いことに気付くのは、環太平洋の国々から集中砲火を浴びる時なのかも知れません。
 福島県浜通り地域を汚染地帯として半永久的に閉鎖するか、太平洋の生物たちを放射能汚染の食物連鎖に巻き込むか(現在は小魚でも、そのうちマグロも出荷制限になるかも知れません)の選択肢から、地球全体にまき散らすことを選んだことになります。
 海を汚す権利は誰にもありませんから、そこには明らかに「人間本位の思想」が見て取れます。
 国の中枢機関が「原子炉を制圧せよ」「国民の不安を和らげよ」という「島国根性的パニック」に陥ってしまい、海の向こうまで関心が及ばなくなってしまう状況だとしても、そんな理由で許される行為ではありません。

 専門は違っても「科学」をかじった者としては、人類英知の力不足を思い知らされ、例にはふさわしくないかも知れないが、第二次世界大戦敗戦時の「御破算(これまでの積み重ねが無に帰す)」に通じると思われる無力感に襲われました。
 原子力開発は、戦争とは違うので勝ち負けではないにしても「負けは許されない」挑戦のはずでしたが、完全な「制御不能」に陥りました。それを「思い上がり」と言うのでしょう。
 「人類は放射性物質を制御できない」という事実に反論される方がいたら、早急に福島原発で対処願いたいところです。

 一刻も早い放射能封じ込めを願うものですが、沈静化後には「ノーモア福島」「ノーモア原発」という国民感情の爆発は必至ですから、(言葉は悪いが)この事態をバネにクリーンエネルギー転換を進めることを、復興・再生のスローガンにすべきではないか、と思っています……


2011.4.2
【神奈川県】


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根岸駅

 JR根岸線根岸駅からの光景です。
 海側にコンビナートや工場が並んでいた印象はありましたが、ここが震災被害で操業を停止した国内最大級の新日本石油根岸製油所であると、今回初めて認識しました。
 黒船来航時には、背後に迫る急峻ながけが海岸線だったのでこの一帯は埋め立て地になりますが、液状化の被害を受けていたら復旧が相当遅れたかも知れません。
 東北方面を震源とする地震で被害を受けたのですから、関東を震源とする地震を想像すると言葉が見つかりません(この施設の復旧で、首都圏の燃料不足にメドが立ったとされますが、千葉県五井の製油施設ではそれ以上のダメージを受け再開の見通しは示されません)。

 しか〜しここには、震災などには揺るがない(?)自分本位の趣味や関心のままに行動する「貨物車両ファン」が集まっています。
 自分としては、この施設の操業停止で首都圏の燃料不足が生じたことを、工場と燃料輸送車両を一緒に撮って伝えようと考えていましたが、仲間と思った彼らは「今日は黒いのは間に合わなさそうですねぇ」と声を掛けてきます。
 「黒いの」とはおそらく、近ごろの燃料輸送車両は写真のようなカラーリングになっていて、昔からの黒いボディの車両が珍しいことによるのではないか? と思われます。
 こんな時だからこそ撮りたい、という気持ちも分からないではありませんが、「チーム日本」は大丈夫か? と思ったりします。
 彼らにすれば、日々耐えながら働いているのだから「休日くらい自由にさせてくれ」でしょうし、それはわたしも同じなのですが……


三渓園


 桜の開花をどこで楽しもうかと考えた時、梅林が見事な三渓園が思い浮かんだのですが、咲き始めだったこともあり期待感は外れ、「あれ?」というくらい桜の存在感がありません。
 満開の時期であれば、華やかさのある花なので満足できたのかも知れませんが、「桜は三渓園じゃないよね」の認識があるのか、思ったほどの人出ではありません(本牧から正門に向かう道の桜並木は立派です)。


 シダ類植物のようですが、とても繊細そうな毛に覆われた姿が「まだ寒いけど大丈夫かな?」と、春の訪れを待ちきれない姿のようにも見受けられます。
 温暖な陽気の訪れで、芽吹きの様子を目にする季節に何とも眠気に誘われるのは。寒さの緊張感から解放されたことで「少しリラックスしようぜ」と体が言っているんでしょうね。


 確かに穏やかな陽気ではありますが「野外でアイスを食べる時期?」と思うほど、アイスを手にした人を見かけました(それも春の開放感なのでしょう)。
 近ごろのはやりは、口が広く開いたコーンに入ったアイスをスプーンで食べるスタイルのようです。
 アイスくらいは食べますけど、幾度となく「甘くないから」の言葉にだまされてきたので、警戒心が先に立ちます……


 上写真はコブシの花で、春の新芽野菜のように少し刺激のある香りが春らしさを感じさせてくれます。
 花の旬は短いようで、すぐにだらしなくなったり黒ずんでしまうので、いい状態の花を探すのは苦労します。
 コブシ側の戦略としては、春先の白い大きな花と特徴ある香りが売りなのでしょうし(確かに桜の仲間たちとは主張が違います)、圧倒的な数の桜の中で生き続けているのですから、虫たちの中には「コブシふぁん」がいることでしょう。


 今回の震災でもう一つ思い知らされたのが、印刷メディアが「災害に弱いメディア」であるという事実です。
 速報性の面では、既にネットメディアから完全に置き去りにされた感がありましたが、今回の震災では完全に引導を渡された印象を受けます。

 用紙ばかりかインキ供給のめども立たない現在、「工業製品」を必要とするメディアではその材料を調達できずに(大手印刷会社でも四苦八苦する状況)、発売延期が相次いでいます。
 一方ネットメディアでは情報を発信できれば、混乱の中でもそれを欲するユーザーが新たなルート(Twitter等)を模索する可能性が開けています。
 もちろん電気が無ければ稼働しませんが、基地局の被災でダウンした電話系通信網とは異なり、回線経路が多様なWWW(ワールド ワイド ウェブ:世界に広がる蜘蛛の巣)の強みや、電力消費の少なさが威力を発揮しました。

 今回のような非常事態において必要とされる「情報」の速報性や正確性に統率が取れていれば(情報の自浄作用が働けば)、文化を気取るメディアは暇ネタとして「昭和期の遺産のような流通」をしていて結構、と言われているような気がしました(わたしもその「文化」が売りと思っていました)。

 ひと息つけたつもりでも、大きな余震がありますから「われわれはまだ、非常事態のさなかに置かれている」ことを再確認する必要があります。
 確かに「できる事」「やるべき事」をひとつずつこなすしかないので、文化を語るレベルには至れない状況です。
 しかしそんな状況だからからこそ、新しい文化の芽が生まれてくるのかも知れませんし、震災前からそれをかぎつけ「スマートフォン」を手にした人々の嗅覚の確かさには、「はやり」「便利さ」を求める以上に「現代を生きぬく必需品」という側面もあったかと、教えられる気がしました……

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