2010/06/07

抑止力とされた城──小田原

2010.5.22
【神奈川県】

 これまで湘南とされる地域を歩きましたが、小田原は湘南に含まれないイメージがあります(駅伝では五区山登り走者にたすきをつなぐ箱根の入口)。
 湘南は酒匂川(さかわがわ)までかと思っていましたが、神奈川県の行政区分では二宮町までで、JRの駅では二宮と国府津の中間あたりになります。
 ですが、自動車の湘南ナンバーは真鶴町まで含まれるので、境界はあいまいなようです。
 まあ、小田原まで行けば、湘南の端まで歩いたことになるだろうと(二宮〜小田原間は未踏)向かいましたが、座っていてお尻が痛くなる距離でした……


五百羅漢(玉宝寺)(Map)

 何となくこの付近に、五百羅漢(玉宝寺)があるという記憶を頼りに(五百羅漢の駅名を覚えていただけか?)、かなりごぶさたの大雄山線(だいゆうざんせん:小田原駅〜大雄山駅)で、初訪問しました。
 羅漢像は、境内に並ぶ石像かと思っていたら、50cn前後の木彫り(と思われる)像に金箔等の装飾されたもので、堂内に納められていました。
 ──羅漢とは、インドの仏教一般において「尊敬されるべき修行者」(ブッダの高弟)を意味します。ブッダの入滅後、仏典編纂に集まった500人の聖者を五百羅漢と称し、尊敬の対象とされました。
 禅宗においては羅漢を敬う教えが重視されるそうです(この寺は曹洞宗)。


 上写真の、座布団の上に置かれたものは「坐蒲」(ざふ)というもので、その上に座って坐禅をします。
 早朝に座禅会が開かれているようで、片づけてないだけ? とも思えますが、京都の建仁寺でも置かれたままになっていました。
 でもこの光景からは、坐禅時の静寂が想起できますし、どんな立派な寺の門構えよりもストレートに、「禅入門」に必要とされる心構えが理解できる気がしてきます……


小田原城(Map)

 室町時代に築城され、1500年ごろに小田原北条氏(北条早雲)の居城となってから、関東制圧の拠点として拡張され、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも揺るがない、難攻不落の要塞城と評されました(戦国時代は1493年〜1573年とされる)。
 そんな万全の備えで、天下統一を目指す豊臣秀吉を迎え撃つことになります(1590年)。
 秀吉は20万を越える大軍で城を包囲し、箱根側の山上に有名な一夜城(ハリボテと聞きます)を築き、大阪から淀君を呼び寄せ宴を開いたそうです。
 そんな状況下で、対抗もしくは開き直ったのか、籠城する小田原城側でも宴を開いたんだそうです。
 結局大きな戦いもなく、圧倒的な兵力の前に城は無血開城されます。

 それ以前も、強さを誇る上杉や武田の軍が本気で戦ったとすれば、城を攻め落とせたかも知れません。
 しかし勝ったとしても、その代償の痛手は一大名にとって、大きすぎると判断したように思います。
 そんな大名たちを束ねることで、戦わずして開城させた秀吉は、やはり天下人の器であったことになります。
 戦国の世を治めた秀吉ならではの、引導の渡し方に思えます。
 上写真は、城壁の狭間(さま:城内から外へ弓や鉄砲を放つための小窓)。


 小田原北条氏(一般的な後北条氏との表記は、鎌倉幕府執権の北条氏と区別のため)の祖とされる北条早雲は岡山県付近の出身で、生前は伊勢盛時(いせもりとき)と称しました。
 伊勢から北条姓に変えたのは、早雲の子孫の時代であり、また早雲は戒名から取られた呼び名なので、北条早雲とは後の時代の通称的な名称になります。
 でもその名からは、箱根の「早雲山」を想起するので由来を調べたのですが、どうも双方とも別の由来を持つ、単なる偶然の一致のようです。

 この町では、現在も北条の殿様を敬う姿勢がそこかしこから感じられます。
 自治体の方針でそれを最大の売りとし、市民も賛同していることが、ストレートに伝わってくるせいかも知れません。
 それが功を奏しているにしても、何でこんなに人気があるの? と思うほど人出のある場所です。
 「決まってるじゃない、おいしいものがあるからよ!」と? 皆さんお土産袋を手にして帰途につきます。
 ホント、ここで売られるアジの干物は脂がのってて、都市部に出回る商品とは別物です!
 神奈川の魚がそうなんですから、北海道のホッケが東京でうまいはずがありません……(失礼)


 小田原城は大地震の被害にたびたび遭っており、主な被害地震である1633年、1703年、1923年(関東大震災)のほかにも、多くの地震に見舞われたことが、記録に残されています(地震の巣に近い土地柄)。
 特に、明治初期に廃城となり(廃城令:城の跡地を陸軍用地とする決定)建物が解体され、残された石垣も関東大震災で崩れ落ちた姿は、無残だったそうです。
 1960年に天守が復元され(内部はコンクリート)、現在も城郭の中心部を江戸時代の姿に復元する計画が進められ、門などが順次整備されています。
 ──地震の被害を復旧することが、地震の多い地域に暮らすわたしたちの宿命であることを、思い出させられました。歴史から、大地震は避けられないことを学んだとしても、経験しないと本当の怖さは分からないのでしょう……


報徳二宮神社(Map)


 神奈川県育ちにはなじみ深いと思われる、二宮尊徳(金治郎:金次郎は通称)を祭る神社です。
 彼が、薪を背負いながら本を読む姿の像は、ご存じかと思います。
 明治時代、教科書に取り上げられ各地に広められた二宮尊徳の銅像ですが、第二次世界大戦当時に金属として供出され、最後の一体とされる像がここに残されています(石像は資源とされず現存する)。
 道徳や勤勉さを示す象徴とされていたと思うのですが、学校にその像があったかすら思い出せないようでは、何も学んでいなかった、ということになってしまいそうです……
 二宮尊徳は、独学で身につけた学問や農作業から、豊かに生きるすべを見いだし、農村の指導や教化活動に努めます。
 彼の死後法人化され(1856年報徳社設立)、現在の宗教団体に至り、関東・東海地方を中心に、庶民が身近に感じる公民館的な「二宮神社」が広がることになります(実家近くの神社ではそろばん塾が現在も続くようです)。

 彼は現小田原市の生まれですが、隣接する二宮町の名称は、相州二宮(現神奈川県内第二位の格式を持つ神社)である川匂神社に由来するので無関係のようです。


御幸の浜(みゆきのはま)(Map)

 この浜では、毎年初日の出にあわせて、新春初泳ぎが行われています。
 神奈川のローカルニュースには必ず登場するので、見る側も「寒そう!!」と、新年から身を引き締められます……

 視界が悪いせいか、ここからは江の島を目にできません。湘南の規定を「江の島が見えること」とすると、分かりやすい気もしました。
 それよりも、今回の湘南散歩の間に、一度も富士山にお目にかかれなかったのは、天候のせいとしても、とても心残りです。

 これより西側の海岸線は、山が迫った地形になるため岩礁地帯となり、真鶴を経て伊豆半島へと続きます。

 行く前は、新幹線もひとつの選択肢と思っていましたが、帰りの電車が来ないのでトイレついでにのぞいてみると、ドンピシャの「こだま」があり、思わず飛び乗っちゃいました。
 行きの湘南新宿ライナーは、1時間20分程度かかりましたが、40分で帰り着きました(おかげで床屋に寄ることができました)。
 でも冷静に考えると、乗車時間は15分で(小田原〜新横浜)新幹線料金は950円ですから、それほどいい買い物では無いかも知れません。
 時間をお金で買うことの、例題にでもしてもらえればと思います。
 自分としては、久しぶりに有効な贅沢をしたと、満足顔なのですが……

 今回で「湘南散歩」の企画は終了になります。
 次回からは、近場に戻ろうと考えています。